言い過ぎはしたが、あのくらい心を乱すのは良くあることではないか。狭霧だって自分の気性くらいは分かっているはずなのに。 2日経ち、3日経ち。それでも現れようとしない彼女に、徐々に苛立ちを募らせていた。 狭霧の弟の余志も本当に良くやってくれる。しかし、何かにつけてのろのろしてるし融通が利かない。短い間に何度茶碗を割っただろう。薪割りも失敗するし、洗濯なんて春霖が自分で干した方が上手いくらいだ。小袴で走り回る姿は可愛らしいが、狭霧になれてしまった目はどこか違和感を感じていた。
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あのときは頭に血が上っていて、あとになってみると記憶がおぼろげだ。思い起こしてみれば、今まで狭霧に対して、あれほどの怒りを覚えたことはなかった。そうなれば度が過ぎて、大きく心に傷を付ける事態に陥っていても仕方ないことなのかも知れない。 だが…しかし。相手は狭霧なのだ。彼女が自分のしたことに腹を立てるとか、へそを曲げるとかそんなことは想像も付かない。
いつでも、相手の言葉をそのまま解釈することなどなく、その奥にあるものまでしっかりと汲み取ってくれる。たかが13やそこらの小娘の成せるわざとは思えない。洞察力の鋭さは分けて欲しい位だった。だが、その反面、それだけ感じ取ってしまうがこその彼女の苦悩もあったのだろう。 身の回りの世話をさせながら、なんとなしに女子の話になったりする。「あの女は思慮が浅い」「あの女は学がない」などと春霖が言い出すと、狭霧は眉をひそめて静かにたしなめた。 「そのようなことを軽々しく仰っては、若様の恥になりますわ」 そう断ってから、ひとりごとのように続ける。そのように仰っても、あちら様は見事な琴の腕前ですわ、こちら様は香のきき役としては都でも右に出る者がないと言われております…皆様素晴らしい女子様でいらっしゃいます…と。 あの気むずかしい性格の和乃の元にさえ、お召しがあれば嫌な顔ひとつせずに出かけていく。彼女の繰り返す自慢話にも静かに耳を傾け気の済むまで相手になっていると聞く。狭霧の口からそんな事実は聞かれるはずもないが、優れた心映えはしんしんと人から人へ語られていくものだ。 優れた人格者でありそれなりの地位のある両親を持ちながらも、少しも奢ったところなどなく、下働きの者にまで心を配る。あの程度の年頃だったら、まるで親の地位を自分のものの様に振る舞う勘違いな子供も少なくない。かつての春霖もそれに近いものがあったと思う。されど彼女は、自分の持っている知識を他人に分け与えることなど、何でもないようだった。 家人に呼ばれて訪ねた先で、活けられている花を見て下女を呼ぶ。そして、こっそりと花の高さと位置を改めさせるのだ。その後、その家を訪れた家人の愛人がそれの素晴らしさを誉めたと聞いても、狭霧は静かに微笑むだけ。そこの家の侍女が自分のしたことのように誉められてしまって恥ずかしかったと言うと、それならばそれでいいではないかとさらりと応える。
ほんの幼子の頃から、人の心の痛みを吸い取ってくれるような、不思議な存在だった。気まぐれで、気性の荒い春霖には実の弟妹でも怖がって近寄ってきたりしなかった。よっぽどの変わり者でなければ、彼と付き合ったりは出来ないとすら言われていたのだ。 それなのに、狭霧だけは違った。自分を母親以上に慈しんで育ててくれた人の娘だから、生まれ落ちてすぐの頃から特別の存在だったとは思う。狭霧を見に行くと言えば、あの家にも心おきなく通える。母親の柚羽も産後休む間もなく、侍女の仕事に復帰しなければならないほどの多忙さで。いつの間にか春霖が彼女の世話までするようになっていた。 「若ちゃま、若ちゃま…」 かくれんぼで上手く隠れすぎて見つからなくなると、声を上げて泣き出した。その声に驚いて春霖が出て行くと、ホッとしたように濡れた頬をほころばせるのだ。お務めで数日留守にしたあとは、目の色を変えて駆け寄ってくる。そんな存在を愛おしく思わない人間などあるだろうか。 狭霧の母は、彼女の務める南所の竜王様の御子様方の間でも人気者だった。子供に好かれる性格なのかも知れない。分をわきまえるようになると狭霧も母親に連れられて御館へ出入りするようになった。 誰からも愛される彼女が、それでも一番に自分を慕ってくれているのは悪い気がしない。もしかすると最初に目を開けた時に見たのが春霖だったのか、と言う位の理由だったのかも知れないが、それでも嬉しかった。誰と話していても遊んでいても、春霖を見つけると嬉しそうに駆け寄ってくる。この世で一番素晴らしい存在を見つけたように、キラキラした目をして見つめられる。 その時の優越感はとても言葉では言い表せるものではなかった。
狭霧の「お気に入り」になりたくて、菓子や珍しい玩具を与えて気を引こうとする輩はいくらでもいた。何しろ、当時でも出世頭である父を持ち、母も王族の皆様の覚えめでたい。分別のある親御を取り込むのは苦慮しても幼子を丸め込むなら容易いと思った者もあったのだろう。 ただ…全てが全て、そのような浅はかな心から生まれた訳ではないはずだ。狭霧の笑顔を貰えるだけで満たされた気持ちになることを春霖が一番知っていた。
元服を済ませ、身分の問題からも使用人の居室にあまり足を運ぶなと両親から釘を刺されてしまってからは、狭霧に会えなくなるのが一番辛かった。狭霧も両親からきつく言われたのだろう、以前のようにまとわりついて甘えることはなくなった。鬱陶しくさえ思えた腰巾着もなくなれば寂しい。 それまでは兄のように自分を慕ってくれていた彼女を形式だった馬鹿らしい規律で遠ざけなければならないなんて。妻を娶ることが許される年齢になるのが何なんだというのだ。そんなことは全く価値のないことだ。 やり場のない憤りから夜遊びを覚え、それにのめり込みすぎて両親を心配させたが、そんなの知ったことじゃなかった。世の中は上手くいかないことばかり。そう思っていたから、楽しむだけ楽しんで、何が悪いと思っていたのだ。 しかし、狭霧は自分の元に戻ってきた。 酒の席で何気なく春霖が吐いた戯言に乗って、身の回りの世話を名乗り出てくれたのだ。その勢いに押されるだけで、何も言えなかった。胸の内に湧いた喜びすらも飲み込んで表に出さぬようにした。
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眠りが浅い。しとねに身を横たえても睡魔は訪れない。うとうととまどろんでも、浮かんでくるのは狭霧の泣き顔だけだ。夜が明けても、生きた心地がしない。いつもなら、目覚めと同時に軽やかな足音がして窓を開ける音がするのに、息を潜めて待っていてもその時は訪れない。 夜歩きをして気を紛らわせようとする気もなくなった。あれをして楽しかったのは、女子を抱くことではなかった気がする。どんな妖艶なひとときを過ごしても、帰り着く家に狭霧が待っていてくれると知っていたから出かけていったのだ。待つ人のない居室に戻るのは辛すぎる。
静かすぎる夜。このまま夜の闇に巻き付かれて、引きずり込まれそうな気がしてくる。それも良かろう、このまま夜が明けないままでもいい。
――もう、誰ひとり、自分を気遣ってくれる者などないのだ。 冷たい寝汗をかいて、目が覚める。誘われるように寝着のまま居室の外に出た。天を月の光が覆っている。遙か陸の水面から注ぎ込むその光は、海底の国の隅々まで照らし上げるのだ。金色の光の帯のひとつが降りた先に、紫色の花が咲いていた。 …ああこれは。狭霧がいつ咲くかと楽しみにしていた花だ。手入れが悪いと丈ばかりが伸びて、花を付けない。間引きをして、雑草を抜いて、肥料を与え、心を込めて世話をしてこそ、美しい花を咲かせるのだ。狭霧は密集しすぎた芽を抜いた時も、それが可哀想だと他に植え替えていた。 こんな風に見つける前に、花を活けてくれるのが狭霧だ。ささやかな心遣いで季節の移ろいを教えてくれる。
艶やかな朱色の髪、するりと振り返って、淡色の袂が揺れる。 「そんな薄着で表に出ては…風に当たりますよ。お身体に触っては大変です…」 するはずのない声がするような気がする。いるはずのない人が立っているような気がする。…もう、幻影すら見えるようになってしまった。
これから、どうなってしまうのだろうか? 指の先から冷たくなっていくような気がする。重い病にかかって枕が上がらなくなるのだろうか? それでも良い、…そうなれば、狭霧が心配してくれる。自分が病に苦しんでいると分かれば、駆けつけてくれるはずだ。 …馬鹿なことを。 こうならなくとも、こんな風にすれ違わなくても。狭霧はいずれ、自分の元を去っていく者だったのだ。夏の祭典が訪れれば、その時になれば。将来の伴侶となるべき男と顔合わせをする。あの余市が選んだ男だ、間違いはないだろう。狭霧だってきっと気に入る。そうなれば…。 今まで自分のためだけに向けられていたあの視線を、他の男が受けることになるのだ。やわらかな心遣い、やさしい声、包み込むような暖かさを持って行かれてしまうのだ。 幾度も考えた。「行くな」と言うことが出来れば。きっと狭霧は自分の言葉に従ってくれると。今まであらがわれたことなどない。ちょっと度が過ぎる我が儘も全て聞き入れてくれていた。今度だって「若様のためなら」と微笑んでくれるのではないだろうか? …だが、それでは。狭霧の心がそこにないではないか。 主人の意に従う。それは下に遣える者としては当然の行為だ。それは春霖とて同じこと。自分の使える竜王様やそのお世継ぎ様である華楠様にはご意見を申し上げるのにも気を遣った。大抵のことは流すようにしていた…まあ、あの方々に至ってはあまり下々の者を困らせるような夜迷いごとは仰るはずもないのだが。 狭霧ひとりの存在は、無理を通せば手に入らないものではなかった。でも、それだけは出来なかった。他の女子には出来ても、狭霧だけはそんな風に汚すことは出来なかったのだ。
…*…*…*…*…*…
「今宵はお戻りになりますね?」と訊ねる狭霧に、軽く同意の返事をしたことがあった。だが、夜が更けて、ついうとうとと遊女小屋で寝過ごしてしまう。気付いた時にはもう夜明けが近かった。 もはや、待ってはないだろう。そうは思ったが、取るもとりあえず足早に居室に戻った。朝靄の中、見慣れた装束が目に映る。ぎょっとして立ち止まる。そこにいたのは狭霧の父・余市であったから。 「…お早いお戻りで…」 別に夜歩きを責め立てるためにそこにいたわけではないらしい。言葉をなくした春霖に、淡々とした口調で彼は言った。夜衛の装束だ。仕事明けなのだろうか。凛とすました横顔に疲れなどはない。人前でくだけた態度になることなど、この男に限ってはあり得ないのだ。 「そっ、そこどけよっ! …俺はこれから寝直すんだからなっ…!」 それほどの非がこちらにあるわけではないのに、この男に正面切って何か言われると避けられないものを感じてしまう。その言葉に出来ない後ろめたさが、苛立ちに繋がる。 しかし。目の前にいる男はそんなことで動じるはずもない。微かに眉のかたちを変えただけで、すっと身を横に引き、入り口を開けた。 「…知りませんよ、何があっても」 キッとにらみ返して、乱暴に木戸を開けて…そして、本当に何も言えなくなった。 上がり間のところに、狭霧がいた。板間にしがみつくように伏せっている。よく眠っているようだ。ふんわりと浮かび上がる他よりも白い部分が、彼女の頬であることに気付く。微かに差し込んでくる白い光に照らされたそこが、キラキラと輝いていた。 「……?」 身をかがめてそこに指を置く。ひやっと冷たい雫に触れた。その時、胸を締め付けられるような痛みが走った。 「いくら揺り起こして戻ろうと言っても、…頑として動かないんですよ」 振り向くと。いつの間にか余市がそこにいて、静かにふたりを見下ろしていた。 「若様、私はあなた様にご意見を申し上げる身分ではないかと存じますが…ただ、ひとこと、親心からお願い致します。狭霧はあなたを心から信じて、慕っているのです。…傷つけて泣かせるようなことはもうなさらないでください」 彼としても、言ってはいけない言葉だと知っていたのだろう。だからこそ、低く、やっと聞き取れるほどの声だった。それだけ言い残して彼が居室を出てしまうと、春霖は途方に暮れて小さな娘を見下ろした。
そっと肩に触れて、揺り起こすとすぐにぱちっと目を開けた。 「あっ…、若様っ! お戻りになりましたか…!」 「お召し替えを…あ、湯桶を温め直さないと…」 「…今日は、もういい。戻りなさい」 「若様…?」 「余市が…お前の父が、表で待っている」 それだけ言うのがやっとだった。もうそれ以上の言葉は喉が詰まって出てこない。自分の不甲斐なさを責め立てる涙が頬を伝う。それを袂で隠した。
…*…*…*…*…*…
――愚かなことを。 どうして、ひとり里に戻れると思ったのか。狭霧がいない場所など、生きた心地もしないというのに。彼女以上の女子に巡り会えるはずなどないのに。 会いたくて会いたくて仕方ない。すぐにここに来て欲しい。声を聞かせて欲しい。優しく微笑みかけて、私はどこにも参りませんと言ってくれないのか。 …このままでは。 心だけが先走って、彼女をあの居室から連れ出してしまうかも知れない。それがどんなに恥ずかしい行為だと知っていても、その見境も付かないところにまで自分が追いつめられそうな気がする。狭霧ひとりを失うのがこんなにも辛いとは思わなかった。あれこれ想像はしてみたが、それも今のこの苦痛を知らしめるまでではなかったのだ。
「…狭霧…」 …もしも、彼女が自分の元を再び訪れてくれるのなら。そんな奇跡が起こるのなら…。 ゆらりと揺れた花が、やわらかな香りを放つ。懐かしい声を聞いたような気がする。…そして。
…*…*…*…*…*…
「…あ、若様…っ! どちらに行かれたのかと思いました」 ふたりの年齢はそれほど離れていないのに…この者が幼いのではない、狭霧が大人びているのだ。いつまでも愛らしくあどけなくあって欲しいという春霖の願いを裏切るように、彼女は誰よりも早く成長していった。
「狭霧は…どうしてる?」 「まだ…伏せっております。父上も母上もどうしたことかと心配して…食事も満足に摂っていない様子です…」
残された道は…ひとつしかないのだから。
「なあ、余志。俺の…頼み事を聞いてくれるか…?」 にっこりと頷いた素直な顔。輝き始めた夏の一日がまた始まろうとしていた。
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