「この御衣装は、こちらの行李で宜しゅうございますね?」 春霖がぼんやりともの思いに耽っている間にも、狭霧はてきぱきと言われたことをこなしていく。この娘の母親は何事に付けても段取りが悪く、いつも慌てた感じでいたが、娘であっても気質は異なるものだと感心する。 「…若様。こちらはお正月の晴れ着でございますよ? 良く覚えておいて頂かないと…」 こちらが心をきちんと向けていないと分かっているのだろう。しつこいくらい念を入れて、狭霧が繰り返す。上がり間の壁際にはこんな風にして、もういくつもの行李が積まれていた。
蒸し暑さを覚えるためか、薄い色の装束を身につけている。侍女というのは主人が過ごしやすいように計らうのが務め。だから、暑さを忘れるような涼やかな装いも、大切な心配りのひとつだった。 そんな初歩的なことは、彼女にとっては無意識にこなせる事となっていた。
久々の休みに、昼間からこんな風にしていると時の流れも分からなくなってしまう。もしも、このまま。時間を止めてしまえばどうだろう。狭霧も自分も永遠に年を取らない。ずっとこんな関係を続けながらやっていくのだ。それが出来るならどんなにいいだろう。
「若様…?」 急に立ち上がった春霖に狭霧が慌てて声を掛ける。その目を見ないようにして、短く言った。 「夕刻まで、出かけてくる。…衣を改めてくれ」
このごろでは自分に言い聞かせるようになったその言葉を、今も心の中で繰り返して唱える。女子など、余るほどいるでないか。血迷う自分でもないはずだ。 考える方向を変えないと、保ちそうにない。春霖は狭霧の作業の邪魔にならないように、軽く首を振った。 …そう言えば、最初は腕が全然回らずに、半泣きで繰り返していたっけ。あからさまに手を貸すと怒るので、こっそりと気付かれないように紐をおさえた。そんな頃が懐かしい。 「若ちゃまっ! 今日は上手に出来ましたっ!!」…そう言って、微笑む彼女の姿も昨日のことのように思い出される。肩で揃えたおかっぱを振りながら、嬉しそうに頬を染めていた。 実際、それほど昔のことでもないのだ。わずかの時に…狭霧はひとりで大人になる。春霖などはその早さにあっという間に振り切られていた。
部屋の隅に置かれた花器で、夏の初めを告げる紫色の花が静かに揺れていた。
…*…*…*…*…*…
ゴテゴテと飾り物を並べてありながら、庭の草花などは伸び放題。せっかくの珍しい花々もこれでは可哀想だ。庭木には蔓の草が汚らしく巻き付いている。そこだけ気の流れもよどんでいるように見えた。
「…あら、これは。如何致しました。お出では夕刻のはずでは…?」 しかし、縁に姿を見せた女子はこってりと化粧粉を叩いて、艶やかな紅を引いている。髪にも香油を付けて滑らかに見せているのだ。 …日の中から、自分を飾り立てることしか能がないとは。 いつもは薄暗くなってからここに来ていたので、荒れ果てた庭は見なくて済んでいた。こうして目の当たりに出来たのは幸いだったと思うべきか。 「丁度良いところに参られましたわ。春霖様に宴の御衣装を見立てて差し上げましたの。これをお使い下さいませ」 和乃は当然のように微笑みながら、ゆっくりと奥へいざなった。少し薄暗いその場所に、色目を合わせる時のT字になった衣紋掛けが天井から吊られている。そこに幾重にも重ね合わせられたそれは見事な衣装が掛かっていた。 「衣は全てその道の達人に作らせました。公の場ですから少し華やかな文様も宜しいかと。夏夜の燭台の灯りにも映えるように考えましたのよ。春霖様には…明るい青がひときわ良くお似合いですわ…」 …ただし、これが誠に彼女本人の見立てであれば、の事であるが。 だいたい、きちんと妻の座に着いたわけでもなく、こうして衣装を揃えるなど軽々しいことだ。春霖の里では考えられない。 まあ、この都では季節の移り変わりと共に幾たびも催される宴に合わせ、女子たちが気のある男に衣を贈るのは当たり前のことになっている。あまり目くじらを立てるのもおかしいだろう。 和乃は以前からこのように出過ぎた真似をすることが多々あった。普通の男なら、彼女ほどの女子に特別の想いを寄せられ、大切にされれば舞い上がるかも知れない。だが、どうしてもそこまで夢中になれなかった。
初めはほんの好奇心から。恋人と別れたばかりの閨に忍んでいった。都一の才女、それが夕刻を過ぎると衣を脱ぎ捨て娼婦に変わる。男を惑わせる妖しさ、艶やかさ。それほどのものならば、試してみたいと思った。 確かに。古典などにも精通して、何を話しても打てば響くような答えが返ってくる。王族の御方に仕える学者たちでもここまでは、と思うほどの完ぺきさ。そう言う会話を繰り広げることで、己の中の自尊心も満たされた。 さらに、閨でのことは言うまでもない。幾多の男たちを狂わせた身体はみずみずしく、自由に泳ぎ回る魚のように艶めかしく揺れる。ついさっきまで漢詩を朗々と読み上げていた唇から、あられもない喘ぎ声が漏れる。汗ばんだ身体からはたとえようのない香りが放たれ、官能の世界へと引きずり込まれた。下手な遊女などよりもよほど素晴らしい。さすがの春霖も一時は遊女小屋や他の女子たちへの足が遠のいたほどだった。 彼女としても、春霖は不足ない男だったに違いない。都でもその勢いを誇示する西南の集落の出身。しかも大臣家の重臣の家系。母は次期竜王様に間違いないと言われている華楠様の乳母。王族の御子様方の乳兄弟として育った。背も高く、父親似の顔立ちは色があり見る者を惹き付ける華がある。都の女子たちが競って寵を受けたがるのも無理のないことだ。 男たちを魅了してきた彼女もそろそろ身を固める年齢に来ていた。いくら美しさを武器にしていても、歳が過ぎればそれも廃れていく。ちやほやされた若い頃を懐かしみながら、惨めに暮らすことなど彼女の自尊心が許すはずがない。この辺でしっかりと地位を確かにしたい。そんな気があったのだろう。 …しかし、長く付き合いすぎた。 時が経てば、相手の欠点が気になるようになる。自分を高いところに置きたいばかりに、他の女子たちを陰湿に貶めることなど日常茶飯事。しかも自分は決して手を汚さず、その全てを侍女に申しつける。その周到さが小賢しい。最初のうちはそれでも取り繕って隠していたが、だんだん馴れ合っているうちにぼろぼろと本音が出始めていた。 このごろではもはや会話をすることさえ面倒で、ここを訪れると酒の膳もそこそこに閨で彼女を味わうのが常だった。
「これは…狭霧の見立てだろう?」 軽蔑した眼差しで、じっと見つめると、目の前の女子の顔色がはっきりと変化した。 「そっ…そのようなことっ! 何故、そんな風に仰いますのっ!? 春霖様は本当に不正直な方っ…、わたくしの見立てを褒めそやすのを照れていらっしゃるのねっ…」 最後の方は年の功か、冷静さを取り戻していた。取り乱すとかえって疑われると分かっているのだ。どこまで計算しているのだろう…本当に鼻持ちならない。 「いい加減に、本当のお気持ちを仰ってくださいまし。わたくしにだって、言い寄る殿方は後を絶ちませんの、それにお務めのお話も数多く参っておりますわ。あなた様がいつまでもこのように曖昧になさるのでしたら、わたくしとしても考えがございますのよ…?」 春霖は勧められた座に着いてもいなかった。立ちつくしたままの彼に、和乃はしっとりとしなだれかかる。銀色の髪がうねり、幻想的な色合いを見せた。ゆらり、ゆらり、と辺りを漂っていく帯。明るいところでは金色に光る。 「愛おしい方…、これからはこちらを居住まいになさって…わたくしと共に過ごされては如何…?」 「はっ…離せっ!!」 こんな陽の高いうちから身体をすり寄らせるとは。遊女にも劣る愚劣さ。春霖としても、さすがにこのような場を誰かに見られるのは敵わない。いい加減にして欲しかった。 野の花を風流に活けることもない部屋。ただ金銀の装飾を施した道具ばかりを並べ立てて、それがどんなに安っぽく惨めであるか気付かない女。 「あっ…!」 「…愚かなことを」 「もう、ここへは来ない。お前などにもう用はない」
「――は…?」 初めは言葉の意味を分かっていなかったようだ。縁のふちまで出てきた彼女は呆然と春霖を見つめる。 「今…何と?」 「もう、来ぬと申している。言葉も分からなくなったのか、全く馬鹿な女だ」 「…春霖…様?」 「俺は、近々里に戻る。もう女たちとは縁を切る…都の暮らしなど、飽き飽きした。面白いことなど何もない」 ここでひとしずくの希望を持たせてもいけない。もしも連れて行ってくれなどと言われたら大変だ。他の女たちは春霖が別れを切り出した時にすぐに悟ったが、この者は手強いだろうと見ていた。だから、先延ばしになっていたのだ。でも…それも今日で終わる。
しかし、深くものを考えないその女子は、春霖の言葉を一笑した。 「…戯れ言を。そんなことを本気にするとでも思っていらっしゃるの!? わたくしの気を引きたいのであれば、素直になさい。年上と言えど、わたくしとて殿方を立てる術は存じておりますわ。そのように…拗ねられるなど…」 最初はまったく冗談と捉えていたらしい。だが、春霖が何を言っても冷たい視線で突き放すのに、徐々に不安を覚え始めたらしい。紅の下の唇の色が青ざめていく。 「うるさいっ! 黙っておれぬか、小賢しい奴っ! お前など、一生そのように傲慢にしておれば良いわっ!!」 少しばかり言い過ぎたか。そう思ったが、本心なのだから仕方ない。そのまま、きびすを返す。もう顔など見たくなかった。 「…こっ…、後悔なさいますわっ!! そのようにっ…必ずっ、あなた様の思うようにはさせませぬっ!! 泣きついていらっしゃるに違いございませんわっ…!」 あまりの女主人の怒りに、侍女たちが慌てて飛び出してくる。 だいたい、客が来たというのにもてなしひとつ準備せぬ者など、何の価値があるものか。これも全ては家人の心映えによるものなのだ。いくら美しく飾り立て、美しい調度で整えてみても、すぐに内面の貧しさは見えてくる。それに気付かぬ者はなんと滑稽であるか。 先の衣装にしてもそうだ。どうして全てを自分の手柄にしようとする。狭霧に手伝って貰ったなら、素直にそう言えばいいのに。色目の合わせにはその者の心映えがはっきりと現れる。そんな初歩的なことすら、分かっていないのか。風流人が聞いて呆れる。それほどに思慮の浅い薄っぺらな女子だったのか。
狭霧の色目はひと目見れば分かる。明るい色を好む娘らしい一面を持ち、いつもそんな風に春霖の衣装を整える。しかもそのままだったら軽々しく、安っぽく見える色を上品に仕上げるのだ。それがきつい顔立ちの春霖によく似合っていた。 身にまとう者のことをよく考えてこその色目合わせだ。父親の余市の衣装なども揃えているようだが、彼のものはもっと落ち着いた色彩でまとめられている。
きちんと周りを見て身の程をわきまえ、しっかりと仕事をこなす狭霧。対して、自分の利しか考えず、傲り高ぶる和乃。比べる方が間違っているのかも知れない。だが…あまりにも違うために、純粋に不思議に思えるのだ。
…忌々しい女子。
可哀想だとは思うが、せいせいしたとしか言えない。それほどの感情しか抱けぬ自分に驚きを覚えたことだけが、彼女に対するいたわりであった。
…*…*…*…*…*…
王族の乳母として上がる母親にくっついてきた春霖にはあまり縁のない話だったが、都に上がり、御館務めをするにはそれなりの家柄も必要であり、また狭き門なのだという。 それだけに「選ばれた」身分で上がってくる者たちはとても向上心があった、しかも貪欲でもある。出世のためなら、面白くないような仕事もこなし、方々に頭を下げて回る。そんな姿を春霖はいつも少し離れたところで、冷めた目で見ていた。へこへこと腰を低くして頭を下げて、あいつらには自尊心というものがないのか。酒宴ともなれば、そこら中に酌をして回る。それで気配りの出来る人間だと言いたいらしい。 …糞食らえだ。何で、そんなに頑張るんだ。 恵まれた環境に生まれ育ったためか、どうしても欲がない。そんな風に二十歳を過ぎても飄々と過ごしていた。余市などには耳にタコが出来るほど説教されている。やれ、あちらの官僚に挨拶に行け、やれ、あちらの大臣に文をしたためろ…本当に嫌になる。自分はお前などとは違う、ゆくゆくは里に戻って、お屋敷の家長となるのだ。そのためにどうしてそんな苦労をする必要がある。 それが、同じく御子様方の乳兄弟として南所に仕えている青樹などは春霖とは全く違う。彼はもともと穏やかな気性で、決して言葉を荒げたりしない。いつも穏やかににこにこと微笑みを絶やさず、しかし仕事はきっちりとこなす。武芸にも秀でている。 しかし、青樹はそんな後ろ盾など何とも思っていない感じだ。上の者にも下の者にも好かれ、順調に位を上げる。いくら武術で彼に勝っていても、人柄で負けては仕方ない。 何もかもが自分と対照的な男。まあ、昔なじみの友であるし、馬鹿な遊びをした仲でもある。春霖だって損得なく彼のことが好きだった。 今まではそれでもやってこられた。だが、華楠様が正妃様を娶られ、そろそろ本格的に代替わりを行うと言う時期になり…春霖の置かれている立場が微妙になってきたのだ。もしも華楠様が正式に竜王後継者と決まれば、その背後を固める侍従たちもそれなりの身分のある者が選ばれる。今までのように乳兄弟だから、と優遇されることはないのだ。 それ見たことかと余市は言う。もう少し、周囲に気を配り、皆の評判を上げていれば、位も簡単に上がる。だが、女遊びばかりが好きな親の七光りでは、どうにもならない。
――どうして、下げたくもない頭を下げる必要がある?
里へ帰ろう。それが一番いい。気楽な暮らしを選びたかった。都には嫌な思い出が多すぎる、だからみんなみんなうち捨てて行きたかった。 一番、逃げたいものから逃げようと思った。…時間がなかった。
…*…*…*…*…*…
夕餉の膳を下げてきても、まだぼんやりとしている春霖に、狭霧は不思議そうに訊ねた。次の作業が行えなくて困っているのだろう。 そうでなくてもこのごろ夕刻に外出しても一刻も経たずに戻ってくる主人を、彼女は戸惑いの表情で迎え入れていた。表情が闇に霞んでいく時間、狭霧は衣を改めるために整えた寝所に燭台をいくつも並べた。 自分が席を外したほんの少しの間にも、部屋からものがなくなっている。一人住まいのそれほど広くもない居室にそれほどのものがあるようにも思えない。しかし、あとからあとから出てくるわ出てくるわ。最初はこっそりと一人で作業しようとしたが、そうも行かなくなった。 ある日、何の前触れもなく「荷をまとめてくれ」と告げると、狭霧は何も聞かずに静かに頷いた。何も問いただしたりしない。彼女の父親のようにあれこれとうるさく言ったりなどするはずもない。
「…今宵は、どこへも行かぬ」 その声に、彼女ははっきりと分かるように驚きの表情を見せた。それくらい、夜歩きをしない春霖は珍しかったのだ。自分ではそうも思っていなかったが、こうして反応されると改めて悟る。ま、狭霧は言われた通りに素直にこなすのが常だ。すぐに一揃えの寝着を整えてきた。 「もう、全て決まりがついた。これでいつでも戻れる。早く荷を整えて貰わないとならないな…」 静かに身を清めさせながら、ひとりごとのように呟いた。手ぬぐい越しに狭霧の手が、ぴくっと震えたのが分かる。それは一瞬のことであったが。 「…左様で…ございますか…」 何事もなかったように、湯桶で手ぬぐいをすすぐ。ちらと振り返ってみたが、朱い髪が頬に掛かり、その表情は全く読みとれなかった。
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