遙か昔に置いてきたはずの記憶。もうひとかけらも残っていないと信じていた幼き頃の都での日々が、ほんのわずかなきっかけで溢れてくる。 やはりこちらに上がるべきではなかったのだ、自分はとんでもない間違いを犯してしまったのではないだろうか。
触れるだけでときめくほど美しい薄様紙。ほのかな移り香、さりげなく花を添える洒落たしつらえ。都の若い者たちの間では今、このような粋なやりとりが流行っているのか。それを見聞きしたあの御方が、何となく真似てみたくなっただけ。……実際のところはそうなのだろう。 里の男も逢瀬の合間に幾度となく文を届けてくれた。だがそれは、短冊ほどに折りたたんだ紙をもう一枚でぴっちりと包み込んで上下を折っただけのもので、普通の書状と同じ様式である。時には素朴な手漉きの紙が使われていることもあったが、やはりそれも田舎の男の文字に似つかわしいものであった。 穴が開くほどに見つめたところで、その文字が立ち上がり動き出すはずもない。藤華は再び小さく吐息を落とすと、文をたたんだ。そしてまた、丘の下を見守る。そこには明るい日に照らされた風景が佇んでいるだけで、どこにも人の気配は感じられない。日に日に深まりを見せる秋の風景の中、ぽつんとひとりぼっちの気持ちになる。 ――だけど、ひどいな。もう少し早足になってくれてもいいのに。 いつかの鷲蘭の言葉が、藤華の耳元に蘇ってきた。ああ、こんな風にあの御方はお待ち下さっていたのか。もしも今、あの辻に軽やかな歩みのお姿が見えたら、心の中で小躍りしてしまうに違いない。これが人待ちの心地なのか、今までに味わったことのない淡い痛みまでが胸に突き刺さっていく。 何度針仕事を始めようかと包みに手を伸ばしたか分からない。しかしながら、とてもそのような気分にはなれなかった。別にお忙しいならこちらまで通われなくて構わないと、幾度となく申し上げていた自分である。静かなひとときを手仕事で過ごすためにこの場所を選んだまで、……それだけなのだから。 どんなに己の心に言い聞かせようとも、気付けば下の小道をうかがっている。あの場所に現れる御方を待ち望んでいる自分をとっくに知っていた。
――かさり。 心が渇いてきしんだ音がした。……そう思ったのは錯覚だったらしい。袖に落ちた枝の影がふいに揺れて、そこから色の変わりかけたひとひらがひらひらと目の前に舞い降りた。何気なく見上げると同時に降ってくる、くすくすという笑い声。 「嫌だなあ、こんなに長い時間隠れていたのに全然気付かないのだもの。もう、あなたの頭を上から眺めているのも飽きたよ。……ねえ、そこに降りていい?」 がさがさと大鷲の羽ばたきにも似た音がして。思わず息を飲んだ藤華の目の前に、ひらりと大きな袖が舞い降りた。しなやかに辺りを漂う漆黒の流れ。面を上げた御方は親愛に満ちた笑顔を向けられた。ぱらぱらと遅れた葉が辺りを漂う。まるで一陣の気が通り過ぎていったように。身丈よりよほど高いところから飛び降りたというのに、そのようなことは全く忘れさせられる如く涼やかな身のこなしだ。 「ま……、何と」 このようにいきなり現れるなどと、想像出来る方がおかしいだろう。一体、何を考えていらっしゃるのだ。 「ふふ、藤華。私を心待ちにしていてくれたのでしょう……? その文も何度も読み返してくれて、嬉しかったな。そうだよね、心を込めて書いたのだもの」 こちらの心まで見透かすように顔をのぞき込まれたら、もう俯くしかない。 「耳元まで真っ赤になっちゃって、本当に可愛らしいね。……あのね、今日はあなたをとっておきの場所に案内しようと思っていたんだ。少し、歩くけど大丈夫?」 そう言い終わらぬうちに、さりげなく手を取られる。空いたあちらの片手には昼餉を詰めた重箱の包みがあった。振りほどくことも出来ない強さに導かれ、藤華はただ後に従う他はない。 「あの、……でも」 「何? その草履なら山道も歩けるよね。もしも途中で進めなくなったら、負ぶって差し上げるから大丈夫。……見た目よりも私は力持ちだからね、その辺の山男にだって負けないよ」 一度振り返って、そんな風に仰る。もう次の言葉を紡ぎ出すことすら出来なくなって、藤華はまた俯いた。それを了解の意と取ったのか、鷲蘭はさらに歩みを早める。
◆◆◆
そして。今進んでいる森の向こうも結界の切れる場所となる。徐々に薄くなりつつある気は、周囲の樹木の生み出す酸素によりどうにか保たれていた。一体、どこまで進んでいくのだろう。あれきりひとことも発しないまま奥へと進む背を見つめながら、藤華の心はいつか底知れぬ不安に覆われていた。 「……ほら、もうすぐこの先だよ」 ようやく前を行く草履の音が止まる。初めて訪れた、天も見えないほどに薄暗い森の奥。見れば一歩向こうは深い谷底で、もう先へは行けない場所になっていた。人の背丈ほどの距離を飛び越えれば、あちら岸にたどり着くことが出来そうであるが、どうしてそのようなことが出来よう。芝居小屋の軽業師でもあるまいし。 「ふふ、そんなに困ったお顔をしないで。今、橋を架けるからね」 どうしようと悩んだのは一瞬のこと。気付けば自らの足で一歩を踏み出していた。下は余り見ない方がいいと判断して、足下を感覚でたどりつつ前だけを見て進む。震える胸の微動が体中に広がり膝ががくがくし始めた頃には、もう渡り終えていた。 「ほら……、ね。素晴らしいでしょう……?」 そっと背を押されて、通せんぼするようにそそり立つ大木の間を抜けると。 「ま……あ。これは……!」 思わず足が止まり、かすれた声が出た。辺りに漂うかぐわしい香り、まぶしいほどに輝いた白い園がそこにある。初めはそれが何であるかを見定めることすら出来ぬほどであった。 周囲を木々に囲まれた静かな空間。そこに天を覆う如く白い天井があった。よく見れば、大きくせり出した枝に白い花の房が無数に下がっている。柔らかな気の流れにその身を躍らせ、まるでこちらへと招いているようだ。さらさらと雪の如く花びらが地に降りしきる。……でも、何故。まさか、こんなことがあるわけがない。 「驚いた? これは『迷いの藤』っていうんだって。普通、藤の花は春の終わりに咲くでしょう? でもね、この木は秋が深まった頃の開花なんだ。都でもこの場所でしか、見ることが出来ないんだよ。 初めて聞く話に、そしてこうして目の当たりにする風景に、ただぼんやりと夢を見ている心地がする。藤の低木なら里の館にもたくさんあり、見慣れている。庭造りの好きな祖父が特別に造らせた立派な藤棚も、お客人が一番目にする中庭にしつらえてあった。 「もう少し後の方が、花の盛りに近かったんだけど……でも、良かった。藤華にここを案内することが出来て。今年は秋がなかなか深くならないから、花が遅くて本当に気を揉んだんだよ。あなたとこの庭を見たかった、私が造ったふたりのための庭を」 そこで言葉を切って。目の前の貴人がゆっくりと振り返る。白い風景を背にしたそのお姿は、さながら神の使いのよう。藤華はただただ、見惚れるばかりであった。 「会いたかったよ、藤華。あなたが都からいなくなって、私はどんなにか嘆いたことか。こんな風に再び巡り会う日を夢見て、あの頃のように過ごせることだけを願い続けてきたんだ。本当に、今は毎日が夢のようだ。……ね、もう里に戻るなんて言わないで。ずっとこのまま私の元にいてくれると、この樹の下で約束してくれるよね?」 自分の頬をひんやりと何かがたどるのを、全く別の感覚で感じていた。何故、突然このようなことを仰るのだろう。瞬きも出来ずに見守っていると、湖の如く深い瞳がそっと揺らぐ。 「知ってるんだ、藤華は御館に延滞願いを出してないでしょう? 他の女子たちは、今度のお務めが終わった後もしばらく都に留まる者が多いと聞いているよ。都のお役所は少し気むずかしいからね、形式だけのことだけど、期日が過ぎるといろいろ面倒なことになるのだから」 まあ、本当に困ったことになったらその時は私がどうにでも話を付けるから大丈夫だけどね……と小声で付け足す。自信たっぷりの物言いなのに、その瞳はこちらの心を探るように不安げだ。気の流れがつい果て後で不安定になっているのだろう、いつもより乱れた一房が白の風景に舞い踊っている。 「……それは」 初めから、決めていたことなのだ。都に上がったのは、正妃様の今回のお話があったから。きちんとお務めを終えお役目を終えれば、その時は里に戻るだけ。自分で選んだ道に少しの迷いもない。 「お許し下さいませ、末若さま。身に余るほどの有り難いお言葉ではございますが……わたくしはもう、田舎暮らしばかりに慣れ切ってしまいました。とても再び都の華やかな暮らしが出来るとは思えません。もしも御館で正式にお仕えすることとなれば、至らないばかりで皆様のご迷惑になるだけですわ」 昔のまま、何もかもがあの頃のまま。親愛に満ちた眼差しで見つめてくれる御方。懐かしさに胸を熱くしたのは藤華も同じである。いや、それだけではないと言わなくてはならないだろう。……認めたくなかった、しかしながらこれ以上は己の気持ちを偽ることは出来ない。 「……藤華?」 必死に首を横に振りながら逃れようとするのに、おおらかな袖はどこまでもついて回る。白い花びらが漆黒の帯に舞い降りて、キラキラと輝いた。 「どうして、……何故、あなたはそんな風に言うの? 私は再会をこんなにも待ち焦がれていたというのに……。このたびだって、もしもあなたが母上のお話をどうしてもお受けしてくれないと言うのなら、そちらの里まで出向こうかとまで思っていたのだよ?」 「……は……?」 畳みかけるように次々と言葉を投げつけられ、さらに心が乱れていく。思いがけないお言葉に面を上げると、すがりつくような瞳がふっと色を落とした。 「あ……いや、このように急ぐつもりはなかったんだ。ただ、その……本当にあなたが里に戻ってしまうのならどうやって引き留めたらいいのかと、とうとう自分でも考えがつかなくて。もっと、ゆっくりとあなたの心を解きたかった。でも――」 そこまで仰ると、その横顔はさらに悲しげに揺れた。腕を取られたまま、藤華はなす術もなくそれを見守る。おかけする言葉など、もはや思いつくはずもなかった。 「今朝、急にお話があったんだ。明日からしばらく、私は都を留守にすることに決まって。――父上の名代で、南峰の分所建立のために現地での指揮を執ることになったんだ。普通でふた月ほど、掛かると言われて……」 藤華は今置かれた状況すらしばし忘れ、思わず目を見張った。何をそのようにうなだれていらっしゃるのか、竜王様が直々に建立なさる分所とは、今進められている地方分権のための足がかりとなる重要な拠点。そのひとつを任されたとあれば、とても名誉なことではないか。 「それで、急に不安になって。だって、あなたとは未だ確かな約束をしていない。もしもこちらに戻ったときにあなたがいなくなっていたら、私はどうしたらいい? それを思ったら、急に怖くなって……」 頭上を覆う花にも似た今日の御衣装は、白から淡い藤色へと色を染めていく優美な織り文様。上にちりばめられた金色の菊花の刺し文様が伸びやかな色彩をきりりと引き締めている。震えるお袖が、藤華の身体ににすがりつく。胸を締め付けられる心地に目眩を覚えた。 「嫌なんだ、……もう。あなたを失うことが、恐ろしくて仕方ない。ねえ、何と言って引き留めれば、あなたはここで待っていてくれるの? 教えて欲しいんだ、あなたの心をしっかりと掴む方法を。それを知っているのは、あなただけなのだから……!」 ――溺れる者が必死ですがりつくときの底知れぬ力にも似て。呼吸も出来ないほどの強さに、どうしようもないほど戸惑っていた。 一体何を仰りたいのだろう、この身など心許ないばかりで、都の華やかな方々に較べて少しも勝るところはない。いくら幼き頃を共に過ごしたわずかばかりの思い出があるとしても、そのようなものはとっくに置き去りにされてしまっていたはず。 ここは……年長の者として、しっかりとしなければ。いつまでもこちらまで取り乱していては始まらない。やはり都に上がったのが間違いだった、もしもこのように逢瀬を続けていることが皆の知るところになればどうなるだろう。里の両親にも、都に残る兄夫婦にも迷惑を掛けることになってしまう。何よりも、末若さま御本人が物笑いの種になるのだ。 「わたくしの心など……そんな情けないものを望むなどとは、高貴な御方にあるまじきことですわ。お戯れでもおやめくださいまし、人の目はどこまでもついて回ります。このようなことが公になれば、あなた様が恥をかかれるだけです」 藤華は自分の言葉に自分で聞き入っていた。ああ、本当にその通りではないか。この不甲斐ない存在がいつでも皆を困らせる。せめて、ここにいる御方が今少し大人でいて下さったなら。一歩下がって身の回りのお世話をするだけの自分になれたかも知れないのに。……いいえ、それも無理だ。今となっては、すべてが遅すぎる。心はもう、動き出しているのだから。 「藤華……、どうして」 悲しげな瞳がゆらゆらと揺れる。力の抜けた腕から、素早く逃れていた。もう、この御方のお側にいては駄目だ、……自分が自分で分からなくなってしまう。愚かなこと、身の程をわきまえることも出来ずに、どうするのだ。 「嫌だ、……どうして逃げるのっ!? あなたは……あなたは、私が嫌いなの? 違うよね、藤華はそうじゃないよね――」 あっと、声を上げる間もなかった。背を向けた後ろから優美な袂が回ったかと思うと、胸元に入り込んだ片方が、藤華の奥に隠したものを探し当てて取り上げる。奪い返そうと伸ばした腕は、どこまでもまっすぐな瞳に制された。 「どうかお返し下さいまし、そのような……いけませんっ!」 急に軽くなった胸元が心細い。この地のならいとして、懐の奥には護身用の懐刀(かいとう)を忍ばせていた。もちろん、それで直接何者かを斬りつけることなどあることではない。身繕いのひとつとして幼き頃から当たり前にしてきたまで。 ただ、……これを取り上げられるのは、また違った意味を持つ。まさか……ご存じでないわけもあるまいに。 「嫌だ……、これは返せない。あなたには代わりに、こちらを差し上げるから」 ほのかな香とぬくもりを宿した藤色の包みを静かに握らされる。柔らかい布に包まれているのは何であるか、すぐに悟った。――でも、まさか……そのようなことが。 御自分の信じられない行為とは裏腹に寂しげな瞳の貴人は、藤華から奪い取ったものをしっかりと自分の胸奥に納めた。 「……あなたは、私のものだ。もう、あなたの自由にもさせない。私の……私だけのものになるのだから。分かるね、……私の帰りを待っていてくれるね?」
いつの時も自分を慕い、後を追ってきたお可愛らしいお姿。変わらぬままそこにあると信じていた真実が砕け散ったとき、己の心に抱いていた確かなものをしっかりと悟った。 ――なんと言うことだろう、こんな、このようなことがあるはずもないのに。
いつか日が傾き始めていた。夕刻を告げる荒々しい気が、ふたりの間を流れていく。
(2005年2月4日更新)
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