季節は巡る。さらさらと音もなく、御館の御庭に四つの色を繰り返し染め上げていく。春霖にとってはそれも心の深い傷をゆっくり癒すための時間だった。 いつの間にか、狭霧の舌足らずの言葉が改まっていく。 初めて「若様」と呼ばれた時は、その匂い立つような音色に胸が締め付けられた。それは…我が子の成長を見守る親の心境だったのだろうか? 美しく生まれ変わっていく姿を愛おしく思う反面、いつまでも幼いままこの手の内にいてくれないかと思った。
…*…*…*…*…*…
あの夜。自分の背を涙で濡らした人がいた。けれどあの方の涙は何も自分の為だけに流されたものではない、それも分かっていた。 …どうして。 …どうして、手を貸してしまったのだろう? あの時、違う選択も出来たはずだ。そうしたところで、咎められることもなかったのに。
この地の誰よりも高貴な身分に生まれながら、決して自分を表に出すこともなく。言われるがままに過ごすのは、奔放な性格の春霖などから見れば奇異としか思えない存在だった。 …でも、愛していたのだ。あの方だって、それくらいお分かりだったはず。それなのに。一番身近にいて気を許していた自分にだけ、あの方が唯一告げたのが…ひとつの望みだったのだ。
我が元に引き留めておくだけの、勇気がなかった。だから…あのお方は永遠に触れられぬ場所に去ったのだ。
…*…*…*…*…*…
失ってみて初めて知った。どんなにか、あの方だけを愛していたのか。あの方がこんなに狂おしいほどに欲しかったか。
ある日のこと、春霖はぶらぶらと庭歩きをしていた。お務めが昼で上がり、夕暮れまでには間がある。どこか女子の元に通うとしても、それは薄暗くなってからが決まりだ。それに…少しばかりの心配事があった。
「若様、朝でございますよ? もう、お目覚めになられて下さいまし。今日は少し蒸しますので、薄い衣をお持ちしました。季節には少し早いですが、これをお召しになるとよろしいかと。恥ずかしくないように、下重ねは少し濃いめのものを選びましたから…」 朝、一番初めの茶は少しぬるめに。二杯目は熱く、目が覚めるように。何から何まで、隅々まで気配りを怠らない。柚羽は自分の世話をしてくれても、始終夫のことや子供たちのことが頭から離れなかったようだ。でも狭霧は違う。春霖の事だけを考えている。小さな手で、必死にこなしていくのだ。 まだ同い年の少女たちは女の童のように髪を肩で揃え子供らしいのに、狭霧はそうではなかった。伸ばしかけの髪は手入れをしているのだろう、母君のそれよりもずっと艶やかに美しい。いや、母君でも十分なくらい美しかったのだ。それの上を行くのだから、相当なもの。これでは御館でも評判になるだろう。
侍女という身分で雇ってはいないが、それ以上の働きをしてくれているのは明らかなのだからと、季節の変わり目には衣を用意してやったりする。でもほかの女子なら当然のような顔をして受け取る品を、狭霧は酷く恐縮して、何度も何度も辞退した。わざわざ彼女のためにと色目を揃え、春霖が自ら選び求めた品であっても、すぐには受け取ってくれない。 袂に隠し持っていたのは、ここの来る途中に受け取ったからだろう。初めて見たそれにカッとして、思わず取り上げていた。こんなものを貰って嬉しいのか。今日はいつもよりも声が弾んでいるが、これのためなのか。たとえようのない想いで腹の中が煮えくりかえる。 「お返し下さいましっ! それは…私が頂いたものです。若様と言えど、お渡しするわけにはいきませんっ!」 当然の事ながら、狭霧は返して欲しいと食い下がった。しかし…春霖はそれを中を改めることもせずに、表のかまどにくべてしまった。 「…どうして…」 かすれる声の方向を向くことは出来なかった。どんなに辛い顔をしているだろう。それに…どうして、どうしてだって? そんなこと、分かるわけがないじゃないか。気がついたら、こうしていた。理由などなかった。
…気に障るようなことを、何かしただろうか? 昨晩、いつもと違うことをしただろうか…? 否、そのようなことはない、いつもと同じ夜だったはずだ。しとねを整え、寝装束に着替えさせてくれた時の狭霧は口元に笑みを浮かべ楽しそうだった。自分の世話をすることを喜んでくれている。隠し立てのない幼さの中でそれがにじみ出るから変な詮索も必要なかったのだ。
今日はことのほか蒸し暑い。気の中に蒸気が溢れて、辺りが白く立ちこめる。その向こうから、堂々たる足取りで、草を分けて進んでくる者があった。ただ人でありながら、金糸の刺し文様のある装束を許される…それは「表の侍従長」に任命されたばかりのかの人に違いなかった。 「…何?」 何で、こいつが。また…あのっ、狭霧に何か? 悪い予感が胸を冷たく撫でる。しかし…その者の表情を見て、少し違うかな? と思い直す。余市の口元には微かな笑みが浮かんでいた。手には漆の蓋つきの椀を持っている。かなり、大きめの…両手で捧げ持つほどのもの。朱塗りのそれはおめでたい席で使われるものだった。 「このような場所で、野歩きなどと。高貴な御方がそのように軽々しくしていらっしゃってはなりませんね。もしもお時間がおありなら書物のひとつでも読まれたら如何です? ご主人様から届けられた漢詩の束は紐も解かれていないと言うではありませんか」 開口一番がこれだ。全く持って、うるさいやつ。元はと言えば、お前の娘がいつも通りに来ないから心配していたのだ。朝餉の膳だけが置いてあって、聞けば狭霧の弟の余志が届けたものだと言うではないか。 しかし、こうして正論を並べられては、問いただすきっかけすら失ってしまう。俯いてしまった頬に、いつになく熱い視線を感じた。 「…ただ今は…こちらを若様にお届けしようと参った次第です。お納め下さいませ…」 余市は少し姿勢を低くして、手にしていた蓋つき椀を差し出した。両手に捧げ持たれたそれを受け取ると、ずっしり来る。一体中身は何なのだろう。 ……!? 何の気なしに蓋を開けてしまい、次の瞬間に血の気が引く。詳しいことは何も言わずにただこれを差し出した余市の思惑が手に取るように分かってしまった。 そこには。赤子の手のひらほどの平たい餅がぎっしりと詰まっていた。ただの祝い餅ではない、その色が淡い桃色に染められている。そして、その中央に桜の花の塩漬けにしたものが飾られていた。
…狭霧か。 そうであろう、弟の余志は男子であるし、その下の妹はまだ小さい。祝いの餅がそれを告げる、狭霧に初潮が来たことを。 何も言うことが出来ず、のろのろと顔を上げた。もしかしたら、顔が青ざめているかも知れない。頬にひんやりとした夕暮れの気が吸い付いてきた。 「おかげさまで。娘も嫁に出せるまでに育ちました」 きりりと後ろの高いところでひとつにまとめられた髪が揺れる。うっすらとした笑みをたたえる口元。穏やかな声…でも底知れぬほど深いものを含んで。自分が幼子から成人に至るまでの間、この者も歳を重ね、人間としての厚みを増していった。口惜しいけど、それを認めざるを得ない。何の後ろ盾もなく、家柄や身分に関係なく出世するこの男は、侍従の間でも憧れの的だ。 「そうか…それは」 おめでたい、と言うべきか。とてもそんな気力はない。いつかはこんな日が来るのだと分かっていたはずなのに、実際に訪れてみると想像以上にうろたえている自分がいる。よちよち歩きの頃から自分を慕ってどこに行くにもあとを付いてきた、小さな小さな娘がいつの間にか大人になる。ここしばらくの成長にそれが見え隠れしていたはずだ。でも…やぶ蚊を振り払うようにそれを見ない振りをした。 「若様」 まっすぐに見据えられて、背筋がぞくっとする。獲物を射る時の瞳だ。弓の名手であるこの男が放つ視線はどんな高貴な身分にある者でも畏れる不思議な色がある。 何かただならぬことを告げられるのは分かる。自分よりも身分の低いはずの者に、身のすくむほど震え上がっていた。 そんな春霖の心内を知ってか知らずか、余市は凛とした声で言い放つ。 「娘には今まで、あまり大人びた知識は与えないで参りました。あれは年齢よりはだいぶ落ち着いたところがありますが、まだまだ幼いばかりの身の上です。…しかし、こうなってしまえば仕方ありません故…今朝、妻とふたりで、あの子に全てを伝えました」 男と女の閨での睦みごと。それが…子を孕み、次世代を生み出すために必要な避けて通れない道だと言うこと…そして。 聡明な彼女は即座に気付いたであろう、春霖の今までの行動の裏にあるものを。夜な夜な遊女小屋や侍女の居室を渡り歩き、情事を重ねる。しかもその中にしっかりした心根もなく。今まで、お務めから上がって、夕刻より外に出ると言えば、何の疑いもなくそれようの装束を整えてくれた。女の元に通っていることくらいはうすうす勘づいていただろう。でも…深いことまでは知らなかったはずだ。 「そっ…そうか…」 身から出た錆、と言えばそこまで。恋に恋するような純真な娘には耐え難い事実だったに違いない。こんなことは身勝手と知りながら、狭霧だけには知られたくなかった。彼女と自分との関係は、昔と変わらず、まっすぐな信頼関係を持って成り立っていたかったのに。 「話をしている間は、それでも神妙な面持ちで、毅然としていました。我が娘ながら、そのしっかりした態度には驚かされましたね。…しかし」 「私たちが部屋を出て…しばらくして、戻ってそっと覗いてみますと――あの子は泣いておりました」 何を想っての涙か、それは誰にも分からない。しかし、初めてのことに身体が熱を帯び、床を上げられない寝台の上で、顔を覆って声を殺して泣いていたという。あまりに哀れで、声を掛けることすらためらわれてしまったと言うから、相当なものだったのだろう。
――狭霧は、ただまっすぐに、自分を慕っていてくれたのに。それなのに、また傷つけてしまったのか。
いくらかのためらいはあるのだろう。余市の口調は重々しい。しかし、そこはきっぱりと言い放ち、さっさときびすを返した。 「若様も…そろそろ、今後のことをよくお考えになった方が宜しいのでは? 里のご主人様の元より何度も文が参っていると言うではありませんか? お世継ぎ様としてしっかりなさるのが一番かと…こちらでお世話役を申しつかっている我々と致しましても、それを強くお勧め致します」
――対して、自分はどうだ。立派な実家や親がありながら、それに甘えて上に行こうとしない。与えられた場所で甘んじている。それを比較すれば…心許ないと言われても仕方ないのだ。
その晩はどこにも出かけず、奥の寝所に籠もって深酒に浸った。呑んでも呑んでも酔いが回らない。胸はムカムカと熱くなるのに、意識だけは妙にすっきりとしているのだ。いつの日も忘れることなどなかったあのお方の面影がふんわりと浮かび、そこにいつの間にか狭霧の顔が重なっていく。 …結局、自分は幸せになどなれないのだ。その資格がないからみんな去っていくのだから…。 「若ちゃま」――そう呼んでくれた幼き日の狭霧が、藍色の空にふんわりと浮かび、やがて消えた。
「おはようございます、若様。本日は華楠様のお供で北の集落までお出でになるとか仰ってましたよね? 早くお支度なさらないと遅れてしまいます。しっかりなさってくださいませ」 狭霧が、来たのだ。 最後に見た時と少しも変わらない笑顔で明るく声を掛けてくれる。これは都合のいい夢なんだろうか。しかし、意識がなくなってこぼしてしまったのだろう酒に濡れた衣がひんやりする。狭霧はまあまあという表情になって、それらを片づけ始めた。 「昨日は、どちらにもいらっしゃらなかったのですか? …でも、こんなにお酒を過ごされましてはお体を壊してしまわれます。もう少し、お考えになっていただかないと…」 余市の言葉にはいちいち棘があるが、狭霧のそれにはまったく感じられない。だが、何を思ってここに来たのだ。もしや、惜別の言葉をかけるために? 礼を尽くす娘だから、もうこれで終いにしますときちんと告げに来たのか…? 酔いが残っているのか、考え方も荒んでいる。だから、自分でも驚くほどの冷たい言葉が出た。 「…お前が、支度を整えに来なかっただろう? だから、出かけられなかったのだ。予定が狂った憂さ晴らしに酒をあおって何が悪い」 その言葉に、狭霧がきょとんとした顔で振り向いた。手には酒の瓶やとっくりを積んだ盆を持っている。大人の祝いをしたからと言って何が変わるわけでもない。まだまだ幼さの残るあどけない表情だった。 「あの? …昨日は父がこちらに参ったと聞いておりますが」 事情は知っているだろうと、暗に告げている。やはり、自分で全てをあからさまにするのは恥ずかしいのだろう。頬にわずかに赤みが差す。よく見れば瞼などもぷっくりと腫れていて、少しだるそうだ。女子にとって月のものを迎えるというのはやはりそれなりの重さを覚えるのかも知れない。 「されど、ご迷惑をお掛けしたのはお詫び致しますわ。申し訳ございません、もしも今後このようなことがあれば、誰か代わりの者を…」 その言葉は、途中で遮られた。 「…そのような者っ! いらぬっ!」 突然、辺りをつんざくような叫び声が上がっていた。自分でもどうしてそんなに大きな声が出たのか分からない。もちろん、傍らにいる狭霧もびっくりしていた。 「…あ…」 「若様?」 「まだ御気分が優れないのですか? もしも今日のお務めに差し支えるようなら、そうやって申し上げて参りましょうか? お体を壊されては大変です」 「いっ…、いや。そのようなことはない。まずは朝餉の膳を運んで…それから、出かける装束を整えて貰おうか。今日は華楠様のお付きでご同行申し上げるのだから、くれぐれも無礼のなきようにしなければ」 「はっ…はいっ!」 その背に、ようやく春霖の声が追いついた。 「…霧。お前の体の具合は? そちらこそ、無理をしているのではないか?」 狭霧がゆっくりと振り返る。そして、やわらかく微笑んだ。 「このくらい、何でもございませんわ。母上も申しておりました、これは病ではありませんもの。お気になさらないで下さいませ」 ようやく腰の辺りまで伸びた髪。朝、出てくる時はまだ父である余市が起きていないので、髪を結って貰えない。朝と夕方で髪型が変わっているという不思議な娘。その艶やかな髪に触れることすら、この日を境に躊躇するようになってしまった。
…*…*…*…*…*…
そしてまた、あっという間に季節は巡る。御館の東の御庭の天寿花が見頃を迎え、またそれが散る。それを待っていたかのようにあちらこちらで花々が競って咲き乱れるようになるのだ。花見に興じていれば、この地に短い夏が来る。侍女たちの装束も改められ、辺りは明るい日差しに満ちていた。 狭霧は何もなかったように当たり前に春霖の元に来て、身の回りの世話を焼く。もう彼の横行など全て存じているはずなのに、それを疎んじることもなく、しごく自然に。それどころか装束の相談を受ける女子たちの元で預かってくる文を春霖に渡したりするのだ。あの和乃などは執拗に春霖が出向くように働きかけてくれと言うらしい。そうされても、気にする風でもなく、当然のようにしている。 そんな風にされるのが逆に何だかよそよそしくて嫌だった。女の元に通うことが分かっているのに、涼しい顔で衣を整えられてはもう何も言えなくなる。にっこりと微笑まれて「行ってらっしゃいませ」と告げられれば、後ろ髪を引かれながらでも出かけるしかないのだ。 居室に留まればいいのだろうが、それも出来ない。そんなことをしたら自分がどうなってしまうのか。
いつの頃からか、春霖は胸の内に誰にも告げられぬ火薬玉を抱えていた。 夜、寝支度を終えると、狭霧が静かに退出する。毎日変わらずに当然のように。その時、ふと胸をよぎる想いがある。 ――もしも。今、この瞬間に。自分が「これへ」と言えば、狭霧はどうするだろう。侍女のたしなみとして主人が夜伽を命じればそれに黙って従うのだろうか? それともそんな色情を見せた主人を見限って、二度とここへは来ないかも知れない。いや、これだけ慕ってくれているのだ、こちらが頼めば…だかしかし。
もしも、話がまとまれば、祝ってやるべきなのだろう。あの余市が選んだ相手なら間違いない。きっと狭霧にもきちんと意見を聞いた上で、納得のいくかたちで話を決めるのだろうから。
もうすぐ。年に一度の大きな祭典がある。夏の夜の美しい御庭で雅楽の宴が催されるのだ。 「…御館の奥の侍従長様のご子息とのお話を進めております」 いつだったか、すれ違いざまに余市がひっそりと囁いた。今の奥の侍従長と言えば、南峰の集落の大臣家の一の家臣の家の者だ。その跡取りである息子は里に残しているという。名家であるから、あちらに帰れば何不自由ない生活を送れるだろう。 夏の祭典には故郷の家族も呼び寄せて賑やかに宴をもり立てる。多分、狭霧の相手とされる男もやってくるはずだ。そこで引き合わせようと言うのか。 そこでお互いが意気投合すれば…いずれは。
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