あの春から、早四年余り……静かな秋の宵。
流れゆくとばり、金の波銀の波。頼りない燭台の灯りに照らされた薄布は柔らかな陰影を描き、見惚れる間もなくその姿を変えてゆく。
「あ……、やぁ……っ!」 「駄目だよ、柚。どうして我慢するの? もっと可愛い声を聞かせて欲しいな」 そう言いながら、震える口元を覆う小さな手のひらを払いのけた。艶やかに赤みを帯びた頬、胸元。限界が近いのはぼやけた視界でも十分にくみ取れる。 「だ、……だって。余市が……」 「明日のお務めはいつも通りでしょう? なんかいつもと違うの、……身体がどんどん熱くなって、苦しくて。今夜の余市は意地悪だわ、私、もう……っ!」 つらつらと続く言葉を途切れさせるために、身を乗り出して首筋に舌を這わせた。
こんな風に。 もうどれくらい肌を合わせて来たのだろうか、それも思い出せないほどに溺れている。溢れ来る愛情がこんな風にかたちを変えてしまうことを、最初はとても情けなく思っていた。小さな身体ですべてを受け止める妻は、口には出さずとも少なくない苦痛を感じていたはず。 何度、惑わされ引きずり込まれたことか。身体ごと、死と背中合わせと思うほど深い場所に墜ちていく瞬間を何度も味わった。それでもまだ、覚めやらぬ夢。それで構わない、願うことも叶わぬことと諦めていた頃と較べれば。この命すら、投げ出しても惜しくない。
「ほら、もう……顔が真っ赤じゃないの。無理をして息を止めては駄目だから。そんなことをしていると、もっとひどくするよ?」 こらえていても、やはり笑みがこぼれてしまう。 いつもそうだ、確かに可愛らしく振る舞っている姿は愛らしい。だが愛しさが募るほどに、それだけではすまされないもうひとつの自分が目を覚ましてしまうのだ。もっともっと夢中にさせたい。ふたりが愛し合うことの意味をしっかりとお互いに刻みつけたい。今宵もまた、心のままに駆け出そうとしている。 「え、だって。……外に声が聞こえちゃう、恥ずかしいのっ……!」 ふるふると肩を揺らし、涙目で訴える。いつもなら聞き入れるその願いも、余市はあっさりとかわした。 「何言ってるの、柚。今夜、隣は留守でしょう? 満鹿たちは瑠璃さんの実家に行っているはずだよ。こういう機会はなかなかないんだから、……ね。いつまでもたどり着けないと、柚も明日のお務めに差し支えるよ? ほら、もう観念して」 自分の言葉に、下になった妻がぴくりと反応したのが分かった。でも今は知らぬ振りをする。ゆっくりと手のひらを重ね合わせ、しっかりしとねに縫い止める。柔らかな肉襞を何度かゆっくりと往復した後、余市はまた元の動きに戻っていった。身体に染みついた感覚で、己を埋めていく。深く、強く。 「あっ、……ああんっ! 駄目っ、駄目なの、そこは……!」 敏感な奥を繰り返しさすってやると、妻はたまらずに声を上げた。手慣れた者なら、それなりの演技も出来るであろう。だが、妻は違う。いつの時も必死に耐え、必死に感じ取る。完成されないからこそ、美しいと思う。こうして独り占めしている自分が、あまりにも罪深く思えてくるほどに。 「駄目じゃないんでしょ? ……本当のことをいわなくちゃ駄目だよ。ほら、……どう? こんな風にしたら、どうなるかな……」 のっぺりと塗り込められた白壁に、絡み合う二つの影が映る。だがそれを知る者は、もうこの部屋には存在しなかった。お互いがお互いの繰り出す波を受け止め、心と身体で同時に叫び、さらにたかまっていく。 ふたりを取り巻く気が、ゆっくりと流れを作り始めた。こうして今宵もふたりがすべての始まりになっていく。まるで大地の神に成り得たとも思える瞬間だ。 互いの熱に満たされた部屋で、その後もしばらく妖艶の時が続いた。
◆◆◆
静かに身体を清めて、元通りに寝着を羽織る。新婚の頃のように愛し合ったままで余韻を楽しむということは少なくなった。そうしたいのはやまやまであるが、色々と難しい問題が起こってくる。 直接的な被害はまだないにせよ、朝早くからのちん入者に驚かされたりすることは日常茶飯事。以前そのようなことをしでかすのは元の主人である雷史様の御子である春霖様がほとんどであったが、新たな顔も覗いている。 やはり妻が子に好かれるたちなのはここでも健在で、業を煮やした瑠璃が腕まくりして連れ戻しに来るのもたびたび。いくら気安いふたり暮らしとは言っても、油断は禁物だ。余市の方は見つかってもいっこうに構わないのだが、柚羽の方がひどく気にするので仕方ない。ぬぐってもすぐに汗ばんでくる肩に衣を掛け、寝台に腰掛けた。 「そんな風に言わなくてもいいでしょう。柚にはお務めよりも俺の方を大切にして欲しいな、いいんだよ仕事を辞めたって。今ならどうにか一人分の稼ぎだけでもやっていけるはずだから」 余韻に浸っているだけではない、妻の心はとても疲れている。だが、それを指摘すればすぐに否定するだろう。このようなやりとりも慣れているから、余市は知らぬ振りで細い肩を抱き寄せる。 「……すぐにそんなことを。私、余市だけに苦労はかけられないわ。それに……御館でのお務めは嫌いじゃないし」 ふうっと、小さな吐息を落として、腕の中の人がこちらに身を預けてくる。 小さくてふわふわして、こうして抱きしめていても包まれているような不思議な感じのする女子(おなご)。この人は初めて西南の館で会ったときから、余市にとって暖かな日だまりだった。手入れを欠かさない美しい髪は、艶やかな輝きを放ち、しっとりとその身に寄り添う。これほどに完成された流れを余市は他に見たことがない。愛しげに指を差し入れて梳けば、匂やかな香が誘う。 熱く血潮がたぎり、本能に支配される時間ももちろん好きだ。だが、こうしてしっかりと繋がりあった心を分かち合うもうひとつの時間も捨てがたい。ふたりが共有するすべての時が余市の宝だった。
――早いもので、丸四年。 ふたりの時間は静かに流れていった。互いに忙しく、すれ違いが続いた頃もある。そんなときの独り寝のわびしさに、我が心の頼りなさを恨んだ。だがそれは、妻も同じだったはず。それでも大切に育んできた、この二間しかない小さな空間で。 震える身体を抱きしめて、永遠の時を誓った。あの天寿花の夜から、余市は心も身体もすべて妻に預けたままだと思っている。
「あの、ね。……余市」 しばらくはゆったりとした時間を過ごしていた。特別な会話などなくても、こうしていれば十分に満たされる。些細な悩みも憂いも、この人の前ではすべてが浄化されていくが如く。ただ、今宵はそれだけではすまされないようだ。 妻はしっとりと頬を余市の寝着の胸に押し当てたまま、思い切ったように告げた。 「瑠璃様、三人目なんですって。今回の宿下がりはそのことをご実家に報告に行かれるためみたい」 気付けば、衣の袖口が握りしめられていた。指先の震えが頼りない布を伝わって余市の胸に届く。 ――ああ、やはり。そうであったのか。 数日前から妻がひどくふさいでいるのに気付いていた。夜勤などもあり、なかなかゆっくりと話す機会もないまま今日まで来てしまったが、想像していた通りである。余市は何も答えず、妻を抱く腕にさらに力を込めた。 「なんかさ、順調よね。瑠璃様のお話では、そろそろ南峰から帰郷を促す文も来ているそうよ。おふたりが満鹿様のお里に戻られたら、寂しくなるわ。……でも、いいな。やっぱり羨ましい」 ぽつんぽつんと、言葉を落として。その後、こちらの表情を伺うように顔を上げた。 「余市も、……そう思うでしょ?」 濡れた瞳が今にもあふれ出しそうなしずくをかろうじてその縁で留めている。目をそらすことなくじっと見つめ返すと、余市はふっと顔を崩した。 「何を言ってるの? 俺は柚がいいんだ。柚がいてくれれば、他に何もいらないよ。まして、隣を羨むことなんてあるわけない」 幾度となく繰り返してきたやりとりだなと、頭の隅で思った。だからといって、邪険にしていいものではない。普段は朗らかで柔らかい気性の妻がこんな風に沈んでいるのだ。しっかりと受け止めてやらねばならないだろう。とはいえ、決して口から出任せの言葉ではない。心のままに正直な思いを告げた。 「いいえ、……いいえ。そうじゃないわ」 しかし、その心はまっすぐに妻の元に届かない。元の通りに俯いて、その膝にはぽつぽつとしずくがこぼれていく。 「私……口惜しい。余市を幸せにするって決めたのに、……それなのに。きっと、もう無理なんだよ、私じゃ。どうして、私が何をしたというの? ……神様は意地悪よ、よそにばかり……」 「……柚」 言葉はどこかでせき止めないといつまでも続いていきそうだ。これ以上、苦しめることはしたくない。口惜しいのは自分の方だと思う。 「また、困ったことを言い出すんでしょう、……いい加減にしないと怒るよ。俺には柚以外、いらないんだから。冗談でもよして欲しいな」
最初にこんな話が出たのはいつのことであっただろう。初めの頃こそはふたりとも何も疑ってはいなかった。当たり前に所帯を持って、当たり前に子を作る。誰もが行っている営みを自分たちも同じようにしていくのだと信じていた。 ――離縁して。私は里に戻るから……。 妻の口からそんな言葉がこぼれたとき、我が耳を疑った。誰よりも慈しみ愛おしみ、ともに生涯をすごそうと誓い合ったのに。何故そのようなことを言い出すのだ。信じられない面持ちで見つめ返すと、妻はほろほろと涙をこぼしながら言った。 「他の女子(おなご)様なら、きっと余市の赤さまを……」 こちらからそんな話をしたことも、素振りをみせたことももちろんなかった。それどころか、周りに言われるほど、そのことを気に留めていなかったというのが正直なところである。幼い頃に両親と死に別れ、兄弟のなかった余市にとって「家族」という存在そのものが遠く曖昧なものに思えていた。柚羽を妻にして、暖かい時間を過ごすことが許されただけで、十分ではないか。 しかし彼女の方は兄弟も多く賑やかな家庭に育った。初めて里帰りに同行したときには驚いた。小さな里はどこかで血が繋がっていることも多く、そのままひとつの大きな一族のようなようにも思える。道を行けば、通りすがる人ごとに声をかけられ、何ともこそばゆい気分になった。ふたりきりの生活はそんな彼女にとっては何かが足りないような心細さを覚えていたに違いない。 新年を迎えるに当たっては、色々と雑用も多い。毎年の西南への帰郷は、夏にある官職の入れ替えがすべて終わった夏の終わりと決まっていた。今年もそうなった訳であるが、きっとその時に彼女は両親から何か言われたに違いない。その頃から少し元気がないなと思っていた。 そして、今度のこと。身近なことであるだけに、さらに打ちのめされる気分であったのだろう。 この人を幸せにしたい。それだけを願って生きてきた。だが、どうだろう、この心許ない自分は。何ひとつ確かなものもなくて、こうして泣かせてしまう。人の心はもろい。ほんの少しの力で、砕け散ってしまう。だから守らなくては。この手のひらに包めるほどの勇気しか持ち合わせてないとしても、それを全部使って。
「――いつも言ってるでしょう? 子は授かり物だと言われてるじゃないか」 柚羽は俯いたまま、その表情を確認することは出来ない。少し非難がましい口調になってしまった。心で小さく舌打ちする。 「それに柚だけがそんな風に気に病むのは変だよ、そんなことを言われたらこっちだって困るな。柚だって相手を換えればすぐに……とかあるかも知れないし……」 「……え?」 「そんな、嫌よ。私、他の人の赤さまなんて欲しくないわ。余市の子じゃなかったら、いらない。……そんなの、絶対に考えたくもないわ」 きっと、こんな風に答えてくれるとは思っていた。でもこうしてしっかりと言葉にして聞き取ると、言い表せないほどに安心する。 「そうでしょう? ……だから、俺も同じだよ。柚がいればそれだけで十分なんだ、これ以上欲張りになったら、ばちが当たるよ。――ああ、きっと」 余市は言葉を止めると、ゆっくりと深呼吸した。なんと言ったら伝わるのか、長い間思いあぐねていた。突然、目の前の霧がすっきりと晴れたように清々しい気分になっていく。 「俺が柚を好きでたまらないから、神様も嫉妬しているのかも知れないよ? すっかり機嫌を損ねているといけないから、今度の休みにはふたりでお参りに行こうか。ほら、西筋の離れ祠って御利益があるって言うじゃない。お供え物をたくさん持ってさ……きっと今頃は紅葉が綺麗だと思うよ」 目の前の妻は、もうこれ以上だと瞳がこぼれてしまうと心配になるくらい、目を大きく見開いていた。 「なんか……それじゃあ、紅葉狩りに行くのかお参りに行くのか分からないじゃないの。いいのかしら、あんまりにも不謹慎だわ」 呆れ顔がだんだん崩れて、微笑みの瞳からほろりと涙の名残がこぼれ落ちた。 「いいんだよ、そんなの。どっちでも」 こちらもくすくすと笑い声がこぼれてしまう。周囲の張りつめていた気はほどけて、いつもの和やかなひとときが戻ってきた。 「柚とふたりで、いつまでも幸せに。楽しい時間を過ごせれば、他には何もいらないよ。柚はそうじゃないの? ……俺よりも、赤さまが欲しい?」 耳元でささやくと、妻は真っ赤になって俯いてしまった。そして、消えそうな声で呟く。 「そんな、……分かり切ってること、聞かないで」
これ以上の言葉はいらない。余市は深く満たされた気持ちで、小さな身体を抱き寄せた。温かなぬくもりはまだ見ぬ新しい花の季節の匂いがする。 少し前から、時折ぼんやりと考えていた。次々とお方様が御子を成し、あちらのお世話で妻はてんてこ舞いだ。さらに、御館でのお務めもある。他にあまたの侍女がいようとも、小さな御子様方は妻を慕って離さない。この数年は、本当に忙しいばかりの日々だったはずだ。 ――きっと新しいつぼみは、開くその時を静かに待っているはず……。 だが、いたずらにそんなことを告げれば、逆効果になるかも知れない。幸せになるために求めるのではなく、幸せであるからこそ、手に入るものなのだから。順番を間違えてはいけない。まずは己の足下から、しっかりと踏み固めよう。 大丈夫、きっと春は来る。信じ続けていれば、叶わぬ夢はない。そう……この人をようやく抱きしめたあの春の夜と同じように。 だから、心にふんわりと湧き上がった予感ごと、しっかりと包み込んだ。この幸せをひとしずくもこぼさぬように。 まだ見ぬ花を、願って。
了(041109)
Novel Index>てのひらの春・扉>春を待ち、夢想う
|
Copyright(c) Kara 2002-2013,
All rights reserved.
|