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…1…

「玻璃の花籠・新章〜藤華」

 

 

 夏の盛りを過ぎた南の御庭はその美しさも影を潜めると言われているが、とてもそうは思えない。
 丁寧にたてられた箒の目の跡が残る大樹の根元には、柔らかく揺れる秋草が早くもその蕾をほころばせようとしていた。ゆったりと流れる気は心地よく透き通り、清々しく心が洗われる気がする。夕刻になれば、あちらこちらから秋虫たちの美しい歌声が聴こえてくるに違いない。
 まるで夢の中の御殿の如く。石造りの御館は、変わらぬ姿でそこにあった。……そう、過ぎ去った年月など忘れさせられるかのように。
 左右に長く造られた建物の正面が「南所」、その右手奥が竜王様のお住まいになる「東所」。左手がお客人を招き入れる「西所」となっている。「南所」の奥には「客座」と呼ばれる大広間が控えていた。
 高い天井から無数に吊り下げられた灯籠は幻想的で、闇に浮かび上がると遠い世界へといざなわれそうな気がしてくる。子供の足では東の対から西の対への移動だけでも大変で、渡りの途中でよく迷子になったものだった。

 ずっと忘れ切っていた。もう己の中にすら留まってはいまいと思っていたのに。何故、人の記憶というものは何かをきっかけに呼び起こされるものなのか。

 

 ――そして。今目の前で微笑む御方も、思い出の中のお姿と少しも変わりない。キラキラと流れ落ちる薄茶の髪は昔と変わらずに豊かになめらかで、畏れ多いと知りながらも触れてみたくなる欲求が抑えられないほどだ。
 身に付けられている装束も里では決してお目に掛かることの出来ない豪奢なもの。金糸銀糸が波のように織り込まれた優美な布の上に、こぼれ落ちそうな花文様が幾重にも施されている。柔らかい乳白色の肌を持った方なので、淡い色彩がことのほか良くお似合いだった。「生まれながらの姫君」であられるこの方はやはり俗人とは何かが違って見える。

「無理を言って、ごめんなさいね。こちらの申し出を受けてくれたと聞いたときはとても嬉しかったわ。あなたにはとても期待しているの、どうか力を貸して頂戴ね、藤華(ふじか)」

 人のたくさんいる場所に出るのだからと精一杯めかし込んだつもりであった。しかし御館に集まる方々の装いは、想像も出来なかったほどみずみずしくあか抜けている。自分の姿が急にみすぼらしく見えてきて、すっかり臆してしまっていた。
 さらにこのようにもったいないほどのお声を掛けられてしまい、ますます恐縮してしまう。何かひとこと御礼を申し上げなくてはならないと分かっているのに、頭が真っ白になって何も浮かんでこないのが何とも情けないことだ。

「では、早速お務めの詳細を説明しなくてはね。今回のことには、国中のあまたの集落から応援を募ったの。皆、遠方から出てきてくれたお針の上手たちばかりよ。同じくらいの年頃ですもの、知らない顔ばかりでもすぐに仲良くなれるわ」

 そう促されて振り向くと、今まで恐ろしくて正視できなかった広々とした部屋の風景を目の当たりにしてしまった。ここは普通なら広間として気の置けないお客人をお招きする場所であるらしい。大きく三方に天井から床までの開口部がもうけられ、そのすべての壁は取り払われていた。
 真ん中に長い作業台が奥に向かって縦にふたつ並んで置かれ、それぞれの上に深い空の色の長い織物が広げられている。身丈の三倍ほども長く裁たれたそれは、まるで二本の大河のようだ。
 王族の方々だけに許された優美な刺し文様のある装束は何段階もの過程を経て、丁寧に仕上げられる。まずは荒裁ちをして模様を入れてから仕立て上げ、最後に全体を見ながら色をさらに加えるのだと聞いていた。多分今回もそのやり方が取られているらしい。
 それぞれの布の周りでは数名ずつの若い女子(おなご)がせっせと針を動かしていた。色とりどりの髪の色と肌の色。本当に国中の土地から集まってきてるのが分かる。その幾人かが、先ほどからちらちらとこちらを興味深そうにうかがっていた。きっと見慣れない新顔が現れたので何かと思っているのだろう。美しい眉がひそめられるのを見るに付け、衣の下を生ぬるい汗が流れ落ちた。

 昼間の明るい日差しが外から注ぎ込んできて、きらびやかな糸目に目がくらみそうになる。藤華は自分がこの場所にいることを早くも後悔し始めていた。

 

◆◆◆


 西の集落、その果ての神山で執り行われる祭典が、百年の節目を迎える。例年は山を守る神官たちの手でひっそりと行われるそれも、今年ばかりはそうはいかない。現竜王・亜樹(アジュ)様とその跡目であられる華楠(カナン)様の御幸も決まり、今までに例がないほどの盛大な式典になると言われていた。
 そして式典当日に竜王様がお召しになる装束、幾重にも重ね着される着物の一番上に羽織る「上掛け」と呼ばれる御衣装をこのたびの催しにあわせて新調されることが決まった。それがどんなに大業なことであるかと言うことを、この土地の者なら誰もが知っている。普通に新年に晴れ着を仕立てるのとは訳が違うのだ。

 王族の方々が身につけられる装束は庶民のそれとは全く異なっている。おひとりおひとりに香が許されていることを始めとして、幾重にも重ねられる衣にも特別の色目が使われていた。さらに一番上に羽織る重ねや上掛けには、びっしりと手の込んだ刺繍が施されている。庶民でも高貴な身分の者になれば、刺し模様のある衣をまとうことはあるが、それは簡単な図案に限られていた。王家の御衣装など、実物を見ることすら稀なのである。
 もちろん御針の熟練の者たちはこのように新しい針子を募るまでもなく、国中に点在している。やはりそれなりの数をこなすことが必要で、その腕を極めることに近道はないとされていた。藤華も里では幾人もの師について手習いを受けていたが、そのどれもが老齢を迎える者ばかり。技術ばかりではなく人となりまでも学ぶことが出来た。

 しかし今回の御衣装の作成には、若い女子ばかりが集められた。そして正妃様御自らが指揮を執り、進められるという。もちろん重要な部分は気の遠くなるほどの時間を要することもあり、すでにほとんどが熟練の手で刺し終えられている。
 藤華たちに任されたのはその周りを縁取る細かな雲や霞などの刺しものだ。とはいえ、触れたこともないような優美な布地に直接針を入れる作業にはやり直しがきかない。ここに集まっているのはかなりの腕自慢だと聞いていたが、それでも皆の手元はとても緊張しているのが分かった。

 竜王の正妃様であられる沙羅様は御針が大変素晴らしいことで知られている。その技術もさることながら、はっとした色遣いや柔らかな図案まで定評があった。西南の集落の大臣家などは正妃様を良く思っていないと言われていたが、それでも広間には沙羅様より贈られた壁掛けが飾られているという。
 今回、お忙しい公務の合間を縫ってこのようなことを始められたのにも、後継者を育てるという意図があることは明らかだった。裳着を迎えられた後、それぞれに嫁がれていった姫君様方も相応のものを身につけられていると聞いている。だが、それだけでは心許ないと仰りたいのだろう。
 何しろ、大掛かりなものになれば、一枚の仕立てに二年も三年も掛かると言われている。決して、多すぎて手が余ると言うことはないのだ。それにお目に掛かることも畏れ多い正妃様に直に教えを賜るなど、またとない機会。村娘たちがこぞって志願したというのも頷ける。

 ――だけど、本当にわたくしなど。お役に立てるかどうかも分からないのに……。

 以前乳母(めのと)として竜王家にお仕えしていた縁で、藤華の母のところにも早くから正妃様からの文が届いている。そしてその時に、自分の名が挙げられていたと聞かされて喜びより先に驚きが胸を覆った。

「このような幸運は、二度とないことではありませんか。あなたはもう里の師では教えきれないほどの腕前になったと聞いています。いつまでも井の中の蛙でいてはいけませんよ、名手たちの中でさらに腕を磨くことも必要でしょう」

 にこやかに微笑む母の言葉を聞いても、藤華は首を縦に振ることなど到底出来なかった。竜王様の都は、幼い頃を過ごした思い出の地ではある。だが、その記憶を思い起こしても気後れしてしまうほどだ。田舎暮らしが肌に馴染み、もうあのころのことなど夢の世界の出来事のように思えてきていたのに。

「それに……、この気を逃したらこんな機会は再び訪れないと思いますよ」

 母の眼差しは、言葉にしないすべてをも語っていた。そうなのである、春の終わりで十五を迎えた藤華はこの地での結婚適齢期を迎えようとしていた。早い者ではもう同い年で二人目の子を産んだという話も聞いている。誰かに縁づいてしまえば、そうそう都に上がることなど出来なくなるだろう。
 だが、他の兄弟から遅れて思いがけず授かったという末子の自分である。これ以上、両親に迷惑を掛けることは出来ない。それに藤華は普通の若い女子たちのようにかの地に憧れを抱くことはなかった。

 再三に渡りお断りしたが、それでもとお声が掛かる。これ以上ご厚意を無にするのはあまりにも非礼に当たるだろうという父の助言もあり、藤華は渋々と言った感じで都に上がった。

 里に戻る両親について竜王様のお膝元を後にしてから、ちょうど十年目に当たる。ひなびた暮らしに慣れきった目には、昔よりもさらにすべてがきらびやかに見えて落ち着かない。滞在の間、身を寄せることになった兄夫婦の居室(いむろ)に辿り着いて、少し熱を出してしまったほど。到着早々これでは先が思いやられると、重い気持ちのままでしとねを借りていた。

 そして、今日。
 ようやく体調も戻り出仕となったのだが……まだまだ沈む気持ちはぬぐい去れなかった。それがこれからしばらくの生活への不安ばかりではないことも知っている。里に残してきた様々な問題ごとまでが、藤華に重くのしかかっていた。

 

◆◆◆


「あなたには、こちらも手伝って欲しいと思っているの」

 ちくちくと刺すような視線を背中に感じつつ、藤華は指し示された方を見た。先ほどは柱の影になってしまって分からなかったが、部屋の隅にも小さな作業台が置かれていた。もちろんその上には先ほどの身頃と同じ織りの生地が広げられている。大きさから見て、こちらは袖の部分に当たるのだろうか。
 地に着く底の部分が一番鮮やかな空色で、肩側に上がるにつれて薄く淡くなる。そこには身頃から続く山脈と湧き上がる雲、そして大きく羽を広げた大鷲の羽先がたなびいていた。まるでひとつの風景を縦長の四角に切り取ったかのようなみずみずしい絵柄に思わず溜息が出る。ああ、これはきっと沙羅様の手によるものに違いない。そう思いつつそっとそのお顔を見ると、その御方はやはり暖かく微笑まれた。

「お袖は身頃の様子を見ながら色を加えなくてはならないので、仕事が進まないときはあちらの皆を手伝って貰うことになるわ。椅子がないほど混んでいるときは、無理にここまで来なくてもいいのよ。あなたもこちらは久しぶりなのですもの、色々訪れたい場所もあるのではないかしら?」

 まさか「出来るだけ早く逃げ帰りたいと思っているから」などと言えるわけがない。こうして古なじみだからといって特別のように扱われるだけでも、申し訳ない気分でいっぱいになっているのだ。きっと部屋にいる皆からは、何者だと思われているだろう。この赤い髪を見れば西南の集落の民であることは一目瞭然。目印を付けて歩いているようなものだ。

「では、お道具の説明も――、あら?」
 沙羅様は言葉を止めると、部屋の奥の入り口の方をご覧になった。もちろん、藤華も。そして部屋の中にいる女子たちもそうだろう。皆、何事かと顔を見合わせていた。そうしているうちにも、辺りに響き渡る履き物の音はだんだん近づいてくる。

「――母上っ! あのっ……」

 その瞬間に、一同が息を呑むのが分かった。藤華もつられるようにその場所に視線を移し、動きを止める。

 飛び込んできたのは見るからに高貴な御衣装をまとった貴人だった。秋の彩りを一足先に映し出したあでやかな紅葉絵の装束。その動きに合わせて流れ込む気に袖の先が舞い上がり、空間に一枚の錦絵が浮かび上がったようだ。
 すっきりと一つにまとめた漆黒の髪の先は細い帯となり、やがて静かに流れ落ちる。同じく闇を集めた色の瞳をくりくりさせて部屋の中をのぞき込む仕草はまだまだあどけなさを残しているかのように見えた。とはいえ、このお姿は成人された殿方のものであるから、そのように表現するのはあまりに無礼であろうか。

「まあっ、何ですか。騒々しいですよ、みっともない。それに今はまだ、あなたはお務めの最中のはず……」

 沙羅様が進み出てたしなめている。そのお姿は普通のお母様のもので、気取りも感じられない。ただ親であられる方が見上げるかたちになっているのが何とも言えないが。藤華はそんな微笑ましい光景をちらと見て、すぐに柱の影に身を隠した。

「だって、どうしてじっとなどしていられますか。朝、母上が仰っていたでしょう、今日は――」
 いさめる沙羅様のお言葉になど少しも動じることはない。ひょうひょうとした感じで、やり過ごしている。それどころか女子ばかりの部屋にずんずんと足を踏み入れていた。

 彼が辺りをうかがっている様子に、部屋中の女子が頬を赤らめたりひそひそ話をしたりしている。ちらちらとそちらの方を見る者も少なくない。「まあ、いちだんとお美しくて……!」などという声も聞こえてくる。そうしているうちに、不意に袖を引かれた。

「ああ、こちらか! ……ねえ、藤華、藤華でしょう? そうだよねっ、間違いないよ……!」

 振り向きざまに、両肩を掴まれる。見上げたお顔があまりにも高い場所にあることに驚かされた。ああ、そうだ。もしやとは思っていたが……やはりそうであったか。きりりとした目元を見たとき、藤華は確信した。だが、まだ声が出ない。期待をたたえた瞳が、キラキラと輝いて見える。

「わあ、嬉しい。久しぶりだね、私が分かる? ああ、本当に、こんなに美しくなって……!」

 相手が感きわまりないという様子なのは分かる。でも、一体どのように受け答えをすればいいのだ。自分からは他の女子様の視線がひときわきつくなったのがはっきりと見える。それだけで身の置き場がなくて消えてしまいたくなるというのに。それに、こんな風に突然飛び出してくるとは思わなかったから……。

「あの……、末若……さま?」

 ようやくそれだけ告げると、目の前の御方はもうこの上ないほど嬉しそうに顔を崩した。月の光の如く透き通った肌がほんのりと赤みをさしている。昔の面影があちこちに残っている気もしないではない。自分だって同じように年を重ねたはずなのに、どうして気付かなかったのか。記憶の中からは想像付かないほど変わりすぎた姿でお目に掛かることになることに。

「ふふ、やっぱり。藤華は昔のままだ、本当に嬉しいよ。ねえ、話したいことがたくさんあるんだ。どう、これから私の部屋にでも来ない? あなたのために珍しい菓子などもたくさん用意させたんだよ、ね?」

 大きななりをして、仰ることはまるで小さな御子さまのようだ。傍らで沙羅様も呆れ顔をなさっているのが見える。それより何より、他の女子様の視線が……。ああ、どうしたらいいのだろう……。

「あ、あのっ。まだ道具も揃いませんので、本日のところは退座いたしますっ……、申し訳ございません」

 気が付くと、転がるように部屋を飛び出していた。どこをどうやって進んだのかは分からない。でもやはり昔の勘というものは身体に染みついているのか。いつか目の前には懐かしい居室が見えていた。その周りには色とりどりの花々が咲き乱れ、奥には小さな菜園まで見える。

 ――まさか、まだこちらにいらしたなんて……。

 ようやく緊張が解けて、藤華はへなへなとその場にしゃがみ込んでいた。

 

◆◆◆


 あの御方は、昔からそこにいるだけで辺りを暖かい色に染めてしまう不思議な力を秘めていた。

 竜王・亜樹様の末の若君、鷲蘭(シュウラン)様……漆黒の艶やかな髪と同じ色の瞳。ご両親のどちらにも面影のないそのお姿は偉大なる王と呼ばれた前竜王・華繻那様にうりふたつと評判であった。華繻那様は亜樹様の正妃であられる沙羅様の御父上、鷲蘭様には御祖父様に当たられる御方。
 最初にお目に掛かったのがいつだったのか、正確な記憶はない。藤華の母は次期竜王となられることが先年本決まりとなった亜樹様の跡目・華楠様の乳母。御館への出入りも多く、物心も付く以前から一緒に連れられて毎日のように御子様方のお部屋に上がるようになっていた。
 そこには王族の若君姫君様だけではなく、御館に出入りする側近たちの子も多く集まっていた。だがそんな中にあっても、ひときわ輝いて見えたのが鷲蘭様。皆からは「末若さま」と呼ばれて、とてもかわいがられていた。お世話をする侍女たちも、競っておそばに行きたがる。今日は誰がお膳につくかと渡りの隅でこよりのくじを引いていた姿を何度も見かけていた。
 涼しげな眼差し、にこやかに微笑まれるとこちらまでほんのりと暖かい心地がしてくる。年長者の中でお育ちになったためか、お歳よりも良く回るお口。そうかと思えば、お子様らしい仕草で甘えられる。何もかもが皆を魅了した。

 ――しかし、なのである。

 そんな末若さまも、一度ぐずりだされると手が付けられなくなるという困った一面をお持ちだった。どんなに取りなしても聞き入れて貰えずむずかるので、皆は手を焼いていた。御子様方のお世話にかけてはとくに優れた者たちであっても、全く手に負えないのだ。
 そして、これもよく分からないことなのだが。そのようなときに末若さまは、決まって藤華を求めたのだ。侍女たちに呼び出されて赴くと、涙をいっぱいに溜めた瞳でこちらを見上げる。そしてようやくほころんだ口元で嬉しそうに微笑むのだった。

 そのころ藤華は末若さまよりも一年と少し年長なだけの小さな娘、今よりももっともっと周囲のきらびやかさに気後れして、母の背中にくっついたまま過ごしていた。だから御館の皆以上に藤華自身が分からなかった、末若さまがどうして自分をご所望になるのか。侍女の方々が裏で「何であんな赤毛のみすぼらしい娘に……!」などと陰口を囁きあっているのを耳に入れても、思わず頷いてしまうほど。
 性格がおとなしすぎたからだけではない、藤華は両親のどちらの美しさも受け継いでいない質素な顔立ちをしていた。長兄である人などはもうそのころ、都で女子たちの憧れの的と言われ、女遊びに興じすぎて父からたしなめられるほどであった。ひどい者になると、末娘の藤華は母がよその男と通じて身ごもったのではないかと吹聴していたらしい。藤の花が盛りの頃に生まれたため父が付けてくれた名も、仰々しくて嫌いだった。
 都は藤華にとって華やかなばかりの場所ではなかったのである。その裏にある感情の渦までも目の当たりにして、幼い心には恐怖ばかりが根付いていった。そしていつか、大人の顔色ばかりをうかがうおとなしすぎる性格に拍車が掛かっていく。にっこりと微笑む侍女の心までが透けて見えてくるようで、恐ろしかった。
 大人たちばかりではない、藤華とそう歳の変わらない子供たちも始終競い合っているのが垣間見られた。もともとが高貴な家柄の子息たちで、その両親も名の通った重臣ばかり。ゆくゆくは自分たちもそんな身分になるのだと思っているようだった。官職の席はそう多くないので、皆は誰に言われなくても稽古に励み、勝った負けたと言い合っている。おとなしい藤華はそこでも身の置き場が見つけられなかった。

「じゅか、じゅか」
 まだ舌が上手く回らない頃、末若さまは藤華をそう呼んでいた。普通にしているときでも、藤華をそばに置きたいらしく、しつこく探し回る。まるでかくれんぼの鬼に追われたように、藤華は広い御館の中を逃げ回っていた。末若さまの元には皆の視線が集まる。そんな御方の近くにいたら、自分までが注目されるではないか。そんなのは恥ずかしくて困る。

 両親が祖父の後を継いで領主となるため里に戻ると聞いたとき、どんなにかホッとしたことか。お別れしたとき、末若さまはまだ四つか五つ。今年の春、元服を迎えられたその人に再びお目に掛かることなどないと思っていた。

 

◆◆◆


「まあ……、困りますわ。そのようなことまでなさらなくて宜しいのに、藤華さま」

 夕日の差し込む上がりの間。洗濯物を片づけていた手を止めて見上げると、戸口に幼子の手を引いた愛らしい女人が立っていた。その背にはもうひとり赤子を負ぶっている。この人は藤華の兄の妻になる人であり、今日は少し足を伸ばしたところにあるご実家に行かれていたのだ。

「お客様の手を煩わすなど、とんでもありません。どうかお気楽になさって、すぐに夕餉の支度を始めますから……」

 てきぱきと負ぶい紐をほどき、赤子を部屋の隅に置かれている籠に寝かしつける。そうしてから、垂らしていた髪をうなじの辺りできりりと結び、彼女はこちらに舞い戻ってきた。
 この女子は名を狭霧(さぎり)と言う。自分よりふたつほど年長になると聞いているが、とてもそうは思えなかった。髪型を変えれば、まだまだ女の童(めのわらわ)で通りそうなほどあどけない顔立ちである。幼い頃には幾度も顔を合わせていたはずなのだが、あまり記憶にない。
 だが、両親を悩ませる存在であった兄がまるで人が変わってしまったかのように真面目にお務めをこなしているのも、全部この人のおかげなのだ。それほどの強さが一体どこに隠れているのだろう。

「いえ、お気になさらないで姉上様。こちらは好きでやっていることですから」
 困り顔でこちらを見つめる人に、藤華はにこやかな笑顔で応えた。

 別に無理をしているわけではない、こうして忙しく手を動かしている方が気が紛れるのだ。里にいた頃も侍女に紛れて炊事を手伝ったり、野良仕事の真似ごとをするのが好きだったほどである。他の兄弟たちとは違い、雅やかなものには興味がない。何となく始めから、自分とは無縁のものに思えて仕方なかった。
 誰かの役に立っていると分かれば、それだけで嬉しい。人より秀でたところなどないから、こんな風に目立たぬように己を生かすしかないのだ。

「ねえねえ、ふじゅかちゃまっ! あそぼ、あそぼっ! おちごとは、もういいんでしょ?」
 そうしているうちに、藤華にとっては姪に当たる兄の上の子がまとわりついてくる。そろそろ三つになると聞いているが、そんなに小さくても整った顔立ちはこの後の恵まれた人生を想像できるほどだ。羨ましいほどの長いまつげの奥、こぼれ落ちそうなくりくりした目。

「まあ……萌(もゆ)まで。いけませんよ、藤華さまはお疲れなのですから」
 そう言って母親が引きはがそうとしても、幼子は言うことなど聞かない。藤華もこんな状況は慣れっこであるから、少しも煩わしいとは思わなかった。

「申し訳ございません、少しの間お相手をお願いしても。……本当に藤華さまは子煩悩でいらっしゃって、羨ましい限りですわ」

 ふうと、溜息をつかれる義姉の顔を見守る。実はそろそろ戻ってくるはずの兄からも「お前が来てから萌が自分の元に全然寄ってこない」とぼやかれているのだ。里の館にも幼子はたくさんいて、その世話をするのがとても楽しい。むずかる子供を見ても、愛らしくて仕方ないのだ。

「どうかごゆっくりしていってくださいね。この居室も都にいらっしゃるお客人のためにと増築いたしましたから、部屋にもゆとりがございますわ。御衣装の完成までは二月ほどだと聞いておりますが、その後も留まられて宜しいのですよ。……きっとどんなにか見事なものになるのでしょうね、今からとても楽しみですわ」

 ご実家にもたくさんの兄弟がいるというこの人は、とにかく面倒見が良く、そのもてなしも他人の家にいることを忘れさせてくれるほどだ。本当にすべてを忘れてずっとここにいられたらと思う瞬間もある、だがそんな風に逃げていても何の解決にもならないのだ。

 ――愛されることを知っている人だからこそ、あんなにも暖かいのだろうか……。

 憧れてやまない後ろ姿を見送りながら、藤華もまた深い溜息をついていた。



(2004年12月10日更新)

 

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