TopNovel玻璃の花籠・扉>散りゆく杜の・2


…2…

「玻璃の花籠・新章〜藤華」

 

 

 木々の枝がびっしりと天を覆うその下は、昼近くなってもまだ露を残している。ようやく霧の晴れてきた細道。藤華はひとり、ゆっくりと登っていった。振り向けば、乳白色に煙って見える草の上に草履のかたちがそのまま残っている。それほど竜王様の御館から歩いたわけでもないのに、ここはやはり別世界だった。
 幼子の足では遠く感じた道のりも、あっという間に過ぎてしまう。気付けば小高い丘の上まで辿り着いていた。見晴らしのいい風景が、あの頃と少しも変わらずに目の前に広がっている。霞がかった遠くの山並み、その麓に広がる湿地帯のうす青。心地よい静けさにホッと胸をなで下ろした。

 少し重い気がまとわりついて、長く伸ばした赤髪を揺らめかせる。藤華は懐かしい足取りで、ひときわ大きな樹の根元をぐるりと回った。そして南側の乾いた根元に腰を下ろす。ふうっとひとつ溜息をついて、手にしていた布の包みを傍らに置いた。
 髪の乱れを直しながら丘の向こうに目をやれば、一面の花畑がどこまでも広がっている。薄紅に桃に紫に……柔らかな色彩はそれぞれが美しく咲き誇りながら、決して調和を乱さない。己の存在する意味をしっかりと根付かせているからだ。花は花のまま、咲いて散ればいい――それをとても羨ましく思っている、昔も今も。

 

 今は人影の見えない野原も、藤華が幼い頃は子供たちの笑い声が絶えることがない場所だった。瞼を閉じれば、あの頃の情景がありありと浮かんでくる。花冠の姫君たち、鬼ごっこをする若君たち。その周りには色とりどりの衣を着た臣下の子等が幾重にも取り巻いていた。

 御館にお仕えする両親に連れられてやってきた者たちはそれこそ数え切れないほど。南の御庭は朝早くから夕暮れまで、いつでも子供たちの歓声が聞こえた。皆年齢が近いから、すぐに仲良くなる。どこに竜王様の御子がいるのかと、新入りの侍女が見渡して頭を悩ませる姿もしばしば目にした。
 藤華には五人の兄姉がいる。彼らが次々に産まれ育つ頃は、世話役の乳母や侍女がいた。だが、末娘の彼女が産まれた頃には乳母夫婦はもう里に戻っていたし、侍女の方もお務めや家の用事が忙しくなり頼み辛くなっていたのであろう。母は幼い藤華の手を引き、毎日御館に伴った。
 ただですら、殿上人のお住まいは気後れがするばかりの場所である。上の兄姉たちも一緒だったが、人見知りなたちであったので誘われてもなかなか仲間に入れない。しまいには世話を焼いてくれた彼らも自分の遊びに夢中になっていき、取り残された。
「孤独」という言葉は知らなかったが、それは藤華の一番身近な友達であったと思う。窓の外、美しい御庭が日に日に色を変える様を眺めているだけの一日。部屋の掃除をするからと外に出されても、やはりひとりでぽつんとしていた。

 西南の里に戻ってからも土地の者たちから都暮らしのことを羨ましく訊ねられたりしたが、気の利いた言葉で答えることなど出来るはずもない。目の前を通り過ぎていく侍女たちの美しい色目の装束、御館のしつらえや御庭の豪奢な造り。記憶に残ったのは物を言わぬ風景たちばかりだった。

 竜王様の御館にはお仕えする者たちや出入りする者たちがたくさんいて、始終緊張していなくてはならない。大人になれば少しはそれに適応できるものかと期待したが、かえってひどくなったようにも思える。気楽な田舎暮らしですっかり出不精になってしまっていた。たった数刻の間に、人酔いをした気分になっている。

 ――ここまで来れば、きっと大丈夫。

 丘の上から、皆の楽しそうな姿を見るのは好きだった。王族の方のお近くにお仕えするのは、立派な実家を持ち、代々御館に出仕する家柄の者たちがほとんど。そんな彼らの子供であるのだから、幼子といえど見目形はもとより立ち振る舞いも品があったし、身につけている装束もきらびやかなものが多かった。
 集落ごとに特徴のある髪が色とりどりの衣が気の流れに揺らめき、さながら錦絵のよう。朝夕の挨拶を交わすことすら苦手であったが、彼らのことは嫌いではなかった。自分に関わりがないのなら、穏やかに眺めることも出来る。それに、誰も。そう、誰も藤華のことなど気に留める者はなかった。いくらお世継ぎである華楠さまの乳母を母に持っていたと言っても、そんな特別視など子供がするはずもない。

 目立たぬよう自分の存在を埋もれさせることは得意だった。何とも辛気くさい子供だったことだろう。「何を考えているのか、さっぱり分からぬ娘だ」と顔見知りの侍女たちが噂しているのも知っていた。だけど、子供らしい我が儘などどうしたら言えるのか。それを考える方が藤華にとっては難しいことだった。

 ――そう、ただひとりの御方を除いては……。この場所を知っていてわざわざ探しに来る者など、存在しなかったのである。

 

◆◆◆


「ふふ、やっぱり。ここじゃないかって、思ったんだ」

 いつの間にまどろんでいたのだろうか。不意に背後から声がして、藤華は弾かれたように立ち上がっていた。そうしてしまってから、落ち着きのなかった自分の行動が恥ずかしくなる。ああ、みっともないことだ。こんな風に情けない思いをするために、わざわざ都に上がったのだろうか。

 里の館に留まっていれば、顔を合わせる相手なんて決まり切っている。都とは違って、若い男女が肩を並べて歩くことなどあり得ない土地柄だ。若い男は下男であっても恐ろしく思えて、避けていたほどである。このように間近で話しかけられたり、昨日のように多くの者が集まった場所で名前を呼ばれることなど記憶にはなかった。
 忘れた頃に届けられる季節の便り、障子越しの短い会話。顔なじみのたったひとりの侍女を除いては、ほとんどのやりとりをそんな風に済ませていたのである。

 だからお相手がどなたであろうと臆してしまったと思う。……さらに、このような高貴な御方と対しては。それを分かって頂こうと思う方が間違っているのであろうか。

「やだなあ、そんなにかしこまらないでよ。それに悪いのは藤華の方だよ、どうしてこんな風に隠れるの? 鬼ごっこなんて久しぶりで、勘が戻らずに困ったな……楽しかったけれどね」

 俯いたままのこちらのことなど全く気にしていない風に、嬉しさを押さえきれない様子の言葉が続く。心地よい音色に思わず見上げてしまうと、そこにあったのは昨日と同じ笑顔。鼻に掛かった拗ねる口調は、今までの彼の行動のすべてを物語っているようであった。藤華の視線に気付くと、大袈裟に首をすくめてみせる。

「……もう。今日は母上の言いつけをしっかり守って、昼前のお務めが全部終わるまで我慢したんだから。漢詩が専門の老師の講義なんて、眠いばかりで大変だったんだよ。それなのに、南所に戻ったら藤華はとっくに帰ったって言われちゃうし……あちこち探し回って、私はもうへとへとだよ」

 そう言うや否や、彼は先ほどまで藤華がいた場所に座り込んでしまった。なんとしたことだろう。濃紺の長袴は優美な裾文様が施されているのに、そんなことはお構いなしに土の上に足を投げ出してしまう。これには、見ている方が慌ててしまった。ああ、草の汁がシミになってしまう……やはりここは注意して差し上げた方がいいのだろうか。思いあぐねながら膝をつくと、鼻先に薄紙の包みを差し出された。

「ほら、一緒に食べようって言ったでしょう? 西南からの文が届いた日から、少しずつ集めたんだからね。女子(おなご)は誰でも例外なく甘いものが好きだから、きっと喜んで貰えると思ったんだけど」

 幼子の頃のままの笑顔で、強引に手渡される。わずかばかりの重さを両手ですくい上げると、鷲蘭が待ってましたとばかりに結んであった美しい平紐をするするとほどいた。遠目に見たときは、ありふれた品であるかと思ったが、金糸銀糸を織り込んだそれはとても高価そうに見受けられる。
 カサカサと開かれたその中から出てきたのは、柔らかな色彩のいくつもの干菓子だった。そう言えば、昨日の会話でもそのようなことを仰っていた気がする。
 甘味料が珍重される土地であるから、それがふんだんに使われた甘い細工菓子はこの上なく貴重品だ。花びらや紅葉のような簡単なかたちのものなら、藤華の里でも口にすることはある。でも、目の前にあるものはそれらとは全く違っていた。

 大きく羽を広げた鶴、花びらの一枚一枚まで丹念に再現した菊の花、みずみずしく薫ってきそうな松葉。確かに甘い香りはする、でもこんな菓子がこの世に存在するのだろうか。信じがたいほどの造形に思わず我を忘れて見入っていた。

「どれでも、一番気に入ったのをお取りよ。……ううん、全部藤華のにしてもいいから。どう? この天真花(てんしんか)をかだとったものはとくに素晴らしいよね。私も前に一度いただいたことがあるけれど、花の色ごとに風味が異なるんだ。ああ、こちらの松ぼっくりのもいいかな、黒糖の味に深みがあって口の中で溶けていくんだ」

「天真花」とは……王族の方々が香に用いる材料のひとつとなる植物だ。小手毬をもうひとまわり大きくしたほどの鞠のかたちをした花で、その花びらは一枚ずつ色を変えている。甘くそれでいて凛とした爽やかさもあり、この香を使いこなせる御方はなかなかないと言われていた。
 鷲蘭の衣に焚きしめられているのがその天真花香であることを、藤華は昨日から知っている。ほんの少し聞きかじっただけであるが、一通りきくことは出来た。

 今にもこぼれそうな花弁、いたわるように添えられる手。
 気がつけば。ひとつひとつ、つまみ上げるその指先の方に見入っていた。なんて長くてしなやかなのだろう、爪のかたちもさすがに美しくて。この透き通るような白さは一体なんと形容したらいいものか。
 自分の知っているこの御方の手は、紅葉のようにぷくぷくして愛らしいばかりだったのに。あの頃のたどたどしい指先に手渡されたのであれば、受け取る気にもなったかも知れない。

「申し訳ございませんが、わたくしは昼餉を頂いたばかりですので遠慮致しますわ。どうぞ、鷲蘭さまがお召し上がりくださいませ」

 お断りをするだけでも、とてつもなく重労働に思える。こんな風に緊張して意識している姿こそが滑稽ではなかろうか。
 藤華はどうにかそう告げると、辺りに散らしていた布やお針の道具を片づけだした。お顔をあわせたくないと思ったから、そうそうに退座したのに。一通りの文様の刺し方を沙羅様に教えて頂いたあと、しばらくは手慣らしをしたいからと後ろ髪を引かれる思いで舞い戻って来たのだ。自分でももったいないことをしたと口惜しく思っている。
 意を決して都に上がったのだ、誰もがその腕を認める沙羅様の元でしっかりと技術を学びたいと考えていた。畏れ多いことではあるが、藤華の母も言っていたように再び訪れることはない幸運なのだから。実際、今日は手を添えてひと針ひと針微妙な差し入れる角度まで教えて頂き、今までには考えられない技を習得できたと思っている。もちろん、一日二日でものにできることはないだろうが。
 だが、そうしているうちも気が気ではない。いつ、末若さまがいらっしゃるのかとはらはらしながら入り口を何度もうかがっていた。部屋の中央で針を動かしている女子たちも、何となくそわそわしているのが分かる。一体、どういうことなのだろうか。もしかしたら、昨日自分が立ち去った後で、あの御方自ら何か仰ったのかとも思う。
 今頃あの方々は、藤華のことをどんな素性の女子なのかと訝しんでいるに違いない。沙羅様が親しくお声を掛けてくださるだけでも大変なことなのに、さらに……。
 きっと御本人は深くお考えではないのだろう、そうに決まっている。だけど、なんと言ってもここは都だ。噂好きの者たちが男女を問わずに溢れている場所。とんでもない憶測が飛び交って、結局は回り回ってご自分が当惑されるのがお分かりにならないのだろうか。

「やだな、そんなに慌てることないでしょう? 私は昼の休憩でしばらくのんびりしたいんだ。ねえ、拍子木の聞こえるまで付き合ってよ。久しぶりじゃないか、いろいろ話をしよう」

 ――ほら、やはり。こんな風にくつろいでいる場合ではないのに。

 藤華は小さく溜息を落とすと、仕方なくその場に座り直した。決して、その意をくんだわけではない。ならばどうしてかと言えば、甘える瞳の御方がこともあろうに自分の重ねの裾をしっかりと敷いてしまっているのだ。これでは強引に引き抜くことさえ叶わない。そう言えばこんなやりとりは、以前もよくあったことだ。もしや、覚えていらっしゃるのだろうか。
 いくら山道とは言っても、重ねも羽織らずにどうして御館近くの兄の居室まで戻れるだろう。そのようなみっともない真似が出来るはずはなかった。小袖と袴を合わせた上に、もう一枚肩から衣を掛けることで一揃えの装束になるのだから。

 お小さい頃ならば、それなりに取りなす方法も心得ていたが、このように変わられてしまってはどうしようもない。前もってこんな再会を予想できるはずもなく、気は動転するばかり。すっかり参ってしまっていた。まあ……、せめてもの救いはこのようにひとめにつかない場所であったことだろうか。

 昼過ぎの気は山際から谷に流れていく。
 ゆらりゆらりと茎の細い秋草が揺れ、色づき始めた彼方の山々まで一筋の道を作る。普段は細く開けた障子の隙間から、祖父が自慢する庭を眺めるに留まっている身だ。自然な姿でそこにあっても一枚の絵に見えるような風景は心地よい。しばらくはそんな時間を楽しめばいいのだと思い直した。

 もともと、おとなしくしているのは得意中の得意である。藤華は片づけかけた道具をもう一度広げると、せっせと針を動かし始めた。何度も何度も教えられた通りに針を差し入れ、引き抜く。指が刺し方を覚えてしまうまで繰り返し幾度でも続けることが習得への近道なのだ。
 傍らにいらっしゃる御方のことは、忘れた振りをすることにする。面白みのない女子だということを思い出してくだされば、二度とこんな馬鹿げた真似はなさらないはず。……そう期待して。

 ――全く、こんなにご立派になられたのに、どうして子供じみた真似をなさるのだろう。もともと人なつっこいたちの方だ、古なじみの顔を目にして何となく声を掛けてくれたのか。

 淡い色の糸を刺す霞の模様は、あっさりしたように見えてかなり入り組んだ針目になる。無駄なことなど考えずに無心に針を動かせばいい、それだけでいい。何度指先に言い聞かせても、いつになく手元が震え、大好きな針に没頭することが出来なかった。

 

「まだまだ元服なさってから日が浅いからね。幼い面もおありになるが、なかなかに才のある御方だよ。お付きの侍従たちも学者たちも、さすがに驚きを隠せない様子だな。学術だけに留まらず、芸の道にも長けているとなれば、ただ御血筋がいいと申し上げるだけでは済まされないだろう」

 里に戻って以来、その消息もあまり耳に入って来なかった末若さまのその後を知るのはそれほど難しいことではなかった。人目を集めるのは相変わらずらしく、どこにいてもその話は聞こえるのだと言う。御館から戻った兄も、こちらが訊ねる前にいろいろと話してくれた。

 藤華が知っている末若さまは、それほど周りの子供たちから目立って優秀ということもなかったように記憶している。末っ子特有の愛らしさで人の心を掴むのだけは上手だと言われていたが、上の若君や姫君方とは到底一緒になれるわけもなかった。藤華と同じく、末若さまも少し間をおいて出来た御子だ。たくさんの兄姉があっても、何となくひとり子のような気楽さがあったのだろう。
 そして似たような立場にありながら、ふたりの気質は全く正反対であった。それは周りにいる誰もが認めていることであったし、当の藤華自身もそう感じていた。あのように誰からも好かれていると信じて振る舞える御方は、なんとお幸せなんだろう。もちろん妬みなどではなく、素直にそう思っていた。

 

「……ねえ、里のことをいろいろ教えてよ。どうして黙っているの? あなたの御祖父様ご自慢のお庭では、今は何が盛りなんだろう。天の色なども違っているのかな。西南はとても暖かくて住みやすい場所だと聞くけど……」
 鷲蘭は相も変わらず、藤華が疎ましく思っていることなど少しも気にする風でない。松の緑をそのまま染め出したかのようなしっとりした重ね。その袂を揺らして、こちらに身を乗り出してくる。お小さい頃ならば可愛らしかったその仕草も、大人をしのぐ背丈になれば不似合いだ。
 切れ長の涼やかな目元は、大きく見開いたときだけ昔の面影が宿る。だからといって、懐かしさから情が湧くこともないが。

「ああ、そうだ。久しぶりに手習いの成果を見てよ、あの頃のように。不出来なところを指摘してくれると嬉しいのだけど……、書も絵も笛も武術も……たくさん頑張ったんだよ? 馬に乗るのだって、都で一番上手いって褒められるんだから」

 とうとうしびれを切らしたのか、そんな風に言い出す。さすがに無視し続けることも出来なくなり、藤華は針の手を止めるとそちらに向き直った。ただ、それだけのことなのに、鷲蘭の瞳が嬉しそうに輝くのも理解出来ない。

「……申し訳ございませんが。わたくしは何事につけ不勉強ですので、末若さまのお手前に言葉を添えることなど出来ませんわ。そのようなことをお望みなら、もっと才のある方にお願いしてみては宜しいかと。こちらにはそのような方があまたといらっしゃるでしょう……?」

 にこりともせずにそんな風に言ってのけるなんて、どこまで情の薄い女子だろう。自分でも悲しくなる。でも、出過ぎた真似をして恥をかくのはもっと嫌だ。自分だけではない、軽はずみな振る舞いは里にいる両親や都に残っている兄にまで迷惑を掛けることになるかも知れないのだから。
 人よりも目立たぬようにしていれば、褒められることもない代わりに蔑まされることもない。出来ないことを笑われて恥をかくのは何よりも嫌だった。何もない自分であることは、己が一番よく知っているのだから。

「……ふうん、そのようなことを気にするんだ」
 隣で立ち上がる気配がする。やっと気付いてくれたのだろうか……、寂しい反面ホッとする。これで解放されるのだ。そう思った次の瞬間、藤華はさらに強い驚きを覚えることになる。

「じゃあ、長刀はどう? それならば分かるでしょう、あなたの父上の得意だから。そう、この前雷史から直接稽古を付けて貰ったんだ、紅葉の舞。見てみてよ、ね?」

 そう言うやいなや。鷲蘭は衣の乱れを整えると辺りを見渡した。視線が止まった先。細く長く伸びたひと枝、それを腕を伸ばして手折る。自分ではどんなに背伸びをしても届かないであろう高さを難なく超えてしまうことにまずは驚いていた。どうやら、背丈ほどもあるこれを長刀に見立てようと言うらしい。

「いい? ……危ないから少し下がっていてね」

 そう告げて、口元から微笑みが消える。ここは緩やかとはいえ斜面。もしも足でもくじいたらどうするのだ。そう言ってお止めする間もなかった。

 

 長刀を用いた舞は、宴で披露される演舞の中でも特に人気がある。原則として男舞いとされ、優美に舞いながらも、そこには張りつめた緊張感が絶えず見え隠れするのだ。長い剣を自在に扱いながら、時には背丈ほども舞い上がる。長い衣の袖が、動きに後れてたなびいていく様も美しい。そのためにわざわざしなやかな薄物の装束をまとうのだと言われていた。

 藤華の父・雷史は年若い頃からそれを何よりも得意としていて、里の大臣様にもよく披露していたと聞いている。もちろん、子供の頃から幾度となく父の晴れ舞台は拝見させて頂いていた。宴もたけなわで最高に盛り上がった頃に、決まって父が呼ばれる。立ち姿だけでも何とも華やかで、艶やかで。りりしいそのお姿は、身内でありながらも確かに惹き付けられるものがあった。

 

 ひゅんと、枝先が鳴る。正式な舞い装束ではないにせよ、目の前でたなびく袖はまるで生き物のようにみずみずしく見えた。

 鷲蘭の髪は元服した姿通りに高い場所でひとくくりにされていたが、他の者とは異なり、毛先は腰よりも長く伸ばしていた。これも兄の話であるが、何でも元服の折、立ち会った神官があまりの御髪のお美しさに断ち切ることが出来なかったのだとか。それが漆黒の帯となり、さらりさらりと左右に流れていく。
 足裁きも危なげなく、舞い上がる高さも位置も申し分ない。美しく磨き上げられた板間ならいざ知らず、このような不安定な場所で難なくこなしてしまうとは。
 お姿のお美しさに技術の正確さも上乗せされ、もはや名人の域に入っているのではないかと思われた。元服して間もない若い御方に、そんな風に思うなんてどうしてしまったのだろう。藤華は自分でも分からなかった。

 ひらひらと舞い降りるが如く。最後はその身体が一枚の葉に成り代わってしまったかのようにその場に崩れる。その瞬間まで、藤華はたったひとりのための舞台から目をそらすことが出来なかった。

 かさかさと、落ち葉の舞う音が耳に戻ってきて、初めて聴覚すらもなくしていたことに気付く。

 

「……どう? まだまだ、あなたの父上には足りないところばかりでしょう」

 そう訊ねられて、慌てて目をそらす。ああ、そうであった。これは末若さまの手習い、本物の宴などではなかったのに。それすらも忘れていたなんて。

 ありふれた風景すらも、色づくほどに艶やかで。俗世に住まう者が創り出す舞いとは到底信じられなかった。こんな風に舞う方がいらっしゃるなんて。それも何の構えもなく、ただの戯れのようにやり過ごしてしまうのだ。あまりのことに、未だに頭が半分夢を見ている心地がする。

「黙っていちゃ、分からないでしょう。私は藤華に褒めて欲しくて頑張ったのに、どうしてなの……?」

 

 ――この御方は、少しもご存じではないのだ。今は、そう思うしかない。摘み取る瞬間の花の美しさを思い知らされたかのような気分である。

 久方ぶりの都は足を向けるだけも恐ろしくて、目には見えない鬼が住まっているような恐怖さえ覚えていた。だが、違う。本当の鬼はここにいた。美しい形(なり)をして、人々を魅了する。何食わぬ顔をして、何よりも大切な心を盗んでいく。……惑わされてはならぬのだ、やり過ごさなくては。

 

 どうにか答える言葉を探そうと、丘の下を見れば。己を飾ることなど知らぬ花々が、変わらずに午後の日差しを浴びていた。



(2004年12月30日更新)

 

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