身体がけだるく浮遊する。そんな浅い眠りの中にいた。 彼の今までの生き様そのものが、そんな感じの頼りない根無し草のような物だった気もする。確かなものなど何もなく、幸福も落胆も直接には感じない繭の中にいるような。 いつの間にか、感動する術も忘れていた。 このまま。穏やかに暮らしていけないか。限られた空間で何も厭うこともなく。自分が心安らかになるものだけを側に置き、感情を荒立てることないまま。静かに静かに、身が朽ち果てるまで。 しかし、それすら叶わない夢だ。そんなことはとっくに知っている。 刃のような気性が周囲の物を傷つける。些細な言動が、波紋を呼ぶ。もっと気を付ければ良かったのにとあとから深く反省することもあった。しかし、それを繰り返していくうちに、次第にどうでもいいように思われるようになってきた。 世の中には色々な者がいる。 すっきりと気持ちよく生きている者もいれば、挫折ばかりを繰り返す者も。そして、威張り腐っている者は大切なことに何も気付かない。周囲から持ち上がられ、いい気になって。しかし裏であれこれと陰口を叩かれている官僚をたくさん見てきた。哀れなことだ。
…*…*…*…*…*…
耳の端に微かな物音を捉える。まだ夜は続いている。独り寝の寝所、他に誰もいるわけはない。もともと自分が休む時は同じ空間に他の者がいるのを好まなかった。誰にも侵蝕されない一人きりの場所が必要だったから。 「…誰だ?」 注意深く辺りを見回す。月灯りのない夜。灯り取り用の燭台の炎もいつか消えていた。 どす黒い闇の気が、細帯の様に辺りに漂っている。その隙間に目をこらす。春霖とて、ただのボンクラではない。次期竜王・華楠様のお付きなのだ。それなりの訓練を受けているし、もともと筋も良かった。 目が闇に慣れてくると、その侵入者の気配は目隠しになっている衝立の向こうにあることが分かった。 衝立は朱塗りの柱を立て、屏風畳みになるように作られている。高いところで横に渡した桟から薄布をカーテンのように下げていた。そこには裾飾りが施され、金糸銀糸の文様が描かれている。派手すぎないが良質の品の良い仕上がりだった。 「…何をしに来た?」 手を前に置き、頭からは顔を隠すように薄い衣を掛けている。身につけている衣は「いかにも」と思わせるような遊び女の装いで、安っぽく頂けない。気配からその者が誠に女子であることは分かった。手首の細さ、首の白さなどから、それくらいのことを見極めるのは朝飯前だ。 …渡りの遊女か。 外歩きの多い春霖であるからあまり縁がないが、今までも何度となくこのような者に遭遇したことはある。遊女は特定の宿で男が買いに来るのを待つ者ばかりではない。道行きの者を自ら誘う者、そしてこのように独り寝の男の元に忍んでくるやり方もある。 「面(おもて)を上げろ」 男など所詮欲望に溺れるしかないと蔑んでいる者に、世の中の厳しさを教えてやるのも良かろう。 どうしても渡りの遊び女は気が強く、計算高い。自らを危険と隣り合わせにして売り込むのだから、そんなしたたかな性格の者じゃなければ務まらないのだろう。コトが済んだあと、法外な報酬を欲求されて青くなった男の話は後を絶たない。明るくなっていたら金目のものがごっそりと消えていたと言うことも少なくないらしい。 …所詮、そのような風に手玉に取られる男が悪いんだがな。頭のどこかでそんなことを考えながら目の前の者を注意深く見入った。 女は衣を深く被っているためか、その顔かたちはこちらからは見ることが出来なかった。髪も後ろでまとめているのであろう、色も分からない。ただ、下品な赤い衣が目に付いた。これでもかとおしろい粉を塗りたくった顎や胸元の色とも似合っていない。化粧の仕方もなってなく、幼さの残る感じがあった。しかしそれも計算尽くしかも知れない。男は初々しい女子を好むと知ってのことかも。 前に置かれたままの両の手がぶるぶると大きく震えている。全身からも緊張が漂っていた。 「お前、ここを俺の居室と知って入ったのか?」 春霖の言葉に、その者は俯いたまま、こくっと頷いた。言葉はない。 「俺はそう簡単には満足などせぬぞ? それに少しでも粗相があったりしたら遠慮なく切り捨てるかも知れぬ。それくらい分かっているんだろうな…?」 細い肩がびくんと震えた。身体が一度大きく波打つ。だが、しかしまた、しっかりと肯定の意を示した。 衣がしゅるんと流れると、むせるような香油の香りが漂ってくる。 庶民が香をあからさまに使うのは許されてない。それが出来るのは王族の方々だけだ。 下々の者が香りを楽しむ方法としては、ささやかな匂い袋を胸元に忍ばせるのが普通。しかし、遊女などはそれでは飽きたらず、揮発性が高く、香り高い香油を好んで用いた。それもピンからキリまであるらしく、目の前の女子が使っているのは、明らかに安物だ。 借り物のような体に合わない衣を着て、慣れない化粧を施し、さらに分をわきまえないほどの大量の香油を染みこませている。普通の男なら、この姿を「健気」だと勘違いするかも知れない。ここでさらに哀れな身の上でも聞かされようものなら、必要以上の金を惜しげもなく渡してしまうかも。 …馬鹿な女だ。 才も持たず、真面目な働きもせず、綺麗な衣装をまとい、春を売る。女子が堕落していくなれの果てにその場所はあると言ってもいいだろう。確かに本当に哀しい身の上の遊女もいる。しかし、貧富の差の少ないこの都の遊女小屋には侍女崩れの者が本当に多かった。 そんな女たちの行き着く果てが、都の場末の宿所なのだ。 しかも、こんな若い身空では、まだ満足に御館務めもしたことがないはずだ。最初から渡りの遊女として生きようとするなど、何事である。 「金など与えず、嬲り捨てられるかも知れぬぞ。それでも構わぬか? 承知でここに来たのであろうな、…覚悟がないならとっとと引き返せっ!」 言葉を荒げると、女子の影はまたびくっと身を縮めた。しかし、ガクガクと震える身体であっても、必死でかぶりを振る。戻る気はないらしい。 …ほう。 春霖は、不思議な感慨を込めて、もう一度その者を見た。 「金は払わずともいいと言うのか、…酔狂な奴だ」 がたん、と衝立を除けて、どかどかと歩み寄った。彼女を取り囲むように辺り一面に漂う香油の香が、魔薬のような不思議な感覚を覚えさせる。目の前の全てが現実のものであるかそうでないのかが曖昧になっていく。 窓から影になる場所にいるその女子は、薄暗い中で春霖の接近を感じ取り、さらに震えていた。普通の遊女は気を引こうと男が喜ぶようなことを並べ立てたり、しっとりと抱きついてきたりするものだ。気が早く衣を脱がせようとする者までいる。しかし、目の前の者は本当に身体をかたくしたままだ。紅を引いた唇が歪む。 「…どうした? 怖いか」 想像していたのよりもさらに細く頼りない首筋に指を這わせる。少し、からかってやろう。それで追い返せばいい。女遊びなどもう飽き飽きしている。こんな渡りの遊女ごときとしとねを共にするなど、今の春霖には考えられなかった。 そのまま指を滑らせる。つつと襟元を辿って、胸の合わせの辺りでぐっと前を開く。 「……っ…!」 「どうしたんだ、怖くなったか…? もうやめるか…?」 わざと優しく囁きながら、胸元に腕を突っ込んだ。衣の中を辿る。すぐにやわらかいふくらみに辿り着いた。思ったよりも豊かだ。もっとあどけない子供のような身体かと思っていたが、それなりのものを持っているのか。もう片方の手を腰のふくらみの辺りに持っていこうとした。 「…はっ…ぁっ…!」 その時。それまで言葉というものを持っていなかった女子が、初めて小さく喘いだ。そのまま春霖の胸元に倒れ込む。細い腕を必死に回して抱きついてきた。 …え…っ…? 香油の強い刺激に幻影を見たのかと思った。それくらい、信じられなかった。女が抱きついてきた事に驚いたのではない。彼の真意は他にあった。 慌てて胸元から腕を抜く。そのまま、しっとりと抱きすくめた。手のひらに伝わる感触。何事にも惑わされることのない一番深い部分で、それを探り当てた。
震える背中をさすりながら、先ほど確かに感じたものを手のひらに思いだしていた。どうしたらいいんだろう…もしや? …いや、まさか。 目の前のうたかたの夢。それを振り払うように、春霖は乱暴に腕を解いた。 「誰だっ! お前はっ…、俺をからかっているのかっ…!!」 ばっと、薄衣を剥ぐ。ハッとして身を翻したが、間に合うものではないだろう。それにこちらとしても十分に辺りが分かるほど、闇に目が慣れていた。 「…あっ…」 思わず、立ち上がり、後ずさりする。 怒りと、苛立ちと、…絶望と。感情が恐ろしいほどの勢いでぐるぐると回り始めた。
しんとした、冷たい気が、窓からゆうらりと流れ込んでくる。網目になった闇がふたつの影を大きくかたち取った。
吐き出された声があまりに荒々しかったのだろう。女子はひれ伏したまま、大きく震えていた。泣いているのだろう。すぐには言葉など返せる感じではない。 あの瞬間に、予感はしていた。しかし、こうして事実を突き付けられた時、自分でも信じられないほどの感情が体中から吹き出してくる。 「このような真似をしてっ! 俺を喜ばせようとでもしたのかっ…、人を馬鹿にするのもいい加減にっ…!」 怒りが過ぎて、軽い目眩を覚える。体中の血液が頭に昇っていったようだ。がくんとそのままその場に崩れた。ガンガンと痛む頭を抱える。
「…あ…っ…!」 大きな物音に驚いたのであろう。女子がゆるゆると面を上げた。顔を水に浸けたように頬を濡らし、潤んだ瞳で春霖を見つめる。揺らぐ、濃緑の瞳。必要以上に塗られた白粉は、涙が流れてまだらになる。額に張り付いた赤髪。口元を衣の袂で覆い、くぐもった声で呻いた。 「…このようなっ! 俺がお前如きの下手な芝居にでも乗るかと思ったのかっ!? 誰に向かっていると思っている。いつからこんなはしたないことを考えるようになったんだっ…!!」 こちらにまで流れてくる豊かな髪の一房を乱暴に引く。すると首の後ろで止めていた髪留めが外れ、ばさりと辺りに赤い帯が漂った。もったりとした夜の気。その中でゆらんゆらんと毛先が踊り、静かに床に落ちていく。 「ええいっ! 答えてみよっ…、霧っ!!」
――確かに。自分が今夜出かけないことを告げた。彼女もそれに反応していた。だが、まさかこのような行為に及ぶとは思わなかった。行動のその中にあるものが、全く読みとれない。 何故、このようにやってきたのか。 どうして、下品に装い、男を誘うようなことをする必要があったのだ? こうすれば、自分が喜ぶとでも思ったのかっ…!! 怒りで骨まで焼かれ崩れそうであった。そんな風に、狭霧の中で自分は見られていたというのか。確かに女子に関しては誰から見ても誉められるような感じではなかった。「いくら御館でのお務めを励もうと、あれでは…」と眉をひそめる者が影で悪口を言うのなどとっくに知っていた。 …だが、しかし。 誰にたしなめられようと、陰口を叩かれようと構わない。しかし、狭霧は違ったではないか。自分がこれから女と身体を重ねると分かっていて、それでも何事もないようににこやかに送り出してくれた。そして、戻るまでどんなに夜が更けようと居室を綺麗に整え待っていてくれたのだ。
「…お前までがっ…!」 自業自得であると承知しながら。それでも怒りの吐き出す方向が定まらない。目の前の小さな身体に罵声を浴びせることくらいしか方法を思いつかなかった。 「も…、申し訳ございませんっ…、でもっ、そんな…そのようなつもりでは…」 震えながら、怯えながら。それでもどうにかして、自分の意を伝えようとする。健気なまでの態度がかえって気に障る。今更、何を言って取り繕うというのだ。 「このっ! 馬鹿者がっ!! …さっさと失せろっ!!」 狭霧がハッとして、こちらに向き直った。途方に暮れた瞳で、それでもしっかりと睨み付ける春霖に向かう。 「若様…、本当に…そのようなつもりでは。あのっ…」 おずおずと腕を伸ばす。それを乱暴に振り払った。寝着の袂がぶわっと舞い上がり、狭霧の方までその揺らぎが広がる。今にも崩れ落ちそうな儚げな心が、それでも春霖に必死で食い下がる。 「わ…若、さま…私っ…」 この先、何が言いたいのだ。もう何も言葉はいらないはずだ。これ以上の言い訳など、もはや聞きたくはなかった。二度と明日も見えないような失望を、長引かせたくはない。 「失せろっ!! 二度と俺の前に姿など見せるなっ!! …お前にはもう用はないっ!」
手元に漂ってきた薄ものを乱暴に投げつけ、さっさと衝立の向こうに戻る。そして、二度としとねから身を起こそうとはしなかった。衣を頭まで被り、物音も感じない空間でそれでもまんじりとも出来ず…長い長い夜を過ごした。 しばらくは部屋の隅ですすり泣く声が響いていたが、やがてそれも静まった。
…*…*…*…*…*…
何事もなかったように、きちんと片づいている。しかし微かに漂う香油の香が、あの出来事を夢とは認識させてくれない。何かを訴えようと必死で唇を動かそうとする狭霧の瞳が、未だに胸を締め付ける。 …侍女として。 そうか、侍女としての自分を忠実に行おうとしたのか。独り寝の主人を喜ばせるために進んで我が身を差し出したのだろうか…? それにしても軽はずみなことだ。多分、両親にも内密にしたのだろう。何故、あんな風にしたのだ。言い訳もさせずに追い返してしまったが、胸に支える後味の悪さは拭いようもなかった。 まあ、良い。朝が来れば…彼女はいつも通りに朝餉の膳を持ち、この居室を訪れるに違いない。今までずっとそうだったように。その時に言い過ぎたことを詫びればいい。
過ぎたことを悔やんでも仕方ない、そう思えた時。ようやく彼の上にうっすらと睡魔が訪れた。
…*…*…*…*…*…
目覚めた時には上がりの間に膳が置かれていて、狭霧が来たのだと察した。しかし、どこへ行ったのだろう? いつになっても再び姿を見せない。このままでは衣を改めることも出来ないではないか。 お務めが休みの日であったが、それでもいつまでも寝着でいるなんてはしたないこと。半刻ほどしとねの上で待ち、仕方なく自らの手で衣を変えた。もちろん、これくらいのことひとりでも十分こなせる。まあ、脱いだ衣を畳んだりするのは苦手であるが、やって出来ないことはないのだ。
いつの間にか昼になり、竜王様の御館の方から時を告げる拍子木の音が響いてくる。それと時を同じくして、居室の引き戸が静かに開いた。 「…霧っ!」 「…あ…」 だが。上がり口に立っていたのは期待していたその人ではなかった。髪を上の方できりりと結い上げた小姓の装いの少年だ。 「あのっ…若様っ。昼餉の膳をお持ちしました。どうぞ召し上がって下さい…ええと、火を熾して参りますっ…!」 「…あっ、待てっ!」 「どうした、余志。霧は…お前の姉はどこに行ったんだ」 御館務めは基本的に賄い付き。膳は全て「御台所」という場所で作られ、時間になると隣接されている広間で食べたり、人によっては寮や居室に持ち帰ったりする。春霖もお務めの時は同僚の侍従たちと共にとり、非番の日は居室でのんびりと食べることにしていた。あまりがやがやした場所は好きでないのだ。
「若ちゃまのお世話を致します」と言い放った幼き日から、膳の上げ下げは決まって狭霧が行ってくれた。小さな手には余るほどの重さで、何度も何度も休みながら。たまには全部を途中でひっくり返してしまう粗相もしたが、そのような時も全てを拾い上げ、取り替えて貰う様に計らうことまで全てきちんとひとりでこなしていた。 「姉上は、朝から伏せっていて起きてこないです。時間は平気かと聞くと、今日からは私が代わりに行くようにと言われました」
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