夏の盛りを過ぎた南の御庭はその美しさも影を潜めると言われているが、とてもそうは思えない。 ずっと忘れ切っていた。もう己の中にすら留まってはいまいと思っていたのに。何故、人の記憶というものは何かをきっかけに呼び起こされるものなのか。
――そして。今目の前で微笑む御方も、思い出の中のお姿と少しも変わりない。キラキラと流れ落ちる薄茶の髪は昔と変わらずに豊かになめらかで、畏れ多いと知りながらも触れてみたくなる欲求が抑えられないほどだ。 「無理を言って、ごめんなさいね。こちらの申し出を受けてくれたと聞いたときはとても嬉しかったわ。あなたにはとても期待しているの、どうか力を貸して頂戴ね、藤華(ふじか)」 人のたくさんいる場所に出るのだからと精一杯めかし込んだつもりであった。しかし御館に集まる方々の装いは、想像も出来なかったほどみずみずしくあか抜けている。自分の姿が急にみすぼらしく見えてきて、すっかり臆してしまっていた。 「では、早速お務めの詳細を説明しなくてはね。今回のことには、国中のあまたの集落から応援を募ったの。皆、遠方から出てきてくれたお針の上手たちばかりよ。同じくらいの年頃ですもの、知らない顔ばかりでもすぐに仲良くなれるわ」 そう促されて振り向くと、今まで恐ろしくて正視できなかった広々とした部屋の風景を目の当たりにしてしまった。ここは普通なら広間として気の置けないお客人をお招きする場所であるらしい。大きく三方に天井から床までの開口部がもうけられ、そのすべての壁は取り払われていた。 昼間の明るい日差しが外から注ぎ込んできて、きらびやかな糸目に目がくらみそうになる。藤華は自分がこの場所にいることを早くも後悔し始めていた。
◆◆◆
王族の方々が身につけられる装束は庶民のそれとは全く異なっている。おひとりおひとりに香が許されていることを始めとして、幾重にも重ねられる衣にも特別の色目が使われていた。さらに一番上に羽織る重ねや上掛けには、びっしりと手の込んだ刺繍が施されている。庶民でも高貴な身分の者になれば、刺し模様のある衣をまとうことはあるが、それは簡単な図案に限られていた。王家の御衣装など、実物を見ることすら稀なのである。 しかし今回の御衣装の作成には、若い女子ばかりが集められた。そして正妃様御自らが指揮を執り、進められるという。もちろん重要な部分は気の遠くなるほどの時間を要することもあり、すでにほとんどが熟練の手で刺し終えられている。 竜王の正妃様であられる沙羅様は御針が大変素晴らしいことで知られている。その技術もさることながら、はっとした色遣いや柔らかな図案まで定評があった。西南の集落の大臣家などは正妃様を良く思っていないと言われていたが、それでも広間には沙羅様より贈られた壁掛けが飾られているという。 ――だけど、本当にわたくしなど。お役に立てるかどうかも分からないのに……。 以前乳母(めのと)として竜王家にお仕えしていた縁で、藤華の母のところにも早くから正妃様からの文が届いている。そしてその時に、自分の名が挙げられていたと聞かされて喜びより先に驚きが胸を覆った。 「このような幸運は、二度とないことではありませんか。あなたはもう里の師では教えきれないほどの腕前になったと聞いています。いつまでも井の中の蛙でいてはいけませんよ、名手たちの中でさらに腕を磨くことも必要でしょう」 にこやかに微笑む母の言葉を聞いても、藤華は首を縦に振ることなど到底出来なかった。竜王様の都は、幼い頃を過ごした思い出の地ではある。だが、その記憶を思い起こしても気後れしてしまうほどだ。田舎暮らしが肌に馴染み、もうあのころのことなど夢の世界の出来事のように思えてきていたのに。 「それに……、この気を逃したらこんな機会は再び訪れないと思いますよ」 母の眼差しは、言葉にしないすべてをも語っていた。そうなのである、春の終わりで十五を迎えた藤華はこの地での結婚適齢期を迎えようとしていた。早い者ではもう同い年で二人目の子を産んだという話も聞いている。誰かに縁づいてしまえば、そうそう都に上がることなど出来なくなるだろう。 再三に渡りお断りしたが、それでもとお声が掛かる。これ以上ご厚意を無にするのはあまりにも非礼に当たるだろうという父の助言もあり、藤華は渋々と言った感じで都に上がった。 里に戻る両親について竜王様のお膝元を後にしてから、ちょうど十年目に当たる。ひなびた暮らしに慣れきった目には、昔よりもさらにすべてがきらびやかに見えて落ち着かない。滞在の間、身を寄せることになった兄夫婦の居室(いむろ)に辿り着いて、少し熱を出してしまったほど。到着早々これでは先が思いやられると、重い気持ちのままでしとねを借りていた。 そして、今日。
◆◆◆
ちくちくと刺すような視線を背中に感じつつ、藤華は指し示された方を見た。先ほどは柱の影になってしまって分からなかったが、部屋の隅にも小さな作業台が置かれていた。もちろんその上には先ほどの身頃と同じ織りの生地が広げられている。大きさから見て、こちらは袖の部分に当たるのだろうか。 「お袖は身頃の様子を見ながら色を加えなくてはならないので、仕事が進まないときはあちらの皆を手伝って貰うことになるわ。椅子がないほど混んでいるときは、無理にここまで来なくてもいいのよ。あなたもこちらは久しぶりなのですもの、色々訪れたい場所もあるのではないかしら?」 まさか「出来るだけ早く逃げ帰りたいと思っているから」などと言えるわけがない。こうして古なじみだからといって特別のように扱われるだけでも、申し訳ない気分でいっぱいになっているのだ。きっと部屋にいる皆からは、何者だと思われているだろう。この赤い髪を見れば西南の集落の民であることは一目瞭然。目印を付けて歩いているようなものだ。 「では、お道具の説明も――、あら?」 「――母上っ! あのっ……」 その瞬間に、一同が息を呑むのが分かった。藤華もつられるようにその場所に視線を移し、動きを止める。 飛び込んできたのは見るからに高貴な御衣装をまとった貴人だった。秋の彩りを一足先に映し出したあでやかな紅葉絵の装束。その動きに合わせて流れ込む気に袖の先が舞い上がり、空間に一枚の錦絵が浮かび上がったようだ。 「まあっ、何ですか。騒々しいですよ、みっともない。それに今はまだ、あなたはお務めの最中のはず……」 沙羅様が進み出てたしなめている。そのお姿は普通のお母様のもので、気取りも感じられない。ただ親であられる方が見上げるかたちになっているのが何とも言えないが。藤華はそんな微笑ましい光景をちらと見て、すぐに柱の影に身を隠した。 「だって、どうしてじっとなどしていられますか。朝、母上が仰っていたでしょう、今日は――」 彼が辺りをうかがっている様子に、部屋中の女子が頬を赤らめたりひそひそ話をしたりしている。ちらちらとそちらの方を見る者も少なくない。「まあ、いちだんとお美しくて……!」などという声も聞こえてくる。そうしているうちに、不意に袖を引かれた。 「ああ、こちらか! ……ねえ、藤華、藤華でしょう? そうだよねっ、間違いないよ……!」 振り向きざまに、両肩を掴まれる。見上げたお顔があまりにも高い場所にあることに驚かされた。ああ、そうだ。もしやとは思っていたが……やはりそうであったか。きりりとした目元を見たとき、藤華は確信した。だが、まだ声が出ない。期待をたたえた瞳が、キラキラと輝いて見える。 「わあ、嬉しい。久しぶりだね、私が分かる? ああ、本当に、こんなに美しくなって……!」 相手が感きわまりないという様子なのは分かる。でも、一体どのように受け答えをすればいいのだ。自分からは他の女子様の視線がひときわきつくなったのがはっきりと見える。それだけで身の置き場がなくて消えてしまいたくなるというのに。それに、こんな風に突然飛び出してくるとは思わなかったから……。 「あの……、末若……さま?」 ようやくそれだけ告げると、目の前の御方はもうこの上ないほど嬉しそうに顔を崩した。月の光の如く透き通った肌がほんのりと赤みをさしている。昔の面影があちこちに残っている気もしないではない。自分だって同じように年を重ねたはずなのに、どうして気付かなかったのか。記憶の中からは想像付かないほど変わりすぎた姿でお目に掛かることになることに。 「ふふ、やっぱり。藤華は昔のままだ、本当に嬉しいよ。ねえ、話したいことがたくさんあるんだ。どう、これから私の部屋にでも来ない? あなたのために珍しい菓子などもたくさん用意させたんだよ、ね?」 大きななりをして、仰ることはまるで小さな御子さまのようだ。傍らで沙羅様も呆れ顔をなさっているのが見える。それより何より、他の女子様の視線が……。ああ、どうしたらいいのだろう……。 「あ、あのっ。まだ道具も揃いませんので、本日のところは退座いたしますっ……、申し訳ございません」 気が付くと、転がるように部屋を飛び出していた。どこをどうやって進んだのかは分からない。でもやはり昔の勘というものは身体に染みついているのか。いつか目の前には懐かしい居室が見えていた。その周りには色とりどりの花々が咲き乱れ、奥には小さな菜園まで見える。 ――まさか、まだこちらにいらしたなんて……。 ようやく緊張が解けて、藤華はへなへなとその場にしゃがみ込んでいた。
◆◆◆
竜王・亜樹様の末の若君、鷲蘭(シュウラン)様……漆黒の艶やかな髪と同じ色の瞳。ご両親のどちらにも面影のないそのお姿は偉大なる王と呼ばれた前竜王・華繻那様にうりふたつと評判であった。華繻那様は亜樹様の正妃であられる沙羅様の御父上、鷲蘭様には御祖父様に当たられる御方。 ――しかし、なのである。 そんな末若さまも、一度ぐずりだされると手が付けられなくなるという困った一面をお持ちだった。どんなに取りなしても聞き入れて貰えずむずかるので、皆は手を焼いていた。御子様方のお世話にかけてはとくに優れた者たちであっても、全く手に負えないのだ。 そのころ藤華は末若さまよりも一年と少し年長なだけの小さな娘、今よりももっともっと周囲のきらびやかさに気後れして、母の背中にくっついたまま過ごしていた。だから御館の皆以上に藤華自身が分からなかった、末若さまがどうして自分をご所望になるのか。侍女の方々が裏で「何であんな赤毛のみすぼらしい娘に……!」などと陰口を囁きあっているのを耳に入れても、思わず頷いてしまうほど。 「じゅか、じゅか」 両親が祖父の後を継いで領主となるため里に戻ると聞いたとき、どんなにかホッとしたことか。お別れしたとき、末若さまはまだ四つか五つ。今年の春、元服を迎えられたその人に再びお目に掛かることなどないと思っていた。
◆◆◆
夕日の差し込む上がりの間。洗濯物を片づけていた手を止めて見上げると、戸口に幼子の手を引いた愛らしい女人が立っていた。その背にはもうひとり赤子を負ぶっている。この人は藤華の兄の妻になる人であり、今日は少し足を伸ばしたところにあるご実家に行かれていたのだ。 「お客様の手を煩わすなど、とんでもありません。どうかお気楽になさって、すぐに夕餉の支度を始めますから……」 てきぱきと負ぶい紐をほどき、赤子を部屋の隅に置かれている籠に寝かしつける。そうしてから、垂らしていた髪をうなじの辺りできりりと結び、彼女はこちらに舞い戻ってきた。 「いえ、お気になさらないで姉上様。こちらは好きでやっていることですから」 別に無理をしているわけではない、こうして忙しく手を動かしている方が気が紛れるのだ。里にいた頃も侍女に紛れて炊事を手伝ったり、野良仕事の真似ごとをするのが好きだったほどである。他の兄弟たちとは違い、雅やかなものには興味がない。何となく始めから、自分とは無縁のものに思えて仕方なかった。 「ねえねえ、ふじゅかちゃまっ! あそぼ、あそぼっ! おちごとは、もういいんでしょ?」 「まあ……萌(もゆ)まで。いけませんよ、藤華さまはお疲れなのですから」 「申し訳ございません、少しの間お相手をお願いしても。……本当に藤華さまは子煩悩でいらっしゃって、羨ましい限りですわ」 ふうと、溜息をつかれる義姉の顔を見守る。実はそろそろ戻ってくるはずの兄からも「お前が来てから萌が自分の元に全然寄ってこない」とぼやかれているのだ。里の館にも幼子はたくさんいて、その世話をするのがとても楽しい。むずかる子供を見ても、愛らしくて仕方ないのだ。 「どうかごゆっくりしていってくださいね。この居室も都にいらっしゃるお客人のためにと増築いたしましたから、部屋にもゆとりがございますわ。御衣装の完成までは二月ほどだと聞いておりますが、その後も留まられて宜しいのですよ。……きっとどんなにか見事なものになるのでしょうね、今からとても楽しみですわ」 ご実家にもたくさんの兄弟がいるというこの人は、とにかく面倒見が良く、そのもてなしも他人の家にいることを忘れさせてくれるほどだ。本当にすべてを忘れてずっとここにいられたらと思う瞬間もある、だがそんな風に逃げていても何の解決にもならないのだ。 ――愛されることを知っている人だからこそ、あんなにも暖かいのだろうか……。 憧れてやまない後ろ姿を見送りながら、藤華もまた深い溜息をついていた。
(2004年12月10日更新)
|