TopNovel玻璃の花籠・扉>散りゆく杜の・番外


…『散りゆく杜の』 番外…

 

 

 

 それは、かたちのない幸せ。我が身を包み込む頼りないぬくもりと、静かな吐息。とろとろと少しだけまどろんだあとに意識が浮き上がっても、瞼を開くのがもったいないと思った。時間がせわしなく追いかけてこない、何もかもが自由だったあの頃。

「……どうしたの? まだ、いいじゃない」

 するりと身体の下を通り抜けていった衣を手探りで留める。一瞬のうちに温かな繭は壊れて、涼やかな夕刻の気がどこからか流れ込んできた。

「いいえ、もうそろそろ交代の時間になりますから。母が探しに来る前に、おいとま致しますわ」

 その言葉だけを聞けば、どんなにか落ち着いた女人を想像してしまう。自分といくらも違わない年齢の人だと言うことを、いつも忘れそうになる。
 襟元を直す仕草もせわしない。うたた寝から覚めた後に身繕いをすることなど当然なのに、分かっていても悲しくなる。まるで己の存在を全身で拒否されているかのような気分だ。やっと繋ぎ止めたと思っていたのに、心地よい時はあっという間に過ぎてしまう。……いつも、そうだ。

「そんなこと、言わないで。ねえ、目覚めたのなら他の遊びをしよう。この前、父上に頂いた新しい絵巻があるんだ、一緒に眺めようよ」

 そのころのあの方は、すでに髪が胸に届くほどの長さであった。だからだろうか、御館に出入りする使用人の子供たちの中でもひときわ大人びて見える。言葉遣いにもくだけたところがなく、新入りの侍女などよりもよほどしっかりしていた。
 さらさらと肩先で音を立てる髪が滑らかに輝き、思わず触れてみたい衝動に駆られる。今すぐ寝台を降りてその袖にすがりつけば、今しばらくはここに留まってくれるのだろうか。

「ご機嫌が良くなられたなら……お世話は他の方で宜しいでしょう? ほら、外の方が騒がしくなって参りました。そろそろ兄上様方のお戻りですよ」
 南所の表の一角に設けられた昼寝用の小部屋。小窓から外の様子をうかがって、彼女は静かに立ち上がった。

「でも……」

 少しでも長い時間一緒にいて欲しいと願っていた。だが、幼い心では出来る限りの考えを巡らせたとしても思いつくことはたかが知れている。柔らかな蝶は、やがて編み目をくぐり抜けてしまう。「行かないで」と言う言葉は、この人をひどく傷つける。それが分かっていたから、唇を噛むしかなかった。
 優しい人は控えめな笑みを浮かべて、こちらに向き直る。どうして、こんなにも心得ているのだろう。周囲の同じ立場にいる者たちにはある子供らしい我が儘も、この人からは全く感じ取れない。使用人の子としての身の上をここまでしっかりと把握している者が他にいるだろうか。誰もが親の誉れを自分のことのように勘違いし、甘えたりおごったりで諍いが絶えぬと言うのに。

「……さ、御髪を直しましょうか。紐はこちらのままで宜しいですか……?」

 懐から取り出されるつげの櫛。そこに描かれていた赤い花の模様だけが、いつまでも胸に残っていた。


 彼の周りは、いつも騒がしかった。現竜王の末子として生を受け、その館に暮らしていたのだから当然のことではある。兄弟も多く、それに伴って使用人の数も徐々に増えていったらしい。子供たちの出入りも頻繁であったので、気安く声を掛けられてもすぐには覚えきれぬほどであった。

「亡き王の再来」――そんな言葉がたびたび聞かれた。生まれ落ちた時にはすでにかの人はこの世の者ではなく、彼自身は直接お目にかかったことはない。だが、母方の祖父に当たるその御方と自分はとても良く似ているらしい。初めて顔を合わせる大人は、決まって同じ色の目でこちらを見た。 

「なんとまあ……、これは」

 遙かなる羨望と、それからその隅にある怯え。相手の眼差しはいつも彼の身体をすり抜けて、その背後にある大きなものを眺めていた。まるでこうして陽の当たる場所にある我が身が、影になってしまったかのように。その後に続く終わりなき賛辞の言葉も、決して彼自身を指し示すものではないように感じられた。
 上に立つ立場にある者たちがそのようにするからなのだろう。館の者たちの彼への接し方も、明らかに他の兄弟へのそれとは違っているように感じ取れた。大人たちがそうすれば、ならうように子供たちも。見目形は違っていても、皆が同じ笑顔で彼の周りに集まってくる。こちらが微笑めば褒めそやし、むずかれば耳に馴染みのいい言葉を数えきれぬほど並べて取りなす。
 日に何度か衣を替える時も毎度の食事の世話も、次々に違う顔の侍女たちがやって来た。何でもないようなことでも大袈裟に声を上げ、手を叩いてはしゃいで見せたりする。しかし汁物を誤ってこぼすなどの粗相をしても、その表情が変わることはない。幼心ながら、何とも不思議なことだと感じていた。

 不思議なことは他にもあった。「乳母」という存在が自分にはないことに気付いたのはいつのことであっただろう。どの兄姉よりもたくさんの侍女に囲まれていながら、何とも言えない据わりの悪さを始終覚えていた。同じ笑顔、同じ言葉。首から上が変わっても、そこに何の違いも見いだせない。きっと、周囲の者は誰ひとりとして気付いていなかったであろう。だが、彼はいつも孤独と向き合っていた。
 ひどく虐められたとか、仲間はずれにされたとか言うことではない。理由を見つけることの出来ないわだかまりであったから、時々は思い出すこともあるのだがすぐに忘れてしまった。

 群がる人並みの向こうに彼女を見つけたのはそのころであったか。それまでも毎日のように同じ空間にいたはずなのに、気付くこともなかった。
 ある日、年長の兄姉たちと他の子供たちと一緒に表の庭で鞠遊びをしていた時のことである。転げ出たそれを追って思いがけず遠くまで来ていた。どこへ行く時も追いかけてくる侍女たちの草履の音が珍しく聞こえない。そんな気安さもあったのだろう。

 がさり、と植え込みをかき分けたその向こう。ひと目で西南の民と分かる赤毛が動いたのが見えた。初めはこちらに背を向けていて、その着物の色目から大人に近い年齢の者だと判断した。
 明るい子供らしい色目や織り模様を彼女が身につけているのをその後も見たことはない。彼女がまとうものといったら、まるで大人の衣を仕立て直したような、落ち着いた控えめなものばかりであった。

「何を……してるの?」

 こちらは何の気なしに声を掛けたというのに、振り向いたその人はひどく怯えていた。肩より長めに切りそろえられた髪は、小刻みに震えている。それまで彼が一度も向けられたことのない、あからさまにも思える拒絶の色。濃緑の瞳は一瞬揺らいだが、彼女はそのまま何も言わずに館の方に走り去ってしまった。

 ――どうしたのだろう……?

 思いも寄らぬ態度に出られて、しばらくは驚きのあまり声も出なかった。自分がこの場所に何をしに来たのかということすらも、すぐには思い出せないほど。歩み出した足下に、ちりんと鈴の音を感じた。小さな巾着かたちをした匂い袋。先ほどの子のものなのだろうか、その周りにはたくさんの綺麗な落ち葉が集められている。だいぶ長い時間ここでひとり遊びをしていたのだと容易に見当がついた。

 何しろ幼い頃の記憶だ。詳しいことは何も覚えてはいない。だが、薄紫の匂い袋を拾い上げた時、これの持ち主を捜そうと思ったことだけは確かだ。だけど、どうすればいい。周囲の侍女たちにそれとなく聞いてみようか、……いや、それではすぐに取り上げられて終わりだ。
 こちらが鬱陶しくなるほどに世話を焼かれる生活には慣れていた。でも、これだけはどうしても自分の手で返したい。館の表の庭にいたのだから、きっと館に出入りしている者の子供に違いない。だが、西南の民など溢れるほどに多すぎて、見つけ出すのは簡単にはいかなそうだ。

 ――あの子は、私のことが嫌いなのだろうか。

 こちらを一瞬見た、あの瞳が忘れられない。その瞬間まで我が身を取り巻いていたはずのふわふわした空気が消えて、残ったのはぽっかりと穴が空いている小さな心ひとつだった。

 彼の父親である現竜王は、西南の集落の民である。その内面から明るい輝きが放たれるようなお人で、人望も厚かった。お立場上、なかなかゆっくりと顔を合わせることも出来なかったが、彼は父親のことを慕っていた。海底の地に暮らす者たちは、その姿をひと目見ただけでその出身地が分かると言われている。中には赤毛を忌み嫌う者たちもいたが、彼はそうは思わなかった。
 一体誰の子なのだろう。自分よりもいくつか年上に見えたから、その親に当たる人も相応の年齢になっているはず。そこまでは思い当たったが、さらに先には進むことはない。二日経ち、三日経ち、館に溢れる子供たちの中を巡ってみたが、それらしい姿は見あたらない。そんなはずはない、どこかにいる。きっと、見つからないように隠れているんだ。
 いつの間にか彼の心の中はそんな絶望の色に染まり始めていた。もしも誰かに打ち明けたら、すぐに笑い飛ばされるような迷いごと。しかし、当時の彼にとっては大問題であった。

 五日ほどが過ぎて、ある朝のこと。重い気持ちになかなか寝所を出られずにむずかっていた彼は、すぐ表で竜王の正妃である母が誰かと親しげに話している声を聞いた。

「では……もう里の方は宜しいのね? 良かったわ、あなたがいないと皆が落ち着かなくて困っていたの。何だか、鷲蘭もね、ここ数日ずっとご機嫌が悪くて……」

 自分の名が会話に出てきたことで、彼はこっそりと柱から覗いてみた。だが足音だけで気付かれたのだろう、母がすぐに振り返る。

「……まあ、ごゆっくりのお目覚めね。鷲蘭、こちらにおいでなさい、秋茜がお里から戻ってきましたよ。本当に困った子、こんなに日が高くなって寝着(やぎ)のままでは皆に笑われてしまうでしょう……」

 途中から、母の声が耳に届かなくなった。秋茜は彼の長兄に当たる人の乳母である。柔らかな物腰の人で浮ついたところがないので、気に入っていた。今日も落ち着いた色目の重ねを着ている。その後ろに隠れて、小さな肩先が揺れた。

 ――あ……!

 ああ、そうか。ようやく思い当たる。どこかで覚えのある面差しだとは思っていたのだ、そうであったのだ。秋茜には幾人もの子がいたので、いちいち覚えるまでには至らなかった。

「あっ、あのっ……! 待ってっ!」

 彼は急ぎ部屋に戻ると、道具入れの中に隠してあったあの日の落とし物を見つけ出した。それを手渡した時、赤毛の娘の顔が少しだけ明るくなる。たったそれだけのことなのに、彼の心は今までの薄暗さが嘘のように晴れ渡っていった。続いて小さな言葉がこぼれたような気もしたが、辺りの騒がしさにすぐにかき消されてしまう。

 ねえ、一緒に遊ぼうよ……そう言いかける前に、こちらの姿に気付いた数名の侍女が、髪を振り乱さんばかりの勢いで駆け寄って来た。

「さあさ、末若さまっ! お召し替えを致しましょうね〜!」
 何しろ、こちらは幼子である。ひょいと持ち上げられてしまえばどうにもならない。とりあえず、両手両足をバタバタさせて応戦してみたが、何の役にも立たなかった。

 その後も、暇を見つけては赤毛の娘の姿を探してみたが、なかなか見つけることが出来ない。だいたい、自分の周りにはいつでも侍女たちが群がっていて、それをかき分けるだけでも大変な思いをするのだ。子供たちの輪の中に入っていってもそれは同様で、あちらから近寄ってきてくれないことには永遠に接点は作れなそうである。

「藤華」――という名はどうにか知ることが出来たが、何故か上手に発音することが出来ない。何度練習してみても「じゅか」と舌足らずになってしまうのだ。ようやく声を掛けられる状況になっても、彼女は快い顔をしてはくれない。それどころか、こちらが声を掛ける前にさっと逃げてしまうのだ。幾度となくそんなことを繰り返され、途方に暮れてしまう。

「……じゅか? ねえっ、逃げないでっ……!」

 後ろに控えた侍女たちも少しも力を貸してくれない。それどころか、自分が彼女のことを追いかけることも良しとしていない様子なのだ。「おいしいお菓子を差し上げましょう」とか「あちらで面白い遊びをなさいませんか?」とか、気をそらせようとする。
 何故なのだ、どうして逃げてしまうんだろう。幼い彼には何もかもが分からないことばかり、難しい大人たちの間のいがみ合いなども蚊帳の外であった。

「うわ〜んっ、じゅか〜っ!!」

 木の根か何かに躓いてしまったらしい。ひどく膝をすりむいて、泣き声を上げた。もちろん周囲の者たちは我先にと駆け寄って色々と言葉をかけてくる。だけど、それすらももう悲しくて仕方なかった。差し伸べられる手を振り払い、手にしたものを次々に辺りにまき散らす。珍しい唐菓子なども振る舞われたが、それも皿ごとひっくり返してしまった。

「まあまあ……どうなさいました? もうおねむですか……皆が困っていますよ」

 とうとう、誰に呼ばれたのか、あの秋茜が姿を見せた。普段は自分から声を掛けてきたりなどはしない人なのだが、皆が手を焼くような状況になると必ず呼ばれてくる。侍女同士の諍いが起こった時も、子供たちの間でケンカになった時も、必ずこの人の姿があった。

「……じゅかっ!」

 しかし。その時の彼の耳には心優しい侍女の声すらも届かなかった。涙でぼやけた視界の中で鮮明に見えたのは、その侍女の後ろに隠れるように立ち、不安げな瞳を揺らしていた姿だけ。必死で腕を伸ばすと、母親に促されたのだろう、彼女はおずおずと目の前に進み出てくれた。
 困り果てた眼差しであっても、それだけで十分である。彼はこみ上げてくるものを必死でこらえると、微笑み返した。

 そのことがあってからだったと思う。何もかもが嫌になって当たり散らしたい気分になった時にだけ、彼女は大人たちに呼ばれて現れた。きっとあまりに手を焼いた侍女たちが仕方なくその方法を思いついたのであろうが、そんなことはどうでも良かった。
 初めの頃はただ嬉しくて嬉しくて、わざと騒ぎを起こしたりしたので、あまりに度が過ぎて母に強く諫められたこともある。「あんな子のどこがいいのかしら? 信じられないわ……!」などと言う声も聞こえてきたし、面と向かって「同じなら、我が娘の方が器量よしで気だてもいいですよ」と言い出す男もいた。
 しかし、問われても分からない。何故、彼女でなくてはならないのか。皆、同じように優しい、同じように微笑みかけてくれる、……それなのに。彼女の側だけが、温かいのだ。

 こちらが好いているのはとっくに分かっているのだろう、なのにいつになっても控えめすぎるほどで悲しくなる。もしも、本当の姉上であったなら良かったのにとすら思った。そうなれば、始終近くにいても誰にも何も言われないのに。彼女が自分に微笑みかけてくれるだけで、それだけでいいのだ。不安げな瞳が、揺らめく一瞬のきらめきが何よりの宝物に思えてくる。

 はっきりと気持ちを伝えられないもどかしさばかりが広がっていく。何がいけないのだろう、彼女と自分とを隔てているものは一体何なんだろうか。何を取り除けば、もっとまっすぐに分かり合えるのだろう。今のままでは駄目だ、周囲は皆、自分を子供扱いするばかり。一人前と認めて貰えなければ始まらない、だけどその行き先はあまりに遠い。

 長兄の元服を見届けた時、周囲の目が変わるのを目の当たりにした。髪をきっちり結い、大人びたお姿になられたその人は、人々の羨望の眼差しを受けている。大人になるとは、そう言うことなのだ。ああ、早く自分もあの場所に立ちたい。そうしたら、もう彼女を誰にも遠慮なく側に置くことが出来るのに。

 しっかりと道筋が見えてきたとき、もう迷うことはなかった。以前にも増して手習いに励み、師となる学者たちが舌を巻くほどに見事にこなしていく。ただ、そうすることで、一時は忘れていた我が後ろにある大きな影と再び出会うことになるのだが……もうそれすらも些細なことのように思えてきた。

 だが、……その秋に。彼女は目の前から姿を消してしまう。その後は声を聞くことも出来ぬままに、ただひたすら我が道を進む他はなかった。最後にたどり着く場所に、必ず彼女は待っている。それだけを信じて。いつしか彼女の存在は、彼の中で柔らかくかたち取られていった。

 

◆◆◆


 静かすぎる冬の夕刻は、気の流れゆく音すらも聞こえてくる。頬に当たるわずかな泡が、柔らかなまどろみを妨げた。

「……末若さま、そろそろ辺りも冷えて参りました。お部屋にお戻りくださいませ」

 心地よい響きが耳に届いて、一瞬瞼を開きそうになる。だが、刹那。彼はその動きを止めた。

「末若さま、……末若さま。大切なお身体にさわりがあっては大変です、お目覚めくださいまし……?」

 軽く肩を揺すられて、そのくすぐったさに口元から思わず笑みが漏れてしまった。これだけの距離にあっては、もう気付いただろう。だが、まだ目覚めることは出来ないのだ。

「末若さま……。嫌ですわ、またそのように。いい加減にしてくださいませ、いつまでも子供じみた真似をなさって――」

 小さな吐息。今どんな表情をしているのだろう、色々想いを巡らすだけで楽しくなるが答えを見つけるのはもう少し先。肩に置かれた手が動きを止める。口元の震えまでが伝わって来るようであった。

「……殿」

 ゆっくりと、瞼を開く。可哀想なほど頬を赤らめた人が、恨めしそうな瞳でこちらを見ていた。視線が合ったのはほんの一瞬、すぐに頬に手を当てて俯いてしまう。彼はくすっと喉の奥で笑うと、花色の重ねごと小さな身体を抱き寄せた。小さな抵抗を感じたが、それには気付かぬふりをする。

「夢を……見ていた。まだ、幼くてあなたが御館にいた頃の」

 柔らかな髪に指を差し入れる。こうして共に暮らし始めてようやく三月、まだまだ頼りなくぎこちない人だ。
 あの日、自分が先に都に戻った後。里を離れるまでのごたごたを彼女は決して自分の口から語ろうとしなかった。だが、こちらの想像に余る苦労があったのは間違いない。再会して久しぶりに触れた髪が、すっかりやつれて細くなっていた。
 南峰に出立するまでのしばらくの間は都暮らしとなったが、やはり人々の目にさらされる毎日はたまらないのだろう。一時は食事も喉を通らなくなって心配した。やっと袖を通してくれるようになった明るい色の装束も、一回りほど小さくなった身体には重そうに見えるほどだ。

「まあ、……それはのんびりしたことですわね。なにやらこちらにいらしてから、すっかりくつろいでしまわれて。御公務に戻られたらお困りになりますよ……?」

 どうにかやりくりして休暇を取り、山裾の離れ家にやって来た。物も少なく不便な生活ではあるが、彼女の表情は別人のように明るい。多くを語らない人であるが、都でのあれこれはそれだけこの人の心を巣くっていくのだ。哀れなことだと思う、でも有り難いことと感謝しなければ。共に過ごすことを選んでくれたこの人を、これから護っていくのは自分なのだから。

「いいんだ、今までずっと頑張ってきたんだもの。少しくらい休んでも、誰も文句は言わないよ」

 このような暮らしを「ままごとのようだ」という者もある。だが、それが悪いとどうして言える。答えを出すのは当人たちなのだから。この人が我が心を、我が腕がこの人を包み込む。あの頃に夢見ていたことが、真の姿となりここにある。言いたい者には言わせておけばよい、多くを望むことはない。

「ねえ……」

 翡翠の色の耳元にそっと囁く。

「あなたは、今、幸せ?」

 遠くに見える山並みが、赤く染まっている。胸に落ちる吐息、小さな震え。答えを待ちながら、彼もまたかすかな痛みを覚えていた。

「……とうにご存じのことを、どうしてそう何度も繰り返すのです。嫌な方ですわ、殿は」

 この人には敵わないと思う、どんなに自分の想いが深くても、それに余るほどの心で応えてくれる。そうなのだ、初めから信じていた。こんな風に全てが受け止められることを。だからこそ……欲しかった。

「そうだね、……愚問だったかな」

 この人の心は、我が心に聞こう。互いの想いはやがてひとつの色に染まりゆくはずだから。それまでは少しまどろんでいたい。

 長く畳の上に伸びた影が、やがてひとつに重なり合う。拍子木の聞こえない森に、冬の宵を告げる気が静かに注ぎ込んできた。

了(050302)


(2005年3月11日更新)

 

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