「もう馬鹿っ! 知らないっ!」 2コールで出た相手に、いきなりそう叫んでいた。言ってしまったあとで、自分でもびっくりする。それはいつものことだ。まさか、ここまでひどく言うつもりなかったのに。 「えっ……、ええっ、ちょっと待てよっ! 梨花ちゃんっ、今どこ――」 ……ぷち。 慌てふためいた応答を全部聞き終える前に電源ごと落とした。だって、目が合っちゃったんだもん、顔を上げた彼と。 目の前の横断歩道は赤。すぐに渡ってこられないことを確認して、私はきびすを返すと一気に駆けだした。
*** *** ***
今週末はふたりとも忙しくて、今夜は私が明日は聖矢くんがそれぞれ予定を入れていた。ああ、じゃあ会えないねって結論に達した。 まあ、そんな感じで。しかたないなと思いつつも、寂しかったんだよね。あんまりしつこくしたら嫌われるかなって考えちゃって、こちらから連絡を取るのも最小限にしてる。それに、気のせいかなぁ。前に比べると聖矢くんからの電話もメールも少なくなったような気がするんだけど。 キャンパスの場所は近いのに帰る時間もなかなか合わなくて。ゆっくり出来る週末以外は会えないことが多いから、出来るだけ予定は入れたくなかったんだけどな……。 今夜はクラスコンパの予定だった。だけど、何か思っていたより人数が集まらなかったって、早めの夕食を食べるだけって感じになって。もちろん、その後「カラオケにでも行こうよ」って幹事の男の子が言い出したんだけど、私は「お先に」って戻って来ちゃった。 入学して、丸2ヶ月。キャンパスの緑も日に日に深くなって、そろそろ長雨の季節を迎える頃。ボーっとしていたら、心にカビが生えそうな気がしてくる。だから、地下鉄を乗り過ごして足を伸ばしてみた。
……21時半。運が良ければ、まだ予備校に残っているかな? 聖矢くんは週に3回、この春まで受講生として通っていた予備校でバイトしている。最初は窓口で受け付け事務をやっていたそうなんだけど、親しみのある性格が買われて、いつの間にか補習授業の補助。その分、仕事も増えて夜遅くまでやるようになってる。土曜日は21時までの講義だから、今頃は後片づけか調べものでもしてるかな? 我ながら馬鹿だなと思うんだけど、聖矢くんの驚いた顔が見たいなとか思ったんだ。連絡もなしに、いきなり訪ねて行ったら、どうするだろう。どんなにびっくりするかな、喜んでくれるかなって。 ――だってさ、もしも私がそんなことされたら、胸がひっくり返るくらい嬉しいと思うのよね。今日は絶対に会えないと思って諦めていた聖矢くんが目の前に立っていたら。人混みの中でも思わず抱きついちゃうかも知れないよ。 地下鉄の階段を駆け上がったら、生ぬるい風が腕に絡みついてくる。今日は一日蒸し暑くて、袖無しで大丈夫だった。水の中を歩いているような感じ。足元に何かが絡みつくみたいに重い気がする。髪をゆるりと揺らしながら、私は歩みを進めた。 角を曲がれば、その場所はすぐ。大通りの向こう側から、硝子張りの建物をうかがう。7階建ての立派なビルなんだけど、もう上の方のフロアは照明が消えている。1階と2階の部分だけ、蛍光灯の灯りに四角い窓が揺れていた。……どうかな、いるかな。それとも帰っちゃったかな? もう戻りましたよって言われたら、仕方ないから携帯にかけようって思ってた。その辺を歩いているならすぐにつかまるし、もしもアパートに戻っちゃったなら、訪ねていってもいい。聖矢くんの明日の予定は午後からだったもんね。午前中までは……うん、一緒にいられるよ。 どきどきと、不安と期待の中で信号が変わるのを待っていた。スクランブルの交差点だから、すっごく時間が掛かる。実際は数分なんだけど、それが辛いんだよね。もう一度時計を見て、それからまた正面を向き直った。
――え?
硝子張りの回転ドアを押しながら出てきたシャツには見覚えがあった。だって、私があげたものだもん。まあ自分で買ったんじゃないけど。 今でも時々ショーモデルの仕事を頼まれるパパが、知り合いの人からいっぱい貰ってくる洋服。撮影とかで使った中古品だというんだけど、有名ブランドのものとかいっぱい混じってる。どれもシンプルなのにすごくおしゃれ。その中から、聖矢くんに似合いそうなのを何枚か見繕ったんだ。 うわあ、良かった〜すれ違うところだった! そう思って、思わず携帯に手を伸ばして……で、手を止めた。
――何? 隣の女の子。 どうして、ふたりで連れ立ってるの? すごい親密そうに。 私は身体中の血液が、さあああっと引いていくのを感じていた。
どうして、聖矢くんが他の女の子と。じっと目をこらして確認したわ。あの予備校には今年高校3年生になる妹さんも通ってると言ったから。あの子が彼女だったら、そう言うのありだし。 でも、違った。何度もお家にお邪魔してるもの、間違えるわけないわ。 ちょっと待ってよ、どこ行くの……? いやだ、すぐそこの喫茶店に入っていくっ! 駄目だったらっ、ドアを押さないでよ。一体何を話してるの、楽しそうに。かなり小柄な女の子だから、聖矢くんが身をかがめて――。やだやだっ、もう我慢できない――!!!
――で、冒頭のシーンに戻る。私は、すぐさま携帯で彼を呼び出していた。
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細かい霧のような小糠雨。ぬるりと汗ばんだ肌には心地よい。折りたたみの傘はバッグの中に入っていたけど、そんなものを取り出すまでもない。いいや、濡れて歩こう。 こつん、と膝に車止めが当たる。気が付いたら、あの公園まで来ていた。
目に見えないほどの細かい水の粒なのに、向こうの方が煙って白っぽく霞んでる。ぽつんぽつんと防犯用の夜間照明が灯っていて、足元はよく見える。あの暑い夏の日、聖矢くんを待っていたベンチは、時計台の下。今は夜の雨にてらてらと光っている。埃っぽい街の風景が、しっとりと洗われてくっきりと色を変えて行くみたい。 ――ああ、馬鹿だな……。 頭が冷えていくと、ようやく正気に戻る。 何やってるんだろ、私。ひとりで舞い上がっちゃってさ。こんなこと、しなければ良かった。みんなとカラオケに行ったって良かったし、まっすぐ家に戻っても良かったのに。どうして、連絡もなしに訪ねてみようなんて考えたんだろ。ここに来なければ、聖矢くんがあんな風にしてるのを見なくて済んだのに。 驚いただろうな、聖矢くん。いきなりだったもんね。やな奴だと思ったかな。 でもさあ、何でよ? 私だってさ、他の女の子とおしゃべりするくらいは普通だって思うよ。聖矢くんは予備校の先生みたいなことをしてるんだし。あんなに優しくて頼りがいがあるんだから、きっと信頼されてるんだろうなってことは分かる。 ……だけどだけど。どうして、立ち話じゃ駄目なの? 自慢じゃないけどさ、私は他の男の子とふたりきりでお茶したりご飯食べたりしたことないよ。誘われることは多いんだからね、これでも。クラスの男の子からだって、ホールですれ違う上級生だって。一度は助手の先生にも声を掛けられたんだから。 けどさ、やだったんだもん。こういうのって、聖矢くんとじゃないとって。多人数だったらいいけど、ふたりきりなんて、ちょっとなあって、どうしてもためらっちゃうの。 それなのに……聖矢くんは平気なんだね。他の女の子と、おしゃべりしたりご飯食べたり。ツーショットしちゃうのだって、もしかして当たり前なの? そうなの? ……私だけが、頭固く考えすぎなのかなあ。あああ、もう嫌っ! 自分が情けなくなる。ちょっとでも離れていると、聖矢くんが分からなくなるんだよ。 私にとって、聖矢くんは一番大切な人。一番一緒にいたい人。出会って、もうじき一年になるけど、それはずっと変わらない。聖矢くんがいないと、駄目なの。でも……聖矢くんの方はそうじゃないのかなとか。
考えてみればさ、彼は私たちの関係を終わりにしようとしたんだよね。そう言う風に突き放されたんだから。 それなのに、諦めきれなかったのが私。よくよく考えれば、すごくずるいと思う。あんな風に押しかけて、身体で誘惑したんだもんね。あの時は必死だったから分からなかったけど、あとから考えたらとっても恥ずかしくなった。どんな風に思われたかなって、すごく心配になって。 時々、思うんだ。私が頑張らないと、この関係は終わっちゃうのかなとか。聖矢くん、文系だし。まあ、史学科は文学部の中では女の子が比較的少ない場所ではあるけど。でも、同じ机で勉強していたら、私よりも気の合う子に出会っちゃうこともあるでしょ? そんなときどうするんだろう。 ――どっちがいいかなって、その子と私を心の天秤にかけて、いつか私の方が軽い存在になって……。
ふと、空を見上げた。真っ黒な闇の中から、銀色の細かい糸があとからあとから落ちてくる。それが街灯にぼんやりと浮かび上がって、その場所だけが白っぽい空間を形成してる。私の周りに、バリアが張られたみたい。どこまでもどこまでも……ひとりぼっちの気分。 心なんて、すぐに孤独になれる。 ひとりぼっちだなって思うと、周りのものが全てかき消されてしまう。私が持っているのは、聖矢くんへの気持ちだけ、それだけ。そりゃさ、聖矢くんはいつも言ってくれるよ「梨花ちゃんが好きだよ」「とっても大切だよ」……って。でも、そんな言葉、すごく心許ない。抱きしめてくれたって、ずっとそれが続く訳じゃないし。腕を解かれたときに、またひとりになる。 「聖矢くん、私のこと、好き?」 何度も何度も、聞いてしまう。彼がうんざりするほどに。だって、言葉をたくさん繋ぎ止めておかないと不安になるんだもん。聖矢くんがどこかに行ってしまったら、どうしようって。 「どうして、俺のことを信じられないの? 何て言ったら、安心してくれるの?」 少し苛立った声。見上げると眉間に皺が寄ってる。ものすごく疲れたときの彼の仕草。そうされると、しがみついて「ごめんなさい」って言うことしか出来なくなる。
――馬鹿みたい、私。
聖矢くんのこと、大好きなのに。とっても大切なのに。こんな風に困らせてばかりいる。 訳の分からない行動をして、驚かせて。今に呆れられちゃう、もういいやって思われちゃうかも……。口惜しいよぉ、この気持ち、どうしたら止まるの? いつになったら、悠然と構えることが出来るの? 不安だらけだよ、どこまで行っても。
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私、振り向かない。だって、その足音が、公園の前の歩道に辿り着くまではすごく早足だったのを知っている。耳に馴染んだスニーカーの音。
やがて。降り注いでいた雨の糸が、頭の上で途切れた。私の足元に丸く影が出来る。 「――やっぱり、ここにいた」 深く溜息をついて。さしかけた傘の主がそう言った。 それほど、驚いた様子でもない。そりゃそうだ、ケンカして私が逃げるのは絶対にここ。迷子犬を探すよりも簡単だって言われる。何度、こんな風に追いかけっこしたんだろう。両手の指を使っても、もう足りないくらい。私、聖矢くんに出会ってから、すごくすごく分からず屋になっちゃった。 「……う……」 ああ、良かった。見捨てられてなかったって、思って。でも……冷静になったら、すごく大人げなかったよなあと思えてきて。そもそも腹を立てた理由って、何だったかなと考える。 いつもそう。聖矢くんと接するときには、可愛く甘えたり拗ねたりしたいなって思うのに、なかなか上手くいかないんだ。嫌われちゃったらやだなあとか、ギリギリまで我慢してると、ある日突然に爆発しちゃう。可愛いって言われる女の子は、きっと我が儘も小出しに出来るんだろうなって羨ましく思うよ。 「……梨花ちゃん」 そんな、優しい声を出さないでよ。とげとげの心がしぼんじゃうでしょ? 胸がひりひり痛い。好きだから、大好きだから、どうしていいのか分からなくなるんだよ。いつまでもどこまでも不安だらけで、私はどうしたらいいの? 「ありがとう、会いに来てくれたんだね?」 胸の下に腕が巻き付いてきて、後ろからぎゅっと抱きしめられる。暖かい季節、別に凍えていた訳じゃない。でも、こうやってぬくもりが伝わる場所に戻ってくるとすごくホッとする。知っているんだもんね、私をまっすぐに戻せるいちばんの方法を。いっぱい言い訳するよりも、ずっとずっと効果的。 もう一回、……泣いちゃってもいいかな? 心が溶けて来ちゃった。
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ベッドの上、まどろんで。私は彼の胸に寄り添っていた。湿った髪の間に指が差し込まれて、そんな風に弄ばれるのもくすぐったくて気持ちいい。 「言っとくけどね、梨花ちゃんが思っているような感じじゃないから。みんなでお茶してたら急に聞いてみたいことが出来たって、彼女が呼びに来たんだよ。教官室までね。それだけなんだから、……って、これも梨花ちゃんが言うところの言い訳になるのかな」
何も答えない。……もういいやって、思うの。 ごめんね、聖矢くん。私すぐに、エネルギー切れになっちゃう。まるで開発途中のエコカーみたいだね。充電ばかりに時間が掛かって、走行距離が短くて。ちょっと会わないだけで、不安で潰れてしまいそうになる。 電話でもメールでもいいんだけど、やっぱり直接会うのが一番ホッとする。こうしてあったかい気持ちまで伝わっていくから。
「もうね……困るんだよなあ」 いきなりそんな風に言うから。えっ? ってびっくりして顔を上げてしまった。 ちょっと、待ってよ。その「困る」って何? とうとう愛想が尽きたって言いたいの!? やだやだっ、そんなの絶対に嫌よ! 見上げた先の聖矢くんは、くすくすって笑ってる。目を細めて。何よぉって思っていたら、額に軽く口づけられて、それからきゅっと抱きしめられた。体温が直接伝わる距離。素肌の感触って、いつもくすぐったい。何て言うんだろう、産毛まで絡み合う感じで。 「俺だってね、いつも不安はあるんだから。綺麗になったもんな、やっぱり違うんだよね、女子大生は。2ヶ月前まで制服着ていたなんて信じられない。きっと梨花ちゃんを狙っている男は、また増えただろうなって思うと、そりゃあね。なのにさ、梨花ちゃんときたら。それを上回るくらいのヤキモチ焼きなんだもんな……参っちゃうよ」 「不安……になるの? 聖矢くんが……?」 何かすごく不思議な気分。そんなわけないでしょ、どうしてなのよ。私の心の中は聖矢くんでいっぱいなんだよ? 他の感情なんて入り込む隙間がないくらい、聖矢くんが詰まってる。私には聖矢くんじゃなくちゃ、駄目なのに。 「もちろんだよ、……だから離したくなくなるんだ」
どちらからともなく見つめ合って、それから何度も何度もキスする。身体と心が溶け合う場所まで。感情が混ざり合って、もうくっついちゃうよってくらいまで。 「また、外泊して。こんなにしょっちゅうじゃ、ご両親が心配しないの? ……梨花ちゃんって、本当に真面目なんだか不真面目なんだか分からないなあ。お父さん、いい加減に怒ってない? 何か言ってるんじゃないのかな」 「う……んっ、やぁん、もうっ……!」 そう言いながら、もう帰すつもりはないんでしょ? 分かってるんだから、そのくらい。あやしく探り出す手のひら。やだなあ、久しぶりだからって、こんなにすぐに二回目? もう、何回するつもりなんだろう、今夜は。 「聖矢くんと一緒にいられるなら……それでいいの。パパなんか、いくら怖い顔しても全然平気よ」 ――なんか、支離滅裂。自分でも言ってることが全然分からない。けどね、これだけは分かる。私の中の宇宙は聖矢くんがいるから、回っていくの。聖矢くんじゃなくちゃ、きっと無理。歪んだ部分に気が付いて、上手に導いて。 「可愛いこと、言っちゃって。……もう、そんな悪い子は、許さないからね。ほら――」 胸の蕾、ついばまれて。しびれる感覚が、甘い媚薬のよう。白いシーツの海、投げ出された身体が、どんどん熱くたぎってくる。聖矢くんは知ってる、私が次にどうして欲しいと思ってるのか。 「いくよ、梨花ちゃん……」 心ごと、満たされていく。私の内側は聖矢くんでいっぱいになっちゃう。もう、何もいらない。このまま連れて行って、高い高い場所まで。どこまでも一緒に、行きたいよ。
ゆっくりと回り続けるふたつの天体。かたちは悪くても、重なり合う時間にきっと素敵な夢が見られる。 私は聖矢くんの隣にいたい。たとえ私たちの間に物理的な距離があっても、心は傍にあるから大丈夫……何て思える日が早く来るといいのにな。
ああ、足元からするんとすくわれていくみたい、ふわふわする。ぼうっと霞んでいく頭の中で、時折、きらっきらっと閃光が輝く。 「やっ……、やぁん! 聖矢、くぅん……!」 かすれる吐息の中で、必死に呻いたら。滲んでいく視界の中「分かったよ」って微笑んだ彼が、さらに大きな波を起こした。
今夜はふたりでどこまで、飛んでいくんだろう……?
おしまい♪(040325) 2004年3月26日更新
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