竜王様の御館にお仕えするあまたの者たち。その複雑な人間関係を幼くして感じ取ってしまったことが、藤華を雅な世界から遠ざける理由のひとつになっていた。
高貴な御身分の殿方が正妻の他に何人もの女子を囲うことは、この地においてはそう珍しくはないこととされている。 ただ今の世にあっては、この上なく高貴な身の上の竜王様が二代に渡りその慣例を破っているので、庶民の間にも次第に一夫一妻の考え方が浸透しつつあった。 竜王様の御許に集落の有力者たちが手塩に掛けた娘を送り込む――そんなことが公然の行いであった頃、御館内部は今よりももっと張りつめたものだったに違いない。正妃様に勝るとも劣らない後ろ盾とお美しさ、さらに才の高さを持ち合わせた女子たちが陰に日向に競い合う。それぞれにお仕えする者たちをも巻き込んだ壮絶なものであったことは容易に想像出来る。 現竜王・亜樹様にまつわる話も決して美しいものばかりではない。もともとは身分の低い御母上を持つ沙羅様を憎々しく思っていた有力者、西南の大臣家がご自分の子である亜樹様を強引に竜王家の跡目に据えたと聞いている。そのような政略的な成り行きを聞けば、やはり血なまぐさい行く末が案じられるところであるが、どうであろう。今や、お二人の仲睦まじいお姿は都中の憧れの的となっているではないか。
高貴な御身分にある方の妻女が産んだ子には、「乳母(めのと)」と呼ばれる育て親が必ず付けられるのが通例である。その名の通り乳を与えるだけの存在と思われがちだが、その実は深いものを含んでいた。 場所が竜王様の御館ともなれば、その役割もただごとではいかなくなる。同じ正妃様のお産みになった御子様方であっても、それぞれに違う乳母がついていた。そのすべてが、有力な集落から遣わされた選りすぐりの女人たち。それこそ集落の威信をかけた立場で送り込まれて来たのである。 藤華の母は、先に述べたように今や次期竜王としてのお立場が正式になった跡目・華楠様の乳母であった。これも母自らが望んだことなどではない。おひとり目の姫君の乳母を宿敵でもある「北の集落」の長である一族に奪われた「西南の集落」の大臣家が、その巻き返しをかけて必死に獲得した地位であったのだ。 穏やかな心根の方だから、決して自らの苦しみを語ったりはしない。だが、母が西南の大臣家のために幾度もその身を引きちぎられるような思いを重ねてきたことを、藤華は知っている。人としての心など持ち合わせていない人形のように、右から左へと動かされる。それに異を唱える態度など取れるはずもなかった。 荒れ狂う急流の中を心許なく翻弄される一葉の如く。母の生きてきた道は想像も出来ぬほど険しかった。その苦しみの上に、今がある。この先もさらに父とともに幸せに過ごされることだけが藤華の願いだ。
母ほどの悲痛さはなかったにせよ、やはり女社会での難しさは竜王様の御子様方のお住まいである「南所」において、人の心を巣くうようなものがあったのだろう。それは、渦中の外からひとり眺めていらした正妃様にとっても、胸が痛む出来事だったに違いない。 「最後となるであろうこの子は、是非とも我が手でゆっくりと育てたいものです」 鷲蘭さまを身籠もられたとき、沙羅様は腹心の侍女にそう仰ったと聞いている。 やはり竜王様の御子の乳母を出すことが出来れば、集落全体の栄えとなる。乳母を始め側近を務めることになる権力者たちの子は、幼い頃から竜王様の御館に出入りすることになり、御子様とご一緒に遊んだり学んだりすることを許される。そして、そのままご学友となり、さらには御成長後も側近となっていくのだ。それは藤華の長兄などを見ていれば明らかである。 お言葉の通り。月満ちてお生まれになった末若さまは、お乳が離れるまでの丸一年を沙羅様の御許で過ごされた。その後は元の通りお忙しい御公務に戻られたが、他の御子様方にも十分な愛情を注いだそのささやかな時間がなによりも嬉しかったと後から話されていたと伝えられている。
◆◆◆
すっきりと晴れ渡った天の色はどこまでも青く澄んでいて、染まりゆく季節を待ち望んでいるようだ。里の屋敷で眺めた色と、どうしてこんなに違うのだろう。どこまでも繋がっているのだから、同じものだとばかり考えていたのに。 昼の刻まではみっちりとお務めをこなしていたが、座り仕事であったので体力は有り余っている。他の者たちのように、あれだけ隙間なくおしゃべりをすればそれなりの疲れも覚えるだろうが、藤華のように黙々と仕事をこなしていればそんな心配もない。でもこれ以上、足を速めることはどうしても出来なかった。
――と。 気の流れに乗って、澄んだ音色が響いて来る。高く飛ぶ鳶の歌声のように伸びやかで、心が洗われていくようだ。思わず聞き惚れてしまい、はっと我に返る。丘の上に現れた樹の向こう、濃紺の袖が揺れた。 「遅いよ、藤華。もう、お務めはとっくに終わったはずでしょう? 知っているんだからね、私が部屋の前を通ったときはもう皆が片づけをしていたよ。今日は少し早く来てくれると楽しみにしていたのに……」 こちらの足音に気付いたのか、鷲蘭は幹の向こうからひょっこりと顔を覗かせる。もちろん、満面の笑みを浮かべて。手にしていた横笛を懐にしまうと、軽い足取りでこちらに進んできた。いつものように高く結わかれた髪はさらさらと揺れ、この世にふたつとない艶めかしいほどに美しい平帯を思わせる。 「またそのように、目立つような真似をなさって。どうしておとなしくお待ち下さらないのです?」 意識して視線を外しながら、藤華の口からこぼれたのは相変わらずの憎まれ口であった。本来ならば、自分よりも遙かに高貴な身の上の方にこのような言葉を申し上げることなど出来ない。だが、どうしてもこの御方の前では、お世話係の侍女のように振る舞ってしまうのだ。 「そんな、……あなたが悪いんだよ」 こちらが驚いて顔を上げるのを待っていたように、おやおやと首をすくめる。唇を尖らした仕草は、あの頃と少しも変わらないのに、何故時だけが過ぎ去っていったのだろう。 「私は長いこと、ずっとあなたの姿を見ていたよ。こうして丘の上から眺めれば、向こうの辻から曲がってきたのも分かるんだ。だけど、ひどいな。もう少し早足になってくれてもいいのに。ならば笛の音でも聴かせれば少しは急いでくれるかと思ってね……、どう? なかなか上手だったでしょう」 その言葉には返事をせずに、藤華はさっさと彼の前を通り過ぎた。大木のあちら側に回らなければ、下の街道から姿が見えてしまう。いくら人通りの少ない場所だからと言って、油断は禁物なのだ。目の前の方が、少しも気遣いを見せて下さらないのも恨めしい。 「昼餉も一緒にとろうって約束したでしょう、今日はどんな風にこしらえてきてくれたの? 私は空き腹でふらふらだよ」 「待ちくたびれたのなら、戻られて宜しかったのに。わたくしは、末若さまがいらっしゃらなくても少しも困りませんから。その方がゆっくりと針仕事が進んでむしろ嬉しいですわ」 高貴なお育ちだからなのだろうか、全く不思議な御方だと思う。普通はこのように乱暴な物言いをされれば、腹を立てたり愛想を尽かしたりするはず。なのに、目の前の貴人はこちらが何を言おうとも、嬉しそうに微笑むだけだ。草むらに座り込んで握り飯を頬張る姿なんて、とても似合うとは思えないのに。
そもそも。 このように気付けば半月ほども毎日のようにここで会うようになっているが、とくに約束をしたわけではない。藤華が鷲蘭に告げたのは「昼餉の後の自由な時間はここで針仕事をしている」ということだけ。あのように、皆の前で声を掛けられたらたまらない、どうにか辞めて欲しいと訴えたところ、だったらどこでならいつならいいのとしつこく追求されたのだ。 御館からも、居候している兄の居室からも離れた場所を選んだのには訳がある。「春霖の元に隠れたりしたら、こちらから訪ねていくからね」などと言われては、震え上がってしまうではないか。 いくらまだお若いとは言っても、もうご立派に元服を済まされ一人前となられた御方。もう少しわきまえて下さらなければと人ごとながら心配になってしまう。
「ふふ、そうやって拗ねてみせるのも可愛らしいね。でも、今日は時間はたっぷりあるんだ。藤華がのんびりしていたお陰で、夕刻までに仕上げなくてはならない文書がすべて清書まで終えてしまってね。久しぶりに昼の後、ゆっくり出来るんだ」 ほら、ご覧よと差し出される。美しすぎる筆遣いできっちりと文字が並んでいた。見事なお手蹟(て)はあの「紅葉の舞」の翌日にすでに披露されていたが、未だに見慣れない。藤華の父も長兄も、都では達筆として知れ渡っていたと聞くが、とても信じられないことだ。本当の達人とはこのように匂やかな筆遣いをなさるのだから。 「……ならば。何もこのようにひなびたところで過ごされなくても宜しいのでは? あちこちから色めいたお誘いがあると聞いておりますよ。それに地方からの役人たちも競ってお目通りを願っているとか。わたくしが引き留めているように思われたら、困ります」 我ながら棘のある言い方だとは分かっているのだが、仕方ない。だが、もうそろそろお考えを改めて下さっても宜しいのにと思う。旧知の仲だから、懐かしく思われるのは無理もない。最初のうちはそう思って我慢してきた。しかし、こちらが断らないのをいいことに、鷲蘭の悪ふざけはますますひどくなるばかりだ。 「うーん、せっかくの時間に面倒なことはしたくないな。地方の要人って話が長いんだもの、困るよ。これでも、藤華との時間を作るために毎日寝の刻までお務めを続けてるんだからね。今に身体を壊さないかと周りの者が心配してるよ。同じことなら昼の後も今まで通りにお務めをして、夕餉の後に藤華が部屋まで来てくれたらいいのに。そうしたら、もっとゆっくり出来るよ?」 まっすぐにこちらを見つめてくる瞳。その漆黒の輝きがどこまでも澄み渡っていることを確認しているから、正気でいられる。本当に何も変わられていない。こんなにご立派になられたのに、相変わらずお小さい末若さまのまま。 ――元服した御方の寝所に女子が呼ばれると言うことが何を意味しているかと言うことすら、承知していらっしゃらないのだから。 「もちろん、藤華が嫌なら無理は言わないけど。その代わり、ここから追い出したりしないでね」 それでも、幾分自分は青ざめていたのだろうか。鷲蘭はすぐにくすくすと顔を崩して笑うと、そう確認した。
立派になった私を見て欲しいな――そんな風に仰って。 あれから毎日のように様々なお手前を披露されていた。ある日は扇を手にやわらかに舞い、ある日は朗々と漢詩を暗唱し、またある日は目も覚めるような達筆の書を一抱えほども運んでくる。そうかと思うと明くる日はなだらかな山並みを描いた筆絵の巻物を。算術の技もめざましく、藤華が今までに会ったどの商人よりも計算が速く正確であった。 「教えられる技はすべて吸い込むように習得してしまわれる」……まことしやかに囁かれていた御館の噂もあながち嘘ではないのかも知れない。時折見せる、あの頃のままの可愛らしい表情がなかったら、目の前の御方が自分の知っている末若さまとは到底信じられないだろう。 貴人の間では「腕比べ」が良く行われる。躍起になって才を競い合う訳ではなく、宴席の余興のひとつであるが、その道の腕自慢が皆の前で互いにその腕前を披露するのだ。地方から上がってきた役人が、竜王様に謁見した折りに話を切り出すこともある。たとえば「自分は弓においては集落でも名の通った存在です。どうかこちらのどなたかとお手合わせ願えませんか」……などと。 こちらに久方ぶりに上がって知ったのだが、この頃ではそのような折りに直々に鷲蘭が指名を受けることも少なくないと言う。そして決して負けることはないのだと。 「もっとも、俺などは最初からあの御方とは競わないように心得ているが。いくらけしかけられたところで、軽々しく腰を上げるものではないね。負けるだけなら、手を抜いたと言い訳も出来る。だが下手をすると、ここぞとばかりにこちらの技を盗まれるのだよ」 自信家の兄ですら、そのように評するのだ。全く恐ろしいばかりだと思う。それを当の本人は、全く心得てないと来ているのだから始末に負えない。
「あー、おいしかった、ごちそうさま。満腹になったら何だか眠くなってくるね、今日は暖かくて気持ちのいい陽気だし……」 ほっそりとしたお体の割には食欲が旺盛な方だ。あまり足りないのも良くないだろうと、少し多めに詰めたお重がすべて空になっていた。竹筒に詰めてきた生ぬるい茶をすすると、鷲蘭は大きくひとつあくびをする。そして、そのまま草むらにごろんと横たわった。 「末若さまっ……、お待ち下さい。お召し物が汚れますっ! あのっ……」 一体、何をしでかすのか。慌てる藤華の声も届いていないのか、間を置くこともなく静かな寝息が聞こえてきた。穏やかな寝顔。長いまつげがゆらゆらと揺れて、投げ出した手のひらに午後の日だまりがぬくもりを落とす。流れる漆黒の帯が、自分のすぐそばまで辿り着いているのを見て、藤華はどきりとした。 ――お休みになられるのなら、お部屋に戻られたらいいのに……。 そう思いながらも、視線が動かせない。もう少し、指先を伸ばせばそこに触れる。でも、……今となってはそのようなことは許されるはずもないのだ。 長く伸びた指先に、もう藤華の知っている面影はない。小さな手のひらをこちらに伸ばして名を呼んだ、あの頃のあどけない末若さまはもうどこにもいない。だから……自分も戻らなくては。戻りたくなくても、あの場所にしか存在出来ないのだから。やはり、仕方のないことなのだ。
視界が不意にぼやけていく。やはり、慣れぬ人付き合いや手仕事で根を詰めすぎていたのだろうか。しなやかな絹糸は目に鮮やかすぎて、いつまで経っても慣れない。里で手習いに使った安物の糸の方が、どんなにか自分に似つかわしいだろう。 ふつ、と意識が途絶える。ここ数日の緊張が藤華の中でも限界に達していた。
◆◆◆
「ね、そろそろ起きて。……夕刻の気が身体に触るよ?」 優しく揺り起こされて、ハッとする。だが、寝ぼけてぼんやりしていたのもそこまで。次の瞬間には声にならない叫びを上げて、飛び退いていた。 「えっ……あのっ!? ええと……」 気付けば、辺りはすっかりと夕焼けの色に染まっている。天の色と同じ朱色に染まった頬で、鷲蘭がこちらを見ていた。だが、とても直視出来る自分ではない。あたふたと衣の乱れを直していると、また笑い声がした。 「ふふ、何を慌てているの? とても可愛らしい寝顔だったよ。藤華の髪、あの頃よりもずっとかぐわしいね、もっと触れていたかったな」 ……信じられない、何故あのように落ち着いていられるのだろう。 こちらとしても今までどうしてあんな風にしていたのか分からない。昼餉の後、何となくまどろんでしまった気はした。だが、どうしてあちらで横になっていたはずの鷲蘭がこんなに近くにいたのか。 「藤華は眠っているときは素直なんだよね、昔からそうだから。私が寝たふりをすると、すぐに本当に寝てしまうんだから面白かった。昼寝の時だけだもん、藤華が添い寝をしてくれるのは。だから、ずっと起きてたんだ。せっかくこんなにそばにいてくれるのに、私まで寝てしまうのはもったいないよ。 顔全体がカーっと熱くなっていくのが分かる。髪の乱れを直すことも忘れ、藤華は重箱と針仕事のふたつの包みを抱えると、そのまま転がるように丘を駆け下りた。
辻を曲がり、あちら側からは見えない場所までたどり着いたと確認して、ようやく足を止める。大きく何度も息をしながら、どうにか乱れた心を落ち着けようとした。 殿方の腕に抱かれるなどという行為を未だ経験したこともなく、突然のことにすっかり仰天してしまった。あれは幼い心のままの末若さまだ、普通の御方ではないのだと幾度自分に言い聞かせても駄目なのである。
「出来ることなら、起こしたくなかったな。そうしたら、藤華を帰さずに済んだのに……」 丘を流れ落ちてくる夕刻の気が運んできた、最後の言葉が耳に蘇る。藤華の胸が、またひとつ熱い痛みを覚えた。
(2005年1月21日更新)
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