…『蝶のうたた寝』番外…
長い長い一日がようやく暮れていく。黒い影になってねぐらに帰っていく鳥の一群を見送って、小さく溜息を落とした。足元に長く伸びているのは、自分ひとりの影。
振り向けば、塀の向こうの広い邸宅で、賑やかな酒宴が続いているのがうかがえる。不思議なものだ、どうしてあの方たちは昼間からあんな風に馬鹿騒ぎして過ごせるのだろう。手のひらがすり切れるほどに働き続けても、たいした収穫が上がらない畑を耕している民百姓しか知らなかった彼には、未だに信じがたい光景だ。
まあ、その宴の中に入ったことはないのだが。何しろ庭に踏み入ることすら、厭われているのだから。
「陰気くさい子ねえ、白っぽくて弱々しいわ」
昼間も吐き捨てるように、そう言われた。十を過ぎたばかりの子供にそんな罵声を浴びせるのも当然の様子で悪びれる風もなく。
きらびやかな装束を身にまとっている美しい女子は、この屋敷の御館様の今のお気に入りだと聞いた。主に取り込んだ者は、自分までが偉くなったように振る舞う。それが当たり前の世界らしい。確か、自分がここに来た数ヶ月前には、彼女は洗濯女だったはずだ。下女の衣を着て、髪に手ぬぐいを被って川原で洗い物をしていた。
落っことした一枚を拾い上げたら、親しげに礼を言ってくれたことを忘れたのだろうか。ああ、忘れたのだろう。御館様に気に入られれば、贅沢な暮らしが出来る。館の女子(おなご)衆は皆、どうやって取り入ろうかと策を練っているのだから。
白っぽいというのは素直に感じたままを言ったのだろう。聞いていたとおり、川向こうの西南の民はまるで赤い鬼のようだ。人買いに売られ、ここに渡ってきて本当に驚いた。皆、大きなぎょろりとした目をしてその瞳は山深い沼のような濃い緑色だ。肌も褐色に色づき、豊かな髪は真っ赤に燃えている。艶々したそれは遠目に見ると頭全体が火を吹いている如くに思える。
「悪いことをすると、赤鬼に食わしてしまうぞ」と言うのが、彼が生まれ育った地で言うことを聞かない子供を諫める言葉であった。言葉で聞くだけで十分に恐ろしかったが、こうして大勢の赤鬼の中にひとりで置かれるとその恐怖もひとしおだ。いつ食われるか知れないと思う。
幸い、鬼の方にも嫌われていたので、そうお近づきになることはなかった。特に館の主はあからさまに毛嫌いしているのがよく分かる態度で、ことあるごとに自分を罵倒する。薄気味悪い金の髪の子供など世話することはないと、周囲の者に繰り返し怒鳴りつける。そう言われてしまえば、こちらを憐れんでくれる者たちも人目を恐れて近づかなくなる。北側の荒れ野には明るい昼間でも人気はない。彼はいつもひとりぼっちだった。
――今日は、お呼びが掛からなかった。
塀の外でうかがっていると、普段だったら半刻も待たずに名が呼ばれる。それは自分の本当の名ではない、呼ぶ人が勝手に付けた新しい名だ。だが、それを受け入れるしかない、自分は飼われている身なのだから。
己よりも身体も小さく力も弱い女子に我が物顔に振る舞われる。あれやこれやと言いつけられ、言うことを聞かないと罵声が飛ぶ。手当たり次第にお道具を投げてくることすらある。それが当たって痛くても耐えるしかない、自分はそう言う存在なのだから。
だが、どうだろう。いつもは嫌々とお側に行くくらいなのに、こうして一日あの声が聞かれないのは何とも物足りない。少し考えて、ようやく昨日の会話を思い出す。
「明日、都から父上と母上がお戻りになるの。お兄様や弟や妹たちも一緒にね」
ひいな遊びをしながら、彼女は嬉しそうに言った。大きな館で姫君と呼ばれているその人は、館の主の御孫様だと言う。他にも孫はたくさんいるのだが、彼女に対しては周囲の扱いがまるで違う。どうも彼女だけが直系に当たるそうで、だかららしい。姫君の御両親は今、偉い役職に就いていて都と言うところに住まっていると聞く。こちらにはいらっしゃらないのだ。
そうか、親兄弟が戻ってきたのなら、自分などは用済みなのだ。お声が掛からないなら、その方がよっぽど気楽なのに。どうしたことだろう、胸に穴が空いてしまったようなとても寂しい気がする。何のためにこうして館の塀のそばで一日暇を潰していたのだろう。まあ、他にやることもないのだが。――もう、戻ろう。
彼の住みかは館の裏手にある荒れ野にあった。山際の寂れて誰も近づこうとはしないその場所に、古ぼけた小屋が建っている。以前は何かの物入れに使われていたという場所をあてがわれた。煩雑に張られた壁板の隙間から気が流れ込んできて、落ち着かぬ居住まいだが仕方ない。そこに住まえと言われたら住むしかない。
「お前はいつでも、私の傍にいればいいの」
同じ赤鬼でも、子鬼ならそれほど恐ろしくはない。それどころか、この館でただひとり自分を好いてくれるこの「鬼」は他の者とは造作が違うように思われた。まっすぐに見つめてくる大きな瞳は沼色をしているのに吸い込まれそうに美しい。ほっそりとした手足は強く握れば折れそうで、その艶やかな髪は触れるととてもやわらかだった。あまり館の外に出ないせいか、肌の色も若干薄い。
「あんたは私のものよ、だからどこにも行っちゃ駄目」
愛らしい口元から飛び出すのは、信じられないほど生意気な言葉だが、彼女にとってはそれが当たり前のことだ。まあ生意気な口をききながらも、気が荒れる夜などは恐ろしくて仕方ないらしい。泣きじゃくって名を呼んでいるから、と音を上げたお付きの侍女に呼ばれてこっそり寝所に上がることもある。
御館様に見つかっては大変だと、何重にも女物の薄ものをかぶせられて奥の部屋に入る。几帳の向こう、薄紅の衣にくるまって震えていた人が、自分の姿を見つけるとすぐさま飛びついてきた。
「ああ、良かった……」
薄暗い闇の中で見ると、普段の姿が嘘のように儚く思える。彼女はぽろぽろと涙を流しながら、苦しそうに言った。
「……お前が、どこかに行ってしまう夢を見たの。もう、会えないかと思ったの」
どこにもいかないでねとすがられたら、胸が痛くなる。やはりこうして求められることは嬉しいのだ。だけど知っている。もしも、自分がずっとこの地に留まっていても、彼女の方がいつかいなくなってしまうだろう。大切な姫君として、どこぞの立派な御方の元にお輿入れなさる。大人におなりになれば、ちっぽけな飼い犬のことなど忘れられてしまうのだ。
両親に捨てられ、売りに出されてしまった。だから、またいつか捨てられる。でも「飼われている」身ではその日を待つしかない。用済みになったと言われる日まで、ここにいなくてはならない。
――かさり、と音がして。ハッと身を起こす。寝苦しい夜、小屋の中になどいられなくて、戸口のところでぼろ布にくるまっていた。
「……」
起きあがってもしばらくは声も出なかった。天を覆う輝きの元、見たこともない御方が立っていたのだ。
「あなたが、琉砂(リュウサ)?」
自分の名を呼ぶ声が、奏でられた琴の音のように思える。豊かな輝きを放つ朱の髪が、緩やかな気の流れに柔らかく舞い上がって、赤鬼の姿をしながら薄い肌の色。まるで天女と見紛う如くの女人だった。
「はっ……、はい!」
いつもそうするようにと言われているように、片膝を付いて深く頭を下げる。相手に忠誠を誓うことを態度で示すのだ。こちらが地にひれ伏すことで、相手は満足する。決してたてをついてはならないと教えられていた。
「あらあら、そのように……かしこまらなくていいのよ」
しかし。驚いたことに、目の前の人は自分と同じ高さまで身をかがめてきた。地に付けるのがもったいない優美な御衣装をまとっているのに。滑らかな指先。ほんのりと花の香が漂ってきた。
誘われるままに顔を上げてしまう。こちらはどんなにかすすけた汚らしい顔をしていることであろう、それなのにそのお人はやわらかい笑みで応えてくれた。
「まあ……本当に、美しい湖の色の瞳ね。髪も上等な金糸のよう。娘から色々聞いているわ、今日もあなたに会いたがって大変だったの。……いつもお守りをしてくれてありがとう、大変でしょう」
こちらが避ける間もなく、袂で顔を綺麗に拭ってくれる。優しげな目元が誰かに似てると思った。……そうか、この御方は。するりと視線が動く。その先に彼の手元があった。
「あら、このようなものを……」
白魚のような手がそれを拾い上げる。すすけた表面を愛おしそうに撫でて。それから、感慨深げに大きくふうと吐息をついた。そしてまたこちらに微笑みかける。
「あなたは……本当に、あの子にとってなくてはならない存在なのね」
何を言われてるのかよく分からず、呆けてしまう。何度もぱちぱちと瞬きすると、彼女はさらに包み込むように暖かく微笑んだ。そして手にしていた人形をそっと抱きしめる。
「これは……厄よけの天児(あまがつ)なの。あの子が生まれたときに私が作った物なのだけど……これだけは何があっても手放さなかったのね。他の兄弟が触るだけでとても怒ったわ。都を去るときもこれは胸に抱いて。……そう、それを」
つやつやした布で作られた綿入れのそれは、ちょうど赤子が這う姿を模している。大人の手のひらと同じくらいの大きさだ。こちらに連れてこられてすぐの頃、彼が館に住まえないと知った姫が「ひとりで寝るのは寂しいでしょう」と渡してくれたもの。薄汚れたそれをまるで押しつけるように握らされ、仕方なく小屋に持ち帰った。
もちろんいつもの気まぐれだと思っていた。もっと美しい人形など彼女の部屋にはいくらでもあったし、一番どうでもいいものを捨てるのも何だからと譲ってくれたのだと。元は純白だったのかも知れないが、もうすっかり黄色に変色している。こんなものがあの華やかな姫君の大切な物だとは到底思えない。
「良かったわ……あなたがいてくれて。これで、私たちも安心して都に戻れるわね」
頬に触れる指先は、寝苦しいほどの蒸し暑い夜にあってもしっとりと冷たかった。相手は赤鬼だ。もしかしたらこのまま首を絞められてしまうかも知れない。そう思うのに……そう思っても振り払うことが出来ない。
「あなたにお願いがあるの……あの子が、雪茜が本当に幸せになれるように、この先も見守ってやってね」
「は……?」
突然、何を仰るのだろう。目の前の天女は、彼には理解できない言葉を告げる。そうであろう、姫君のお付きの侍従や侍女ならまだしも、自分のような下々の者に、どうしてそのような。だいたい、お側にいることも叶わぬような身なのに。
「どうして……」
何故、こんなにお優しいのだ。赤鬼なのに。赤鬼は皆、自分には冷たくて、汚らしいものを見るような目で睨み付けるのに。
「あなたと……あの子はどこか似ているみたい。何かを探して求めているような目をしているわ。だから、きっとあなたになら分かるはず。どうしたら、あの子が一番幸せになれるのかを――」
塀の向こうで誰かが呼ぶ声がする。ハッとして天女は立ち上がった。ふんわりと薄衣の裾が袂が舞い上がる。乱れた髪がやがてさらさらと音もなく元通りに美しい流れを作った。
「その天児は大切になさい。……もしも、もしも本当に困ったときには、腹を割いていいのよ。――もしも、真に必要があらば、ね」
…*…*…*…*…*…
今夜も館の中が騒々しい。だがそれは昨夜の賑やかな宴とは趣を変えていた。何かを追って、血眼になっている使用人たちの叫びがうかがえる。――何が起こったのか、どんな事態になっているのか。だいたいのことは分かっていた。そして、自分の前に幾通りかの道があることも。
やがて、ここにひとりの御方がやってくる。自分に助けを求めて。御館様は最初から南の門は兵で固めてある。こちらの北側にしか出口がないようにわざと逃げ場を作ったのだ。そう……彼女をこちらによこすように。自分に一度は守らせるように装わせ、その後に絶望に突き落とすために。
懐の銭が重い。心にのしかかるその毒々しさに体中が汚れていきそうだ。もしも受け取らずに、それを地に叩き付けることが出来たなら、どんなに良かっただろう。だが、まだ分からないのだ。姫君にとって何が一番なのか。……どうあれば、彼女が真に幸せになれるのか。
騒ぎの声が一段と大きくなる。彼は手のひらの中のあの人形の腹に小刀の刃を突き立てた。――ぷつっ、と弾ける音がして。柔らかい綿に包まれた珠が現れる。全部で5つ。
ウズラの卵よりも小さなそのひと粒で何年も遊んで暮らせる。そして、もしも5つが揃ったのなら、それはもっともっと大きな意味を持つ。それは真実の輝きだった。
「玻璃の……珠」
何を告げようとしているのだろうか、その意味がまだ分からない。このままでは自分は御館様の犬になるだけだ。姫を傷つけて、もう二度とお目に掛かることも叶わなくなる。姫に嫌われて、自分は生きていけるのだろうか。その時の絶望が恐ろしい。
同じことなら……すぐに姫を御館様に引き渡した方が、よっぽど傷は浅くてすむ。別れを長引かせれば長引かせるほど、辛くなるのは分かり切っているのだから。絆など、一気に引きちぎった方がいい。愛おしいと思うが故、恋しいと思うが故、お互いの置かれた立場の違いに打ちのめされる。
父や母に、故郷に、捨てられた自分を拾い上げてくれたその人を、なにものにも代え難い存在だと思うのは当然だ。その想いはとてもぬぐい去れるものではない。それどころか、日に日に芳しく匂やかに花開いていく姿を間近で見て、恐ろしいほどの欲求が身体の奥底から湧いて来ているのも知っている。決して許されることのない懸想に、いつか心ごと支配されそうだ。
だって、彼女は微笑んでくれるじゃないか。自分がお側に行くだけで、あんなに晴れやかに。どうなることでもないと知っていながら、少しでも長くこのままの時が続けばいいなどと、甘えた考えで過ごしてしまった。
――でも……。
あの夏の宵に見た夢のような出来事が蘇る。鮮やかな残像、一度だけ見た美しい天女の姿。その深い微笑みで何を伝えようとしていたのか。
その答えはまだ闇の中。彼は住み慣れた小屋の戸を開き、一歩、足を踏み出した。
了(040317)
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