■2002年12月11日(水)のつづき
「さてっ…と」
抜き足、差し足、忍び足…要するにTVアニメのコソ泥の様な感じで、俺は日和の持ち物を物色していた。香ちゃんは聞いてくれると言ったけど、思い立ったらやはりすぐにでも行動したくなる。あまり待つことは好きではないのだ。
バスルームからはシャワーの音がしている。日和が風呂に要する時間は38分。その間にどうにかしなくてはならない。何しろチャンスは今日だけだ。俺は焦っていた。
ただですら持ち物の少ない日和。実家に帰るときにはもう戻ってこないんじゃないかと思うくらいすっきりと荷物を持ち去っている。貯金通帳などの貴重品も、化粧品もない。さすがに服は残っているが。どういうことなんだ、やはり信用されてないのか?(まあ、現にこうして覗いていると言うことは信用されなくても当然である)
日和の持ち物。いつも持っているバッグ。コレの中には化粧ポーチと色々なものが入っているが、装飾品の様なものはない。では部屋か? 日和は小さめのチェストに持ち物のほとんどを収めて、シワにしたくない服だけタンスに掛けている。チェストの上に化粧品を入れたカゴがあって、化粧はコレを抱えて洗面所に行く。鏡台、と呼ばれるものは存在しない。
チェストの一番上は左右2つに分かれた浅めの引き出し。この中にネイルなどの細々した化粧品とアクセサリーが入っている。それは知っている。ドキドキしながら、そこを開ける。小さな箱で綺麗に区切られた空間が現れる。
すげー、台所用のスポンジだ。そこにピアスを刺してある。ネックレスやペンダントはコルクの板にピンで留めてあった。ブローチとかはひとつずつ見えるように並べてある。
日和は取り出しやすいように仕舞う。台所もあちこちに突っ込んでいたものが、気付いたら整然としている。フライパンを取り出そうとするとちゃんとフライ返しも取れる。余計な動線がなくて楽だ。
こんな風に無断で覗くのはどうかと思う。でも日和だって、TVの下のビデオをひっくり返したりする。そりゃ、突っ込んだままにした俺も悪い。でも人間、秘密にしたい事だってあるじゃないか。ちょっとアブノーマルなプレイのAVがあったからって、あんなに血相変えることはないと思うぞ。
でも。指輪はどこにあるんだろう。よく考えたら、彼女が指に何か付けているのを見たことがない。でもひとつやふたつ、あるはずだ。俺の前にも男が何人もいたんだから。そいつらが贈ったモノがあるはずで…。まさか、俺に見つかるとヤバイから、隠してあるのか…?
「うわっ…!!」
がしゃんと大きな音が出た。洋服ダンスの方を覗いてみようと立ち上がった瞬間に、開いてあった引き出しを膝に当ててしまったのだ。軽いものしか入ってなかったそこは、いとも簡単に外れてひっくり返った。
「きゃあああああっっ!! 何してんのよっ!」
ばたばたと音がして。バスタオルを身体に巻いた日和がバスルームから飛び出してきた。風呂から上がって身体を拭いていたらしい。髪からぽたぽたと雫が垂れている。白い腕からふわふわと湯気が上がっている。心持ちピンク色に色づいて、何ともそそられる。でも、今はそう言う艶めかしい状況ではない。
「あ…」
現行犯逮捕。ああ、見つかっちまった。さっさと目的の引き出しに行かないで、下着を物色していたからいけなかったのか? だって、仕方ないと思うぞ。知らずに開けたそこは胸もときめくミステリーゾーンだったのだから。俺の見たことのない色やかたちのもたくさんあった。一緒に暮らすようになってからは、風呂上がりに即えっちのことが多いからあまり下着の美学を語ることもなかった。ああもったいなかったとしみじみ思う。
「やだっ! 待ってよっ…あんた、ボーナス出たばかりなのに。まさか人の持ち物を物色して、質草にでもしようと思ってたの!?」
そう叫びながら、無惨に散らばったアクセサリーを拾い上げる。ああ、背中から湯気だけではなくて、怒りのオーラが…ど、どうしよう。言い訳しなければ、言い訳っ!!
「ご、ごめんっ!! 日和っちゃん、コレには深〜い訳が…」
「何言ってんのよっ! 言い逃れが出来ると思ってるの!? それより、あんたの下に敷いてる下着を返してよっ!!」
あ。一番すごい奴をもっとゆっくり見たいと出したままにしてあったのだ。黒と黄色のレースが入り乱れた結構透けそうなその下着…こんなの着た姿を想像しただけで、何度でも抜けそうな感じ。
「日和っちゃん…」
「馴れ馴れしくしないでよっ!! もうっ、忙しいのに仕事増やして〜っ!!」
ばしっと、はね除けられる。ああ、どうしよう。…ええと…。
「あ、あのなっ! 俺、実は24日のご苦労さん会で…サンタの役をすることになって…それで」
これは嘘じゃない。でも仁王様顔の恋人を前にすると、おどおどしてしまう。
「サンタが女性モノの下着を付けますか!? 変態ですかっ!!」
「――あっ」
ああ、サンキュー! 思いついたっ!! 俺は喜々として、今、頭に浮かんだことを叫んだ。
「それなんだよ、それっ!! 今年の出し物は『マダム・サンタ』にしようかと…」
「…はあ?」
自分でも言いながら、馬鹿馬鹿しいと思ったが。日和はそれよりもさらに拍車を掛けた顔で俺を睨む。でもその瞳に憐れみまで浮かんでいるのは気のせいか?
「何よ、それ…」
「だから〜…」
ああ、ここまで来たら、もうヤケだ。俺は口から出任せでまくし立てた。
「フツーのサンタは今時流行らないだろ? だから、ここは女装してみんなの度肝を抜いてやろうと思ったんだよ? どうせならきらびやかに飾り立てようかと…それで…」
「ふうん…」
ようやく片づけの済んだ彼女は、まだ半分疑った目でこちらを振り向く。
「だったら、どうして私に内緒でこそこそするのよ? 相談してくれたら良かったのに…」
「う…それはっ。うん、それはな、日和にも内緒で、当日驚かせたくて…ほらっ! 敵を欺くにはまず味方からって言うだろ!?」
もう、ここまで来たら、出来る限りの名演技だ。だんだん自分の言ってることが本当のような気がしてきた。ドキドキする。
「ま、いいわ」
日和は元のように引き出しを直すと、少し表情を和らげた。
「私はそんなにアクセサリーのケバイの持ってないから。実家に戻ったら母親のを物色してきてあげる。24日の当日でいいんでしょう?」
そう言いながら、戸口の方に歩き出す。いつまでもバスタオル姿ではと思ったのだろう。洗面所に着替えを置きっぱなしなのかも知れない。大きめのタオルでも隠しきれない足のライン。なんてそそられるんだろう? そう言えば、もう2日もおあずけしていて…ううう。
「な、なあ…日和っ…!」
後を追いかけて、腕を取る。空いた片手で素早く細い身体を包む。
「な、何よっ…」
慌てて身じろぎする。同じ香りのシャンプー。日和は嫌がるけど、気が付くと彼女のを一緒に使っている。
「なあ…今夜は、いいだろ? 俺、もう限界…」
明日も飲み会で、その次の夜からは日和がいない。女のいない生活は長かったつもりだが、今となっては耐える自信がない。それぐらいのめり込んでいるんだ。
「…馬鹿っ…」
そっと後ろから首筋を舌で辿ると、くすぐったそうに首をすくめる。でも彼女は喉の奥で、甘く笑っていた。俺はバスタオルの合わせ目から、手を滑り込ませた。
■2002年12月14日(土)
「それがね〜ごめん、上手くいかなかったわ」
携帯からこぼれ落ちる明るい声。二日酔いの頭を抱えながら、香ちゃんの声で目を覚ましていく。
今朝、と言うかもう2時なんだけど。部屋に日和はいなかった。リビングのテーブルの上に朝ご飯と胃薬が、ちょんと置いてある。足元もおぼつかない感じで部屋に辿り着いたのが何時だったのかも覚えてない。日和は先に戻っていたから、もう寝ていたらしい。でも、ガチャガチャと音を立ててドアを開けると、目をこすりながら起きてきた。
それで良く覚えていないが、水を飲んだ方がいいとか、スーツはシワになるから脱いでから寝るようにとか、かいがいしく世話を焼いてくれた気がする。あんまり記憶もないのだけど。こうしてベッドで目を覚ましたと言うことは一応、一緒に寝ていたんだろうなあ。
「上手くいかなかったって? だって、聞いてくれたんでしょう、香ちゃんは」
指輪、あの日はとうとう見つからなかった。それで香ちゃんを頼みにしていたんだけど。
「う〜ん…それがねえ…日和ちゃんは指輪は付けないみたいなんだよね? サイズをそれとなく聞いてみたんだけど、知らないって言うのよ」
「じゃあ、どうすりゃいいって言うんだよぉ〜」
日和の指を見てみたけど、数字が浮かんでくるわけもなく。試しに自分のサイズを測ると13号だった。そんなに太い方じゃないらしい。
「う〜んと…私は、9号だよ?」
香ちゃんはのほほんと言う。君のサイズを知ったところでどうにもならない。ああ、分かっているんだろうなあ…。
「どうして、さり気なくジュエリーコーナーにでも行ってくれなかったんだよっ!」
八つ当たりしても仕方ないのに、ああ、嫌な俺。頭はガンガンするし…。
「いいじゃない、適当に買って置いて、合わなかったら取り替えれば。そう言うことだってあるよ? その時にはどちらかというと大きめのサイズを買った方がいいよ。女の子はぶかぶかで入らないなら許せるけど、きつくて入れないモノを貰うと嫌なものだから」
「そんなんじゃっ!! 駄目なんだよっ!」
ああ、口惜しい。日和を一撃でノックアウトにするんだっ! で、渡したからにはすぐに身に付けて貰う、外させたりしないっ!! 男の浪漫なんだから〜〜〜〜〜っ!
どうして指のサイズなんて色々なんだろう? どうして決めのアイテムが指輪なんだろう。ネックレスだったらサイズはいらないし、いっそのことガラスの靴なら、靴を見ればサイズが分かるからどうにかなる。どうして、この世で一番分かりにくい物が…ああ、分からないからこそ、希少価値なのか!?
「こんなコトしてる間にもっ!! 日和は見合いしてるかも知れないんだぞっ! ああ、乗り込んでやろうかな…」
「やだ〜、早まらないでよっ!」
香ちゃんの声はちょっと楽しんでいるような感じ。何だよ〜こっちは必死でやってるのに、君は楽しんでないかい? ひでーよっ。
「でもさ、雄王先生。私思うんだけど?」
ああ、香ちゃんの背後でうぎゃーと泣き声がした。どきりとする。
「ねえ、泣いてるよ? いいの?」
「あああ、うんっ! 赤ちゃんは泣くのが仕事だからいいの。おなか空かないと飲まないんだもん。…でね、私、思うんだけど。もしも嫌いな男だったら、ご飯作ったり、お掃除したくはないと思うよ? そりゃ、雄王先生がものすご〜い大金持ちだったりしたら別だけど。だから、脈はあるって…」
一応、慰めてくれているらしい。でものほほんとした声なので、信憑性に欠ける。もっと真剣に言って欲しいものだ。
「まあいいや。もう咲ちゃんの世話してあげて…」
あああ、頭がガンガンしてきた。俺は携帯のスイッチを切ると、そのままベッドに倒れ込んだ。布団の間から、日和の匂いがする。甘い匂いに包まれながら、どろどろと眠りについた。
■2002年12月24日(火)
結局のところ。何も分からないまま、とうとう問題の24日はやってきた。飲み会は5時からで、部活が終わってから行けばいい。でも、俺は朝から何回も時計を見ては胃がキリキリとしていた。
「3時に進路指導室に来て?」
飲み会の場所の確認で昨日電話してきた日和にそう言った。彼女も学校に用事があると言うから丁度いい。
「なあに? 別にいいじゃない、家庭科室で」
当然のことながら、そんな風に切り替えされる。でも、あんな風にごちゃごちゃとものに溢れたところは嫌だった。進路指導室は本当に何にもない箱のような部屋だ。普段はごちゃごちゃが好きな俺も、こう言うことだけは別なんだな。
…う。2時50分。
俺はトイレにでも行く感じで、グラウンドを後にした。でも右手と右足が一緒に出る。身体がガチガチだった。
「何なのよ〜、私、部屋に帰って洗濯とかしたいんだから。駅からまっすぐに来ちゃったわ…」
ユニフォーム姿のまま部屋にはいると、彼女はもう来ていた。ほぼ10日ぶりの姿だ。髪の長さが少しだけ短くなっている。毛先を揃えたんだろう。色もちょっと明るくなったかな? ストーブで暖かくなった部屋で、日和は着ていたコートを脱いだ。
キャラメル色の下から現れたのは真っ白なニットスーツ。この寒いのに半袖だ。でも襟は首の周りを覆っている。ふわふわとサンタの衣装みたいな白いのが隅っこに付いている。学校の仕事じゃないからなのか、キラキラと揺れている銀色のピアスが雪だるまのかたちをしているのがおかしい。いつでもそそられてしまう足は今日は少しラメの入ったストッキングで覆われていた。
「う、うんっ」
訳もなく頷いて。後ろ手に持った紙袋を確かめる。ああ、身体から汗が噴き出てくるぞ。どどど、どうしよう…。
「あ、あのなっ! 日和!?」
「うん?」
ああ、こっちが最高に緊張してるのに。どうしてペットのお茶なんて出してるかなコイツ。途中まで飲みかけの奴をこくこくと何口か飲む。喉が上を向いたので、襟元から少し見えて、そこが微かに動く。俺は覚悟を決めて、彼女の座っている机の前まですすすっと進んだ。
「きっ…今日はっ!! クリスマスだよな、イヴだよなっ!?」
分かり切っているのに、確認してしまう。日和は不思議そうな顔をして俺を見上げた。彼女は椅子に腰掛けていて、俺は突っ立っている。あまりにも目線が違う。
「…そうだけど?」
小首を傾げて。髪がさらさら流れて。俺の心拍数がどんどん上がってくる。
「だ、だからなっ! 一応なっ…、プププ…プレゼントなんか、あったりして…」
ああ、顔が熱い。どうしたんだ、自分。目眩を起こして倒れそうだ。勢いに任せて、紙袋を机の上にどんと置くと、そのままくるりと後ろを向いてしまった。鼻の頭にに手をやると、冷や汗というか脂汗というか、そんなものが浮かんでいる。
かさかさ。少しの間が合ってから。日和が紙袋を開けているのが分かる。綺麗な袋じゃない、駅前のスーパーの紙袋だ。中身を取りだしたのが気配で分かる。
「…え…?」
ややあって、固まった声がした。何だか、思っていたのと反応が違うぞ。どうしよう…。振り向くに振り向けなくて、もじもじしてしまった(結構気色悪い図かも…)。
「あのぉ…、雄王?」
ためらいがちに、思いあぐねて、という感じの声。
「もしかして、これ、…指5本分なの…?」
「…んなわけっ! ないだろうがっ!!」
俺は思わず、振り返っていた。そして、彼女が手にしていたモノをばばっと取り上げると、もう一度目の前に差し出す。そして手元が震えるのを感じ取りながら、言葉を絞り出した。
「お前のサイズが分かんないからっ! 1つ分の金を払って、後の4つは借り物なのっ! そ、速攻で返さないとヤバイよ、だからっ! 早く、お前に合うのを選んでくれよっ!」
一気にまくし立てると、ハナをずずっとすすった。顎がガクガクする。
どうしたものかと思った。ふたりで買いに行けばいいのかと思った。でもそう告げて、いらないと言われたらそこまでだ。やはり不意打ちにしたかった。絶対に一発で日和にジャストフィットするサイズを渡さないと。
店に行ってみた。ジュエリーの売ってる店なんて、この街にはいくつもない。出来れば日和に似合うデザインを見つけたくて、駅前に建っている大型スーパーに行った。一階は食料品売り場だが、2階からは服屋なんかがある。その隅っこに小さいけど洒落た店があるのを知っていた。興味も関心もなかったから、今までは素通りしていたけど。初めて、気の遠くなるような鍵付きのガラスケースの中を覗き込んだ。
しかし、いきなり店員が卒業生の女の子だ。それだけで、もう心臓がばくばく言った。でもさすがに向こうは店の店員。心得たものである。言いたいことを笑顔の下に隠しながら、一緒に選んでくれた。そこで一番人気だという、指輪の本体に石が埋め込まれているやつ、それがいいかなと思った。
…しかし。サイズが分からない。
で、思いついたのだ。だったら、指輪の方を出張させて選ばせようと。元生徒であるその店員は本当に泣き出しそうだったが、このことを内密にすることとすぐに戻すことを条件に貸し出してくれた。彼女は大きめのケースに指輪を並べてセッティングしてくれたのだ。それを昼休みの時間に受け取りに行った(怖かったので腹の中に隠しておいたのだ)。
「ほら、左から、5号・7号・9号・11号・13号っ! 俺が13号なら、お前の指はそれよりは細いはずだよ。そんなのは分かるから…ど、どれでもいいからっ! 早いとこ、頼むっ!!」
このケースを手にしていることだけでも怖い。給料の3カ月分は無理だったが、ひとつ45万円のリングだ。2個で90万、5個で何と225万円っ!! そんな札束、修学旅行の金を集めたときにしか見たことないぞっ!! もしも何かの手違いでなくしたりしたら、払えるものじゃない。でも、逃げたりしたら、それこそ免職だし…あああ、怖い。どうにかしてくれっ!!
「う…、うんっ…」
日和の手がおずおずとケースの上を泳ぐ。真ん中のリングを手にした。
「これ」
つまみ上げる、でもはめてはみない。こっちは緊張で倒れそうだ。
「いいい、いいのか? 間違いないんだな!?」
「う…うんっ…」
勢いに押されているのかも知れないが、何だか素っ気ない返事だ。口の中でもごもごと言う感じで。いつもの覇気もない。でもそんなことにも構っていられない。俺は、すぐさまケースの蓋をパンと閉めると、元の通りに紙袋に収めた。
「おおお、俺っ! コレ、返してくるから。ちょっと戸締まり…宜しく…わわわっ!!」
がしゃがしゃん、と音がして。俺は思いきり長机を蹴飛ばしていた。椅子と机と色々となぎ倒される。将棋倒しの状態だ。その上に俺自身も倒れ込んでいた。
し〜ん、と静寂が戻って。ようやく我に返る。ああ、紙袋は手にしている。やはり責任感か?でもそのために思い切り顔を机に叩き付けてしまった。がたんと、椅子を立つ音。それから日和のサンダルの音が静かに床を進んできた。黙ったまま、気持ち悪いくらい静かだ。「まあ、嬉しい」とかはしゃいでくれるとは期待してなかったが、あまりに淡々としているのも悲しいモノがある。
「…雄王?」
手を引いて、机と椅子のがれきの上から発掘される。彼女の指のぬくもりが久々で胸が疼いた。
「あ、ごめん」
膝とかすごく痛かったけど、かろうじて起きあがる。床に座り込んだ姿勢で、ふううっと大きく息を吐いた。身体から力が抜けていく。もう感覚というものすら消えている気がして。自分の心はどこに行ってしまったんだろう…?
ボーっとしていると、ふいに視界が白いもので埋め尽くされた。日和の服だと気付くまでにも時間がかかった。俺の前に立った彼女はそのままするすると膝を折る。そして、ふんわりと胸に飛び込んできた。その背中に腕を回すことすら出来なくて、そのまま呆けている。ああ、情けない俺。どうにかならないか?
「ねえ、雄王?」
かすれる声でそう言うと、日和が顔を上げてこちらを見る。俺の首に手を回して。少し茶色い目がまっすぐに見つめてきた。そして、びっくりするようなことを言う。
「キスして」
…は、はあ? こっちも無言のままで、ポカンとしてしまった。何を言い出すんだ、急に。と言うか、今まで彼女からこんな風にキスしようとか…えっちなことしようとか、そんなこと言い出したことなかった。俺がヤリ出せば応じてくれるが、彼女が主導権を握ることはなかったから。
「ねえ…?」
こっちが訳が分からなくなっているうちに、彼女はふっと目を閉じて身を乗り出してくる。ああ、綺麗な顔だ、と、思っていると、探りながら吸い付いてきた。慌てて目を閉じる。反応の遅い自分がすごく恥ずかしかった。どうにか腕を回して、彼女を支える。冬休み中で人気の消えた校舎とは言え、神聖たる教育の現場。そこで一頻り唇を求め合った。
「…う、うわあああああっ!」
ようやく目を開けると、思わず叫んでいた。
「何だよっ! どうして泣いてんだよっ!! 日和っ!?」
ハナをずくずくとすすっているから変だなとは思っていた。でも目の前の彼女はもう涙の中に目があるような状態。顔全体が濡れている。
「う…だって…」
ずるずる、またハナをすする。大切な場面で机と椅子をなぎ倒すのも情けないが、ハナをすすり上げて泣くのもどうかと思う。ふたりして何やってるんだろう…。日和はしばらく口で息をしながら、呼吸を整えていた。
「雄王がいきなりびっくりさせるから…」
「え?」
お、驚いていたのか? あれは? そんな風には見えなかったぞ!? 腕の中で俯いた彼女の頭のてっぺんを見つめながら、俺は混乱していた。
「まさか…こんなコトするとは思わなかったから…」
ぼろぼろと涙が溢れてきて、言葉が続かない。彼女の服に膝の上で握りしめた手の甲に雫が落ちていく。どっちかの手にさっきの45万円が入っているんだろうか? 分からないが。
「な、何だよ〜いきなりって…」
日和の態度がよく分からず、途方に暮れてしまう。
「結婚しようって言ってるじゃないか? はぐらかしてんのは日和の方だろ!?」
思わず二の腕の辺りを両方から掴んで、ぐぐっと顔を覗き込む。口を一文字に閉じた彼女がそろそろとこちらを見た。
「だって、雄王は誰にでも優しいし。私なんか、全然特別じゃないんだもん。お見合いするって言ったって、平気な感じだし…本気で止めてくれないし…」
俺は言葉も出ずに、彼女を見つめていた。言葉を発するたびにかたちを変える口元。空気をかする微かな音。
「どうやって信じていいのか分からなかったの。しっかりとした、動かないものが欲しかったの。私は雄王とずっと一緒にいられるって、そう思えるものが…」
握りしめたままの日和の右手が、俺の手の上に乗る。そっと白い手がほどかれて、中から銀の輪がころんとこぼれた。慌てて、落とさないように指を寄せる。ああ、45万円。
「…日和?」
思わず名前を呼んだ。まっすぐにこちらを見た彼女はそっと呟く。
「はめて。雄王が、私の指に」
差し出される左の手。親指と人差し指でつまみ上げたリングを、そっと通していく。日和の選んだものが彼女の指にぴったりとはまった。どちらともなくため息が漏れる。ああ、45万円を付けた日和の指も綺麗だ。
「なあ、どうして」
ふと思いついた。それを素直に口にする。
「日和、自分の指のサイズ、知らないんじゃなかったのか?」
香ちゃんが聞いたとき、そう言ったはずだ。あれは嘘だったのか…? 日和はそっと上目遣いにこちらを見た。
「あれ、やっぱり雄王だったのね?」
あ、墓穴を掘ってしまった。思わず、ぐぐっと詰まる。日和が目を細めた。
「香ちゃんがね、リングのサイズも知らないと、聞かれたときに困るよって。だからそのあとお店で測ってもらったの」
「そ、そっか〜」
がくっと、気が抜ける。何だ、期待してたのか。だったら色々小細工しないで、真正面から聞けば良かった。今となってはどうでもいいことだけど…。指先を見つめていた日和がもう一度深くため息を付いた。甘くてもったりした、まとわりつくような息。
「嬉しいわ、…ありがとう…」
泣き笑いの綺麗な顔。見とれているうちに、またそっと寄り添ってくる。俺のユニフォームの胸は涙と鼻水と取れかけたファンデーションですごいことになっているかも知れない。それから、腕の中の人はくすり、と笑った。
「ねえ、返しに行くの、付き合ってあげる。雄王ひとりだと危ないわ、そんな感じで運転してたらどこかにぶつかりそう」
「あ、そうだった。うん、そうしてくれると有り難い」
日和を抱きかかえながらふたりで立ち上がる。それからもう一度しっかりと抱きしめた。暖かくて幸せな気持ちになる。サンタは俺のところにもちゃんと来たらしい。
「なあ、日和」
何とも言えない気分がわき上がってくる。ぎゅっと強く抱きすくめて、指先に力を込めた。
「俺、もう我慢できない。今日の飲み会、ずらかろうぜ? このまま部屋に帰ろう」
生理、終わってるはずだ。日和はピルなんだから、ちゃんとここに帰ってくる日には終わらせてくれている筈だ。もう、いいだろう。久々なんだから。
「あ、駄目っ!!」
日和は急に思いついたようにぴっと背筋を伸ばした。
「だって、雄王はサンタでしょ? 『マダム・サンタ』…私、母親から色々借りてきたの。それに学生時代に使ってたウィッグ、それから…濃いめのメイクもいろいろ。さ、早めに会場に行って、飾り立てましょう! 楽しみだわ〜」
「え、ええっ!? 普通でいいよ、うんっ!」
慌てて首を振る。ヤバイ、信じてたのか、この前の出任せを。いいよ、もうそんなのどうでもいいのにっ!
「駄目駄目っ!! せっかく企画したんでしょう? 頑張りましょうよっ!」
日和は何事もなかったかのように、涙の乾いた頬をほころばせた。それから、ストーブを消してカーテンを引く。
「さっ! 今夜は皆さんのために思う存分、頑張ってねっ! 応援してるわっ!!」
背中をばしばしと叩かれる。そんな〜それよりも、早く部屋に〜いいよぉ、飲み会なんてっ!!
「日和――」
「早く出て、閉めるからっ!」
ああ、駄目だ。完全にスイッチが入ってしまっている。…っく〜!!
長い長い廊下。弾むように前を歩いていく白い背中を追いかける。心の中で自分に言い聞かせる。今日は絶対に潰れるもんか、飲み会の後は日和を思う存分…。
さらさらと微かな音に気付いて、窓から外を見た。ちらちらと白いものが空から宝物のように舞い降りている。ロマンチックにちょっと足りない気分で、耳元でクリスマスの音を聞く。日和に教えてやろうかな? とふと思う。でもその前に、俺は神妙に180万円の紙袋を抱え直した。
おしまいだよ〜(20021204)
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