…7…

「玻璃の花籠・新章〜春霖」

 

 

 その夜。

 燭台の灯りに照らし出された寝所で、静かに時を過ごしていた。寝着の上に薄い衣を掛けて、静かに窓の外を見る。時の流れが帯になって見えるような夜だった。

 

 だから、ことんと戸口で音がしたのもすぐに分かった。でも、駆けだして行ってその姿を確かめるような軽々しさを示すようなことなどはせず、ただ悠然と構えていた。待てばいいのだ、待っていれば。そうすれば、必ず彼女はやってくる。

 微かな水音がして。ああ、外歩きの足を洗っているのだと思う。それから、そっと上がり間に上がる音。板間のきしみ。ぎしぎしと静かに踏みしめながら近づいてくる…歩み。

 しかし。あと少し、と言うところで、音が途切れた。

 

「…お入り」
 寝所の向こうで立ち止まったまま。姿を見せない彼女を呼ぶ。

 それでもすっと半歩ほど前に出たところで座して、それ以上は入ってこなかった。言葉も発しない。そのようなものは最初から持ち合わせていないかのように押し黙っている。身を乗り出して覗いてみても、俯いたままで表情も見えない。でもそれについては何も触れず、静かに語りかけた。

「よく来てくれたね。待っていたよ」

 気が揺れて、ふあっと微かな動きが感じられる。でもそれ以上のことは起こらなかった。こちらに入ってくる気もないのか。

「…霧…?」

 辛抱強く。待つだけ待って。春霖はすっと立ち上がった。奥の壁に浮かび上がる自分の大きな影。音もなく動き出す。片手に小さな盆を持った。

 

 戸口の影に。狭霧は小さな身体を堅くして座っている。少し輝きを失って見える髪。何の手も施さないままに頬に掛かっている。朱の流れは身体に沿って、やがて床に流れる。この髪が伸びていくのもずっと見ていた。美しく輝き始める姿を一番近くで見てきた。手にはいることなど望むことも出来ないと知っていたが、それでも…。

 こうして来てくれただけで、良かったと思う。彼女の意があって、そして始まるのだ。

「まだ…怒っているの? この前は本当にすまなかった、驚いて言い過ぎてしまったと思う。…許しておくれ?」

 微かに。頭を横に振る。髪が舞い上がって、彼女の周りをゆるゆると流れていく。前についていた両の手がきゅっと握りしめられた。

「……いいえ」
 とても面を上げられないのか。かすれる声が気を揺らす。それも生気のない音で。

「あれは…私が、出過ぎた真似を…全ては私の至らなさが若様のご迷惑になったのですから…」
 少し後ずさりして。このまま消えてしまいそうだ。細い肩が震えている。

「…狭霧…っ…」

 もう、たまらなかった。あんな風に罵倒したのは自分なのに。どうして責め立てないのだ。いくらこの娘の性格ではそんなふうにするはずもないと知っていても、たとえばひとこと恨み言を言ってくれれば。

 そっと、肩に手を置くと。ゆるりと振り払われた。また、少し後ずさってしまう。

「あのっ…、余志が文を…とても大切なお話があるとあったので。こんな風に参ってはならないと分かっていたのですが…申し訳ございませんっ…! すぐに、…すぐにおいとま致します」

 このままでは、戸口から逃げてしまいそうだ。こんなにも怯えているのに…どんなにか意を決して、必死でやってきてくれたのか。

 

 春霖は逃げようとする人の手を、素早く捕らえた。床の上で握りしめる。

「文を…見てくれたのだね?」
 自分に出来る限りの想いを込めて、語りかける。狭霧が腕を引いて、払おうとするのも許さなかった。

「もっ…申し訳ございませんっ…!」
 狭霧はこの上なく震えて、顔を背け身を引いた。これ以上、そばに来るなと言う感じだ。

「それで、俺に…会いに来てくれたのだね」

 怖がらせないように、そっと身を寄せる。そこまで来て、ようやく彼女は顔を上げた。

「…霧…」

 次の言葉を発しようとして、喉が詰まってしまう。やつれきった頬は涙に濡れていて、光の消えかけた瞳はそれでもまっすぐにこちらを見つめていた。

 幾日も伏せったままで、満足に食事も摂ってないと言う余志の言葉は本当らしい。想像していた以上の憔悴振りだ。

「…あ…」
 ほろりと新しい雫が流れて、狭霧はふっと顔を伏せた。

「…すみませんっ…、すみませんっ…!」
 ゆるゆると首を振りながら、涙をこぼす。すっかり変わり果ててしまった姿に、改めて自分のしてしまったことの重大さに気付く。もう、以前のように、明るく語りかけてくれることもないのか。


 この者は長い間、春霖を照らし続ける光りだった。やわらかな暖かさで満ちあふれて、いつも静かにそこにいた。当たり前だったのだ、当たり前すぎて…こんな風になるなんて思っても見なかった。

 掴んでいる手を離せば、そのまま夜の闇の中に溶けてしまいそうだ。春霖は彼女を勇気づけるように、そっと握りしめる手に力を込めた。…ありったけの想いを込めて。


 それに気付いてくれたのか。狭霧がぽつんぽつんと語り出した。

「大切な…お話とあらば…。とうとう、これは里へ戻られることになったのだと。あちらに行かれて、正式にお世継ぎ様としての立場になられれば、もう…お目通りをすることも叶わないようなご身分になってしまわれます。ですから…その前に、最後にもう一度、お目に掛かりたくて…」

 もう、これ以上の言葉を聞くことは出来なかった。彼女は自由になる方の袖で顔を覆うと、その場に崩れた。

 

 女子の足で。こんな夜更けに、誰にも悟られぬように家を忍び出て闇の中を歩くのはどんなにか心細かったであろう。迎えに行きたかった、…いや、自分の方から。自分から、狭霧の元に行けたなら。だが、それは許されることではない。狭霧自身にもその家族にも恥となる行為なのだ。こちらに呼び寄せるしかなかった。そんな世間体が恨めしい。

 それでも、こうして姿を見せてくれた。

「霧…、霧っ…!」

 春霖はもう、いてもたってもいられず、狭霧の背をさすりながら、その身を抱き起こした。信じられないほど軽く頼りない身体。触れられることに怯えながら、また逃げようとする。

 慌ててなだめようと試みた。これ以上、拒まないで欲しい。もう必死だった。

「本当に…本当に、すまなかった。お前が謝るようなことは何もない。俺が悪かったんだ、許しておくれっ…! あのように傷つける何て、どうかしていたんだ。そのように泣くな、怯えるなっ…。お前をこうして呼んだのは、そんなことを告げるためではない」

「…若様…?」
 支えられて、ようやく姿勢を保っている身体で、彼女は小さく呟いた。

「仲直りをしよう、…俺はお前がいないと寂しい。ほら、珍しい餅など用意した。…食べるか?」

 盆は背に隠したまま、手探りで山になった一番頂のひとつを取る。真っ白な小さく丸められた餅を山にして朱塗りの皿に盛ってある。下にはつやつやした千両の葉を敷き詰めて。

「…あ…」
 狭霧はそれをちらっと見ると、静かに首を振った。食べ物など喉を通らないと言うのだろう。もしかすると、こんな風に軽々しく機嫌を取られるのが気に障ったのかも知れない。

 春霖は、そんな彼女の態度には構わず、静かに微笑んだ。

「とてもやわらかくて、おいしい餅だよ? …どれ、俺も味をみようかな?」

 そう言って、手にしたひとつの半分ほどを口に含む。すあまに似た、透き通った甘さが口内に広がった。砂糖が多いせいか、やわらかい。湿気が多いとべたついてしまうと言うのも頷ける。

「とても、美味だ。…ほら、お前も味をみなさい」

 狭霧にとって。春霖の言葉は無意識のうちに従ってしまうものなのだろう。言葉のままにふっと口を開いてしまう。そこに残った半片を押し込んだ。

 舌が甘さを捉え、彼女が泣き出しそうな顔になる。春霖はそれを静かに見つめながら、狭霧の動作を最後まで見守った。

「うまいだろう? …特別の餅だからな」

 その言葉に、狭霧は視線をそらす。飲み下してしまったそれを恨むように、ちらと一瞬哀しげな視線をこちらに投げた。

「…酷い、このように…お戯れを」

 

 こんな風に反応が戻ってくることも予期していた。素直に受け入れるはずがないことなど最初から承知している。普段の彼なら、こんな回りくどいことはせずに、欲しいものはさっさと手に入れていた。だが、相手は狭霧だ。軽々しく触れることも出来ないほど、自分の中では清らかな無垢な存在。ここは、慎重にしたかった。

 大きく、息を吸って吐いて。それから静かに告げる。

「戯れでないと、そう言ったら? …俺の、真の心でしていることだと言ったら…?」


 まっすぐに、その視線を捉えて。春霖は穏やかに微笑んだ。狭霧が、まさか、と言うようににわかに顔色を変える。


「俺は…こうやってお前を招くことを、ずっと夢見ていたよ。叶わないものと思ってもいたが。…だが、ようやく分かった。お前と共にいたい、お前と…離れたくないんだ。…おいで、狭霧…、お前がいなくなって呼吸も止まってしまった。もはや死人となりつつある俺を早く蘇らせてくれ」

 戸口から…窓から。さらさらと涼しい夜の気が流れ込んでくる。それに袂を取られながら、春霖は大きく腕を広げた。


 ――月灯りの夜に、甘い白餅を食す。山に積んだ一番の頂を、ふたりで分け合って。

 どこかの小民族の古いしきたりが静かに浸透して、この地での婚礼の夜の習いとされていた。翌朝、餅を近所に配り、結婚の報告をするのだ。もちろん、公にしても良い、正妻かそれに準ずる立場の女子との時にだけ、行われる。


 全てにおいてよく精通している狭霧がこのことを知らぬはずもなかった。だから、表だって執り行うことなど出来ない。盆に盛られたものを見た時点で、彼女はきっと逃げてしまうから。お前にしか言えない大切な話があるからと、こっそりと呼び寄せるしか方法がなかった。


「…そのような…、そのようなことがあるわけがございません。…私など…」

 元々の身分違いに加えて、先日の夜の一幕の傷があまりに深いのだろう。狭霧がこちらに進み出ることはなかった。

「若様には…あまたの素晴らしい女子様がおいでになります…、それにお里に戻られればしかるべき正妻様を娶られることに…とても、このように戯れ言を仰るようなことはありませんわ。…私など、物の数にも入りません。そのくらいのことは、とっくに承知しております…だって…」

「…霧」
 黙っていれば、永遠と否定の理由を並べ立てそうだ。それを遮って、春霖は短く愛おしい人の名を呼んだ。

「苦しいよ、このままでは息が出来ない。…助けておくれ」

 

 狭霧の瞳がゆるりと流れる。確かに彼女の中で、何かの比重が取り換わった。

 その瞬間、春霖の方が歩み出て、彼女の身体を抱きしめていた。

 

「ああ…狭霧…っ!」

 今、愛おしさがしっかりと腕にある。

 腕に抱き留めた頼りない重さは、それでも春霖の胸をいっぱいに満たしていった。この者が幼子の頃、当たり前のように抱きしめたものだが、やはりそれなりに成長してしまうと気恥ずかしくて距離を置く。衣を改めて貰う時に狭霧の腕が我が身に回ることはあっても、自分から腕を差し伸べることは出来なかった。

 手のひらがじんと熱く震える。衣の上から辿るだけで分かる。何てやわらかいのだろう、そして暖かい。この世のぬくもりを全て集めたような春を抱いている。このように女子とはっきり意識して抱くのは初めてなのに、何故かとても懐かしい。それどころか、ようやく戻り着いたような気すらする。ここを求めて、どんなにか長い道を彷徨ってきたのか。

「若様っ…、若様っ…!」
 狭霧の細い腕が、春霖の背に回る。衣の背をぎゅっと握りしめて、しがみついてきた。額を胸に押し当てながら、ほろほろと涙を流して。震える背中をさすってやると、堪えきれず言葉をほとばしらせた。

「若様っ…、お目に掛かりたかった。お会いしたかったっ…! でもっ…、でも、もう二度とこうしてお側に呼んで頂けるなんて思えなかったし…。私、私…が、あのようなことを…してしまって…っ!」

 

「霧…」

 思わず、息を飲んだ。

 自分の心内などついに見せることのなかった女子が、我を忘れてすがってくる仕草。この者が、誰とも代えようのない唯一の存在だからこそ、嬉しい。胸の奥が熱くなる。いつの頃からか、凍り付いていた時が溶けだしていく。

 会いたいと、思ってくれていたのだ。だが、自分の言葉の強さに躊躇して、二度と訪れることなど出来ないと彼女なりに耐えていた。そうであったのか、…本当に、そうであったのか。

 

「すまなかったね、霧。…お前を傷つけて。そのように…悲しませるつもりはなかったのだよ…」

「…申し訳、ございませんっ…」

 胸にしっとりとした重み。泣きじゃくる肩をそっと抱いて、耳元に唇を寄せる。

「霧…お前は、あのように軽々しくしていい女子じゃない。容易く男のものになってはならないのだ。…何も責めているわけではないよ…分かっておくれ」

「若様…そんな、もったいないことを…」

 

 狭霧はもう、自分でもどうしていいのか分からないのであろう。こちらの言葉にひとつひとつ反応して、静かに涙するだけだ。そして、春霖に出来ることもただひとつだ。

 …何よりも誰よりも、彼女を大切に扱うことだけ。他の誰とも違う、無二の存在として愛することをしっかりと伝えることだけ。

 

「俺に…全てを託してくれるね?」

 肯定も否定もなかった。ただ、こちらをまっすぐに見つめて、唇を震わせる。何か言おうとして、音にならない。かみ合わずに震える口元。

 そっと、口づけた。甘い香りがひとつになる。最初は怖がらせないように、軽く触れるだけ。それなのに、狭霧はぴくっと身体を震わせて、あらがった。それが拒絶ではなく恥じらいだと言うことが分かれば、何も恐れることはない。

 今は…逢いたかったという彼女の言葉を信じよう。

 何度も何度も、離れたり触れたりしながら、徐々に深く絡み合わせていく。慣れない行為に息が上がり、頬を赤らめた狭霧が、艶やかな女子の色を見せ始める。いつの間にか、互いの肩に掛けた衣は床に落ち、小袖の前もはだけていく。それを恥ずかしそうに狭霧が押さえた。

 みずみずしい行為に思わず笑みがこぼれる。ここで少しばかり、衣を直したところで何になるのだ。春霖は片手で彼女の身体を抱くと、当たり前のように袴の帯の結び目に手を掛けた。

 春霖とは違って、狭霧はきちんとした昼装束のままだ。外歩き用に特にしっかりと着込んでいる。結びも堅い。だが、春霖の手に掛かればそのようなものは何でもなかった。片手で自由に解くことが出来る。

「え…っ…!?」

 腰回りが軽くなり、小袖もするりと落ちて、いつの間にか頼りなく薄い肌着だけの姿になっている。さすがに狭霧もぎょっとしたらしく、顔色を変えた。

「…どうしたの、いいでしょう…?」
 わざと何でもないように言って、春霖は彼女を軽々と抱き上げる。

「あ、…あのっ…! 若様っ、どこへ…っ…?」

 春霖は無言のまま微笑みで応えて、寝所に入っていった。とっくに自分の手で整えてあったしとねの上に細い身体を降ろす。燭台の炎に明るく照らし出される部屋の中で、わずかばかりの布に守られた身体が、まぶしく輝いた。

「若様っ…、あの――…」

 言葉が途中で途切れる。もう、これ以上ものが言えぬように、その上に覆い被さり唇で塞ぎ、自らの寝着も脱ぎ捨てていく。何を言われても、やめることは出来なかった。心の底に封印したつもりではあった。でも、いつでもこの時を夢見ていたのだ。

「…嫌なの?」
 頬から首筋へ。誰も触れたことのない肌に色を落としていく。必死で逃れようとする態度は初々しくもあるが、まだ少し不安だった。とっくに止まれないところまでは来ている。だが、本気で拒絶されているなら、無理に思いを遂げていいものか。

 狭霧の発育は他の同世代の女子たちと比べても、格段に早い。一年草のようにまっすぐに伸びていく姿に戸惑いを感じる日も少なくなかった。

 身体を少し浮かせて、その表情を探る。大きく見開いた目がまっすぐにこちらを見つめ、震える口元が微かに動いた。

「そんなことは…、でも」

 言葉が途切れる。小さな手が春霖の動きを制した。彼女の肌着の結び目に指を絡ませた。これを引けば最後の布が落ちる。

 狭霧の身体がまた大きく震えた。

「駄目っ…、きっとがっかりなさいます。私、皆様のように…素晴らしく出来ません。お気持ちだけで…本当に十分なのですから…もう…っ!」

「霧…」

 

 震える指先に口づける。こんなに愛おしく女子を扱ったことがかつてあっただろうか? 怖がっている…無理もないだろう。男と関係を結ぶにはまだ時が早い。もちろん、身体はそれなりに女子としての存在を表しているが、まだまだゆっくりと想いを育み育てていく年代だ。

 でも、待てない。自分の中に欲求を押しとどめて、どれくらい待ったのだろう。永遠に望めないと思っていた瞬間なのに、諦め切れてはいなかった。それにしても飽きっぽくこらえ性のない自分が、よくもまあここまで耐えたものだ。自分に呆れてしまう。

 こうして、やわらかいぬくもりを感じ、柔肌を目の当たりにしてしまえば、今宵こそはと胸が高鳴る。夫婦の契りを交わした仲ではないか。少し早いのは可哀想であるが、致し方ない。

 

「お前が欲しいのだよ…? 女子として、いつかは渡る道…今この時に、俺と共に越えてはくれまいか?」

「若…様…っ…」
 するりと手の力が抜けて、脇に滑り落ちていく。狭霧の想いに感謝しながら、もう一度優しく口づけた。



 

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