障子戸を一枚だけ隔てた表の想像以上の荒々しさに、部屋中の何もかもが舞い上がっていく。几帳は大きな音を立ててはためき、その奥の燭台のいくつかも長く横にたなびいて消える。 「……あ……」 残った灯りはあまりにも心許なく、視界をはっきりと照らし出すまでには至らない。だが、乱れた髪を整えながら見上げた先に、つい先ほどまではそこには存在しなかった鈍色の固まりがあることが確認出来た。一度開いてまた閉じた障子には激しく揺れ動く庭木の影が映る。同じ動きでぬらぬらと光るのは、水分を含みきれずに表面に残した衣か。板張りの床の上に、次々としずくが落ちていく。 ――そんな、馬鹿な。……こんなことがあるはずもないのに……! 思いも寄らない現実を突きつけられることは、つい最近までの藤華にとって一番縁遠いことだったと言えよう。何もかもから逃れるために、隠れるようにして生きてきた。己の存在を明るい場所に出さないことだけを心に決めて。いつも日陰のままの暮らしでいいと思っていたから。 衣の確かな色目は分からなかった。それにこれだけ水分を含んでいれば、本来のものとはかなり違ったようにも見えているであろう。ただ、かなり上等な織物だと言うことだけは間違いない。その上にべったりと張り付いて流れる幾筋もの帯。目の前の者はうずくまったまま、大きく肩で息をしている。ぜいぜいと苦しそうな呼吸だけが、突き刺さるほどに部屋の内壁に響き渡っていった。 いつもは高い場所でひとくくりにされ、さらさらと美しくその背を輝きを放ち流れていた髪。しかし、荒れ狂う気の中ではすでに解けてしまったのであろう、たらしたままのそれは遠目には女子の風貌にも見受けられる。否……このお美しさはその辺の女子など相手にはならない。もはや、お顔を拝見するまでもない。 ――でも、違う。ここにいらっしゃるはずのない御方。見紛うはずもないのに……ならば、どうして? 藤華はあまりにも心が乱れて、何をどこから考えたらいいのか全く分からなくなっていた。ついには今自分がどこにいるのかすら、曖昧になっていく。慣れ親しんだはずの庵ごと、瞬く間に別の場所に飛ばされてしまったのではなかろうか。 いくら目を凝らしてみたところで、目の前の影に今宵藤華が待っていたはずの男の姿を見ることは出来なかった。そもそも肉体労働を日課にしている者とそうでない者とは、骨格の造りから異なってくる。日常的に武術で鍛えてきても、筋肉の付く部分が全く違ってくるのだ。
「ふじ……か、どうして……」 お顔は上げられぬまま、ようやく漏れ出でるかすれた声。それを未だに信じられない面持ちで聞いていた。恐怖のあまりに藤華の身体はがくがくと震え、この場から飛び退こうにも足腰に全く力が入らない。 いくら簡単なしつらえの庵とは言っても、普通の生活には余るほどの広さがある。今ならば、間に合う。まだ身丈よりも距離を置いているのだから。すぐさま立ち上がれば、裏口から逃れることもできるはず。だが、どうして。こんなにも身体の自由がきかないのだろう。 「……逃げられると、思っているの?」 それでもどうにか腕の力で座したままの己を支え、もがくように必死に後ずさりをした。ようやく指先に几帳の裾が触れ、ホッとしたのも束の間。ずるっと衣が流れる音と共に、とうとうお美しい面(おもて)を上げられた御方が、かつて聞いたことのない程の低い声を轟かせる。糊のきいた布端をしっかりと握りしめたまま、藤華はおそるおそるそちらを振り向いた。 闇の中、浮かび上がるお姿。幾筋もの流れの跡を残した白磁の頬、震える口元。その輪郭は記憶の中に残っているものよりひどく痩せて見える。馬の扱いにおいては武術に優れた官僚にも勝ると言われているはずなのに、見る影もないほどに変わり果てたやつれ方。我が物顔に枯れ野を駆る荒れを相手にしたこともさることながら、よほど無茶な行動をなさったに違いない。 「あの日はっきりと申し上げたはずだ、もうあなたは私のもの。……そうでしょう?」 またしばらくは、荒い息だけが続いていく。俯きうずくまった姿勢で時折胸元を押さえる仕草を見れば、かなりお辛いのだろうと思える。水の一杯も差し上げれば宜しいのだろうか。しかし、言うことを聞かない身体ではこれ以上どうすることも出来ない。思いがけないばかりで、自分の感情を上手く動かすことすら叶わなかった。 やがて。 いくらか呼吸の緩やかになった御方が、再びゆっくりと面を上げる。静かな動きに取り巻く黒い帯が従った。 「どうして、……待っていてと言ったでしょう。信じられないよ、何故あなたは私を幾度も欺くの……!?」 吐き出すようなお言葉は、およそ高貴な御方には似つかわしくないほどの荒々しさ。その瞳に宿った言い表すことの出来ないほどの強さに、藤華の胸は震えた。ほとばしるお言葉は先を急ぐように続く。 「私がどんな想いでこのひと月あまりを過ごしていたか、あなたには分からないの? 再びお目に掛かることだけを心待ちに、どんな難しい務めもこなしてきたのだよ。あなたがあの丘で、私の帰りを待っていてくれると信じていたから……!」 こみ上げてくるものを制するために、言葉の合間にきつく唇を噛みしめている。小刻みな震えが顎を揺らし、床の上で握りしめられた拳にぎりりと力がこもった。 ああ、何と言うことだろう。髪を振り乱し、およそ殿上人とは思えない姿に成り果てても、その芯にあるまっすぐな部分だけが透けて見えてくるようだ。こんな場面ですら、思わず見惚れてしまう。藤華は己の中の女子の部分が心底恨めしかった。未だそのような感情が残っていたことを、今更のことながら思い知らされる。ふたりの間を満たす気が、何かを伝えるようにゆるりと揺れた。 「南の地から、あなたに幾度文をしたためては破り捨てたか知れない。あまりみっともないことをして、これ以上あなたに嫌われたくなかったからね。それでもふと手が空けば、あなたのことばかり想っていたよ。再び会えるその日こそ、この苦しい物思いから解き放たれるのだと信じられた。……なのに、舞い戻った折には思いがけなくあなたが帰郷したことを知らされて――」 そこまで告げると、鷲蘭の眼の色がふっと弱くなる。嘆きを濃くした揺らめきは、今にも吸い込まれてしまいそうに熱を帯びて底深かった。 自分が再びお目に掛かることもないまま都を去ったことを後から知れば、いくらか落胆されるかも知れないとは考えていた。でも、それ以上のことが起こるはずもない。あのような戯れ言をいつまでも引きずるほど愚かな御方ではないのだから。 御兄上であられる華楠様の次の竜王にお立ち下さるようにと、推す声が絶えぬほどの器をお持ちなのだ。皆の期待を背負って、明るい道を堂々と進まれる御方。まぶしいばかりの身の上をしっかりとわきまえて頂きたい。己の心に湧き出でる恐怖と必死で戦いながら、藤華はまっすぐに視線を突き返す。そうするだけでも彼女にとっては必死のことであった。 「そのように……困ったことばかりを仰って。いつまでもお小さい頃のまま、無い物ねだりばかりでは情けない限りです」 こちらをしっかりと捉えていた漆黒の瞳が、かすかに揺れた。はっきり取って見えた戸惑いの色を見逃さず、さらなる言葉を放つ。 「正妃様より申しつかったお務めが済めば、こちらに戻るのは当然のこと。駄々っ子のように我が儘を仰っても、従うことは出来ませんわ。わたくしはもはやあなた様のお遊び相手ではございません、お許し下さいませ」 そもそも。困った御方が色恋の話を持ち出したりなさるから、このように心が乱れたりするのだ。正気に戻って考えれば、それがいかに馬鹿げたことか分かる。……そう、物の数にもならないような自分ですら悟ることが出来たのに、ご立派な御方にそれが出来ぬはずもない。 「何故……そのように言うの? あなたにこんなにも拒まれる己が憎いよ。ねえ、何が足りないの? 私はあなたに似合うだけの男になるために、今までずっと頑張ってきた。それでもまだ心許ないというのかい、ならば教えておくれ? この上に何を習得すれば、あなたは受け入れて下さるのか。私がお相手としてふさわしいと、言ってくれるのか……!」 鷲蘭は未だに信じられぬと言う様子で、大きく頭(かぶり)を振りながら訴えた。その瞳が驚くほど澄んでいて、つい惑わされそうになる。自分を強く保つためには、唇から血が滲むほどにきつく噛みしめるしかなかった。 「また、そのように……いけませんね。元服を済まされてご立派な身の上になられた方が、いつまでもそのようなご様子では――」 声が震えていることを、悟られぬように小声になる。さらには袂で口元を隠すようにしたから、少し離れた場所からなら、心穏やかなまま笑っているかのように見られるのではないか。そうあって欲しい、どうにかこの場をやり過ごさなくては。この再会こそが、間違いであったのだから。
涼やかな目元、凛として整いすぎたと思われるほどの顔立ち。流れる髪は光のしずくをまといながら、さらさらと柔らかく気の中を漂う。先代の竜王様の再来と言われた、目の覚めるほどのお美しさ。そのような貴人を目の前にして、心を奪われぬ者があるはずもない。 むしろ悪いのは末若さまの方である。もしもあのようにご執心なさらなければ、今しばらくの間は都に留まることも出来たかも知れない。物陰から遠くお姿を見守っているだけで、どんなにか幸せだったことだろう。そんな淡い夢さえも打ち砕かれて、嘆きたいのはこちらの方だ。 もっと才があり、美しく見栄えのする女子であったなら、と考えたこともある。だが、いるかいないか分からぬほどのとりとめのない情けない存在では、どうにもならない。
「それに――、このようにわざわざお出でくださっても。わたくしにとって、あなた様は果てしなく遠い御方に変わりありませんわ。……それをご承知下さらぬといろいろと困ったことになります」 藤華はゆっくりと目の前の几帳に手を掛けると、その端を奥が見えるほどに大きくめくった。そして、確認するように振り返る。 「これで、もうお分かりですね。わたくしの心にはすでに大切な恋人が住んでおりますの、今宵も愛おしい方のお越しを今か今かとお待ち申し上げていたところ。このように取り乱しているところを見られてあらぬ誤解を生んでは面倒です、早々にお引き取り下さいませ。もちろん深夜に馬を走らせるのは危ないですから、今夜は誰にも知られぬよう館の方にお部屋を用意させましょう。わたくしは明朝、改めてご挨拶に上がりますわ」 言葉の最後まで、しっかりと目を合わせて話すことは出来なかった。心の底まで見透かされるほどのお美しい瞳は、浅い嘘などに惑わされるとも思えない。だが……ここはいかにしても押し通さなくては。互いにとって、それが一番良い道なのだから。 緊張の解けた身体で人を呼ぶために立ち上がろうとしたとき、肩に掛けた重ねが後ろにつれた。 「……嫌だ。許さないよ、そんな……!」 衣だけではない、気付けば床に流れた髪までも捕らえられていた。そのまま強く引かれれば、ひとたまりもない。髪を膝でしっかりと押さえつけられて痛みに悲鳴を上げる間もなく、すぐ間近で吐息を感じた。 「こんな些細なことで、私が引き下がるとでも思っているの? いつまでも子供扱いして見くびらないで欲しいな……!」 背後まで迫った熱さ。後ろから回った右手が、素早く藤華の腕を取った。骨までがきしむほどの強さに、心が震える。こちらをいたわるような優しさは、もはや感じ取ることも出来なかった。 「あなたもご存じの通り、私は王家の人間なのだよ。もしもあなたがすでに誰かのものであったとしても、どうして躊躇う必要がある? この場であなたの全てを奪ったとしても、誰も文句など言うことはできないのだよ」 身を切られるほどの鋭い言葉に、藤華はさらに動揺した。そんな、……そのような。高貴な御方のお言葉とも思えない。何故、このように恐ろしいことを仰るのだ。 「嫌っ……、おやめ下さいませ! こんな、……このようなことを仰る末若さまは嫌いです。どうか正気に戻られて下さい、お願いします!」 苦しい心から湧きだしたしずくが、あとからあとから頬を濡らしていく。己のことなど、もはや嘆きようもない。何よりも悲しかったのは、信じたお人がこのような横暴な姿に変わられてしまったことだ。懐かしい記憶の中で、再会したささやかな時間の中で。藤華を柔らかく見守って下さったあの眼差しを、どこに置き忘れてしまわれたのか。 「どうか……どうか、このまま捨て置いて下さいませ。もしもわたくしを哀れと思って下さるのなら……、これ以上の辱めはおやめ下さい。嫌です、……もう何もかも……!」
残された片方の袖口で、顔を覆う。まるで、すべての心が表に溢れ出て来るようだ。 もう、何もかも、自分から遠ざかって欲しい。心安らかに過ごせる場所に、行ってしまいたい。どんなに辛い身の上になっても、届かぬ思いだけを大切にして生きながらえようと思ったのに。それすらも、許されないことだと言われるのなら。いっそ、散り遅れたひと枝になり変わり、そのまま朽ち果ててしまいたい。
「……藤華」 前触れもなく、右腕の束縛がほどける。一呼吸の後で、震える声に呼ばれた。 「……私のことを何があっても受け入れられないと、そう仰るのだね。それが、それこそがあなたの答えだというの……?」 藤華は背後からかけられる問いかけには何も答えず、視線の先にある燭台の炎を見つめていた。溶け出して流れていくしずくよりも熱く、この心に宿るものがある。だが、それをどうすればいいというのだ。その先に待っているものの恐ろしさを思えば、諦めることなど容易い。今までも幾度となくこんな風にしてやり過ごしてきたのだから。もう少し、……少しだけ。 「この先、……どんなに私が頑張ったとしても、あなたは振り向いては下さらないのだね。あなたは永遠に手に入らない、……そうなのだね」 思わず、否定してしまいたくなる心。押し殺すのは辛かった。だけど、この痛みを耐えてこそ、平穏な生活を取り戻すことが出来る。心を乱すこともなく、ただ静かに時を過ごすことが出来れば、それだけでいいのだから。この沈黙が答えになるのなら、心すら石に変えて見せよう。 「だからこそ、これを……母上に託されたのだね? これこそが、あなたの答えだと」 するりと、ごくごく近いところで柔らかな衣擦れの音がする。藤華は濡れた頬のまま、そちらをゆっくりと振り向いた。それは、確かに見覚えのある包み。最後の日においとまを申し上げる時、藤華が正妃様にお渡ししたものであった。純白の布に包み取った、想いのすべて。――まさか、ここまでお持ちになっていたとは。 「とても……美しい刺し文様だね。あなたのお心が針目から見えてくるような。これを私のために仕立てて下さっていたなんて、本当に嬉しかった。実は少しは期待していたんだけど、何も仰ってくれないからやはり駄目かと諦めていたんだ。袖も通してみたよ、……何度も仮縫いをしたようにぴったりだった」 お美しい指先が辿るのは、白い鳥の羽ばたき。藤華が都に滞在している間、ずっと手がけてきた刺しものである。鷲蘭が都を立ってからは以前よりも時間が取れたので、ことのほかはかどるようになって、予定よりもずっと早く仕立て終わることが出来た。 「つまらないものですが……どうかお納め下さいませ。わたくしが、末若さまにお渡し出来るのはそれだけです、……もうこれ以上は何もございませんわ」 ――あの鳥は、末若さま。だから、手放さなくては心が残ってしまう。しかしながら愛しく想う心を捨てた今、藤華の胸はもはや大きな空洞ばかりになっていた。 「……そう」 鷲蘭の声も、元のように穏やかなものに戻っていた。こうしていると、日だまりの丘で過ごしたささやかな時間そのもの。難しいことは抜きにして、時を止めてしまいたかった。あの頃のことが今は懐かしいばかりである。 「そう……だよね。あなたはもはや何も持ち合わせてはいないはず。私との大切な約束ですら、都に捨てて行かれたのだからね。これで、すべての縁は途切れた――二度と、戻ることはないと……」 その言葉と共に、衣の下から取り出されたものを藤華は凍る心で確かめていた。そう、それは……あの日、鷲蘭から手渡された彼自身の持ち物であった懐刀。互いの命を守るものを交換して、愛を誓い合う。そんな庶民の習わしを真似た行為の。そのようなものを我が胸に持ち続けることは出来ない。多分すぐにでも後悔されると分かっていたから。 「あなたはひどい人だ、このように私の想いをどこまでも踏みにじろうとする。私は……あの頃も今も、ひたすらにあなただけが欲しいのに。どうしてもそれを分かって下さらない。あの頃のままに……」 凍り付いたままであった藤華の表情が、少しばかり動いた。それを汲み取ったかのように、鷲蘭は話を続ける。どこか遠くを見る眼差しは目の前の藤華を通り過ぎて、遙かな記憶を辿っているようであった。 「あのときもそうだった。突然、目の前からあなたが消えて、いくら呼んでも嘆いても戻らない。身体の半分が無理矢理引きちぎられて、明けない夜が来たようだった。やつれて病の床につけば、訪ねてきて下さるだろうとすら考えたよ。挙げ句に十日もまともに食事を摂らなくて、とうとう母上にお叱りを受けたんだ……」
――もちろん、覚えている。忘れたことなどない。 両親と共に都を去った幼き日の、この御方のお姿を。あの日、母とふたりで竜王様の御館までおいとまのご挨拶に上がって、末若さまにもきちんとお別れをしようと思っていた。でも……それはどうしても出来ないまま。 表の御庭から広間に弾んで飛び込んできたお姿を、幼い藤華は柱の影から見守っていた。何と申し上げたらいいのか、どうしても言葉がまとまらなくて、思いあぐねていたのである。
「あの頃の私はまだ小さくて、あなたを失ってもただ泣くしかなかった。――だけど、今は違う。こうして急ぎ馬を走らせて、どこまでもあなたを追いかけることが出来る。だからもう、二度とあなたを失うことなどないと信じていた。……なのに」 一瞬、藤華の視界を覆い尽くした閃光。目のくらむほどのまぶしさに思わず瞼を閉じていた。そして、再び開いた時に瞳に映ったのは、信じられない光景。 「藤華も、……知っているよね? 永遠を誓い合い取り交わした懐刀を突き返すと言うことが、どんな意味を持っているか。あなたにここまで拒まれてしまっては、私にはもうどうすることも出来ない。あなたが、あなただけが欲しかった。でも、もうそれが無理だと言われるのなら……」 輝きの正体は、鞘から抜かれた刃の部分であった。王族の御方の持ち物だけあって、見たこともないほどの美しい鋭利な刃先。それを蒼白の顔色をした貴人が静かに見守る。 「私の……この想いが偽りなどではないと言うことを、藤華にだけは分かって欲しい。他のすべてに欺かれても、藤華だけが残ればいいと思っていた。もう私には何もない、……あなたがいない世界など……今宵はすべてを終結させる覚悟だったのだから」
しっかりと両の手で握られた状態で、その刃先を首筋に添える。こちらが叫び声を上げる間もなく、赤い一筋が、白い肌に描かれていった。
(2005年2月18日更新)
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