TopNovel玻璃の花籠・扉>散りゆく杜の・9


…9…

「玻璃の花籠・新章〜藤華」

 

 

「……なっ……!」

 初めのうちこそは、意表をついた行動に出ることでこちらの気を引きたいだけなのだと軽く考えていた。だが、そのように落ち着いていられたのもわずかの間。ぽたぽたと刃先を伝って流れゆく鮮血を目の当たりにして、動揺を隠すことは出来なかった。狂言としても、あまりに度が過ぎている。

 確かに、懐刀の交換はその想いが命がけであることを互いに示した行為である。もしも心変わりなどがあれば、その刃をもって殉することになるとすら言われていた。ただ、それは単なる迷信のようなものであって、実際に自害が果たされた例など聞いたこともないが。

「……藤華」
 こちらの眼差しに今までとは違うものを感じ取ったのか、その口元にはかすかな笑みが浮かぶ。だが、そうしている間も、新たなしずくは溢れだし、衣を床を点々と染め上げていった。

「私は……あなたと出会えて嬉しかった。今まで本当にありがとう、いろいろと困らせて……迷惑をかけたね」

 ゆらゆらと揺れ続けた眼から、つうと透明なしずくがこぼれ落ちる。一筋、また一筋と、流れは顎を伝い落ちてゆく。見惚れている場合ではないのに、そこから目をそらすことが出来なかった。こんなはずはない、ただ芝居じみたことをなさっているだけ、すぐにお止めになるはず――。

 だが。頑なにその時を待っていた藤華も、鷲蘭の指先にさらにぐっと力がこもったのを見定めたときに、とうとう感情を解き放つしかなかった。

「……やっ! お止め下さいまし、お戯れでもこれ以上はいけませんっ……」

 逃げてやり過ごすことが出来るなら、そうしたかった。でも、このように揺るぎない現実を目の前に突きつけられてしまっては、どうしようもない。必死でその腕を取り、己の持つべき力のすべてで懐刀を引きはがそうと試みた。だが、予想を遙かに超えた強さは、藤華の想いなど聞き届ける様子もないようである。

「離してくれ、藤華っ! もう……いいのだよ、私は十分だ。この先あなたを憎んで鬼になってしまうのは許せない、どうかこのまま見届けておくれ……っ!」

 間近で見上げた瞳はどこまでも澄み切っていて、一点の濁りすらも見つけられなかった。お姿だけではない、その御心までが真にお美しい御方。それなのに、何故にここまで心を乱されるのだ。――何も、恐れることも嘆くこともないのに。
 この場はいかにしてもお止め申し上げなければ。そうなのだ、このようにお身体こそはご立派になられても、まだまだ幼いままのお心を留めていらっしゃる。いずれは大きく羽ばたくために、まずはしっかりと羽を休めることも必要なのだろう。……思えば昔から、少し気むずかしいところがおありだったではないか。

 もう必死だった、ただひとつのことだけを心に留め、その他は全て忘れ去っていた。魔物の如く暴れる衣をどうにか捉えたところまではかろうじて覚えている。その先のことは彼女自身も知らない。

「……藤華?」

 部屋の中の嵐が過ぎ去っていくのを、まだ荒い息をしながら感じ取っていた。しっかりと抱きついたつもりでも、予想以上に逞しいお身体に腕が回りきらない。むせるような天真花の香り、まるでまだあの白い園にふたりで佇んでいるようだ。

「お……やめくださいまし。そのように、わたくしを困らせるのは……」

 ほろほろとこぼれ落ちていくのは、心のしずくであろうか。堰を切ったように溢れだして、己の力ではもはや押しとどめることなど出来るはずもない。今まで様々な恐怖から逃げるために彷徨ってきた、でも……目の前でこの御方を失うことは決して許されることではない。何者にも代え難い、大切な存在。こんな情けない自分のためにどうしてこのようになさるのか。

「藤華……、泣いてくれているの? 私のために……」

 張りつめていた糸が途切れるかのように。からんと、板間に懐刀がこぼれ落ちる。ゆっくりと回された腕に抱きすくめられても、藤華は逃れることもせず、ただ広い胸に身体を預けて泣きじゃくった。優しく包んで下さる御方は、静かに髪を指で梳いてくれながら……やはりその頬にはしずくをこぼす。静かに木の葉がこすれ合うようにすすり泣きながら、長い時間互いのぬくもりだけを感じていた。

 

 とくとくと速く波打っていた心音が、だんだん緩やかなものに変わっていく。そのころには藤華もようやく穏やかな心地を取り戻していた。
 鷲蘭の傷も思ったよりも深くはないようで、取り立てて手当も必要ではないほどである。場所が場所だけに出血が多く驚かされたが、軽く押さえていればすぐに止まった。それでも先ほどの行為がふざけたものでなかったことは、そのぼんやりとしたお顔を見れば分かる。ようやく乾きかけた髪も乱れたままで、いつものご立派なお姿とはほど遠い。

 ――ここまで来れば、もう大丈夫であろう。どうにかお引き留めすることが出来たことを、山の神に感謝した。もう、迷いもない。かくなる上は、ひたすらに己の取るべき道を辿るのみ。

「末若さま、……宜しいでしょうか?」
 ゆっくりと身を起こす。ああ、こんなにもすがりついていたら、どんなにかご迷惑だっただろう。心ならずも恥ずかしい姿をお見せしてしまった。必死のことであったから仕方ないと思いつつも、やはり情けなくなる。だがいたずらに騒ぎ立てるのも大人げない。ここは年長のものとして、あっさりとかわさなければ。

「御衣装が……かなり水を含んでおりますね。このままですと、お美しい織りが台無しになってしまいます。気休めにしかならぬかも知れませんが、広げて乾かしましょう。……お貸し下さいませ」

 ひと目見た時から、察していた。そして、こうして直接手にしてさらに実感する。これは外歩き用の装束。しかもかなりの道中に耐えられるような仕立てになっている。
 ――多分、この御方は南峰の地から御自ら馬を駆り舞い戻られたに違いない。いくら腕に自信がおありだとはいえ、あまりに無謀である。そしてさらに都に辿り着くや否や、今度はこちらに向かわれたのだ。折しも野分の夜半、手綱の扱いを誤り惨事になった可能性だってある。

 荒れ狂う気の中を駆け抜ければ、しぶきも泥も浴びてしまう。後先を考えない主人を持って、せっかくの御衣装も災難だ。ざらざらと変わり果ててしまった表面は丁寧なお手入れが必要だろうが、こんな薄闇の中では十分なことは出来ない。特別なお道具も置いていないここではかたちを整えるのが精一杯だ。
 一通りの作法は身につけているとはいっても、このようなご立派なものを直接扱ったことなどない。幼い頃、都の御館で母の仕事を見ていた記憶を辿りつつ、衣紋竿に掛けたあと襟元からかたちを整えていった。やはりかつて手にしたこともないほどの優美な品を前に、心が躍るのを隠せない。先ほどまでの緊張も忘れ、しばし作業に没頭した。我が指の奏でる衣擦れの音だけが当たりに響く。

「あの……、藤華?」
 声を掛けられて、ようやくこの部屋にいるもうひとりの存在を思い出していた。ちらと見やれば、こちらには斜に構えたお姿で板間に座して、お顔も俯かれたまま。若草の襟元を辿る指先が、わずかな震えを見せている。

「いいのかな、いくらこんな夜更けとは言っても……重ねも羽織らずに渡りに出ることは出来ないよ。そうやって私から衣を取り上げたということは、今宵はこちらに留まっていいと考えていいの……?
 その、……藤華はそうは思ってないようだけど、私はこうしてあなたと何の隔たりもない場所にいては正気を保つことは無理だ。こうしているうちにも、己の中に巣くう魔物に取り憑かれそうだよ」

 正絹を辿っていた藤華の指先が止まる。そのまま振り向くことはせず、ごくりと息を飲んだ。やはり……そう来られたか。にわかに暴れ出す胸の震えは押さえようがなかったが、努めて穏やかに話し出す。

「わたくしとて、かつては王族に仕えた者の娘。相応に道理はわきまえておりますわ。お上のお望みのままにお相手を務めるなど当然のことでしょう。……お断りする理由もございませんわ」

 思いがけないほど部屋にの隅々にまで響き渡る自分の声を、まるで他人のもののように感じていた。言い聞かされたかのようにひとつ頷いて、言葉を心にしみこませていく。こんな状況になってしまった以上、覚悟を決めなくてはならないだろう。

 そう……、案ずることなどあるものか。このように我が身を望まれるのは、お歳も若く何もご存じないからだ。手に届かないままに追い求めれば、本来の姿以上に素晴らしく思えてくるのは当然のこと。すっぱりと見限って頂くためには、やり方を変えなければ。
 それなりの身分の家に生まれながら、ついにこの歳になるまで是非にと望まれることもなかった。そんな情けない女子に、いつまでもご執着なさるはずがない。つまらないばかりの存在だと、早く気付かれて欲しい。そのために……一夜を共に過ごすくらいは許されるだろう。あの男だって、きっと納得してくれるはず。それどころか、意に染まぬ正妻に触れずに済む口実が出来たと、密かに胸をなで下ろすかも知れぬ。

「そんな……藤華、本当に……いいの?」

 いつの間にか、すぐに背後で声がした。信じられないと何度も確かめるように訊ねる仕草が、たとえようもなくお可愛らしいなと思う。やはり何も変わられてはいない、すべてはあの頃のまま。

「やっぱりやめると言い出しても、もう遅いからね……」

 まだ外の嵐は続いていた。時折、軒先に木の枝が当たり、ざらざらとこすれあう音が聞こえてくる。ふわりと舞い上がり絡み合う、互いの髪。後ろからゆっくりと抱き留められたとき、藤華の肩から重ねが床へと流れ落ちた。

 

◆◆◆


「ああ、……まだ夢の続きを見ているようだ。本当に信じられないよ、あなたがこうして私の腕の中にいるなんて……」

 几帳の奥、整えられたしとねの上で熱い腕に抱きすくめられる。震える手のひらが藤華の肩から二の腕、そして背中へと辿り着き、何度も何度も髪の感触を確かめていた。辺りに立ちこめる目眩を起こしそうな甘い香りは、わずかばかり残った怯えを包み隠そうとする。高鳴りゆく胸の鼓動を苦しいほどに感じ取りながら、藤華もまたぼんやりと夢の中を漂っていた。

 そう、……これを夢と呼ばずになんとしよう。このようなことが起こりうるなんて。自分の意志で嫁ぐことを決めながら、心のどこかではすでに諦めていた気がする。もし成り行きに身体を重ねることがあったとしても、それは単なる形式上のやりとり。互いを想う血潮など、存在するはずもない。繰り返し読んだ絵巻物の様な恋物語も、己の身の上には生涯無縁のものだと知っていた。

 ――ふわりと心が浮き上がり、異なる世界へと吸い込まれそうになる。わずかに残った理性が、かろうじて藤華を現世に引き留めた。

 大丈夫、わたくしはただ、気まぐれな御方をお慰めする役を申しつけられただけ。誰もが手を焼くほどに駄々をこねられた幼子をなだめるように、求められるままに従うのだから。きっと夜明けまでにはお気づきになる、御自分がどんなにか愚かだったことかと。がっかりなさるに違いない、ものの数にも入らぬほどのつまらない女子を相手にしたことを口惜しく思われるだろう。

 何度自分に言い聞かせても、身体の震えが止まらない。愛おしい御方と添い遂げたいと思うのは、人として当然の欲求だろう。……だが、それが許されないと言うことも、とっくに承知していた。
 今宵のことも、どんなにか身の程を考えない恥知らずな行為であろうか。高貴な御身分の方が軽々しく臣下の者の館に無造作に忍ばせるなど、決してあってはならないことだ。もしも公になれば、厳しいお咎めを受けることになるに違いない。本来ならば、望まれれば藤華の方から鷲蘭の寝所に上がるべきなのだ。それが道理というもの。

 頭では分かっているはずなのに、もはやほとばしる想いを止めることは出来ない。その先に何が待ち受けていようとも、歩み出した足を留めることは不可能であった。

「本当に、いいのだね。もう戻れないよ? そんな目をしないで、たまらなくなるでしょう……」

 少し身体を離しては頬を口を吸われ、また強く抱きしめられる。髪も肌も、いつしか全ては支配されていた。初めのうちこそはぎこちなくかみ合わなかったお互いの鼓動が、やがてひとつに重なり合おうとする。次々に落とされる熱が、心地よく降り注ぐ春の木漏れ日のようだ。怯えながらも腕を伸ばしたくなる、明るい場所へ。
 そうしているうちに、今度は藤華を包んでいた衣が次々に剥がされ床に落ちていく。まるで躊躇いの心ごと、迷いを捨て去ろうとするように。恐怖にも似た想いを押しとどめているのは、藤華の中に残った年長者としての気負い。ここでいたずらに騒ぎ立てるのはみっともないからと、暴れ出しそうな己に堪えた。最後の肌着に手が掛けられたとき、それまでせわしなく動いていたお手が止まる。

 必死に押さえつけているように思える鷲蘭の呼吸が、ふたりを包む気を静かに揺らしていく。こちらに覆い被さるようになった御方の髪は、いつしか床の上に輝く流れを作っていた。額に落ちた前髪も、わずかな動きに合わせてふわふわと舞い上がる。

「あの……最初に謝っておかなくてはならない。私は――まだ女子(おなご)を知らないんだ。もちろん、一通りのことは知識として身につけてはいるけど……その、よく分からなくてひどくしてしまうかも……」

 わざわざお伝え下さらなければ、こちらも感じ取るゆとりなどなかったというのに。たった一枚の頼りない衣を前にして、闇色の湖が悲しげに揺れる。戸惑いと、不安と……期待と。何もかもが押し寄せて、乱れている心。全てが触れ合い、流れ込んでくる。震える手で固くなった二の腕に触れ、藤華はやっとのことで淡い笑みを浮かべた。

「……そのように難しくお考えになることはございません。何もかもが秀でた若君様が、気弱になられるなんておかしいですわ。途中、困ったことなどあれば、わたくしがお導き致しましょう。それに、決まった手順など存在しないと言われます……お心のままになさって宜しいのですよ」

 姉のように諭す自分が、とても滑稽に思える。数の減った灯りでは、互いの姿をはっきりと浮かび上がらせるには至らない。とはいえ、今宵身につけているのは初夜のための白装束。それに手を掛けた御方はすでにご存じであろう。いくら年長者を装っても、頼りないのは藤華も同じ。本当のところは、先の見えない成り行きに、ただただ心を震わせているだけだ。それすらも全てご承知だろう。
 しかし、鷲蘭は彼女の言葉をしっかりと受け止めたように微笑む。頬に掛かった髪を静かに指先で払い、そこに軽く唇を当てた。もう片方の手はゆっくりと藤華の首筋から下へと降りてゆき、ほろりと結び目を解き放つ。素肌に吸い付いた手のひらの熱さに、思わず身震いをした。

「ああ……とても滑らかだ、それに柔らかいね。……ほら、こんなところに可愛らしい花が咲いている。ねえ、摘んでもいいよね……?」

 ぴり、と鋭い感覚が背筋を走り、思わずしとねを握りしめていた。恥ずかしさのあまり、とてもそちらをしっかりと見ることは出来ない。柔らかなものが胸の頂を絡め取る、初めて知る甘い痛みに我を忘れた。

「あ、……嫌っ! そんな……っ!」

 無意識のうちに身体が刺激から逃げようとする。しかしすぐに強い力で引き戻され、背中をしとねに縫い止められてしまう。熱い息が耳元に掛かった。

「駄目だよ、もう逃がさないと言ったでしょう……? ふふ、藤華は敏感なんだね、ちょっと触れただけなのに」

 見えない網にどんどん巻き取られていく。情けない姿を晒しながら、どうすることも出来ない。せめて、あと少し薄暗くなって欲しいと燭台に手を伸ばせば、手のひらごと絡め取られてしまう。

「何を考えてるの? これ以上灯りが少なくなったら、藤華が見えなくなるでしょう。私に全てを任せてくれると言うのなら、無駄なことはやめて。ね、……もっと良く見せてよ」

 上体を起こされて、何も身につけていない姿で向き合う。透けるようなお美しい肌は、ひとつのシミもなくそこにあり、女子の身の上でも見惚れてしまうほどだ。それに引き替え、自分はどうであろう。西南の民の血を濃く受けた黄味の強い肌、それだけでも美しさから遠ざかった気がする。このように重ね合わせられたら、みすぼらしさもひとしおだ。

 ……それなのに、どうしてこんなにもお優しい眼差しを向けられるのだろう。自分など、触れる価値もないほどの存在なのに。

「藤華……こんなに可愛らしいなりをして。いつも衣を着込みすぎで隠すのは、もったいないよ。随分動きにくかったでしょう……?」

 腰に手を回して抱き上げられれば、何とも恥ずかしい格好になってしまう。胸にたっぷりと顔を埋められても、押さえつけられてしまっては逃げることも出来ない。恥ずかしさのあまり思わず身震いすると、自分の髪が背の向こうで揺らめいているのが感じ取れる。

「そんな……、そのようなこと」

 何枚も衣を重ねすぎることは、母や侍女からも良く注意されていた。必要以上に肉付きが良く貫禄が出てしまうのはみっともない。色目ももう少し明るく華やいだものにした方がいいと言われた。だが、……そんな風に自分を飾ることは、藤華にとってとてもやりにくいことである。さりげなく紅を引くことすら、躊躇した。

「ふふ、藤華。あなたは小さくて頼りなくて、腕の中にすっぽり包めるのだね。どんなに腕を伸ばしても届かないほどにしっかりした方だと思っていたのに……良かった、本当に嬉しいよ」

 ……どうして、そんなことを。

 戸惑う間もなく、次々と新しい波がもたらされる。まるで琴をつま弾くかのように指先が肌の上を滑り、透き通った笛の音を生み出す口元が柔らかい熱を落としていく。それなのに藤華の口元から漏れ出でるのは、熱を帯びた喘ぎだけ。美しい音色にはほど遠い。

「……や、もう。……おやめくださいまし」

 幾度振り払おうとしても、ためらいもなく柔らかく巻き付いてくる腕。このままどこまで流されていくのだろう、夜の海を漂い続け戻れなくなってしまったら何としよう。渇きを覚えるほどに求める心とせめぎ合いながら、その上を行く恐怖と戦っていた。どうしたらいいのだろう……、こんなにも激しい想いが自分の中にあったなんて。

「あなたは少しも嫌がってなどいないでしょう、私にはちゃんと分かるよ? ほら、こちらにも可愛らしい蕾があるね。……どうしたの、こんなに震えて」

 信じられない感覚に、身体が大きくしなる。隠しようのない動揺に、ただ顔を赤らめるだけの藤華に、鷲蘭は艶やかな眼差しで応えた。鼻先にひとつ、唇を落とす。

「私も……あなたと一緒だ。身体が熱くたぎっているよ、狂おしいほどに。ね……、この熱はどうしたら冷めるの? それが出来るのはあなただけだよね……」

 恥ずかしくて、情けなくて。もう消えてしまいたいくらいなのに、……どうして。目の前の優しい瞳を受け入れてしまいたくなる。その先に、何が待っていようとも。

「いいね……、私の全てを受け入れておくれ」

 

 知らず、腕を伸ばしていた。

 己の行きつく場所、明るい場所。再び踏み入れることは出来なくても、一度きりの花園にこの身を沈めてしまいたい。深く、唇が重なり合う。こんな風に……お側に上がれる日が来るなどと、どうして想像出来ただろう。みすぼらしい庵では本当に申し訳ないばかりであるが、そこは嵐の夜に免じてお許し頂きたい。

「おお……、藤華、……藤華っ……!」

 ゆっくりと繋がっていく場所。心の奥を無理矢理にこじ開けられてゆくような感触に、背筋が大きく震える。互いの音にならない喘ぎが重なり合い、絡め合った指に力がこもった。くうっと、小さい呻きを発して、鷲蘭の動きが止まる。どうしたのだろうとぼんやり瞼を開くと、潤んだ瞳がこちらを見ていた。

「とても温かいよ、藤華。あなたが私の全てを今包んでくれている。こんなに満たされた想いは生まれて初めてだ、こんな……こんなにも私たちは分かり合うことが出来たのだね。ああ……あなたのお心が、私の中に注ぎ込んでくるようだ……」

 何とお返事を申し上げたらいいのか、藤華には思いつかなかった。気の利いた言葉など浮かばないほどに張りつめた気持ちになっていたこともあるが、その上にどんな言葉でも言い表せぬほどの想いに心が満たされていたから。震えるだけの唇を塞がれて、もっと深く繋がりあう。互いの腕を背に回し汗ばんだ胸を寄せ合えば、外の嵐すらもう敵ではなかった。

「好きだよ、藤華。……あなたはこんなにも深い想いで私を待っていてくれたのだね。もう……離さないから、絶対に」

 甘く酔いしれた言葉ですら、永遠の誓いに思えてしまう。ああ、どこまでも浅はかで愚かな心。でも今だけはそれにすがってしまっても許されるのだろうか。……こんな風にわざわざ後を追ってきて下さったこと、命がけで求めて頂けたこと――すべてすべてを美しい思い出の中に閉じこめたい。夢のように過ぎた都暮らしのせめてもの終焉に。

 改めて言われるまでもなく、心の一番深い場所にはいつもこの御方が住んでいた。お声を掛けられることなど願うべくもない。その瞳に映ることすら二度とないと諦めていたのに、……それでも。

「末若さま、わたくしは……」

 言葉よりも先に涙が溢れてきて、これ以上続けることは出来ない。そんな藤華を気遣うように、鷲蘭は優しく髪を梳いてくれた。

「もう、お泣きにならないで。あなたと私はひとつだ、あなたがそのようにしていては私までが悲しくなってしまうよ。……ね、今は私だけを感じて。ふたりだけしかいない世界に行こうよ――」

 

 ふわりと舞い上がる、漆黒の髪。ゆらゆらと闇を漂い、いくつもの螺旋を描いていく。その向こうにあるものを今は見ない振りをしよう、ただ流れに身を任せながら。どこにいるのか、どこまで行くのか、それすらも忘れてしまえばいい。

 互いを導き合う波間に漂いながら、永遠にこの夢が続くことを藤華はひたすら願っていた。



(2005年2月25日更新)

 

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