部屋の隅に置かれた燭台。細く立ち上っていく炎をぼんやりと眺めていた。 ちりちりと瞬くその先端が、薄闇の中に溶けていく。まだ凍えるほどの陽気ではないはずだが、今夜は締め切った部屋の中まで冷たい気に満たされていた。いや、自分の心がそう感じているだけなのかも知れない。藤華は軽く額に手を当てて、小さく溜息をついた。 「……姫さま、やはり御気分が優れないのでは?」 「お顔の色もあまり良くありませんし、……如何致しましょう。薬師さまをお呼びしますか? ……あまりお悪いようでしたら、ご予定も」 どこからか、細く気が流れ込んでくる。まるで心の中を探ってくるように。ひとつ息をして、口元に微笑みを意識して作った。 「いいえ、……大丈夫よ。それに、このような時には誰でも緊張するものでしょう――佳乃(かの)、あなたもそうだったのではなくて?」 にっこりと姉のような微笑みを浮かべて振り向いた藤華に、侍女はぱっと頬を赤らめる。 「そ、それは……はい。そうでございますが……」 素直な反応に、こちらまで心が和らいでいく。数えきれぬほど、この者には助けられてきた。誰も寄りつこうとしない場末の庵で共に暮らしてくれる。素朴で細やかな心配りは、そのまま彼女の母親を思い起こさせた。 そんな佳乃に想いを寄せる相手が出来たのは、つい半年ほど前のことである。いつもより落ち着かぬそわそわした態度に何も言われずとも藤華の方が先に気付き、さりげなく使いを頼んだりして仲を取り持ってやった。その者はすぐ上の兄に仕えている下男。なかなかの好青年で館での評判も上々であった。年回りもちょうど良い。向こうもまんざらではなかったようで、程なく佳乃の口から嬉しい報告を聞くことになる。 「でも……本当に宜しゅうございました。周りの者たちは心ないことを申しますが、姫さまはとても素晴らしい方ですもの。皆は雪姫さまや瑞姫(みずひめ)さまばかりをお褒めになりますけど……私には口惜しいばかりでした。 几帳の奥にはすっかり整えられたしとねがある。ごくごく灯りを落とした燭台も控えめに置かれていた。この日を待ち望んでいたこの侍女が心を込めてしつらえてくれたのである。 藤華は静かに頷いて見せた。――これこそが幸せなのだな、と思う。このように佳乃の嬉しそうな姿を見られて、本当に良かった。もちろん、今回のことでは両親も祖父母もとても喜んでくれている。こんなにも皆から祝福されて縁づくのだから、それでいいではないか。この上に何を望むのか。 秋が深まり。皆で手がけていた上掛けがそろそろ完成に近づいた頃、藤華は帰郷を告げる文を都から男に送った。どんなにか待ち望んでいたのだろう、間を置かずに返事が戻ってくる。安堵した心を写し取った文を開いたとき、これから自分が進むべき道がしっかりと定まっていく気がした。 『里に戻ったらすぐにお目に掛かりたい、吉日を選んでこっそりと訪ねてきて下さい――』 ……世の中をきちんと承知している者が見れば、すぐに察することが出来る内容。女子が送る文にしては、いささかみっともなく出過ぎていたかも知れない。でも、他に何としよう。ようやく、自分はあの男と同じ場所に立つことが出来たのだ。今巡り会わずしてどうするのだろう。 「それにしても……まだお着きではないのでしょうか? 外はだいぶ夜も更けて参りましたが……」 辺りに広げた化粧道具を片づけつつ、佳乃がまた戸口の方を見る。カタカタと障子戸が揺れ、外がかなり荒れてきたことを知らせていた。夕暮れまでは穏やかな日であったが、秋の天気は数刻のうちにめまぐるしく変化する。そろそろ北からの荒れた気が、山を下りてくる季節だ。一年を通して温暖な気候で過ごしやすいとされる西南の地にも、確実に冬の足音は聞こえてくる。 「いいのよ、あなたはもう下がっても。……今夜は彼が戻る日でしょう? きっと首を長くしてお待ちよ」 確か数日の間、彼は藤華の兄と共に領地を回っていたはず。未だに夫婦(めおと)としての住み家も与えられていないふたりにとっては、互いの心だけが支えとなる。かたちがないからこそ、心の繋がりが良く見えてくるのだ。 「いいえ……、私は母からも厳しく申しつかっております。今宵はあちら様を無事にお迎えするまでは、こちらを下がるわけにはいきません。ご心配は無用です、彼もそれくらいは分かってくれます」 外はさらにひどく荒れてきた様子だ。頑なな佳乃の姿を見て、藤華は心の奥で「困ったな」と思っていた。彼女には告げていないいくつかの真実が、藤華の胸に突き刺さっている。どんなに慕われてもこれだけはあかすことができない。せっせと片づけを続ける横顔を、ただ見守っていた。
◆◆◆
辺り一面、白い花びらが舞い踊っていた。熱い眼差しを向けられて、瞬時に突き放せる人間がいるのだろうか。たとえ心が否と叫んでいても、あの場では口をつぐむしかない。身を切るような言葉をそのまま返せば、数倍の力で相手を斬りつけることになる。その時の表情を目の当たりにすることはどうしても出来なかった。 お小さい可愛らしいばかりの若君。その手を引いて歩いた春は、永遠に胸の中に留めるはずであった。こんな頼りない存在の自分のことなど、とうにお忘れになったと思っていたのに……まさかあのように思いがけないことを仰るなんて。 やはり、自分は浅はかであった。どうして都に上がろうと思ってしまったのだろう。再び追いつめられることを知りながら、……何故。悔やんでも今更どうなることでもないが、今は己の愚かさが恨めしい。 懐かしい地でで再び出会ってしまった夢。思い出よりもずっと甘くかぐわしく、藤華を惑わせた。あの頃も、同じだったと思う。たくさんの人がいて、いつも震えていなくてはならなかった都。それでも、藤華は自分からそこを去ることが出来なかった。どうしても心が呼ばれてしまう。自分を、自分の存在を何者にも代え難いものだと告げる手のひらが、藤華を解放してくれなかった。 だけど、……だからこそ終わりが来たのだ。それをもっと早く思い出すべきだったのに。二度と繰り返してはならない。あのときにそう誓ったはずじゃないか。
「……まあ、どういうおつもりなのかしら! あのように泥棒猫のように寝所にまで出入りするようになって。やはり血は争えないと言うこと? もしかして、御母上のお口添えがあったのかもね」 「そうよ、決まってるわ。あわよくば、自分と同じように側女(そばめ)にでも仕立てようとしているのでしょう。あの程度の器量でそれが出来るはずないじゃない。身の程知らずとは、このことね。笑っちゃうわよ」 秘密の夜から、数日後。ふとそんな会話を耳にしてしまった。見れば数人の侍女が輪になっている。向こうはまさか藤華がそこにいるとは思っていなかったのだろう。子供には聞き取れない言葉を含めて、かなり口汚く罵っていた。 ――何てこと……! わたくしは、取り返しのつかないことをしでかしてしまったのだわ。 母は何も言わなかった。あれだけそこら中で噂になっていれば、耳に入らないはずもないのに。変わらずにお務めをこなす母に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。末若さまのお側に自分がいることは、そのまま両親や兄姉を困った立場に置くことになる。……でも、あの手を振りほどくことは出来ない。 祖父から父に帰郷を促す書状が届いたのは、丁度そのころであった。 「藤華、あなたはどうしますか? もしもこのまま都に留まりたいと言うのであれば、それもいいでしょう。母も共に残りますよ、父上にだけ先に戻って頂きましょう」 優しい言葉が胸に突き刺さることもあるのだと、その時初めて知った。これ以上、母を悲しませることは出来ない。こんなにも温かくいつも見守ってくれる母、その母の幸せを踏みにじってまで己の希望を通すことは出来ない。
――そして、十年。やはり、都は魔物が棲む地であったと気付く。 鷲蘭が南峰へと出立してからのひと月あまりは、藤華にとって砕けた心を修復するための短すぎる時間であった。誰にも告げることの出来ない恐怖を胸の奥にしまい込んで、昼も夜も必死に針を動かし続けてるだけ。出来ることならば、針目の中にすべての想いを刺し留めたいと願った。ようやく、仕上がった衣が語るものを悟ったとき、それを残したまま都を後にしたのである。 ――否、そんなことを考えるのはもうよそう。今となってはあの御方が、御自分の愚かな間違いに気付いて下さることを祈るのみ。……自分に出来るのは遠い空から、お幸せを願うことだけだ。
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時折、庵の柱が大きくきしむほどの揺れを感じるようになっていた。荒れる夜はどこまでも心細くなる。……だから、きっと。 藤華は佳乃の方をそっと振り向いた。彼女はこちらに背を向ける姿勢で、先ほどからせっせと繕い物をしている。落ち着いた振りをしていても、もう心は半分ここにはないはず。どうにかして待っている男の元に行かせてやりたいが、あの調子では何と言っても無駄であろう。ならば、真実を告げれば良いのか。……否、それだけは駄目だ。心は千々に乱れる。 都へ上がる前に、すでに兄から聞いていた。冬の声を聞く頃に、兄は父が懇意にしている西の集落の領主の元に出向く頃になっている。やはり、生まれながらの地でそのまま過ごしていては、優れた政(まつりごと)を行うことは出来ない。全く違った地で、一から学び直すことで悟ることもあるのだ。そんな官僚の交換は、最近では良く聞かれることになっていた。 藤華が婚儀をこのように急いだのもそのためだ。主である自分が独り身のままであれば、心優しい侍女は恋人と別れここに留まると言い出すに違いない。自分のために、誰かが不幸になるなどあってはならないのだ。己の存在が誰かの助けになるのなら、喜んで応じよう。それだけで、いいではないか。
「……これ以上、あなたを欺くことは出来ない。そう決めて参りました」 それはまだ、藤華が都に上がるか否かと悩んでいた頃のこと。いつになく思い詰めた表情の男が庵を訪れた。珍しいことに人払いまでしたいと言い出す。こちらも勝手が分からず、言われたとおりに佳乃を祖父の館まで使いに出した。 「実は……、自分にはすでに情を交わした相手がいるのです。その者との間には先年、娘が生まれて……ただいま二人目を身籠もっております」 男の絞り出すような言葉は、想像を遙かに超えていた。自分を妻に請い、足繁く通ってくれたはずの者の口から聞かされるとは到底信じられないこと。さすがの藤華も障子戸の後ろに姿を隠したまま、息を飲んだ。 数年前、水害にあった直後の領地を男が見回っていたときに、親を亡くしひとりで寂しく過ごしている女子に出会った。不憫に思い、何度か足を運んでいるうちにそのような関係になっていったのだと言う。もちろん、男は妻になって館に入ってくれと幾度となく告げたが、娘の方が首を縦に振らない。地主様の奥方など、畏れ多くて収まりそうにないと断るのだ。 「家の者も皆、このことは内密なままにすればいいと申しました。でも、自分にはそうすることがどうしても出来ない。あなたの優しい心根に触れてしまったら、もう己を偽ることなど出来なくなったのです。……申し訳ございません、あなたを傷つけるような真似をしてしまって。ここはもう、御館様へも真実を申し上げ、どのような処分を受けることも覚悟して参りました」 心は決めている、そう告げながらも男は震えていた。何と言うことだろう、いつも穏やかな落ち着いた身のこなしであった者が、このように変わり果てた態度をとるとは。初めからこちらを欺くつもりでやって来たというのか。どこまで人を馬鹿にした行為であろう。 無言のまま、怒りがするすると胸の上を滑っていく。大声で罵倒しても許される状況。それなのに、どうしたことだろう。藤華はとうとう恨み言のひとつも思いつくことが出来なかった。憐れみを含んだ眼差しで、俯いたままの男を見守る。 「……宜しいではございませんか。あなた様が私を形代にと願うなら、従うまでのこと。何も嘆くことなどございませんわ。わたくしもこのことを他言しようなどとは思いませんし……」 自分でも呆れるくらい優しく語りかけていた。胸の内は驚くほどに安らいでいて、少しの揺らぎもない。それどころか、つい今しがたまでの落ち着かない心地が消え失せて、清々しいほどだ。やっと、落ち着くことが出来た。 「何ですって……、そんな」 男もさすがに信じられないと言いたげな表情で面を上げる。しっかりと目があっても、藤華は静かに微笑むことが出来た。 「あなた様や、お家の方々がわたくしを必要として下さるなら、それで宜しいのです。他に望むことなど何もございませんわ。お話はこのまま進めて下さって結構です、このように包み隠さずに仰って下さっただけで、わたくしは十分ですわ」 ――そうなのだ、これが当然の成り行きなのだ。このように情けないばかりの自分など、本気で愛されるはずはなかったのだから。妻にと望まれるなら、そのお役目をきちんとこなすまでのこと。それで皆が喜んでくれるなら、いいのだ。その上に何を欲しがればいいというのだろう。どんなに考えても、思いつくはずもない。 あの夜を最後に、藤華は男に二度と会うこともなく都に上がった。それをどのような答えと向こうが受け取ったのか分からない。文のひとつも届けられぬままに都での日々が過ぎていった。だからこそ、これは賭だったのである。男がもし、まだ自分を必要としてくれるのなら、この話を受けてくれるはず。
「……やはり外を見て参りましょうか? もしかしたら、文使いなどが参っているかも知れませんし……」 佳乃はそわそわと落ち着かぬ様子で、縫い物を下に置いて立ち上がる。このように気遣ってくれる存在が嬉しい。今にも飛び出して行きそうな侍女を、藤華は静かに制した。 「そのように焦らずとも、そろそろいらっしゃる頃でしょう。あなたももう一度お湯の様子など確かめて、そろそろ出かける支度をなさい。案ずることなどないのですから……」 どうにか思考を巡らせた。これだけ外が荒れているのだ。お庭番の下男たちが幾人もその辺を見回っているはず。佳乃が裏口から出た隙に、誰かに頼んであの男の振りをさせよう。……きっと、もうあの方はいらっしゃらないのだから。 つう、と冷たい心が降りてくる。今宵こそはお目に掛かりたいと思った。ようやくこれでふたりは同じ傷を抱えることになる。鷲蘭への想いをしっかりと確かめたときに、藤華はそう悟った。 あの男とは一度も情を交えることなどないと思っていた。愛情などいらない、かたちばかりの夫婦であっても必要とされればそれでいい。男はひたすらに恋人のことを想っていてくれれば本望だ。……ずっとそう信じてきた。だが、違う。男女の真とはそのように容易いものではないと気付いた。 ――でも、あの男は来ない。 きっと今頃は身重の恋人を気遣っているのだ。こんなにも自分が嘆いていることも知らず、ただ己の守るべき愛の中にすべてを忘れて。……やはり、頼れるものなど何もない。この身は愛される価値も守られる価値もない、情けない存在なのだ。 口惜しい限りなのに、涙すら出てこない。それどころか、また安堵している。己をどこまでも突き落とすことが出来れば、それでよい。この上に望むことなどあるものか。
「――あ、姫さま……!」 不意に、佳乃が声を上げる。どこかで細い馬の声がしたかと思うと、がたりと戸口の辺りに人影が映った。傍らに寄り添っていた侍女の横顔がみるみるうちに喜びに溢れていく。その目尻には光るものすら見受けられた。彼女はこっそりと忍んでこようとする男を気遣うように、足早に裏手口に回る。木戸に手を掛けたところで、もう一度振り返った。 「それでは、私はおいとまします。明朝は夜が明けきってからゆっくりと参りますね、お休みなさいませ」 優しい声に振り向くことすら出来ない。藤華は何とも言えない気持ちで、障子戸の桟を見つめていた。――いらっしゃったのか、本当に。そんな……まさか。 にわかに震え出す身体、喜びとは全く別の感情が湧き上がってくる。
目の前の障子がすっと開く。荒れ狂う気がうなりを上げながら、部屋の奥まで流れ込んできた。
(2005年2月11日更新)
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