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…3…

「玻璃の花籠・新章〜藤華」

 

 

 裳着を迎えたというのに、一向に色めいた話がない。そんな末姫君の先行きを案じている館の雰囲気はひとりで部屋の籠もっていても伝わってきた。そして、最初にしびれを切らしたのが隠居した祖父母たち。最初のうちはやんわりとした物言いであったが、このままでは埒があかないと悟ったのか、その言葉もだんだんと厳しいものに変わっていった。

「情けないとは思わないのですか、このままではいい笑いものになってしまいますよ。私だって、恥ずかしくて外も歩けない有様です」

 年老いて髪の色が褪せようとも、しゃんと背筋を伸ばしてきびきびと立ち振る舞う祖母。彼女は折々にちくりちくりと藤華に忠告した。おとなしい娘の気質を良く理解してくれている両親は決して強く考えを押しつけて来ることはなかったが、それすらも気丈な祖母にとっては面白くないらしい。

「都暮らしが長くて、さぞ教養があると言いたいのでしょう。でも、女子(おなご)がそのようにお高くとまっていて得をすることなど何もないのですよ。やはり朗らかで愛嬌のあるのが一番です。お前は宴席にもほとんど顔を出さぬではないですか、……それでは薄気味悪い存在だと思われても仕方ないことでありますよ」

 大変申し訳ないことであるが、藤華はこの祖母が苦手であった。祖父の方もいろいろと難のある御方であったから言うに及ばずではある。でも、彼の場合は何を言っても反応が戻ってこない陰気な孫娘ははなから相手にする気もないらしい。それこそ言葉を掛けられた記憶もあまりなかった。しかし祖母の方はまるで責任感にでも取り憑かれたかのようにしつこく食い下がってくる。
 娘時代は大変美しく聡明な方であったらしい。あの父を生んだ人であるから、その姿を想像するのは容易いこと。聞けば、西南の大臣家の御子息を始めとして多くの求婚者がいたらしい。それも彼女の自慢のひとつだった。
 こちらに嫁いできてからは、女癖の悪い祖父が次々に手を付ける側女たちをもまとめ上げ、名実ともに領主の館の女主人をしっかりと務めている。それは祖父が跡目である藤華の父に家督を譲り隠したのちも少しも変わることはない。領主の館を息子夫婦に明け渡すこともなく住まい、実質的な権限も譲ろうとはしない。まあ当の両親たちは新婚時代を過ごした山裾の居室で気ままな暮らしを楽しんでいるようであるが。

 祖母は藤華の控えめすぎる性格がとにかく気に入らないようであった。顔を合わせるたびにあれこれと注意されるのは子供の頃からのことで、さすがの彼女もとうとう部屋を与えられていた中央の屋敷を出て、敷地の奥にある小さな離れ庵に移っている。あれこれと不便なこともあるが、心の平穏には換えられない。
 ようやく安住の地を得たと思っていたのだが、そうなれば今度はことあるごとに祖母からのお呼びが掛かる。支度をして祖母の部屋まで出向けば、待っている人の長々とした小言を浴びる羽目になった。
 きつい言い方をされると、それだけで心臓が縮み、震え上がってしまう。そうなればもう話の内容を理解することなど出来るはずもなく、ただうなだれて時間の過ぎるのを待つだけであった。

「全く……お前の父もすっかり尻に敷かれて。何もかもがあの女の言いなりなのですから、情けない限りです。このままでは取り返しのつかないことになりますよ、だいたい領下の者たちがお前のことをなんと言っているか知っているのですか?」

 祖母の部屋から眺めることが出来る御庭は、そのころ春の花の盛りであった。薄桃の花がしだれの枝から流れ落ち、柔らかな光を浴びている。しかし、どんなに美しい光景を目にしようとも、藤華の心にはいつもどこかに半分置き忘れたかのような空白があった。
 まっすぐに自分を見下ろす祖母の瞳は怒りと憐れみに満ちている。あちらは一段高くなった敷物に座しているので、その威圧感は尚更であった。

 ――領下の噂……。宴席の場に現れることなくひなびた庵に閉じこもっている藤華のことを、あれこれ推測されるのは仕方のないことなのか。人前に出ることの出来ないほどのとんでもない醜悪な姿をしているに違いないと、噂は噂を呼ぶ。庵には懇意にしている侍女の他はほとんど人の出入りもないため、誰も立ち寄りたくないほどの悪癖を持っているとも言われていた。
 耳に入れるつもりなどなくても、防ぐ手段はない。だが、それにより、さらに人の足が遠のこうとも、藤華は全く気に留めていなかった。誰も本当に姿など知らない。だからこそ、下女の振りをして耕地に出ることも出来る。刺しものの他に染色なども嗜んでいたので、染料となる材料を自らが見繕うのも楽しい時間であった。
 良家の娘であれば、習い事なども師がこちらに足を運ぶのが慣例。もしもあちらに出向くとなれば、輿や牛車を用意してたくさんのお付きの者を連れて行かなくてはならない。しかし領民にもほとんど顔を知られていない気楽な身であれば、そのような仰々しい仕立てなど必要ない。地味な色目の衣を身につけて村娘を装えば、たったひとりの侍女を伴ってどこにでも出かけて行けた。

 もちろん、そのような行為は祖父母には内密にしている。もしも知られたりしたら、ひどくお叱りを受けるのは分かり切っていた。

「まずは、その陰気くさい性格をどうにかしなくてはね。お前はゆくゆくはしかるべき家の女主人として立派に務めていかなければなりません。夫を支え、使用人たちをまとめ上げるのは女子の器量というものですよ。この家の姫ならば、それを期待されて当然。
 ……それから、もっと役に立つような手習いをなさい。良家の姫君に手仕事など必要ではありません、刺しものなど嗜む暇があったら、和琴の稽古をなさい。幸いご隠居様は宴を催すのがことのほかお好きではありませんか、そのようなときに腕を披露したら宜しいのですよ。そのような控えめな色目の衣装ではなく、もっともっと華やかなものを私が作らせましょう」

 こちらが黙っていれば、祖母は喜々として話し続ける。この頃ではいくらその威厳を保とうとしても、周囲の者は期待に応えてはくれない。それが腹立たしいらしい。藤華の父が正式に領主として認識されるようになった今日、皆が御館の女主人とするのは藤華の母をおいて他にはいないのだ。だが、祖母はそれを認めようとはしない。
 ただ――祖母の言葉はきつくても、その内容に間違いはないように思われた。確かに自分は西南の集落でも五本の指に入ると言われている重臣の一族の娘。不本意であるとはいえ、その立場にあればそれなりの振る舞いが期待されても仕方のないことだと思う。もしもあまりにもふがいない存在となれば、一族の恥となるのだ。自分ひとりがあれこれ言われるなら仕方ない。だが、皆の迷惑となるとすれば話は別だ。

 ……でも。

 藤華は袖の中に隠した手をぎゅっと握りしめた。期待される通りに出来るわけもない、きっと何をしても失敗をして恥をかくのだ。そして領主の娘の癖にと言われるに違いない。その時のことを考えただけで、恐ろしくて仕方なかった。
 幼い頃はそれでも良かった。大抵のことはやり過ごすことが出来たし、両親も守ってくれる。上の兄や姉もしっかりとしているので、末子の藤華が華やかな場に出なければならないこともそう多くはなかった。皆の影に隠れていれば、それでどうにかなったのだから。
 だけど……、今度ばかりはそうはいかない。嫁ぎ遅れの娘がいつまでも実家に留まっていては、家の恥となると言われるのだ。どんな相手でも構わないから、縁づくようにとまで言い渡される。突然そんな風にあからさまに言われても、困り果ててしまうだけだ。このまま尼にでもなれたらいいのにとすら思う。

 家取りの姫ならば、実家に留まることも可能だろう。婿を迎えるかたちになり、実生活は少しも変わらずに済む。だが、末子の藤華にはそんな気楽さがあるはずもなかった。正式に跡目に決まった二番目の兄も妻を娶って数年になる。厄介者の身の上としては、やはりどこか適当な嫁ぎ先を見つけるしかない。それならば、いっそのこと領下の者に縁づいて庶民となることも考えたが、そうもいかないと言う。

「……なんと恥ずかしいことを。そうでなくても、お前の兄姉たちは結婚を軽く見過ぎていてなりません。いつも言っているように、そもそも男女の縁は家と家との繋がりを確実なものにするための大切な手段。それをあの者たちは……あんな役にも立たないような相手ばかり見つけてきては、今に家が成り立たなくなりますよ。ああ、情けないこと。それもこれもお前の父上母上がふがいないから……」

 祖母の話が進むと、いつでもその矛先は両親の方に向けられていった。それも藤華にとっては不本意なことで、我が身を呪う原因のひとつになっている。
 もともと祖母は、戻り女である母がこの家に嫁いでくることを快く思っていなかったらしい。「戻り女」とは一度嫁ぎながら離縁された女子のことを指す。まあ、母の場合は現竜王・亜樹様に仕える侍女であったので、その肩書きが悪い方に取られることはない。とはいえ、自慢の息子に使い古しの女子を押しつけられたとかなり立腹していたと噂されている。
 当の本人たちは、そんな祖母の怒りなどどこ吹く風。母が輿入れをしてからと言うもの父はそれまでの女遊びもぱたりと収まり、仲睦まじい姿はどれだけの時を経ても変わらない。両親の甘やかな語らいには子供心にも声を掛けるのを遠慮してしまうほどのものがあった。
 しかし……祖母はまだ許したわけではないらしい。母が乳母として再び都に上がることが決まったとき、父がすべてを捨ててその後を追っていったこともそれに拍車を掛けている。何もかもが面白くない。そこに登場するのが末娘の藤華である。自分の意にそぐわないように育ってしまった孫娘は、祖母にとって目の上のこぶ以外のなにものでもない。

 ――もしも、お祖母さまの意にかなった女子になれたなら……。

 どんなにか、それを願ったことだろう。それなりに無理な努力をしたこともある。しかし、必死に頑張ったところで持ち前の気質が変わることはない。あまりに自分を責め続ける娘が痛々しくて針の稽古を勧めたのが他の誰でもない、あの母であったのだ。

 

 その日。いつものように重い気持ちで祖母の元に出向くと、今までにない晴れやかな顔に出迎えられた。一体何が起こったのかと驚きのあまり声も出ない藤華に、祖母は喜々として話し出す。

「もう、何も案ずることはないのですからね。この婆がお前のために一肌脱ぎましたから……」

 後に続く言葉には、もう答えを探す気力もないほどであった。
 聞けば祖母は、領地の内外の名家をいくつも選び出し、その中から藤華と年回りのいい頃の殿方を幾人も見つけたのだという。そうした上で、すべての家に書状を送っていた。何という早業であろうか、これでは断る隙もない。「我が家の姫を是非貰い受けて欲しい」――あからさまではないにせよ、その内容は有無を言わせぬものがあった。

「お前は何も心配することなどありません、今にいくつもの文が届くはず。その中から一番気に入った者とねんごろになればいいのですから……何、閨の睦みごとに会話など必要ありませんよ。お前は黙ってお相手にすべてをお任せなさい」

 目の前が真っ暗になるというのは、このようなことを言うのだろうか。こともあろうに権力を振りかざし、孫娘を売りに出すとは。怒りよりも悲しみがこみ上げてきて、もう顔を上げることも出来なかった。そんな藤華のことをどう思ったのか、祖母は上機嫌で婚儀の日程などを進めている。人を人と思っていない行為に肉親ながら憐れみを覚えていた。

 ――そんな。わたくしなどを押しつけられる殿方は、なんと不本意なことか。皆、あれやこれやと理由を付けて断って来るに違いない。だけど、そんな風に気を遣わせるだけで申し訳ないことだわ。

 藤華の予想が当たったのか、それから半月ほど経っても新しい便りなど届けられることはなかった。落胆する反面、ホッと胸をなで下ろす。祖母の部屋の方でも雲行きは怪しいらしく何度も呼び出しが掛かったが、気分がすぐれないからと断った。

 そして、もう悲しみも薄れてきたときに。見慣れぬ筆跡の文が藤華の元に届いたのだ。
 侍女が先に中身を確かめた上で手渡してくれる。震える指先で開いた薄紙には、かっちりとした四角い筆文字が並んでいた。決して達筆と言えるものではない。だが、誠実な人柄がにじみ出るような温かな筆遣いである。こんなにきちんとした恋文などついに手にしたことがなかったが、祖母に言いつけられていたからではない、いつの間にか自分の気持ちで返事をしたためていた。
 次の便りにあった通りに、三日の後に差出人であるその人が藤華の庵に現れた。もちろん、面と向かって対することなど出来ない。本来ならば、正式なやりとりは御簾を隔てることになるのだが、気安い庵にそんな洒落込んだものがあるはずもなかった。障子を少しだけ開けて、その奥に置いた几帳(きちょう)の影から覗く。
 藤華の祖父が自慢する庭のしつらえは敷地内の隅々まで行き渡っていたから、藤華の庵のから見える植え込みもそれはそれは見事なものだった。表のような遣り水などはないが、細い小川が流れており、そこに生えている水草も柔らかな姿で楽しむことが出来る。
 だが、そうであってもどんなにか驚いたことであろう、領主の館の姫君ともあろう者が、このようなひなびた庵にひとりで住まっていて。いきなりのお出ましではたいしたまかないが出来るはずもない。慌てふためく侍女が茶の支度をしているうちも、訪れたその人は苛立つこともなくおっとりと縁側に腰を下ろしていた。

 藤華の父が治めている領地の一番西に位置する、山裾の土地を任された地主の跡目だと聞いている。年の頃は藤華の長兄と同じくらいだと言うから、一回りほども上になるのか。肩幅も広くがっしりとした体つきは、日に焼けた健康そうな肌ととても良く似合っている。若者にありがちな浮ついた軽さなどなく、落ち着いた物腰に安堵した。

「地主とは名ばかりで、やっていることは農夫と変わりませんよ。毎日民に混じって畑を耕したり、牛の世話をしたりしています。任された土地は広いのですが、それほど肥沃な土壌でもありませんから、暮らしも楽ではありません。こちらにいらっしゃるようにはいかないと思いますが……」
 藤華の祖母から文が届いたとき、少なからず動揺したと素直に告げてくれた。一家の跡目を任された者として、きちんと妻を娶り家を盛り立てなくてはならないとは知っていたが、どうしても面倒なことは後回しになってしまう。こんな年まで独り者でいるなんて、さぞ変わり者に思えるでしょうと笑った口元から白い歯がこぼれた。

「恋」と呼ばれる感情を抱いたことなどなく、一生縁遠いものだと諦めていたはず。だが、時折訪れてひとときを過ごす男のことを藤華はいつか特別の存在として思い始めていた。幾度も水を通した衣はそれでもこの男の一張羅なのか。肌に馴染まない正装束を身につけている背中が張りぼてのように見える。いつでも同じものを身につけている気取らない姿も好感が持てた。
 短い会話をするだけの時間がとてもあたたかくて、安らげる。こんな時間をこの先もずっと過ごせるなら良いのに。男が衣の座り皺を直し、立ち上がる姿に寂しさを覚えた。
 殿方とは早急にことを運びたがるものだと聞かされている。最初に訪れた夜に男女の関係を結ぶことも少なくないとか。だから、こんな風にこちらの気持ちに合わせて少しずつ歩み寄ってくれる心遣いが嬉しかった。祖母などは、もしもあちらが臆しているようならばこちらから誘うこともはしたなくない、などと息巻くがそのような気分にはどうしてもなれない。

 ――あの指先に触れてみたい……。

 野良仕事で少し荒れた指先が茶飲み茶碗を持ち上げる仕草を目で追いながら、いつの間にかそんな風に考えている自分がいた。信じられないほどに不思議なことである。そのころには目の前を覆っていた几帳などもう取り払っていて、障子戸の隙間から男の姿を見つめることが出来るようになっていた。
 春から夏へ。夏から秋へと移り変わっていく庭を眺めながら、もしかしたらこの風景を来年はここで見ることがないかも知れないと思う。優しい微笑みといくらかの野菜を手に訪れてくれる男。髪に香油を垂らして念入りに梳きながら、その姿と届けられる文を待った。

「あなたは本当にお優しい方だ。自分などには申し訳ない限りのお人で……」
 今までずっと、爪弾きにされて生きてきた。自分の存在がこんな風に暖かく迎え入れられることなんてなかった。このまま幸せになっていいのだろうか、自分などが。長い間一族のお荷物のように思われてきたのに、本当にいいのだろうか……。

 幸せになりたかった、でも怖かった。人を愛する術も愛される術も知らないままに過ごしてきたから。だけど、今度こそは。自分の手に届くものを手に入れて、ささやかでも満たされた心で一生を送れるかも知れない。柔らかな希望の芽がふくらんで、次の瞬間に冷たい名残の寒さにかき消される。早くこの不安を取り去って欲しい、目覚めることのない夢を見たい。

 羽ばたくための準備を繰り返しながら、心細さを抱えてその時を待っていた。そう……、その時間こそが己の人生の中で一番幸福だったと気付くのは、それからすぐのことであったのだが。

 

◆◆◆


「……まあ、それではお里に決まった御方がいらっしゃるのね。良くその方がお許しくださったわね……、きっと今頃さぞ心配なさっているのではなくて?」

 暖かい日差しが降り注ぐ室内。針を動かしながらも、いつか和やかなおしゃべりが始まる。今日は朝からお后様が御用事でお出ましがなかったので、緊張の取れた一同はくつろいだ様子でおのおのにいくつもの話の輪を作っていた。

「ええ……、でも彼は待っていて下さるって。こんな機会は二度とないのだから思い切り頑張っていらっしゃいと言ってくれたわ」

 金色の髪の娘が、菫色の瞳をキラキラと輝かせながら答えると、皆はほうっと溜息をついた。やはり年頃の娘たちであるから、少なからずそのような話題は出てくる。中にはもう夫となった人を残してきた者もあったし、もっと心得た者では恋人とともにこちらに出向き、男の方は短期間の出仕をしているという話も耳にした。そうではなく、こちらでねんごろな相手をさっさと見つける者もある。
 若さのはじけた笑顔はまぶしくて、それがそのままこの部屋の明るい雰囲気を作り出しているようであった。傍目には軽々しく映るこんな光景も、沙羅様は決してたしなめたりなさらない。おしゃべりがこうじて手が留守になるのはさすがに困るが、そうでなければ和やかな雰囲気は良いことなのだと仰る。

「作り手の心映えが、衣にも映し出されますからね。明るい穏やかな気持ちで作られた方が、素晴らしい出来になるのですよ」

 針はただ正確に刺せばいいのではない、もっと奥深いものなのだ。手習いを受けた師が生真面目なたちの者ばかりだったので、いつでも針は背筋を伸ばして緊張して刺し進めるものだと思っていたのに、驚かされるばかりである。言われるとおりに心の中をつとめて明るく和やかにしながら刺してみれば、何となく針目も嬉しそうに見えてくるから不思議だ。

「いいわねえ、私も頑張ろうっと。ぼんやりしていたら、妹の方に先にいい人が出来てしまって里では肩身が狭いのよ。本当に嫌になるわ〜」

 そんな声が上がって、また一同はどっと笑い出す。皆それぞれに里に戻れば自分たちの生活が待っている。だから、こうして今はすべてを解き放って楽しく過ごしたいのだろうか。弾んだ雰囲気に包まれていれば、難しい悩み事などを思い起こす暇もない。初めのうちこそは毎朝の出仕が億劫で仕方なかったが、日を重ねるごとに顔なじみも増えてそれほど緊張もしなくなっていた。

「……そう言えば。このところ、鷲蘭さまはこちらにお出ましにならないのね。寂しいわ、あんな風にお近くでお姿を拝見出来るなんてまたとない機会なのに。……ねえ、藤華様」

 突然、話をこちらに振られて、藤華はもう少しで針目をおかしくするところであった。下を向いたまま言葉を探していると、他の女子も話しかけてくる。

「でも、羨ましいわ。藤華様はあの秋茜様のご息女なんですもの。華楠様の乳母として立派にお務めになった話は私の里にも届いているわ、とても穏やかで聡明な方だって。その縁で、鷲蘭様とも親しくされていたなんて。ああ、私もそんな母上が欲しかったわよ。だからなのでしょうね、藤華様もお年の割にとても落ち着いていらっしゃって。私よりも年下だと聞いて驚いたわ」

 親しく話をする前は、藤華は皆にかなりの年長だと思われていたらしい。身につけている衣も地味な色目であったし、物腰も穏やかに落ち着いているのだと言う。いつの間にか「お姉様」的な存在として皆に認識され、こちらとしては気恥ずかしいばかりだ。
 集まった娘たちの間でも、鷲蘭の人気は相当なものであった。あのお美しさに加えて、学問から武術、雅楽まで何事にもぬかりなく極められている。どんな宴席でも重宝され、その名を知らぬ者は国中を探してもいないだろうとまで言われていた。もしかすると、御兄上である華楠様よりもむしろ知名度があるかも知れない。華楠様の次の竜王に推す声も後を絶たないと聞いている。
 そんな話題が出るごとに、ますますあの御方の存在は藤華にとって遠いもののように思えていた。別れてからの十年の月日はふたりをどこまでも隔ててきたのか。

「さあ、……お務めが忙しいのではないかしら。わたくしも詳しいことは何も存じていないので、お答え出来ないわ」

 にこやかに微笑みながらそう答えつつ、己の心の臓が胸を突き破って飛び出してこないことを願った。こちらにお出ましにならぬよう、必死に説得したのは当の藤華自身なのである。あのように皆の前で親しげに話しかけられてはたまらない。

 

 ……だけど。

 その代わりに、と鷲蘭が出してきた条件にはただ頷くしかなかった。疲れ目を癒す振りで額に手を当て、軽く目を閉じる。その瞼の裏にはきらめく舞い姿が今も映っていた。



(2005年1月7日更新)

 

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