…1…

「玻璃の花籠・新章〜春霖」

 

 

「あっ…、あはぁっ…っ!」
 しなやかに銀の髪が漂う。空気よりも重い「気」に満たされた空間。夜の更けた居室の奥の寝所では今まさに男女の営みが繰り広げられていた。

 男が下になり、しとねに仰向けに寝そべった上に、美しい裸体を晒した若い女子(おなご)が乗っている。大きく足を開き、その中心を男に貫かれた状態で、たまらずに腰を振る。まるで水面を飛ぶ魚のように艶めかしく身体をくゆらせて。その姿がこの部屋の唯一の灯りである燭台の頼りない炎に浮かび上がっていく。
 玉の汗の浮いた双の頂は高まる感情にそそり立ち、激しい動きにあわせて上下する。首を大きく降るたびに彼女の美しい銀の髪が揺れて辺りに散らばっていく。苦しそうに喘ぎながらも、さらに自分からその波に飲まれようとする。
 その滑稽とも映る姿を、下になった男は彼女の腕を持って支えながら、冷たくまっすぐな瞳で見つめていた。

「…やぁっ…、あんっ、あああっ…、あぁっ…、あんっ…!」

 掠れる声は、甘い音色を放ち、辺りを漂っていく。開け放った窓からも、それが漏れていくようだ。いつもは聡明な女性とうたわれる彼女も、閨の姿はただの雌だった。

 それを知っているのは、何も彼ひとりだけではない。この豪奢な居室も地方から来た前の官僚が彼女に入れあげて、その見返りとして与えたものであった。その男はもちろん、自分が故郷に戻る時に、彼女を伴おうとした。だがしかし、したたかな女はそれを拒んだのだ。
 美しい身体は幾度、男たちを翻弄しようがその輝きを失わない。西の集落のさる豪族の娘で、嫁入り前のたしなみとして都にお務めに上がった。そう聞いている。当時、12か13だった彼女が、その後、どんな遍歴を歩んできたのか、知らない者はない。口さがない噂話は都の隅々まで知れ渡っていた。
 だが、普通の者なら屈辱に耐えられないような状況にありながら、彼女は更に輝き続けている。竜王様の住まわれる都、その中心である御館…そこに仕える有能な侍女として、昼の彼女はしっかりとそのお役目を果たしていた。

「しっ…春霖(シュンリン)様ぁっ…! もうっ、駄目ですっ…わたくしっ…!」

 限界が近いのだろう。彼をくわえ込んだ部分がきつく収縮する。全てを吸い尽くそうとするように、彼女の内側で官能的なうねりが起こる。いつもながらに見事なまでの身体。どんなに高貴な身の上の立派な男でも、この女子には骨抜きになってしまうと言うのも頷ける。

「…そうか」
 そこまで来て、ようやく男は反応した。乱れ狂う女子に対して、どこか冷めた感じで。それでも逞しい上体を起こし、彼女と体勢を入れ替えた。白く浮かび上がる足を大きく開いて肩に乗せる。腰を浮かせ、あられもない格好になった都の美女をそのまま激しく突き立てた。
 今まで体力を温存していた褐色の肌の身体は、勢いよく女を揺り動かす。彼女が耐えきれずに高い叫びを上げても、決して解放することはない。自分の欲望の果てるまで、彼は休まずに行為を繰り返した。

 

…*…*…*…*…*…


「…本当に、素敵でしたわ…なんて雄々しいの…あなた様は…」
 全てを吐き出して身体を剥がしたというのに、うっとりとした表情の女子はまたしなだれかかってくる。艶やかに光る瞳を濡らし、震える唇を彼の胸元に寄せて腕を絡めようとした。

「よせ」
 しかし彼は、他のどんな男でも引きずり込まれそうになる女の香をさっさと振り払って身を起こす。そして、戸口の方に向かって叫んだ。

「…誰かっ、湯桶を持ってこい。帰り支度をする」

「はっ…、はいっ!!」

 すぐの場所にずっと控えていたのであろう。今情事を終えたばかりの女子に仕えている女の童(めのわらわ)が慌てて入室してきた。寝着ではなく、きちんと昼間の侍女の装いのままだ。お付きの者は主が休むまでは断りもなしに寝着に着替えることも出来ない。薄い色の小袖の下にえび茶色の袴を付け、重ねを羽織っている。
 娘は男女のことが終わったばかりの生々しい気に触れて、幼い頬を赤らめている。この居室の女主人は自分の使用人に幼い者ばかりを雇うと言われている。自分と競うような女の香を醸し出す者は毛嫌いしているのだ。どこまでも嫉妬深い女だ。

「どっ…どうぞっ!!」
 まだ仕えて間もないのか、作法もなってない。震える腕でどうにか手ぬぐいを浸し、絞るとそれを片手で男につきだした。

「…ほほう」
 男は面白そうに笑うと、手ぬぐいではなく娘の腕を取る。

「男慣れしてない姿がみずみずしいな。…今度、俺の居室に来るか? 存分に、可愛がってやるぞ」

「…ひっ…、ひぃっ…!」
 娘は暗闇でもしっかりと感じ取れるほど震え上がり、掴まれた腕を強く振った。

「めっ…滅相もございませんっ!! そんなっ…ご主人様のっ…大切な方にっ…!!」
 輝きの少ない銀の髪は西の集落とどこかの血の混ざったものであろう。ここに来た時にちらっと盗み見た顔はまったくの田舎者で、とても彼の食指を動かすものではなかった。こんなのはほんの戯れ言でしかない。

「ふふふ…、怯えた顔も可愛らしいね。そこにいるお高いお方よりもずっと愛らしくて…!」

 わざと身を寄せてそう言うと、娘はもう声も出ないほどに震え上がり、青ざめている。それが楽しくて仕方ない。背後から感じる刺すような視線も彼にとっては愉快なものだ。嫉妬に狂う女は見苦しい。でもそれを都一の才女とうたわれる女子が自分に向けるのは楽しいことだ。

「野菊(のぎく)っ! もうっ、お下がりなさいっ…!!」
 闇を切り裂くほどの甲高い声がして、娘が跳ね上がる。

 男に対してものが言えないので、わざと自分の使用人に罵声を浴びせる。多分、自分が戻った後で、どんなにか酷い仕打ちが待っているのだろう。それを知っていても、自分の身に降りかからない火の粉なら何て事なかった。その時のふたりの醜態を想像するのもいい。

「…春霖様っ!!」
 娘がそそくさと引き上げたのを苛立った瞳で確認した女子が、耐えきれないように叫んだ。

「お戯れもいい加減にして下さいませっ! わたくしを前にしておきながら、あのような下々のものに…ああっ! 口惜しいっ…!」

 しかし、春霖の方が何でもない感じで支度を続けるので、更に彼女はいきり立つ。

「夜半に恋人を帰すなんてっ、女子としてこの上ない恥だといつも申しておりますでしょうっ!! ここは遊女小屋ではありませんのっ…殿方は夜が明けるまでいらっしゃるのが男女の決まり。あなた様には情というものがありませんのっ…!?」

「…和乃(かずの)」

 彼はさっさと身支度を済ませると、すっと立ち上がった。裾にはっきりとそれと分かる文様の施された袴は彼の高貴な身の上を物語っている。この衣は王族かそれに準ずるものしか身につけることが許されていないのだ。肩から羽織った重ねも素晴らしい刺し文様が一面に広がっている。少し伸びた髪は面倒なので下でひとくくりにしたが、それは艶やかな赤毛。西南の集落特有の色だ。

「いつ、俺がお前の恋人になったのだ。あまりしつこく言い寄るから、こうして情けを掛けているだけであろう? …身の程をわきまえろ」

「…っ! まっ、まあっ…!!」

 振り向いた春霖の濃緑の目には、無理に飾り立てようと化粧を濃くした滑稽な女の醜い顔が映っていた。

 もちろん、この者も、普通に考えれば申し分のない女子であろう。才がある、気の利いた会話が出来ると言うことは女子にとってとても重要な事だ。生まれも良く、見目かたちも整い、更に都では御館の皆の評判も良い。少し好色に溺れると言う難点はあるが、それもほとんどの男にとっては嬉しい事実のひとつだ。

「何てことを仰るのっ! あなた様だって、こうして嬉々としてお出で下さるではありませんかっ…!」
 どうにかして、優位に立ちたいのであろう。彼女は必死に叫ぶ。

 春霖は向き直りながら、わざと大きくため息を付いた。

「あれの頼みでなかったら、どうして来るものか。お前も気高い女なら、もう少し頭を使え。あまり、あれを粗末に扱うなっ…!」

 さらにぎゃあぎゃあとまくし立てるその声を振り払い、春霖はさっさと空気の悪い寝所を出た。そして、先ほどの娘が見送りに出るのも相手にせず、乱暴に戸口を開く。光り輝く天を一度仰ぐと、さっさと夜更けの庭を下っていった。

 

…*…*…*…*…*…


 無駄な時間を過ごしたものだ。そんな後悔ばかりが胸をよぎる。

 春霖にとって、女子などはどれでも同じだ。都一の才女であっても、場末の宿の遊女であっても、そう大差ない。もちろん、見目美しく整っていた方が征服欲は高まるが、ただそれだけのこと。通り過ぎて行為に及べばどうでも良くなる。

 そんな彼を故郷に戻った両親は内心、心配しているようだが、表だってうるさく言ってこない。20を過ぎて正妻も娶らず、ひょうひょうと過ごしている跡継ぎを、それでも静かに見守っていてくれるのだ。それが有り難くもあり、面倒でもあった。
 もしも、自分が何かとてつもない不祥事でも起こせば、都を追われ、実家からも破門されるだろうか?  皆が口を揃えて羨ましがる身の上も、彼にとってはただ疎ましいだけだった。

 元々は西南の集落の大臣家・邇桜(ニオウ)様にお仕えする重臣の家柄。隠居した祖父を継ぎ、今では春霖の父である雷史(ライシ)が家長になっていた。それに伴われ、都を後にした母・秋茜(あきあかね)は次期竜王の座に一番近い場所にいると言われている華楠(カナン)様の乳母であった。そのお方は、現竜王・亜樹(アジュ)様の一の君にあらせられる。
 お世継ぎの乳母の子、乳兄弟として育った春霖は、今では有能な侍従としてその地位を確立しつつあった。もちろん、いくら西南の集落の民が幅をきかせる御館内と言っても、若様の侍従は彼ひとりではない。そのほかにも、あまたの優秀な人材が同僚にある。一の姫様の乳母であった多奈様の子・青樹(アオキ)なども春霖と肩を並べる存在であった。

 幼き頃から御館で竜王様の御子様方とご一緒に育ち、両親の教養と美貌を兼ね備えた彼は、今なお、都の春を謳歌している。聞くところによると、父・雷史なども母を正妻に迎えるまではかなりの遊び人だったらしい。その血筋を受け継いでしまったのか、彼の女遊びについては目に余るほどのものがあった。
 それでも、お務めはしっかりとこなすので、その地位は揺るがない。女たちも彼の人柄などとっくに見切っていて、強く言い寄ったりするものはいなかった。過去に親密な関係を楯にして、自分を妻に娶るように迫った者が何人かいたが、全てすげなく捨てられてしまった。

 恋人とするには申し分のない男前だ。あまりに事を急いで捨てられたらもったいないと、女たちの中にもそんな野望を抱く者はいなくなっていた。


 露を置いた野の花の小道を大股で歩く。辺りに漂う夜半の気。その帯になったものが目の前に広がる。これを風流という者もある。しかし…春霖にとって夜はおぞましいものでしかなかった。ただですら、嫌悪する時間を、あんな面白くもない女子などと過ごせるものか。さっさと自分の居室に戻ってひとりでゆっくり休みたい。あの女ももうそろそろ関係を清算したいのだ。だが、向こうにその気がなく、少し厄介な感じになっている。

 ざくざくと地を踏みしめて、進んでいく。袴に振り分けた草の露が付いてしっとりとしてくる。闇と共に我が身に降りかかるどす黒いものを振り払うように、必死で歩みを進めた。

 

…*…*…*…*…*…


 やがて。

 小高い丘の上に綺麗に花の咲き乱れた庭が現れる。母が丹誠込めて育てていた花々が、主の去った今も変わらずに季節を告げているのだ。灯りの消えた居室。しかしその戸口には、ちらちらと揺れる燭台の炎があった。

 そして、建物の影になっていて良くは見えないが、その脇にうずくまる小さなものがある。娘らしい桜色の装束を身につけて、この人気のない時間に不用意に庭先に出ているなど、この者の父親が見たら仰天しそうだ。また、戻った後、くどくどと小言を言われるのではないだろうか?

 

 春霖ははやる気持ちを抑えて、静かに歩み寄る。そして、その者の前まで行くと、目線を合わせるように腰を落とした。

「…狭霧(さぎり)? 戻ったよ」

 そっと触れた肩が、大きく揺れて、ぱっと顔を上げる。見るたびに美しく伸びていく髪が辺りに広がって赤いきらめきに目がくらみそうだ。

「…あ、若様っ!! あのっ…、お帰りなさいませっ…!」
 娘は慌てて身を翻すと、その場に跪くお迎えの姿勢を綺麗にかたちづくった。もっとも、春霖の方も身をかがめているので、あまり効果もないのだが。

「もっ、申し訳ございませんっ! 私と致しましたことが…つい、居眠りなど」
 小さな手を頬に当てて、恥ずかしそうに俯く。こんな夜更けに起きていろと言う方が酷なのに、彼女の中にはそんなすれた考え方は存在しないらしい。

「ただいま、灯りをおつけ致しますのでっ…。中でお待ち下さいっ、お召し替えになる前にお体をお清めになるでしょう? …湯を温めて参りますっ…!!」

 初々しい立ち振る舞いではあるが、その仕事は完ぺきだ。この娘の母である人も御館の侍女をしている。幼い頃から全てをきちんとしつけられたその成果が、現れているのだ。


「霧、今日は暖かいからね。ぬるい湯で構わないよ?」
 わざわざそう言うために、表のひさしのところにあるかまどに足を運ぶと、その前に座っていた娘…狭霧は困ったように振り向いた。

「若様っ、このようなところにはいらっしゃらなくて結構です。今、参りますから、どうぞお休みになっていて下さいましっ!」

 燭台に照らされた明るい上がりの間は、綺麗に片づけられ、敷物の脇には酒の準備もしてある。多分、窓際の棚には夕方摘んだばかりの花が飾られているだろう。全ては自分を迎え入れるために、きちんと用意されている。

「…いいのだよ? 火の始末をして早くおいで」
 自分が持つと言って聞かない湯桶を強引に奪い取るのもいつものことだ。もういい加減に諦めればいいのに、毎回のように遠慮して抵抗する。すたすたと戸口に進むと、慌てた足音が後ろから付いてきた。


「…そろそろ、夏支度でございますね…?」
 固く絞った手ぬぐいで春霖の背を拭きながら、狭霧が静かに言う。

「今年は藍色の薄ものが流行りなんだそうです。女子の方はもとより、殿方も粋に着こなすのが今風だとか。色々考えておりますので…御前試合の晴れ着はどんな文様に致しましょうか…?」

 背を滑る手のひらはまだ幼さを残している。先ほど和乃のところで戯れたあの女の童と大して年は変わらないであろう。数えて12、夏を迎える頃に13。娘らしさが花開き始めた、何とも言えない年頃だ。幼き頃、どころかこの娘が生まれた時…いや、母の腹にいる頃から知っている。長いつき合いになった。

「お前に全て任せるから。母上とよく相談して選びなさい…そうだ」
 春霖は脱いだ重ねの袖を探る。そこからは綺麗な幅広の紐が数本出てきた。

「さっき、出かけに物売りから買ったんだ。どうだ? …お前の髪の色によく似合うだろう…?」
 驚いて目をぱちくりしている娘の髪に、そっと当ててみる。自分よりも赤みが強いが、やはり赤毛だ。娘の父も母も西南の出身だから、彼女も生粋の西南の血を引いている。

「お前の父のように、綺麗に結えるならいいのだけど…」

「そっ…そんなっ! もったいないことでございますっ!!」
 狭霧は自分の手に置かれたものを、おずおずと改める。色とりどりの糸を編み込んで美しい文様を織りだした飾り紐。髪を結って飾ったり、袴の帯に一緒に結びつけたりする。

 しばらくその美しい造形に見ほれていたが、やがて、ふっと息を吐いて寂しそうに言った。

「このように美しいもの、和乃様に差し上げれば宜しかったのに…」

 俯いているので表情までは分からない。でも、感動するよりも、先にこうして諦めたような口調になるのが気に入らない。控えめすぎる態度が、少しもどかしかった。

「あんな傲慢な女。こんなもの、やったって鼻で笑われるくらいのものさ。可愛くないのだからっ…!」

「…まあっ…!」
 狭霧は、顔を上げると少し怒りを含んだ瞳で春霖を見つめた。

「酷いですわっ! 若様はっ!! 和乃様、本当に若様のことがお好きなんですのよ? 昼間だって、私、呼ばれてあのお方の居室に参りましたの。若様がお好きな色目合わせをしてお迎えしたいって…、とても愛らしい女心でありましょう…? そのようにぞんざいに扱ってはなりませんわっ!!」

「…やはり。また、行ったのか。あの女に呼び立てられて…」

 そうじゃないかと思っていた。いつもは金ばかりかかっていて、少しも上品ではない装いなのに、今夜の和乃はいつもとは違って、とても趣味の良い衣で自分を出迎えた。変だな、と思っていたが、こうして話を聞けば合点がいく。

「呼びつけられて出かけるような、そんな軽々しい身分じゃないだろう、お前は。父は表の侍従長で母は南所をまとめる侍女頭ではないか。もっとしっかりとしていていいのだよ?」

 春霖にそう言われると、彼女は困ったようにまた俯いてしまった。

「…だって。別に私は御館に正式にお務めしているわけでもないし…身軽な身分なのですもの。でしたら、皆様のお役に立ちたいですわ」

 

 …そうなのだ。この娘はもう御館仕えの出来る年頃なのに、何故か父親がそうさせない。まあ、母親が忙しい身分な上に、下の兄弟も多い。幼い弟や妹の面倒を見て過ごしている。春霖にきちんと仕えている侍女というわけでもないのだ。

 元々はこの娘の母が、春霖の母の侍女であった。その関係で、春霖もその人にとても良く懐いていて、身の回りの世話をさせていた。だが、御館の務めが忙しくなる上に、次から次へと子供を産むので、だんだん春霖の方まで手が回らなくなって来る。他の者に世話をさせようと言う話も出たが、それは嫌だった。我が儘を言って困らせていると、まだ5つ6つの幼子だったこの娘が、毅然とした口調で言ったのだ。

「若ちゃまっ! そのように仰らないのっ!! 母上が無理なら、私がやりますっ!! 霧がきちんとお世話致しますからっ!!」

 これには周囲の全ての者が驚いてしまった。

 主人の身の回りの世話と言えば、三度三度の膳の上げ下ろしから、身支度の世話、衣装を整えたり、居室を過ごしやすいように綺麗に設えたりする。もしも春霖が妻を娶るようなことがあれば、閨の後始末まですることになるのだ。
 言うことは子供っぽく聞き分けがなかったが、その頃春霖はもう13の元服を済ませ、大人の仲間入りをしていた。もちろん、女遊びなども経験済みだったのである。
 それを…8つ9つも年下の、幼子に世話が出来るはずはない。何しろ、お付きの侍女となれば、主人の夜伽(よとぎ)の相手だってすることもあるのだ。

 みんな、そんなことが出来るはずもない小さな娘の言い分をただの戯れ言だと一笑した。だから、しばらくの間、飽きるまで好きにさせようと言うことになったのだ。

 もちろん、最初から彼女がひとりで全てを完ぺきにしていた訳ではない。母親の手を借りながら、それでも一生懸命励んでいた。そして、…何年か経つうちにはその辺の年の行った侍女などに負けないほどの、仕事をこなすようになっていたのだ。あれから、どれくらいの年月が経ったのだろう。今ではきちんと雇わないままに、ただひとりで春霖の身の回りの世話をこなしていた。

 身軽な身分であるし、なかなかの風流人である。ことに装いのことに関しては、その美的センスに定評があった。よって、高貴な身分な女子たちは競って狭霧を呼びつける。彼女はそれを少しも厭うことなく、嬉しそうに出かけていった。

 

…*…*…*…*…*…


 さっぱりとした寝着に着替え、奥の寝所に向かう。春霖がしとねの上に座すると、戸口で控えていた狭霧がその場で静かに跪いた。

「…では、お休みなさいませ。また、明朝参ります…」

 とても若い娘とは思えないようなやわらかい身のこなし。ちらと小耳に挟んだところでは、もう縁談の話がいくつも来ているらしい。しかし、心配になる。次から次から女子を漁り、腰軽な自分に仕えて、男に対して内心幻滅しているのではないか…?

 

 身分柄、夜道を送ることも出来ない。しかし、無事に戻り着くかそればかりが気になってしまうのだ。だから、休むばかりになった衣の上に一枚はおり、気付かれぬように見送る。今宵もそうしようと衣に手を掛けた時、ぱたぱたと、再度、戸口のところに戻ってきた。

「あっ…、あのっ…! 若様っ!!」
 慌てて戻ってきたのだろう、息が上がっている。彼女は赤らめた頬で、恥ずかしそうに春霖に微笑みかけた。

「こちらっ! あのっ、ありがとうございましたっ!! 大切に致しますねっ!」

 その手には先ほどの飾り紐がしっかりと握られている。嬉しそうにもう一度それを改めると、一礼して退座していった。

 

 しばらく。去っていく足音を呆然と見送る。そしてもう一度衣に手を掛けた時、春霖の顔に今宵最後の笑みが浮かんだ。

 

 

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