狭霧に身の回りの世話を任せるようになって、いくつかの季節を過ごした頃。春霖は高い熱を出して、しばらく伏せったことがあった。 もとより身の回りの人間を選ぶ性格なので、病でやつれている時はなおさらだ。しかし、途中からは誰に世話されているのかも分からなくなるほど衰弱していた。里に戻った母親を呼び出すことも出来ず、狭霧の母は身重で無理のきかない身体だった。
「…うっ…」 瞼の向こうがまぶしい。肩や膝の嫌なだるさがなくなっている気がする。久々に味わう安らかな心地に安堵しながら瞼を開けると、そこに映ったのは意外な人物だった。 「――お目覚めに、ございますか?」 「何でっ! お前がいるんだよっ! …おいっ、狭霧はどこに行ったんだっ。お前の顔なんて見たくもないぞっ!!」 言葉こそは丁寧に自分を扱ってくれているが、目の前の男の身体からはいつもながらの威圧感がにじみ出ている。濃紺の重ね、そこには品の良い刺し文様が施されていて、彼の「表の侍従頭のひとり」という身分をよく示していた。 いつの間にか朝が来ていたらしい。すっかり秋も深まり、近頃では肌寒く感じるほどの夜明けの気が頬をくすぐる。では、昨晩自分の看病をしてくれたのはこの男なのか? なんたること、弱みを見せることなどしたくはなかったのに。
「ご自分でお召し上がりになりますか? …それとも介添えが必要でありましょうか」 凛とした声。いつもながらに胸がムカムカする。せっかく気分が良くなったのに、すぐにぶり返してしまいそうだ。 「だっ…! 誰がっ!! お前なんかにっ!」 「いい食欲でございます。そこまでご回復なされたのなら、もう安心ですね」 「いちいちっ、うるさいぞっ!! 余市っ!」 しかし、男の方は全く動じることはない。涼しい表情のまま、口元にうっすらと笑みを浮かべている。自分よりは幾分茶色味が強い前髪をさらさらと垂らした奥で、眉が少し動いた。 「お食事がお済みになりましたか? では、湯桶をおもち致しましょう…衣も改めた方が宜しいですね」
…*…*…*…*…*…
身を清める役は、この男に任せたくなかった。ぞんざいに断って、しとねの上にあぐらをかいて座る。自ら寝着と肌着を上体から外し、手ぬぐいで身体を拭いた。この地には毎日風呂を浴びる習慣がない。かえって軽々しくそのようなことを行うと、たしなめられる。湯を日に何度も使うのは春を売って生計を立てている遊女たちだけなのだ。 自分の隣りに控えた男が、せっせと手を動かしている。何の気なしにそれを見る。女物の髪飾りだったので興味を持ったのだ。
「暮秋(ぼしゅう)の宴に…狭霧が御前の舞姫を仰せつかりまして…」 「御前の舞姫…」 自分には内密なままに進んでいく事柄に、取り残された寂しさを覚えた。暮秋の宴の話なら、自分が病に倒れるよりずっと前に決まっていたことなのに。 「あまり、みすぼらしいのもどうかと思いまして。こうして久しぶりにあつらえてみようかと試みてみたのですが…」 そこまで来て、ふっと顔が曇る。男は神妙な面持ちで、吐息を落とした。 「あの子がお役目を無事に果たせるか…微妙な感じになりましたね」 「――え?」
狭霧が御前の舞姫にならないというのか? せっかくの機会を。舞姫は誰彼となく出来るものではない、親の身分や役職はもとより、本人の美しさも気質も備わっていなければ。しかも年齢にも制限がある。10を過ぎて女を感じるようでは遅いのだ。月のものが訪れてもいけない。神前に捧げる神聖なものなのだ。
「あなた様が自暴自棄になられて、はかなくなってしまうのはご勝手だと思います。そのようなものは自業自得というものです。…だがしかし、無礼を承知で申し上げるなら、どうか、狭霧を悲しませるような事だけはなさらないで頂きたいと思います。あれは私たち夫婦にとって、ようやく授かった娘です。あとからたくさん恵まれましたが、やはり格別の思いがございますれば…」 朝の細々とした世話が終わったと判断したのだろう。余市は身の回りを片づけ始める。自分の仕事を小さな行李に収め、春霖の脱ぎ捨てた衣をきちんと畳んでまとめる。てきぱきと手際のいいところが、どこか幼い狭霧と重なる。やはり彼女は確かにこの男の娘なのだ。
この地の女子は年齢が30を越えるとあまり子を授からなくなると言う。そう言う体質になっているらしい。春霖の母もたくさんの弟妹を産んだが、里に戻った頃からはそのような兆候もなくなった。狭霧の母が身籠もらなかったのはその世話のためだったのではないかとすら思われる。上手くできているものだ。
「そっ、そんなことを言うために、わざわざ来たのかっ! お前の顔なんか見たくもないぞっ! 狭霧をよこしてくれっ…、ああっ、胸くそ悪いっ!」 言われていることはもっともなのに、それでも腹が立つ。自分では抑えきれない感情だ。 「お言葉を、返すようですが…」 「娘に…『若ちゃまが死んじゃう、助けて差し上げて』と言われてしまっては仕方がないでしょう。それにあの子は今こちらに参れる状態ではありません。…まあ、来いと言われれば、這ってでも来そうですけどね」
余市の去った奥の寝所には、つんとした薬湯の香が残っていた。
…*…*…*…*…*…
身体の調子は回復していたので、何でもない。春霖は急いで身支度を整えると、居室を出た。従者たちの居室は東所の先に点在している。半刻までは掛からないが、幾分離れていた。 所々が金色に身を染めた秋草が道ばたを彩る。先遅れの青い花を自ら手折っていた。余市は詳しいことは言ってくれなかったが、予感がした。どんなに天候が荒れようが、居室に来なかった日などない狭霧だ。彼女が自分の世話に来ないなんて。
「まあまあっ! これは若様っ!」 庭先で洗濯物を竿にかけていた女子が春霖に気付いて駆け寄ってきた。幼き頃から親しんだ姿は少しも変わっていないように見える。自分が16となった今では、すっかり年齢まで追い越してしまったようだ。それなのに、この人の連れ合いは全く変わらずに自分との年齢差を保っているのは気のせいだろうか? 「如何致しましたっ!? 困りますっ、このようなところにお出でになっては! 元服を済まされたご立派な殿方が使用人の居室になど足を向けられてはならないといつも申し上げておりますでしょうっ…!」 妻らしく、すっきりとまとめられた髪。その端は綺麗に垂らしているので、慌てた動きに辺りの気に流れている。相変わらず凝った仕上がりは、多分、余市の手によるものだろう。戒めるような言葉の中にも安堵の色が浮かぶ。やはり、自分の回復を喜んでいてくれるのだ。喜ばしいことだ。 「もうっ! ほら、髪が乱れて見苦しいですわっ。こちらにいらして…ああん、もうっ! 身をかがめてくださらないと、届かないでしょうっ!」 相変わらず、子供のような体つきで、春霖の方が頭ひとつ分よりも高い。思わず、くすくすと笑みがこぼれてしまうやり取りだ。 春霖が観念して庭石に腰掛けると、彼女は懐から櫛を取り出して梳いてくれる。小さくて暖かい手のひら。母のぬくもりよりもこの人の方が懐かしい。だから、両親が里に戻る時にも迷うことなどなくこの地に残った。お仕えする華楠様のことよりも、この人と別れるのが辛かった。 「まったく…心配ばかりさせられますわ。もう少し、落ち着いてくださいまし。里のご主人様やお方様もご心配なさっていらっしゃいますよ? …ここは、早くしかるべき方を迎えられて…」 「また、そんなことを言う…」 「お前が、俺の妻になってくれるなら、考えてもいいんだがな。余市の奴、早死にをしてくれればと思うのに、いつまでもピンピンして…まあ、無理やり奪ったところで文句も言えないだろうけど?」 「まっ、…まあぁぁぁ…!」 「もうっ!! お身体ばかり大きくなられてっ! 中身はお子様のまんまなんですものねっ! ほらっ、袴の帯も曲がっていらっしゃいますよっ!」
「狭霧は? …どうしたの?」 ここに来た時から、柚羽の視線が自分の持っている花に向けられていることは知っていた。彼女は自分がどうしてここを訪れたのかとっくに承知しているはずだ。でも、自分から口にしようとはしなかった。 「…若様が、お気になさるような事ではございませんわ。お引き取り下さいませ」 「…あちらか?」 産まれた子供たちのために、空き家になった隣りの居室も余市たちの居住まいになっていた。迷わず足を向ける。柚羽が後ろから、慌てて追いかけてきた。 「困りますっ! 中にはお入りにならないで下さいませっ! 若様っ…ご身分をお考えになられて…っ!」 戸口の前まで来て。春霖は振り返った。そして、あとから来た自分よりもずっと小柄な女子に視線を向ける。彼の眼差しを目にした時、柚羽の言葉が止まった。 「…行かせて、柚。頼むよ…少しだけだから」
…*…*…*…*…*…
ここまで、入れ込んでいたなんて。あの方への想いは、こんなに深かったなんて。自分でも信じられなかった。手の届かない人になってしまった今、もう…何にすがっていいものか。一筋の光すら射さないような気がした。
自分が荒れ狂う理由も分からずに、ただただ、戸惑っている狭霧がいた。彼女には男と女の色恋沙汰などまだ蚊帳の外の出来事だ。もしも知っているとしても、絵巻物で見た晴れやかな純愛劇だろう。
熱に浮かされながら、それでもしっかりと狭霧の声を聞いていた。彼女は泣いていた。ごめんなさい、ごめんなさいと言いながら、身体をさすってくれる。一瞬、意識が戻って、また沈み込んでしまう意識のはざま。
「…狭霧…?」 一番奥の部屋の寝台の上で。静かに寝息を立てている人がいた。それほど苦しい息もしていないのに、ホッとする。柚羽の言ったように疲れが溜まっただけなのだろう。幾晩もの寝ずの看病を続けていたのだと言うから当たり前のことだ。 御館の王族の御方は寝台に休む。これは北の集落の習いである。下った、西や南の集落では板間にしとねを直に敷いたり、畳敷きになる。ただ、畳は遊女小屋で多く使われることから、一般の居室で用いられることはあまりなかった。もっとも地方に行くとそのような造りになっている家屋もあるようだが。 そんな生活に親しんでいたため、久しぶりに見るしつらえの居室に不思議な気がした。 小さないたいけな少女にそこまで望むのは間違っている気もするが、それだけの器のある娘だった。
春霖は狭い部屋を横切り、狭霧の休む寝台の前まで来る。彼女の頬に掛かった髪をそっと直すと、隣りの空いている寝台に腰掛けた。 …綺麗な寝顔だ。ほんのりと赤みの差した頬。自分が戯れに抱くその辺の女子とは似ても似つかない、けがれのない姿。 御前の舞姫に選出されたのも頷ける。何度か舞いは手合わせをしてやったことがあったが、この娘は何をしても飲み込みが早く、乾いた砂に水が染みこむように吸収してしまう。教授している春霖の方が、うっとりと眺めてしまうことすらあった。
どうして、気遣ってやれなかったのだろう。もう少し、自分に思いやりというものがあれば、こんな事にはならなかったのに。それに、あの苦しい病のさなか、この娘の存在がどれだけ支えになっていたのか。 7つ8つ…、これからどこまで美しく成長するであろう。この娘に、自分が出来ることは一体何なのだろう…? 溢れるものが頬を伝い、衣に落ちていく。春霖は袂でそれを拭った。
「…若ちゃま…?」 微かな気の流れ。ゆるゆると頭を上げる。ぼやけた視界の向こうに、大きく目を見開いた顔が見えた。
「…狭霧っ…!!」 「駄目だよ、無理をしては。…静かに休んでないと…」 「でも…」 「私は大丈夫ですっ、すぐに良くなります。そしたら、すぐに若ちゃまのところに参りますから。だから…あのっ…」 まだ、言葉を続けそうな身体を、強引にしとねに沈め、人差し指で口元を制した。
狭霧は春霖が肩から掛けた衣を指し示すのを見つめた。 「あ…」 「お前の弟の。余志(ヨシ)の衣を借りてきた。だから、大丈夫だよ、今の俺は余志だから。姉上を見舞う弟をだれもたしなめたりはしないから…」 にっこり微笑んで、脇の寝台に座り直す。狭霧が困ったような表情でこちらを見ていた。 「どうして、そんなの無理ですっ! …若ちゃまが、余志に見えるわけがないでしょう?」 狭霧の言い分ももっともだ。ほんの子供の衣を肩から掛けても、簑にすら見えない。狩りの肩当てにも苦しい。だいたい、こんな逞しい体格の子供がいるわけもない。 「ならば。お前がもう一度休むまで、ここにいよう。ゆっくりと休みなさい、そして、早く元気になるのだよ? 御前の舞姫を舞う際には、…そうだな、扇でも贈ろうか?」 「え…?」 「とびきり、上手に舞って…俺を喜ばせておくれ?」 そう言って、小さな手を取る。狭霧は微かにあらがったが、すぐに静かになった。
遠くで物売りの声が響く。御館間近にある自分の居室では感じ取れない生活の音だ。窓辺に飾った名もない花よりもわずかな力で手折れるほどの存在が、春霖の中で、やわらかく根付いていた。
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