TopNovel玻璃の花籠扉>花の祠・番外2


番外

「花宵」

 

 

 おしとねの準備をして、寝着を整える。朝晩はだいぶ肌寒く感じられるようになってきたが、まだ戸を立てるほどではないだろう。窓を覆う木戸は開けたままにして、そこに厚めの布を掛ける。隅々まで掃き清められた板間、揃えられた夕餉の膳に添えた野の花。たっぷりと沸かした湯はまだ裏のかまどに残っている。

 幼い頃から母のあとについて、この居室を訪れていた。夕べのお支度も慣れたもので、そう意識をしなくてもあっという間にやり終えてしまう。気の遠くなるほど繰り返してきた当たり前の日常。でも、その続きに待っている夜に未だ戸惑っている。

「どうした、早くこちらにお出で」

 寝支度を終えた方が、しびれを切らしたように呼ぶ。あれこれと仕事を見つけてあと伸ばしにしていたが、そろそろ限界だろう。高鳴る胸を押さえ、かくれんぼの鬼を探すように奥の間を覗く。夢の如くお美しい方が、おろしたての几帳の前にしどけなくくつろいでいらっしゃった。

「困った子だね、まだそのように堅苦しい姿でいて。どれ、俺が楽にしてやろう。もっとこちらにお寄り」

 燭台の蝋の溶ける香りまでが、芳しい花のそれのように感じられる。蜂蜜色の灯りに甘く浮かび上がるお姿。差し伸べられた腕、ふわりと袂が舞い上がる。普段はまとめている髪も今は解け、艶めかしい流れで肩先へと落ちていた。

「はっ、はい」

 慌てて応えた声が、みっともないほどにうわずっている。だが、それも無理もないこと。この貴人を前にして平静でいられる女子などこの世のどこを探しても存在しないのだから。都一の美貌と謳われ、かつて長刀の達人と言われた御父上もしのぐ武術の腕前をお持ちになる。しかもあまたの教養に優れ、その道を極めた師匠が舌を巻くほどのお手並み。ここまで完璧な方を狭霧は他に知らなかった。

 ―― このような御方が、私の夫君だなんて……。

 未だに現実を受け入れるのが難しい。正式に妻としてこの居室に迎え入れられてから早一月、夢の中を漂うが如く過ぎていく日々は終わりを告げる気配もなかった。自分など取るに足らない存在、今まで若様のお相手であった女子様に比べたらどんなにかみすぼらしく見えるだろう。そんな風に考えてはますます悲しくなるのに、愚かなもの思いは止まらない。
  身につけた手習いなど、ほんの戯ればかり。正式に師に就いたこともこともなく、見よう見真似でどうにかかたち作って来たに過ぎない。見目麗しく才に芸に優れた方の側で過ごされていた方が、どうして自分などに情けをお掛けになるのだろうか。

「ほら霧、何をしている。いつまでぐずぐずしていると、こちらから捕まえに行くぞ」

 意地の悪いお言葉を口になさっても、その表情はどこまでも甘くお優しい。そうなるともう、狭霧はもう自分を抑えることが出来なくなってしまう。まるで甘い蜜に誘われる蝶の様に、頼りない羽根を動かして吸い寄せられる。若様の胸に飛び込んでしまえば、もう息をすることも難しいほどになってしまうのに。

「……あっ、若様っ……!」

 柔らかく肩先を撫でられただけで、その先を期待する吐息が漏れる。毎夜のように乱れてしまうことが恥ずかしくてならない。だけど、どうしてあの悦びをあらがうことが出来るだろうか。

「ふふ、いけない子だね。このように震えれば、なおも男を煽ることになる。お前は誠に愛らしい娘だが、身体の中に密かに魔物を住まわせているようだ」

 まずは言葉に堕ちる。内に魔物を住まわせているのはむしろ若様の方だと思う。それが証拠に、こうして耳元で甘く囁かれるだけで全ての意識が飛び昇天してしまいそうになるではないか。
あまたの女子様に比べたら、足下にも及ばない自分。それでも身も心も全てが囚われてしまっている。一体どこまで深みにはまっていくのか、恐ろしくてならない。なんて甘美な闇。一度迷い込んでしまったら、二度と抜け出せなくなる。

「いいよ、霧。もっともっと啼いてごらん」

 自分が自分じゃなくなる、その瞬間に全てが消えていく。だけど、そこに辿り着けることを、なおも深いところまで沈みゆくことを全身で願ってしまう。

 

「……今、何と仰いました?」

 ことが済んだあとも、しばらくは頭の中がぼんやりして自分を取り戻すことが出来ない。苦しいほどに息が上がり、鼓動が波打ち胸を突き破りそうな勢いになっていた。しっとりと汗ばむ肌、同じく濡れた逞しい胸がすぐ目の前にある。

「急な話なのだけどね、華楠様に従って月初めの七日ほど南峰へ出掛けることになった。このたびは他の者にお役目を回しても良いと言われたけれど、やはりここはしっかりとお務めを果たした方が良いかと思ってね」

 そう告げるお声には、まだ少しの迷いがあるらしい。若様は狭霧の髪に優しく触れながら、まるで他人事のように仰る。

「……七日、ですか」

 ささやかな婚儀を終えてからの日々は、新婚であることも考慮されたのか泊まりのお務めもほとんどなかった。しかし、若様は次期竜王となるべき御方の側近なのである。いつまでもお役目を疎かにすることは出来ないだろう。過去にもそれくらいの遠出は幾たびとなくあった。

「でも、それだけの期間ひとり狭霧をここに残していくのも心配だと考えてね。どうだろう、俺が留守にする間は実家に戻るというのは。何しろ、慌ただしく連れ出してしまったからね。実家の皆も戸惑っているころだろうし、しばらくは身軽に戻って親孝行をするのもいいだろう」

 思いがけない申し出に、狭霧は信じられない面持ちで顔を上げた。そこにはいつも変わらない、優しい微笑みがある。

「私が、……父の家に」

 実家との別れは狭霧にとっても、身をちぎられるような辛い出来事であった。元はと言えば、西南の大臣家へ出仕するために家を出た自分である。あの朝に両親を急な話で悲しませ、そしてさらに同じ日の昼下がりに再び混乱に陥れるような真似をしてしまった。
  今でも日中は頻繁に行き来してはいるが、それでも両親の言葉の端々から非難めいた響きが伝わってくる。やはり若様との縁組みを未だに快くは認めて下さらないのだ。その理由は他の誰よりも自分自身が良く分かっているつもりであったが、それでも悲しくてならない。せめて少しでも罪滅ぼしが出来る機会を与えられたなら、少しは救われるだろうか。

「もちろん、出来ることなら霧を袂にでも忍ばせて一緒に連れて行きたいくらいだけどね。本当はたった一晩だって離れるのは辛いんだ」

 だからもう一度いいかなと問われて、たまらずにかぶりを振る。しかし、それは決して拒絶の意味ではなかった。

 

…*…*…*…*…*…


「いらっしゃい、狭霧。お待ちしていましたよ、どうぞ中へお入りなさい」

 懐かしい風景を通り過ぎて両親の居室に辿り着けば、こちらが声を掛ける前に母が気付いて出迎えてくれた。この場所は、竜王様の御館からいくらか奥まっている。宮仕えの喧噪も感じられず、どこかの片田舎を思わせる風景だ。近くには両親と同じような御館務めの者たちが居を構えていたが、それぞれの建物の間隔が開いているためにそれほどせせこましい感じはない。
  ほど近い場所に小川が流れ林もあり、幼い弟妹たちの手を引いて良く訪れたものだ。それほど昔の話でもないのだが、全てが遠い記憶のように思われる。
  この世に生を受けてから、十余年を過ごしてきた場所。やはりここに戻るとホッと心が解ける気がする。温かい母の声、肌に馴染む気の流れ。程なくして表の様子に気付いた弟妹たちが次々に顔を見せ、ひとしきり賑やかな時間を過ごした。
  これから野に花を摘みに行くという皆の背中を見送り、その姿に幼き日の自分を重ね合わせる。何の憂いも不安もなかったあの頃、今の自分を一体誰が想像しただろうか。

「あなたは表の客間を使ってちょうだい。一通り掃除もしてありますが、自分の好きなようにしてもらっていいのよ」

 しばしもの思いに耽っていた狭霧であったが、さり気ない母の声にハッと我に返った。最初は耳に入れた言葉が全く信じられず、幾度か頭の中で反芻した後にようやく感情が蘇ってくる。

「いえ、そんな。私は以前のように皆と一緒の部屋で構いません。特別な支度などもしてませんし、わざわざ部屋を整えていただくまでもありませんわ」

 自分のために一部屋を明け渡していただくなど、とんでもないことだ。慌ててそう答えたが、母は毅然とした態度でなおも言い放つ。

「いいえ、駄目よ。あなたはもうこの家の者ではないのですから。お客様を粗末に扱ってはバチが当たるわ」

 腑に落ちないままに通されたその部屋は、寝具もその上の覆い布も何もかもが新しく揃えられていた。見た目は同じように綺麗でも、何度も水を通したものとそうでないものとでは明らかに風合いが異なる。狭霧は何とも身の置き所のない気分で、辺りをうかがった。

「今宵は父上も早めに退出なさって来るそうよ。久しぶりに皆で夕餉を囲めるわね。今夜はごちそうにしましょう、支度をして炊事場の方を手伝ってちょうだい」

 窓の覆い布を外しながら、母はいつもと少しも変わらない笑顔で語りかけてくる。胸に落ちた違和感は自分の思い過ごしだろうか、ああそうに違いない。狭霧は髪を後ろでひとつにまとめると、軽い衣に着替えた。

 

 母の言葉通り、父の帰宅はいつになく早かった。まだ日も暮れきらぬうちのご帰還で、幼い弟妹たちが大はしゃぎでご出仕用の衣に戯れている。

「いい匂いがするな、でもそんなに作って食卓に並べきれる? おお狭霧、良く来たね。存分にくつろいでいきなさい」

 あれこれと準備しているうちに、いつの間にか皿数が多くなってしまった。これには母と顔を見合わせて笑ってしまう。ふたりの主婦が炊事場に立てば、あれこれと菜の数が増えてしまうのも仕方ない。まあ、食べ盛りが揃っているのだから、余って困ると言うこともないだろう。
  まだ実家にいたころは、夕餉の支度は狭霧ひとりに任されていた。あの頃に比べ、母は竜王様の御館への出仕を控えめにしていると言う。そんな話を何気なく告げられるだけで、申し訳ない気持ちで胸がいっぱいになった。選んだのは自分の望んだ道。今更後戻りなど出来るはずもないが、己の我が儘がもたらしたものを考えると気が重くなってしまう。

 安定しない足下が、もどかしくてならない。ひとつの場所に収まりきらずに彷徨っている心がある。もとより女子である自分は生まれ育ったこの家で一生を過ごすことが出来ぬと承知していた。いつかは必ず訪れる別れ。その時期が少しばかり早まったところで、何ら変わりはないのに。

 久しぶりに心ゆくまで母とおしゃべりするのは楽しく、明るい話題にいくらか気を紛らわすことは出来た。先日、狭霧のすぐ下の弟である余志は竜王様のお許しを得て正式な出仕が決まったと言う。今はその支度もあり、母は寝る間もないほど忙しいらしい。

「あなたが丁度良いときに戻ってきてくれて本当に助かったわ。どうかこの母を助けてちょうだい。一体何から手を付けていいのやら、全く分からない有様なの」

 竜王様の御館へお務めするとなれば、衣なども新しく揃えなければならないし、その他にもいろいろと道具を調える必要がある。狭霧としても全てのことに明るい訳ではないが、少しでもお役に立てれば嬉しい。

「弓などは父上の以前お使いになっていたものを与えれば宜しいのでは? 慣れぬうちは使い込んであるもののほうが手に馴染むと申しますし……」

 母の話では、余志の下の妹もゆくゆくは宮仕えをしたいと考えているらしい。まだ幼いばかりだと思っていた彼らも、いつの間にか自分の道を探し始めているのだ。

「さあ、そろそろ皆を呼びましょう。その汁の鍋を食卓に運んでくれるかしら」

 しかし賑やかな顔ぶれが食卓を囲んだところで、狭霧はまた戸惑いの中に身を置くことになる。

「狭霧、あなたはそちらの椅子を使ってね。さあ、皆もひとつずつ席をずれてちょうだい」

 勧められたのは、普段ならば家長である父が座るはずの場所だった。ならばその父はと言えば、向かい側の弟の余志の席に着いている。以前、自分が座っていたはずの炊事場近くの母の隣は末の妹の席になっていた。弟妹たちも狭霧同様に思いがけない事態に驚いている様子である。それでも言われるがままに年長の者からひとつずつ席を替わっていく。

「え、……でも。このようなこと、困ります」

 両親を差し置いて上席に座るなど、どうして出来よう。これもまた、客人としての扱いだと言われるのか。せっかく実家に戻ってきたのに、いちいちこのように気を遣われてはたまらない。

「駄目よ、狭霧。皆が待っているわ、早く席に着きなさい」

 その場に立ちつくしたまま躊躇っていた狭霧に、母の容赦ない声が飛ぶ。仕方なく言われた通りにしたが、今度は俯いたまま再び顔を上げることが出来なくなってしまった。何故か分からないままに、悲しくて仕方ない。ようやく家族の元に戻ってすべてが昔通りだと思ったのに、こんな仕打ちはひどすぎる。
  若様の下に嫁いでしまった自分は、もう二度とこの家の娘として扱ってはもらえないのか。何が変わった訳じゃないのに、それなのに……。

「―― 狭霧」

 ややあって、母が離れた下座から声を掛けてくる。それでもぴくりと肩先を震わせただけで、そちらの方を向き直ることはどうしても出来なかった。

「分かっているわね、あなたは春霖様の……すなわち西南にあっては御領主様となる家のご子息の元に嫁いだのですよ。そうなればもうこの家の皆とは身分が違います。それをあなた自身もきちんと承知しておかなくてはならないわ。元の通りに扱うことは、あちら様にとても失礼なことになるの。家族といえど、しっかりわきまえていないと困ったことになりますよ」

 家族が増えるごとに大きいものに買い換えていった食卓には、出来たての料理が所狭しと並べられている。温かく湯気を立てながら空腹の家族たちを待っている皿たちに、弟妹たちの目が釘付けになっていた。

「そうだよ、狭霧」

 今度は向かいの席から、父の声がする。こんな風にしょぼくれていたらなおも皆に迷惑を掛けるのにと申し訳なく思いながらも、どうしても気分を切り替えることが出来ずにいた。

「何も私たちはお前のことを苛めている訳ではない。狭霧は私たちにとって、今も昔も変わらずに大切な家族だ。たとえ立場は変わっても心の繋がりは決して途絶えることはないのだよ。こうして訪ねてきてくれたことはとても嬉しい。だからもう、そのように悲しむのはおやめ」

 袂で頬をぬぐったあとにようやく向き直った狭霧の目に、大好きな父の優しい眼差しが映った。そう、何も変わったことなどない。小さいことにこだわっていたのはむしろ自分の方。心に付いた傷はしばらく癒えることはないだろうが、今はこうして温かく迎え入れてくれたことに精一杯感謝をするべきだろう。

「さあ、ではいただこうか」

 まず最初に父が箸を取り、それに従って皆もめいめいに料理を小皿にと取り始める。凍り付いていた食卓はすぐに賑やかなはしゃぎ声に包まれ、何事もなかったかのようにその宵は過ぎていった。

 

…*…*…*…*…*…


 頬をくすぐる涼やかな気が心地よい。全ての戸を立てた居室は七日間籠もっていたものを全て吐き出し、清々しく生まれ変わったように見えた。板間を隅々まで掃き清め、その後にきつく絞った布でしっかりと拭き上げる。こちらに戻り着いたのは昼下がりのことであったが、あっという間に外は夕暮れを迎えようとしていた。

「……あ、そろそろお湯の支度をしないと」

 里帰りの間は母とふたりで家事を分担していたために、やはり身体がなまってしまったようだ。ひとつひとつの仕事に時間が掛かり、どうしても段取り通りにいかない。かまどの上に鍋を乗せ、汲み置いた水で満たす。火をおこしたあとに振り返れば、今このときを待っていたかのように咲き乱れた秋草が可憐な花をほころばせていた。それをいくらか摘んで居室に戻れば、どこか遠くで拍子木の音が聞こえてくる。

 ―― もしかして、これは華楠様のご帰館を告げるものではないかしら?

 にわかに走り始める鼓動を必死に抑えようとするが、どうにも上手くいかない。それでもようやく震える指先で花を挿し終えると、表の戸口の方から微かな物音が聞こえた。

「……霧? 中にいるのかな」

 刹那。頭の中が真っ白になって、何も考えられなくなる。足が独りでに前に出て、心が髪が遅れてあとに続く。朝、出仕の前に父が結ってくれた髪は、まだ美しく頭上に飾り紐の花を咲かせていた。

「お帰りなさいまし、若様。長い道中、大変お疲れ様です」

 気もそぞろになりながら、それでも一通りの挨拶が出来たのは長年の習慣からか。一息ついてから見上げたそのお顔は、意外そうに揺れていた。

「どうしたの、まだ余市の居室にいるものとばかり思って寄ってみたら帰ったと言われて。そんなに急いで戻ってくることなどなかったのだよ。まるで俺が霧のことをこき使っているようで、聞こえが悪いじゃないか」

 そう仰いつつも、若様はふわっと笑みをこぼされる。もう駄目だ、抑えきれない。狭霧はこの数日間で溜め込んだ全てを込めて、その人の身体にしがみついた。

「さ……狭霧?」

 このようなこと、今まで一度もしたことはない。だから若様が戸惑われるのも無理はなかった。だが、どうしてこの想いを止めることが出来るのだろう。

「お会いしとうございました。少しでも早くお目に掛かりたくて……こちらでお待ち申し上げておりました」

 どんなに必死でしがみついても、逞しいお身体に腕が回りきらない。それでも全ての想いを込めて、狭霧はなおも力を込めた。

 滞在中、実家の皆とは以前と何ら変わらずに過ごすことが出来た。慣れ親しんだ賑わいの中、忘れていた時間をゆっくりと思い出せた気がする。でも、分かったのだ。あそこにはもう、自分のあるべき場所がない。ほんの一時であれば楽しく過ごすことが出来ても、長く腰を据えるには相応しくないのだ。
  この居室に戻りたいと言うよりは、一刻も早く若様と再びお会いしたかった。今の自分にとって、このぬくもりが鼓動が芳しい香りが、ついの棲家である。実家よりもこの方を選んだそのときに、すでに意識のないまま心得ていたはずだ。

「おお、そうか。そうか、……もうそんなに泣くのではない。このように恋しく思っていてくれたとは、嬉しいぞ」

 若様の腕にしっかりと抱かれて、ようやく息を吹き返した想いだ。この方がいらっしゃらないと、自分の全ても死んでしまう。愛しくて愛しくて仕方ない。淡く憧れていた頃には想像も付かなかった深いところにとうとう辿り着いてしまった。

「……若様……」

 額に頬に熱い息が掛かって、気が遠くなる。ゆっくりと重なり合う唇、その湿り気も熱さも今は自分だけに与えられるもの。かたちも色もない、ただひとつの想いだけが狭霧の全てだった。

「このように出迎えられるとは、さすがに予想もしていなかったな。さて、どうしよう。こうなるともうお前を離せなくなる。奥の準備は出来ているな? さあ、運んでやろう」

 

 普段ならここで必死にあらがうところ。だが、今は甘いお誘いに従ってしまいたくなる。軽々と抱き上げられて、もう一度深く口を吸われて。そうしている間に、身体中がふわふわして余計なことを何も考えられなくなっていった。
  背中にしとねの冷たさを感じる頃には、互いが半裸の状態になっている。まだ外に明るさの残る刻限、いつ客が訪ねてくるかも分からない。それでも、しっとりと重ね合う肌を解くことは出来なかった。

「わ、……若様。私、まだ夕餉の膳を……」

 そろそろ、御台所で膳を配り始める頃だ。このようになってから、ようやくそのことを思い出す。しかし若様は喉の奥で低くお笑いになると、湿り気を帯びた狭霧の肌をゆっくりと愛撫し始めた。

「今宵は普通の飯では空腹を紛らわすことは出来ないな。俺はお前で腹を満たしたい、こんなに美味しそうなのにどうして我慢が出来ようか」

 真綿にさすられるようにもどかしく、淡く隙間のない触れ合いが続く。いつまでもこんな風にされていたら、気が狂いそうだ。それなのに、若様はわざと敏感な部分を避けて手のひらを滑らせる。

「……ああ、そんな……っ!」

 思わず、懇願の声が漏れ出でる。一体、どんなにかみっともない姿になっていることであろう。でも、もう止まらない。

「ふふ、霧もずいぶんおねだりが上手になったな。どれ、どこがいいのか言ってごらん? 黙っていては、俺には何も分からないぞ」

 何故、このように意地悪なことを仰るのか。非難の色を浮かべた瞳で見上げると、若様は余裕の微笑みでこちらの出方をうかがっている。

「そんな……言えません」

 思い切り激しく乱して欲しい、そんな淫らな叫びが喉奥で詰まる。狭霧はたまらずに腕を伸ばすと、若様の首にしがみついた。こうすれば双の胸先があちらの胸板を掠める。それくらいのことでは到底満足できるはずもないが、何もないよりはまだ少しましだ。

「全く困った娘だ。これでは俺が動けないではないか。ほら、ではこうしたらどうだろう。お前の欲しかったのはこちらか? それとも……」

 前触れもなく、足の付け根に気配を感じる。咄嗟のことに腰を引く暇もなく、あっという間に嵐の中に身を投げ出された。

「あぁっ……、いやあっ! やぁっ……っ!」

 時折、開けはなったままの窓から、夕暮れの気が紛れ込む。しかしそれが熱い肌をいくらさすっても、現実に引き戻す助けにはならなかった。
  自分の身体のことなら隅々まで知っている指先が、迷いもなくその部分を刺激する。甘い恐怖が大波となり寄せては引いていく。そして最後は、足下からがらがらと奈落の底に堕ちて行くのだ。

「やっ……駄目ぇ……っ!」

 大きく身体を弓なりにして、狭霧は果てた。その頬を、若様の手のひらが包み込む。大波を被ったあとの衝撃が未だ残る身体に、その部分だけが新たな熱を予感させていた。

「では、そろそろ俺も乱れてみようか。……さあ、覚悟はいいかな?」

 再び嵐の海原へと投げ込まれる。足を大きく開かれて、その中心に熱く滾るものが触れた。

「……あ、……あぁっ……!」

 過去に幾度となく味わったどれよりも激しい悦びが細い身体を貫いていく。ねっとりと重くなった気の中。大きく悶えながら、髪を腕を振り乱していく。やはりこれは夢だ、決して覚めることのない永遠の幻だ。でも何て華美な痛みだろう。だから、たまらなく恐ろしいのになおも求めてしまう。行く当ても知らぬまま。

 ―― そして、最後は降りしきる花びらの中。自分のあるべき、ただひとつの場所。もう他になにもいらない。

 愛の営みは幾度のぼりつめても終わりを告げることはなかった。寄せては引き、引いては寄せる波のように。何度も何度も細い悲鳴を上げながら、狭霧は思った。帰り着く場所を見つけた自分に、もう何も怖いものはないと。あるのはただ、溺れるほどの悦びだけ。


了(080522)



 

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