TopNovel玻璃の花籠・扉>散りゆく杜の・10


…10…

「玻璃の花籠・新章〜藤華」

 

 

 部屋に満ちた朝の光に気付くのが遅れたのは、戸口に背を向けていたからだろうか。ゆっくりと首を回しながら、瞼を開けたとき、藤華は思わず跳ね起きていた。さらさらと心地よい気が素肌を流れ、身震いする。にわかに高鳴り出す胸、そこに無数に落ちた花びらに見まがう痕。

 ――どうしよう、今は何時なのかしら……?

 普段の藤華は夜明けと共に目覚めるほどの早起きである。まだ人影のない耕地に出て季節の花を愛でたり、変わりゆく里の風景を眺めるのは彼女のひそかな楽しみであった。誰にも遠慮することなく過ごせるのは、我が家とする場所であってもなかなか叶うことではなかったから。
 だから、このように日が高くなるまで几帳奥にいたのは初めての経験だ。ああ、何たる失態。こんなに寝過ごすとはうかつであった。ただ今にあっても気を強く張っていないと、身体のあちこちに残る軋みとけだるさに取り込まれそうになる。あまりに心が乱れて、焦るばかりの指先では腰ひもも上手く結べない。

「……ん……」

 そうしているうちに、今度は背後でごろんと寝返りを打つ音がする。慌ててそこら中に散らばった衣をたぐり寄せ振り向けば、未だに夢の中を漂い続けている貴人がいた。障子戸越しの明るさに柔らかく照らし出されたしとねの上に流れる黒髪が滑らかな輝きを放っている。その寝顔の余りのあどけなさに、藤華は音のない溜息を落としていた。そして、頼りなく震える己の肩を抱きしめる。

 やはり……自分の考えは甘かったのか。このようにみすぼらしい我が身を包み隠さず晒せば、すぐさま御自身の間違いに気づいてくださると信じていた。実際、お口ではあのように仰っていても、お心うちではどんなにかがっかりされたであろう。
 甘やかな酔いは数刻の後には跡形もなく醒めていく。願わくば夜が明ける前にお目覚めになり、ご自分の行いに恥じ入ったあとにそそくさと立ち去って欲しかった。そこまで聡い行いをこの年若い方に望むのはいささか虫が良すぎただろうか。この上に面倒ごとは背負い込みたくなかったが、致し方ない。

 静かに目を閉じて、ゆっくりと考えを巡らす。そうだ……そうなのだ、ここでうろたえてどうする。今更に自分に言い聞かせるまでもなく、これは一夜限りのこと。いたずらに長引かせることがあってはならない。覚悟を決めたあのときから、その先のことはきちんと考えていた。ここに来て、迷う必要など何もない。ただ冷静にことを運ぶだけだ。
 道を外れて忍んできた御方を、誰にも悟られることなく善き道へとお戻しする。これこそが今、藤華に課せられた重大な使命であった。

 

 ――さあ、時間はない。どのようにして段取りを付けたらいいものか。夜明け前ならいざ知らず、こうして陽が高くなってしまってからでは容易く済まされることではない。細心の注意を払わなければ、どこかで間違いが生じてしまうだろう。だが、乗り越えなければ。そうでなければ、夢のような一夜の思い出すら台無しになってしまう。

 幸いなことに、この庵は人目に付きにくい敷地外れにある。自分ひとりの力では難しくても、誰かの手を借りればどうにかなるはず。そこまで考えて心を落ち着けたときに、裏戸を叩く音がした。藤華の胸にさあっと緊張が走る。

「姫さま、姫さま……その、もう人の通りが多くなる時間です。急ぎお支度くださいませ」

 その声に、ホッと胸をなで下ろしていた。ああ良かった、佳乃が来てくれたのならもう大丈夫。また迷惑を掛けてしまうが、やはりどうしても彼女に頼るほかにない。場合によってはこの人の恋人やその者の仕える藤華の兄にも手を借りることになるだろう。皆に掛ける苦労を思えば胸が痛むが、今は戸惑っている時ではない。
 取り急ぎこれからを相談しようと身繕いをしていると、また遠慮がちな声がした。どうしたことだろう、佳乃は未だ引き戸も開けぬままである。侍女という立場であるから、主人の閨に入ることをそれほどに身構える必要もないのに。こうして意識された方が、よほど恥ずかしい。

「あの、……庵の前に馬が。そのままでいて、宜しいのでしょうか」

 いつになく慌てた声である。藤華もはっと息を飲んだ。

 ……そうであった。昨夜嵐の中を鷲蘭が駆ってきた馬が、表に繋がれたままになっていたのか。おとなしく鳴き声も上げないので、すっかり忘れ切っていた。確か、彼の愛馬は美しい毛並みの白馬。その辺にいるようなものとは比べものにならぬほど立派であったはず。もちろん藤華の背の君となる男が持ち合わせているはずもない。

 それが忽然と現れたら……誰であっても驚くのが当然であろう。だからこそ、佳乃は戸の向こうで控えたままであったのだ。きっとすでに何かを察したに違いない。どうしよう、まずはどこから話をしたらいいのやら。思い至らなかったとはいえ、すっかり驚かせてしまい可哀想なことをしてしまった。

「ごめんなさいね、佳乃。心配しないで、……大丈夫だから」

 静かに引き戸を開けたものの、どんな顔をしていいのか分からない。一度鏡を見て己の姿を確認するべきであった。気安い仲であるから、寝起きの姿など今更恥ずかしがることもないはずなのだが、今朝だけは勝手が違う。それでも、いつもと同じ優しい微笑みに迎えられ、藤華はようやく心を落ち着かせることが叶った。

「まずは馬を――山に面した裏口の目立たぬところに繋いでやってちょうだい。昨夜は嵐の中でどんなにか怯えていたことでしょう。きちんとお世話をして、飼い葉なども十分に与えなくてはね。……それから」

 何を先に、何を後にしたらいいのか。優先順位を考えつつ、ひとつひとつ確認するように言葉にする。ただですら身丈もありこの地にはないお姿の御方、どのようにして人目に付かぬように導けばいいものか。なかなか思いがまとまらない。
 下男の衣でも借りてお姿を偽って貰おうか、それとも荷車にこっそりと忍んで行く方が得策か。ああ、時間を元に戻して、もう一度夜明け前がおとずれてくれればいいのに。普段なら馬鹿馬鹿しいと片づけられるような世迷いごとまで思い浮かんでしまうとはどうしたことだろう。

 

 その時、つうっと後ろからかすかな気の動きを感じた。

「表の厩でいいよ、余裕はあるのでしょう? 気性の荒い馬じゃないから、慣れない場所でも暴れたりしないしね」

 目の前に控えた佳乃の顔色が変わっていく。自分をすり抜けていく視線、その先に何があるのかは振り向かなくても分かった。

「あ……、あの……」
 顔全体が蒼白になってしまったその侍女は、血の気の引いた唇をかろうじて動かした。しかしすでに上下の歯も上手く噛み合わない有様。無理はない、都での話は何ひとつ伝えてはいなかったのだから。

「君が、藤華の身の回りの世話をしてくれる侍女だね? 早速で悪いんだけど、私の衣を少し手入れしてもらわなくてはならないんだ。道具なども急ぎ調えてくれないかな、あまりゆっくりしすぎては、あちらに失礼に当たるしね」

 もう少し取り乱してもいいと思うのに、鷲蘭はどこまでも落ち着いて初対面の佳乃に遠慮するそぶりもない。呆然と立ちつくす藤華を支えるようにいつの間にか隣に立ち、にこやかに話を続ける。櫛を入れていない髪は長く垂らしたままであったが、とりあえず寝装束だけはきちんと身に付けられていた。

「お……お食事のお膳などもお持ち致しますか? 御館様にお伝えすることがあれば、それも承りますが……」
 その心中は未だ混乱の極みであろう、でも心優しい侍女はどうにかして気を強く保とうと必死の様子だ。無理もない、決められた男と一夜を過ごしたとばかり思っていた自分の主人が、このように見たこともない貴人とともに閨から出てきたのだから。取り乱すなと言う方が無理な話である。

「まずはこちらの方とゆっくり話をしたいんだ、難しいことはそれからにしてくれないかな。そうは言っても――朝餉の膳はもちろんお願いしたいけど。昨日は慌てていたし、丸一日満足に食事した記憶もないんだ」

 その言葉に、凍り付いたままであった佳乃の頬がわずかにほころんだ。見ず知らずの鷲蘭のことを、それでも好意的に受け止めているのだろう。藤華としては口を挟む隙もなく、何とも情けなく腹立たしい限りであった。だからといって、すぐには気の利いた言葉も見つからない。

 では、しばらくの後にまた参ります――そんな言葉を残して佳乃が去ってしまうと、さらに覆い被さる疲労感だけが藤華の額に残った。

 

◆◆◆


「……何を企んでいるの? 私がそれほど簡単にあなたの策にはめられると思っていたのかな。悪いけど、駆け引きにおいては、私の方がずっと上手だと思うよ」

 元の通りに戸口を閉ざすと、鷲蘭の口からはそんな言葉が漏れた。静かな、でもとても強いものを潜ませた声。今までに藤華が耳にしたことのない、大人びた口調であった。

「こうなってしまった以上は覚悟を決めてくれると思ったのだけど、甘かったな。そのお可愛らしいお顔の下で、よからぬことを考えていたのでしょう……? 全く侮れない御方だ」

 くすくすと、喉の奥で忍び笑いを漏らされる。そのお顔の下にこそ何が潜んでいるのやら。軽くあくびをしたあとに、鷲蘭はゆっくりとした足取りで進み、やがて几帳の表に腰を下ろした。板間に直接あぐらをかかれたことに慌てた藤華が敷物を差し出すと、微笑んでそれを受け取る。

「どうして、そのように怖い顔をするの? 嫌だな、昨日のあなたはとても素直で可愛らしかったのに。あの声が今すぐにでも聞きたいな、こんなに慌ててお支度することもなかったでしょう」

 表情を崩すことなく、あっさりとそのように言ってのける。澄んだ瞳にまっすぐに見つめられれば、昨夜の出来事がありありと思い出されて頬が熱い。だが、今はそんなことに心を奪われているときではない。藤華は自分の心に湧き上がりかけた思いすら振り払うように、必死で叫んだ。

「そ、そのように寝ぼけていらっしゃる場合ではございません。……ああ、末若さまもいつまでも起き抜けのお姿では困ります。早くきちんとお支度なさって下さい。今、家の者に話して……人に悟られぬよう抜け出す手段を考えますから……」

 今の藤華が成すべきことは、このように浮ついたままの御方をどうにか無事に都にお返しすることだけだ。何も言わずに飛び出してきたのであれば、今頃はあちらでも大きな騒ぎになっているに違いない。ことの重大さにどうして気付いて下さらないのか。

「まだ、そんな風に言う……何故隠れるようにしなくてはならないの? 分からないな、あなたは。私はきちんと支度を整えたらすぐにでも、雷史と会うつもりだよ。ふたりのことを正式に認めて頂くためにね」

 少し猫背になって、顎の下に手を置きこちらを見上げる様な姿勢になる。何ということを仰るのだろう、全く信じられない御方だ。こちらはもう恐ろしくて泣き出しそうである。自然とお伝えする言葉も乱れてしまう。

「い……いい加減になさって下さい! そのように分からず屋でどうなさいますっ……、このままではあなた様もわたくしの家も大変なことになりますよ? このように末若さまが我が館に一晩留まったことが知れ渡れば、謀反の疑いを掛けられても致し方ないでしょう。これ以上、わたくしを困らせないで下さい……!」

 もう少し他に気の利いた言い方があったと思う。でも、せっぱ詰まった状況ではありのままにお話しするしかなかった。

 もともと、西南の集落は王家に対し出過ぎた真似をする民として、口さがない者たちの間ではとくに評判が悪い。それだけに何かひとつことを起こせば、たちどころに悪者に決めつけられてしまうのだ。
 こちらに一夜お引き留めしたのは、藤華も承知したことであった。あの場で他にどんな方法があったのだろう。だが、夜が明けた今……もう、末若さまといえどこれ以上のことは許されない。どうにかしてお引き取り願うしかないのだ。両親を始め館の者たちに、いらぬ火の粉が降りかかっては大変なことになる。

「……分からず屋はどちらだろう。私にはあなたの方が、ずっと困った人だと思うよ?」

 それなのに。まだ、鷲蘭はそのように言って、微笑みのかたちは崩さずにこちらをのぞき込む。

「一夜囲うのが許されないのなら、夜が明けてからこちらに参ったことにすればいい。それでも少しのお咎めは受けるだろうが、あなたの父はそれほど話の分からぬ相手ではないでしょう? きっと分かってくれると思うんだけど」

「……な……!」

 一体どうしたことだろう、藤華は混乱を隠せずに視線をそらした。面と向かった状態では、どう考えてもこちらが不利だ。あの眼差しに魅入られて、心を乱すことがない者がいたら是非お目に掛かりたいものだ。ああ、落ち着かなければ。このまま言いくるめられてどうする。ここは畏れ多くも「姉」としての立場で、しっかりと目の前の御方を諫めなければならないのだ。

「――仰ることはよく分かりました、でも末若さまのお言葉に従うも従わないもわたくしの自由でありましょう。そもそも、あなた様は大切なことをお忘れですわ」

 自分が今まで歩んできた道、そしてこれから進むべき道。

 もう一度、きちんと置かれた立場を確認すれば分かることだ。迷うことなど、何ひとつない。何度も何度も己の心に言い聞かせる、自分が取るべき最良の方法を。皆が承知し、祝福してくれたことではないか。それ以上のものなどあるはずもないだろう。

「何度も申し上げたはずです。わたくしには、すでに心に決めた方がおります。……このご縁は誰もが待ち望んだことですから、今更覆すことなど到底出来ませんわ。これ以上、私に恥ずかしい思いをさせるおつもりですか、……それだけはお許し下さいませ」

 

 はっきりとした口調になれたのは、目の前の御方が丸腰だと承知したからであった。昨夜の懐刀は几帳の向こうに置いたまま。あのように取り乱されることがないとすれば、気を強く持つことが出来る。

 とうとう昨夜、訪れることのなかった男。信じて待っていた藤華のことなど、その程度の存在でしかなかったのだと自分の態度で示してくれた。だけど、このようにひどく裏切られようとも、男を憎む気持ちはない。どんなかたちであれ、望まれるならそれに従うまで。この期に及んでも、微塵の迷いもないのだ。
 茨の道を進むことを選んだ。何故なら、それこそが自分の道ならぬ恋の終焉だと思うから。密やかに誰にも侵されることなく、ただひとつの想いを抱き続けることが出来るなら、その生涯は幸せだと言える。

 偽りの愛には、偽りの想いで応えよう。愛されない己を思い知れば、片恋も辛くない。痛みを知るのは、この身だけでいい。

 

「ご承知くださいませ、わたくしの心はすでに決まっております。……どうかすぐにお支度を。いたずらに時を過ごしては面倒なことになりますわ。わたくしは今一度、侍女を呼んで参ります」


 これ以上、突き進んで来ないで欲しい。何を血迷っていらっしゃるのだ。もう、すでにお分かりのはず……今までもこれからも末若さまの周りにはあまたの素晴らしい女人が溢れている。そのような方々に較べ、田舎者の自分など足下にも及ばないだろう。誰もが承知しているはずのことを、ご立派な身の上の方が悟れなくてどうする。
 とりあえずは佳乃を呼び寄せ、きちんと自分の意を伝えよう。婚儀を前に他の男と通じるなど、何とはしたないことだと思われるか。だがいいのだ、自分はどんなに責め立てられても構わない。ただひとりの御方を、お守り申し上げることが出来るのなら。

 きびすを返し、ゆっくりと歩み出る。舞い上がる裾、この身にまとう重ねはやはり落ち着きすぎた枯葉色。華やかな暮らしになど、縁はないと自分に言い聞かせてきた。……そして、これからもずっと。

「――藤華。……まだ、そのようなことを。信じられないな、あなたのお心はすでに私に全て露わになっているのに。どうして私を捨てて他の男のものになれるの、あなたよりも他の女子を大切に思うような輩に――」

 知らず、足が止まる。その突然の言葉には、ただ息を呑むしかなかった。背を向けていたことで、瞬間の顔色の変化を悟られなかったことだけが幸いである。一体、どういうことなのだろう。何故、この御方がそれを知るのか。

「私が……何も知らないとでも思っているの? あなたのことならば、知らぬことなどないはずだよ」

 ――軽い目眩を覚える。激しい波がいくつもいくつも押し寄せてくるようで、足下すらおぼつかなくなる。ああ、気を強く保たなくては、どんなお話を聞かされたところで今更何が変わるというわけでもないのに。再び戸口の方へと歩き始めたとき、またも鋭い声が背中から追いかけてくる。

「また、逃げるの? ……あなたは本当にそれでいいの、幸せになれるのかな……?」

 振り返らない、決して振り向くものかと何度も自分に言い聞かせる。朝の軽やかな気が、しかしとてつもなく重く身体にまとわりつく気がした。

「ねえ、あなただけではないのだよ。皆が幸せになれる方法をきちんと考えて、……逃げるのはやめて」

 藤華は足を止めた。でも、振り返らない。――それだけは、守らなくては。

「いいえ、これから進む道こそが皆が幸せになる道です。あの方がせっかくわたくしをと望んで下さったのです、疑うことは何もございませんわ」

 ぴんと張りつめた気が、後ろから揺らいでくる。歩み寄る気配もないままに、目には見えない大きなものがどんどん押し寄せてくるようだ。

「――違う、あなたは間違っているよ」
 気を切り裂いて、追いかけるように必死にすがりつく声。耳に入れたくなくても、聞き惚れてしまう澄んだ響き。

「ねえ、……あなたが本当に望むのは何? あなたが幸せにならないと、駄目なんだよ。誰かのためにって言い訳して、これ以上逃げないで。あなたの勇気が皆を幸せにするんだから――ううん、あなたは私が、私が必ず幸せにするよ。あなたと共に生きたいんだ、……あなただけが欲しいのだから」

 恐ろしいばかりだと思う、まっすぐな想いが胸に突き刺さる。身体の震えが止まらない、自分の辿り着きたい場所はひとつ。でも……それは許されることのない遠い遠い存在。

 多くは望まない、この腕に包めるほどのささやかな安らぎだけで十分だと思う。

「……嫌です、そんな風に仰らないで。もうやめて下さい、何もご存じないからそのようにお考えになるのでしょう。何も……何もご存じないから……」

 

 都には魔物が棲んでいると思った、幼き日。本当は朝が来ても御館になど行きたくなかった。でも自分がひとり居室に残れば、母は出仕することが出来ない。他の兄姉たちは喜び勇んで出かけていくのだから、我が儘など許されることではなかった。

 御部屋の隅で、御庭の草陰で。ぽつんと時間が過ぎるのを待っていた。すると、不意に腕にぬくもりを感じる。

「――見つけた。ね、一緒に遊ぼう」

 まだまだお小さくて、髪もひとつに結えないほどの御方がそこにいた。この上なく嬉しそうに微笑まれて、藤華の手を取る。それだけで恥ずかしくていたたまれない気持ちになった。
 末若さまのお側にいれば、どうしても侍女たちの目を引く。「またあの、赤毛の子が……」ちらとこちらを見つめられるだけで、そんな言葉が聞こえてきそうだ。すぐにこの場から逃げ出したい、でもどうしても出来ない。あのときの気持ちはどう説明しよう。

 どのようなかたちであれ、必要とされれば嬉しかった。誰かの役に立てるなら、喜んで従うしかないだろう。今も昔もその想いに変わりはない。

 

「何も知らないのは、あなたの方でしょう。私がどんな気持ちで長い年月を過ごしてきたか、どうしてお分かりにならないのか。十年も、待っていたのだよ。だったらこの先も……十年でも二十年でも五十年でも待つことが出来る。嘘だと思うならそれでもいい、私を振り切って進まれるというならそれも仕方ないね。でも……この想いだけは、髪に霜の降るまで変わらない」

 そんなはずないじゃないか、あり得ないことだ。そう吐き捨ててしまいたいのに、それが出来ない。何故ならあの頃も今も、この御方の瞳は同じ色で藤華を見つめるから。

「おかしいよ、みんな何を思い違いしているの? 誰かのため、誰かのためって言いながら、本当は辛い現実から逃げているだけでしょう。今に皆が辛い人生を歩むばかりになる、そのときに嘆いたってもう遅いんだからね」

 すぐ後ろまで迫った声が、藤華を徐々に追いつめていく。このまま熱い波に飲み込まれてしまいたい、でも怖くて仕方ない。ああ、どうすればいいのだ。……どうするのが、一番いいのだ。

 

 胸が痛いほど震える、ふたつの想いがせめぎ合い藤華を責め立てる。

 ここで我が欲のために、何もかもをうち捨てることなど許されるのか。その先に続く想像に容易いたくさんの困難に、果たして耐えることが出来るはずもないのに。しっかりと押さえつけていないと、自分の足が勝手に向きを変えそうだ。

 わずかに流れ込んできた気が、藤華の髪を後ろへと送る。

 何もかもが、引き留めようとするのはどうしてなのだろう……? 自分は決して間違った道に進もうとしている訳ではない。それは確信しているのに、何故こんなにも苦しいのか。我が身にまとわりつく重荷を全て捨てたら、心は果たしてどこへ辿り着くのだろう。

 

「――そう。ならば、これは何とする? 信じられない人たちだね、どこまで己の心を欺き続けるのだろう」

 いつの間にか、行く手を遮るように立ちふさがった御方が、何かを差し出す。その表書きを見たときに、藤華はただただ言葉を失い、立ちつくすしかなかった。

「変な思い違いはしないで欲しいな、特別なことは何もないんだ。ただ、昨夜こちらに辿り着いたときに、それを届けに来た文使いと出くわしてね。あの暗闇の中でしょう、庵の前にいた私をあなたの使用人のひとりと間違えたようだよ。……もちろん中身を盗み見するようなことはしてないけど、そこにしたためられた内容は分かる。自分の主人がこちらに来られなくなった理由を、その者が教えてくれたから」

 その言葉に偽りはないと感じ取れた。昨夜の荒れの中では、そのような取り違えも無理もないことだろう。

「それをご覧になっても、まだご自分の間違いに気づかないのかな? 本当はもう分かっているんでしょう、あなたはそれに気付くのが怖いだけなんだ」

 今したためられたばかりのような、新しい墨文字。藤華は長く息を吐き心を落ち着けてからそれを開いた。少し乱れた文字を急ぎ目で追っていく。そう長くはない内容を全て読み終えると、またひとつ深い吐息を付いた。

 ゆっくりと瞳を閉じて、額に手を当てる。震える指先を感じ取りながら、しばらくはその姿勢のまま動くことも出来なかった。流れ込んで行く、たくさんの感情が。長い時間閉ざしていたままだった心が開いていく。

 

 ――ああ、そうか。そうであったのだ。

 

 ようやく、藤華の中でひとつの想いが結ばれていく。鏡のあちら側にも確かに自分とよく似た人がいたのだ。互いに己の姿を見ながら、やり過ごしてきたのか。何と愚かなこと。あの男の中にあった影はそのまま藤華の心を映しだしたもの。これ以上、傷つけてはならないのだ、彼も自分自身も。


 あちらの女子が急に産気づき、不義理をしてしまったと詫びていた。生まれた子は男子であったと記されている。多分、跡目に据えたいと考えているのだろう。名を一緒に考えて欲しいとあった。心の優しい人だ、そして弱い人。誰も傷つけたくないのに、それが出来ない。そんな自分が一番傷を負っていく。

 ――もう、そんな悲しいやりとりは終わりにしなければ。互いの幸せのために。まずは自分を、その次に周囲の者たちを。その順序を取り違えてはならない。

 

「末若さま」

 ゆっくりと面を上げる。顔がこわばって、微笑みをかたち取ることが出来なかった。でも、……綺麗に言葉がまとまらなくてもいい、きちんと伝えなければ。

「わたくし、彼ときちんと話をしてみますわ。このまま、大切なことを見失っては皆が道を外して不幸になってしまいます。それまでは、わたくしたちのことは公にせずお待ち頂けませんでしょうか……?」

 刹那。大きく見開かれた瞳がすっと細くなり、口元に笑みが浮かんだ。

 ようやく寝着を羽織っただけの御方が、静かに歩み出て片腕を差し出す。指が触れあった次の瞬間には、しっかりと抱きすくめられてしまった。ほうっと、深い吐息が落ちてくる。

「何を言ってるの、……少しの時間を待つことなど辛くはないよ。でも、あまりのんびりはしないでおくれ……これから新しい地に出向くには、しっかりした妻が必要なのだから」

 急にそんな風に言われて。驚いて顔を上げた藤華に、鷲蘭は少し恥ずかしそうに言う。

「黙っていたけどね、これから今回完成した南峰の分所を任されることになったんだ。田舎暮らしになってしまうけど、……いいかな?」

 ――あっさりと仰ったが、大変なことである。

 長年慣れ親しんだ都を後にされるなんて……まさか、自分のために決意されたことなのだろうか。いや、それではあまりにも思い上がった解釈になってしまうだろう。くすぐったい気分が湧いてきて、心まで支配され始めていく。

 何かを言いかけたところで、唇が重なり合う。そうしてしまうことがとても自然で、言葉よりも多くのことが伝わっていく気がした。

「では今日のところは、遠乗りのついでにこちらに立ち寄ったことにすればいい? それなら雷史と会ってもおかしくないしね。すべてが整ったら、またお迎えをよこすから……でも、絶対に逃げちゃ駄目だから。あなたが心変わりしないように、時々はこっそりと覗きに来ようかな?」

 またそんな風に仰るから、呆れてしまう。何ともまあ、大人ぶったかと思えば、このように。どこまでも侮れない御方だ。

 だけど、やはりひとつ、どうしても分からないことがある。……何故、自分などを。今も昔も、そればかりは不思議でならない。どこかに秀でたところがあるわけでもないのに。他の方々よりも半歩遅れたような存在を、ここまで想い続けて下さる理由が分からない。


 未だお若い方だ、この先に何があるとも分からないのだ。生涯を添い遂げることが叶うとは到底思えない。それでも飛び込んでしまった、行方知れずの旅路に。己の意志がそうさせたのだから、後悔するはずもないが……でも。せめぎ合う胸が堪えきれぬほど痛い。

「……え? まだそんなことをいうの……?」

 鷲蘭は得意そうにもったいぶって、言葉を止める。こちらが不服そうに見上げると、おどけた笑みを見せた。

「もう少しお顔を上げて、周りを見てご覧? 縮こまってばかりいたら、何も分からないのは当然だよ。――でも、あまりお気づきにならない方が私としては嬉しいけど。そうすれば、こうやっていつまでも私だけのものとして閉じこめておけるからね」

 また、不思議な言葉ではぐらかそうとしていらっしゃるのか。お分かりになってないのは御自分の方なのでは……?

  何か言葉を返したいと思うのに、ゆっくりと髪を梳く指先に言いくるめられてしまう。こんな風に……本当にいいのだろうか。底知れぬ恐怖と隣り合わせになりながらも、逃れる術を知らない。

 ひとつ、額に唇が落ちて。

「あなたとの再会を夢見ていた日々は、多くを望んではいけない、お側にいてくれるだけでいいと思っていた。だけど、そのうちに兄上たちが次々にご結婚されてゆくのを目の当たりにしてね。それで気付いたんだ、妻になってくれれば、ずっと離れずに済むって。我ながら名案だなと嬉しかったよ。あなたは私のものだって、早く皆に知らしめたかったな。誰かに取られるのは、絶対に嫌だったから」

 

 ――何ということ、あまりにも幼いままのお考えではないか。まっすぐなままのお心は、あの頃から少しも変わられていない。しかしこのまま、全て受け止めてしまって良いのか……?

 

 そんな風に頭で考えられるのは束の間。また花の香に包まれてしまう。瞼の裏に焼き付いている白の風景がすぐそこにあるよう。花びらがいつまでもいつまでも、心に降りしきる。終わらない風景が胸にある限り、永遠という言葉を抱き続けることが出来るかも知れない。

 

 記憶の向こう。新しい羽を広げたつがいの鳥が、やがて天高く舞い上がっていった。

了(050210/0308改訂)



(2005年3月8日更新)

 

<< 戻る   番外へ >>


TopNovel玻璃の花籠・扉>散りゆく杜の・10

感想はこちら >>  メールフォーム  ひとことフォーム