その日の藤華は、自分で認めていた以上に心を乱していたらしい。宿にしている兄夫婦の居室に戻った後も、ぼんやりしていて手元もおぼつかないほどであった。優しい兄嫁は何も口にしないままに何度もこちらをうかがっている。その気配を感じても、もはや取り繕うことすら出来ないでいた。 「どうしたのだ、疲れているのなら早く休め。お務めに差し支えたら、お前を取り立てて下さったお后様に申し訳ないぞ」 どこも悪いところなどないと自分で知りながら、それでもいつもよりも早く床に就いた。あれこれと思いを巡らせていても埒があかない。横になれば身体とともに頭も休むことが出来るのではないかと考えた。 ――わたくしも、あのようになれる日があるのだろうか。 つい最近までは、藤華も淡い憧れとともにその日を夢見ていた気がする。だが、……今となっては。やはり、自分はどこに行っても心許ない存在でしかないのだ。そう思わなければ、やっていけない。多くを望まなければいいのだ、その後に来る落胆に心が耐えきれなくなる前に……。 温かな居心地のいい空間。この生活に慣れきってしまう前に、戻らなくてはならない。我が身の愚かさを思い知らなくては。……過ぎた夢を見ることは出来ないのだから。
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重い気分で丘に上がった藤華を待っていたのは、昨日までと少しも変わらぬ笑顔だった。拍子抜けするほどに明るいお姿に、こちらの気負いが恥ずかしくなってしまうばかり。あのように悪ふざけをされたら、どうしても身構えてしまうのは当然だ。それなのに、鷲蘭の態度は全く何事もなかったかのようなのである。 昼下がりの温かい日だまり。いつも通りに針仕事をしている傍らで、彼は書物を広げたりつらつらと書き物をしたり。こちらをそれほどに気にすることもなく、暇をもてあましている風でもなく、ゆったりと過ごされている。まるで一日一日深まっていく山裾の風景を楽しんでいるかのようにも見えた。 休憩が終わりを告げる拍子木の音が辺りに響くのを聞いて、一足先に鷲蘭が丘を降りていく。すっきりとした身のこなしの背中を見送った後で、藤華も辺りを片づけ始めた。ぴんと布を張っていた木枠を丁寧に外し、膝の上にそれを大きく広げてみる。深い緑の正絹をこちらに上がってから求め、暇を見て進めている手仕事もだいぶかたちが見えてきた。 「あれ、ふじゅかちゃま。おはな、いっぱいついてるよ?」 上がり口で外歩きから戻った足を洗っていると、出迎えてくれた姪にそんな風に言われた。驚いて確かめると、その通り。長く伸ばした髪の先だけが細かく編み込まれており、そこに野の花がいくつも挿されているではないか。まるでなだらかな山の裾野に花畑が広がってゆくように。こんなことをしでかすのは、あの御方しかあり得ない。でも、いつの間に。 慌てて櫛を手に髪を解きながら、そこに触れた人のことを思う。……やはり、まだまだ御子様でいらっしゃるのだ。何もこちらが気負うことなどない……そうに違いないのだから。 無邪気すぎる行いに出くわすたびに、救われる思いがする。心の片隅には、時折感じ取るあの眼差しにたとえようのない熱さを感じてしまう自分がいるのだから。……愚かなことを。込められているのは昔なじみの者に対する親愛の色だけ、それ以上のものがあるはずもない。
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――何か、ご予定でもあったのかしら。 改めて考えるまでもなく、あちらはお忙しい身の上なのである、毎日のように昼餉の時間に抜け出してくるのだけでも大変なことではないかと容易に想像がつく。昔のように気楽な幼子の頃ならいざ知らず、元服を済まされたご立派な若君。王族としての御公務もぎっしりと詰まっているに違いない。こちらとしても別にきちんと約束を取り交わしたわけでもないのだ、そう気にするまでもない。 「……まあ」 気を取り直しながら、表に回ると。今度は木の根元に何かが差し込まれているのを見つけた。少しかがんで手にすると、それは余り馴染みのない種の愛らしい草花である。青い花びら、幾重にも重なり合った花の中央が薄紅に染まっていた。……初めて目にする花。そして。すらりと伸びた茎には桃色の薄紙が細く折りたたまれて結ばれていた。 思わず、息を飲んで。藤華は申し訳ない気持ちで一杯になって、もう一度辺りを見渡していた。 一体誰なのだろう、このような場所に無造作に文を置くなどと。いくら風流にしようとしても、これでは片手落ちというものだ。こんな風に見知らぬ者に見つかっては恥ずかしいではないか。 あちら側が透けて見えそうなほど淡く、しかし技巧を凝らして様々な色をすき込んだ薄様紙。指の先が触れただけでかなり高価なものだと分かる。 『藤華へ。本日は所用のため少しばかり遅くなります。――鷲蘭』 目眩にも似た感覚を額に覚えながら、藤華は手早く元通りに文をたたんだ。そして、すぐに小袖の袷から懐にしまい込む。 ……なんと言うことだろう、このように軽々しい真似をなさって。 うかつなこと、もしもこれが人目に触れたりしたら、大事になる。こんな……このような。これではまるで恋文のようなしつらえではないか。遊びにしても悪ふざけが過ぎる。今日という今日は、しっかりと申し上げなければならない。 気付けば、よろよろと力なく大樹の根元に座り込んでいた。衣を直すことすら忘れて。辺りは夏の戻りを感じさせるほどの照りであったが、大きく枝を広げた樹の下には涼しげな木陰が出来ている。 十分に気を鎮めてから、もう一度懐にそっと手を伸ばす。誰も見るはずがないと知りながら、それでも両の手で隠すようにして文を開く。そして、そこに綴られた文字をゆっくりと目で追った。複雑な漢文字は字面だけを追い、最後に自分の名のところで止まる。優しい筆遣いでつづられたそれは、今まで数えきれぬほど見てきたどれよりもすんなりと柔らかく感じられた。 ――あの頃は、微笑ましいほどたどたどしいお筆だったのに……。 薄紙がわずかに震える溜息をついて、藤華はまた軽く額に手を当てる。さらさらと流れゆく気泡が、耳元をかすめていった。
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お小さいのだからまだまだ本格的には無理だとたしなめられても、お歳の離れた兄上様方と何事も同じように学びたくて仕方のないご様子。出来ないのが当然と誰もが承知の上なのに、当の御本人だけは納得なさらない。 普段から時折手が付けられないほどむずかっては侍女たちを困らせていた末若さまではあったが、一度信じられないほどに意固地になられたことがある。ちょうど夕餉のの膳が運び込まれる少し前。藤華も母と共にそろそろ御館をおいとまして居室に引き上げる時間になっていた。 「こちらを開けて下さいまし、末若さまっ! 夕べのお召し替えをなさらないと……」 騒ぎを聞きつけて、数人が集まってくる。どうも末若さまは普段は物置として使われている塗籠(ぬりごめ)と呼ばれる小部屋に入ったまま、内側から錠をしてしまったらしい。扉に耳を押しつけてみればなにやらしくしくと泣き声が聞こえるばかりで、いくら呼びかけてもお返事がない。 「まあ、……駄々をこねられているだけでしょう。おなかがすけば出ていらっしゃいます。さあ、皆もそれぞれのお務めに戻りなさい。交代の者はもう下がって宜しいですよ?」 「……さ、私たちも戻りましょう。父上がお待ちですよ?」 「あまり出過ぎた真似をしては皆の迷惑となりますよ。……それにあちらは奥の寝所。あなたが立ち入ってはならぬ場所です」 末若さまの長兄に当たられる華楠様にお仕えしていた母である。何人もいる乳母たちの中でも特にその権威は強く、何気ないひとことで決まりかけた話が白紙に戻ることも少なくなかった。しかしそんなお立場にありながら、母本人はどこまでも奥ゆかしく決しておごったような態度は見せない。もしも誰かに意見をすることがあれば、それは主である華楠様のため。己の欲など存在しなかった。 「……私たちが存じ上げている以上に、お寂しい方なのかも知れませんね」 「乳母を置かれなかったのは正妃様のご配慮ですから、こちらが何か申し上げるまでもないでしょう。でも……他の御兄弟と差を付けられたのは本当に良いことだったのか」
寝の刻を過ぎて子供の部屋に戻されても、藤華はいつまでも寝付くことが出来なかった。あそこまで末若さまがひどくふさぎ込まれることはかつてない、一体どうなさったのだろう。侍女長様は心配ないと仰ったけど、本当だろうか。もしも、今でもあの場所にひとりで籠もっていらっしゃるのだとしたら……。 ――朝まで待てばいい。そして、母上と共に御館に上がってから様子を知れば。……大丈夫、きっと末若さまはすぐにご機嫌を直される。いつだってそうなのだから。 何度しとねの中でそんな風に自分に言い聞かせていたのだろう。他の兄や姉たちの寝息が響く中、天の輝きだけがその位置を変えていく。夜はどこまでも深く、二度と明けることはないのだとすら思えてきた。心の空洞だけが、どんどん広がってゆく。 やがて。そっと居室を抜け出した藤華は寝着(やぎ)の上に薄い衣だけを羽織った姿で、夜露の降りた坂道を降りていった。
「……藤華……?」 しんと静まりかえった南所の表から中に入り、誰も近くにいないことを確認してから忍び足で奥に進む。 「藤華……、ああ藤華っ! 良かった、来てくれたんだね。いくら呼びにやっても駄目だから、もう諦めていたんだ……!」 たった一年と少しの年の差なのに、そのころふたりの身丈はだいぶ違っていた。涙声ですがりついてきた末若さまの腕は、藤華の腰よりもう少し上で回る。 一頻り、泣きじゃくった後。ようやく末若さまは落ち着かれたようで、弱々しい微笑みを浮かべる。それでも藤華の薄衣はしっかりとそのお手で握られていた。とてもすぐにおいとまを願えるような状況ではない。いつ誰が見回りに来るかと不安になりながらも、どうすることもできなかった。 「みんな……嫌いだ」 「だって、嘘つきなんだもんっ……! きっとみんな、私のことなんて嫌いなんだ。嫌いだから、平気で嘘をつくんでしょ? ……そうだよねっ!?」 一体、何を仰るのか。そんなはずはないではないか。末若さまは御館の誰もから愛される存在。誰も愛らしいお姿を嫌うわけもない。 「どうなさったのです、そのような仰りよう。……藤華も悲しいです」 「……だって」 かさり。乾いた音がして、膝に額を押しつけたままの人が何かをこちらに差し出してくる。――二枚の、半紙。手習い用に文机の大きさにそろえて切られたもので、それぞれに違った筆遣いの同じ書が書かれていた。多分、末若さまとその兄上君のもの。説明されなくてもひと目で察しがついた。 「だって、駄目なんだもんっ! いくら頑張っても、私は兄上のようになれない。書だけじゃなくて、笛も算術も、弓も剣も何もかもっ! 兄上の方は遊びの様に私に向かってきて、……それが嫌なんだよっ! 私は、私だって……一生懸命やってるのに……!」 「末若……さま」 こんな風に駄々をこねられるのはそう珍しいことではなかった。何もかも、兄上様方と対等に扱って貰わないと承知しない御方なので、毎日のように不条理だと腹を立てている。そのたびに周囲の侍女たちがどうにか取りなしてはいたが。 あまりに騒ぎがひどいので、竜王様や正妃様もお困りのご様子ではある。だが、御兄弟が多いと言うことはこのような諍いも当然のこと。その上で学ばれることも多いだろうとお考えになっているらしい。末若さまにも決してきつく申しつけることはなかった。 だが、どうしたことだろう。普段と変わらぬような場面で、何故このようにひどく取り乱していらっしゃるのか。いずれは人の上に立たれる御方、あちこちに当たり散らし皆に迷惑を掛けるようでは情けない。……とはいえ、それを上手にたしなめることなど、当時の藤華には出来るはずもなかった。 「知ってるんだよっ、……皆、館の侍女たちは私のご機嫌を取ろうとして、あれやこれやと慰めてくれる。でもっ、そんなの口先だけじゃないかっ……、きっと皆は私は何をやっても兄上には敵いっこないって言いたいんだ……っ、そうだよね!」 そこまで仰ると、また身体をふたつに折って泣き出してしまう。小さな塗籠の中に響くすすり泣きの声を聞きながら、藤華はゆっくりと一方の半紙を手にした。それから、もう一枚。懐から少しばかり色を変えたものを取り出す。畳みじわを伸ばして、傍らに置いた。 「末若さま、……お顔を上げて下さい」 促されるように面を上げた人が、意外そうにその一枚を見つめる。そして、ゆっくりとその視線を藤華に移した。 「……これは」 藤華は何も言わずに静かに微笑みを返すと、またそれを元のように折りたたんで懐に収めた。 「ご覧になりましたでしょう? 末若さまは手習いをお始めになった頃と較べて、とてもお上手になられました。それで宜しいではありませんか。……何故、そのように兄上様方と張り合おうとなさるのです」 末若さまが書の手習いを始めて幾日も経たぬ頃。得意げに差し出して下さった一枚を、藤華はいつも大切にしていた。誰が見てもふたつの黒い固まりにしか見えないそれが、我が名を記してくれたものだと知ったから。どうしても捨ててしまうことは出来なかった。 「……でも」 「私は、早く大人になりたいんだ。誰よりも、立派になりたいんだよ。小さいからと、片づけられるのはもう嫌なんだ……!」 藤華はまた、目を見張った。何故、このように仰るのだろう。こんなにも恵まれたお立場にいらっしゃるのに。高貴なお生まれの上に、たくさんの才を持ち、さらに誰をも惹き付ける不思議な魅力を持ち合わせていらっしゃる。その気になれば、出来ないことなど何もない。そんなご自分をお分かりにはならないのか。 「もっとお上手になりたいのであれば……、それだけ多く励むことでしょう。負けて悔しがるだけではなくて、努力を惜しまないように精進なされば。誰よりも多く稽古すれば、きっと叶うことですよ?」 自分の言葉ではないなと面はゆく思いながらも、藤華はきっぱりと言い切った。いつも母が長兄に対してこのような物言いをする。だらだらと恵まれた立場の上にあぐらをかいていては駄目なのだとたしなめているのだ。もっとも、当の兄には少しも伝わっていない様子だが。 「……本当?」 涙に濡れたままの眼が、希望に満ちた色を放つ。差し出された小さなお手、そっと握りしめて。藤華は温かく宿った心を励ますように、にっこりと微笑んで見せた。
(2005年1月28日更新)
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