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「散りゆく杜の・その後」

2007.6に実施した作品アンケートのお礼作品です。本編をお読みになってからどうぞ!

 

 

 ふと仰いだ天は、淡い翠の色に霞んでいた。

 故郷では見ることのないこの色を確認するたびに、ここが遙か遠き地であることを思い出す。集落でも南、神山辺りで掘り起こされる鉱物の中にこれと似た色の石があるらしい。確か、翡翠の原石と聞いたような気がする。

  穏やかな日和がしばらく続くと予想して、社の戸を全て取り払ってしまっていた。閉ざされた冬の間に籠もった湿気や匂いをこの陽気の間に全て飛ばしてしまいたい。この先、夏の終わりまでは分所を舞台に様々な行事が続くのだ。まだ真新しい木の匂いも残る分所の内部は無駄な装飾などない簡素な造りで、大抵の政(まつりごと)には対応できるようになっている。
  他の地でもそうであるように地元の者たちは、この建物やそこを管理する主のことを親しみを込めて「お社様」と呼んでいた。敷地内は四季折々の花を咲かせる見事な庭園で彩られており、今は芽吹き始めた新緑に包まれている。南外れにはこぢんまりとした居室(いむろ)があり、その表では色とりどりの洗濯物がはためいていた。

「これならば、午後からは畳を上げられそうね。早い内に人手を頼んでおいて良かったこと」

 すると少し前を歩いていた女の童(めのわらわ)が、にこやかに振り返る。肩にやっと付く程に伸びた蜂蜜色の髪が、軽やかに舞い上がった。
  幼き頃、都では「南峰の集落は金の髪」と認識していた。出身地によって髪や目の色、そして肌の色も違う。しかしこの地に来て、その黄金色にも様々な色味があることを知った。中には銅色に近い者もあるし、淡く銀に近い者もある。交わる血によって変化してきた民族の歴史が集落境に近い場所でははっきりと見られるのだ。

「そうですね、昼餉の支度が整ったら皆を呼びに行ってきます。日が暮れるまでにはすっかり片付けてしまわなければならないですし」

 季節の変わり目には時折予想もしない天候の変化に見舞われるものであるが、今のところはその心配もなさそうだ。ここに居着いて当座は何もかもが新しい経験ばかりで戸惑わない日はなかったが、三度目の春を迎える今年はようやく落ち着いた気持ちで日々の支度を続けていけそうである。

 今でも思い出す、この地に初めて辿り着いたのは冬の声を間近に聞く頃。都より遙か南に位置するのであれば、さぞ温暖な過ごしやすい土地であろう―― 愚かにもそう信じて疑わなかった藤華が目にしたのは、草も花も枯れ葉の消えた裸ん坊の樹木ばかりがじゃ果てしなく続く荒廃した風景であった。
  西や南からの強い荒れをまともに受ける土地であるのだから仕方ないが、まさかこれほどであったとは。最後まで分所を任せる者が見つからなかったというのも後から考えればもっともな話である。

「このように荒んでいるのはほんのひと月二月のことですわ。新しい年を迎えると程なく、南から温かさが一気に上がってきます。そう、しばしの辛抱ですから」

 住まいが片付くまで当座の宿としていた村長の家で、妻である女主人は両手放しの歓迎ぶりであった。初めての懐妊で不安だらけの日々も、周囲の助けがあったからどうにか乗り越えられたのだと思う。子は授かりものであるとは言うが、自分としては新しい地での生活が軌道に乗ってからで構わないと考えていたのだ。思いがけない事態に夫となった人以外は相談する者も側になく、心細いばかりであった。
  藤華には子供の頃からずっと連れ添った侍女がいて、その者をこの上なく頼りにしてきた。新しい地で身の回りの世話を頼む者を新たに置くことは気が引けたが、自分ひとりの力では日々の務めを滞りなくやり遂げることは不可能である。ましてや身重では、いつまでも強情を張ることは出来ない。
  そんな迷いの日々に助け船を出してくれたのも、先の村長の妻である。実家の母と同じ年頃の彼女は厳しい土地での様々な経験から培った豊かな心を持っていた。

「奥方様のお務めは、お社様の政(まつりごと)を支えるだけではございませんよ。お側に人を置くことを、助けを借りるためではなく自らの手で育てるのだと思われたら宜しいのです。都で習得された作法などをこの土地の若い者たちにも是非伝えてくださいませ。皆、お声が掛かるのを心待ちにしております」

 思いがけない言葉であった。まさかそのような立場に自分が置かれているとは到底信じられない。昔から目立つことを極端に嫌い、始終誰かの影に隠れるように生きてきた。新しい地でもその暮らしぶりがかわることはないだろうと信じていたのである。

「伺うところによれば、奥方様はお針の腕がことのほか素晴らしいとのこと。都では竜王の御妃さまから刺しものの手ほどきを受けられたというのは本当でしょうか。もしや、本日お社様がお召しになっている御衣装も奥方様の手によるものですか?」

 藤華の夫となった鷲蘭(シュウラン)様は、今では分所を守る一官僚となられているがお生まれは王族、今の竜王様の末の御子様であられる。この地で華やかな刺しものの衣が許されているのは王族とその妃となった者に限られていた。華やかな都であればいざ知らず、今はあまり目立ちすぎるのも良くないと思い控えめな模様に仕上げている。それでも見る人が見れば、その仕事ぶりは隠しようもない。

「私の縁者の中から、気だてのいい女子を選びましょう。奥方様のご教育を受けられるとあれば、我こそはと名乗り出る者が後を絶たずに人選に手間取りそうですけどね」

 あっという間に話がまとまり、後日裳着を迎えたばかりだという娘が藤華たちの居室にやって来た。村長の妻の実家の一人娘だと言う。朝餉の済んだ頃にやって来て夕餉の支度が終わった頃に退出するという生活を半年ほど続け、嫁ぎ先が決まったからと去っていった。初めから嫁入り前の行儀見習いのつもりだったのであろう。互いに目的がはっきりしているだけに、とてもやりやすかった。
  その後も、紹介された女子がひとりふたりとやって来る。末っ子同士の結婚であったから、可愛らしい妹が出来たようでとても嬉しかった。そして彼女たちからもまた教えられることはたくさんある。風土にあった暮らしは土地に根付いた人間でなくては分からないことも多いのだ。
  一方、鷲蘭の方は仕事が手透きの時に、村の子供たちを集めて毛筆や算術を教えることになった。何事にも秀でている御方だから、教える内容は他にもいくらもある。これならば、もしも分所の仕事を取り上げられても生計を立てていけるに違いないと、ふたりで笑いあっていた。

 今頼んでいる女の童は、あと三月ほどで成人の祝いを迎えるという。その時に羽織る上掛けを是非自分の手で縫い上げたいと、今必死に取り組んでいるところだ。晴れ着を一枚仕立てるのはかなり骨の折れる仕事であるが、やりがいも大きく藤華としても喜びが大きい。顔映りの良い反物を選び、下に重ねる薄物から練習してようやく本縫いに入ろうとしているところだ。

「奥方様、粥の準備が出来ました。それでは、これから村へ手伝いを呼びに行って参ります」

 藤華は穏やかにねぎらいの言葉を口にすると、彼女を笑顔で送り出した。

 

「お前は何も分かっていません。本当の幸せがどこにあるかも知らないままで、よくもまあそのようなことが言えますね」

 祖母が勧めていた縁談を断ったことで、藤華はその責めを一身に受けることになってしまった。領主の妻としてしっかりと一族を守ってきた祖母は、自分の最後の夢が潰えることをどうしても許せなかったのだろう。しかもその裏には末若様の存在があると知り、彼女の怒りは頂点に達した。

「何てこと……! それはきっと奥の居室の者の差し金でしょう。これで我が一族は末代までいい笑いものになってしまいます。兄姉が皆ふがいないことはもちろんのこと、末のお前までがとんでもないことをしでかしてくれました。
  相応の家柄もない卑しい身の上で畏れ多くも王族に縁づくなど、決してあってはならないことです。いくらかの良識があれば分かりそうなもの。さあ、すぐにでも考え直すのです、そうしなければお前の父上が困った立場に置かれるのですよ!」

 どんなに口汚く罵られたとしても、藤華は口をつぐむしかなかった。自分の胸にはたくさんの「秘密」がある。だがそれを口外することで、得られるものは何もないのだ。
  末若様の元へは藤華の実家など足下にも及ばないほどの名家からの縁談話があまたとあることは知っていた。自分よりも身分の低いものが妃となったと知れば、口惜しさからとんでもない言いがかりを付ける者もいる。それはどんな時代にもよくあることで、祖母としても一番に危惧していたことであろう。
  竜王家と両親とが主従の関係を越えた絆で結ばれていることを、以前から祖母はひどく嫌っていた。それは誰から見ても分かるようなあからさまな態度で、彼女の考えを覆すことは山の神であっても不可能であると考えられていたのである。女子は家同士の絆を深めるために使われるもの―― 祖母は折に触れそう諭してきたが、同時に分不相応な縁談だけには乗らぬようにときつく釘を刺された。

 ―― お祖母さまの逆鱗に触れるのも当然のことだわ。

 祖母を悲しませている自分が許せなかった。そして、自分のしでかしたことで奥の居室の両親までが罵られるのを聞くのは辛すぎた。大人しい性格の藤華のことだ、強く言い聞かせれば考えを改めると信じたのだろう。毎日のように続く本館へのお召しは拷問に近く、しかしとうとう最後まで耐え抜いた。
  こうして数年を経ても未だ、祖母に投げかけられた言葉が胸に突き刺さっている。自分の選んだ道は、周囲の者たちを不幸にしたのではないだろうか。その疑念が消えることはないが、新しい土地に根付き皆の役に立っていることを実感すれば、少しは心が軽くなる。
  西南の集落と竜王家との間に横たわる深い溝を思えば、快い反応ばかりが戻ってくる訳ではないと想像するに容易かった。祖母の怒りは確かに胸を引き裂くほど辛いものではあったが、直接に物言えぬ全ての人々の心を代弁したものだと思えばよい。

 このようにすっきりとした心地になれるようになったのも、つい半年ほど前からのことだ。二番目の子・愛らしい姫君を授かったことでようやく藤華は母として揺るぎないものを手に入れることが出来たのである。

 

  そろそろ、居室に子らの様子を見に行こうときびすを返したとき、丘を上がってくる明るい歓声を耳にした。

「……殿っ……!」

 両手に余るほどの子供たちが、ひとかたまりになって坂を駆け上がってくる。その一番真ん中に、さながらガキ大将のような風貌の青年がいた。鮮やかな紺の衣。上背だけはあるが、そのほかの部分では子供たちとあまり変わらない。皆、頭からずぶ濡れで、ひどい有様であった。

「まあ、まあ、これはっ! このたびは一体何をしでかしたのですか……!」

 小袖の下は浅黄の小袴。今日は動きやすい格好がよいと言うので、下男と変わらないような装いになっていた。もちろん村人としては標準的な服装である。乾いていても艶やかな黒髪からはあとからあとからしずくがこぼれていた。

「いやあ、今日は皆に毛筆を教える日だったのだけどね。あなたがお社を大掃除するというので、いつもの部屋が使えない。だから、若菜摘みでもしようと野に出たのだけれど……いつのまにか」

 温かな陽気に川遊びが始まってしまったというのか。それにしてもいただけない。仮にもお社様というご身分にある御方が、村の子らに混ざってはしゃいでしまうなんて。
  悪びれる様子もない得意げな表情から、かなり有意義な時間を過ごしたことは明らかだ。確かにこの地には相手の家柄を見て態度を変えるような人間はいないし、相手の人となりを個人の目でしっかりと見定めてくれる。鷲蘭が慕われているのは、彼が王族の出だからではない。人好きのする豊かな人柄が皆を惹き付けるのだ。子供も、大人も大して違いはない。

 あきれ顔の藤華を涼しげな視線でかわして、彼はまだ自分の腰の辺りで戯れている子供たちに大きな声で言った。

「さあ、みんな。そろそろ昼餉だから戻りなさい。何、丘を一気に駆け下りれば、濡れた服などあっという間に乾いてしまうぞ!」

 そんなはずはないだろう思ったが、口に出す前に子らは大声を上げながら坂道を駆けだしてしまう。うららかな陽を背に受けた背中をひとしきり見守ってから、彼はこちらに振り向いた。

「ところで、子供たちは? ……おや」

 藤華の腰の辺りが、ふわっと温かくなった。その場所を見れば、不安げな眼差しの幼子が藤華の衣をしっかりと握りしめている。肩で切りそろえた髪は父親似で黒く、怯えた瞳も同じ色だ。

「みんな……かえった?」

 父親の帰館に出迎えたかったのに、あまりの人数の多さでひるんでしまっていたらしい。藤華が優しく抱きしめて「大丈夫ですよ」と告げると、彼はまだ周囲を確認しながら用心深く前に出た。

「お……かえりなさい、ちちうえ」

 小さな紅葉の手を必死に伸ばす仕草がとても可愛らしい。鷲蘭は嬉しそうに目を細めて、愛息子を高く抱き上げた。

「ただいま。待っていてくれたのか、柳蘭(リュウラン)」

 必死で父親にしがみつく姿は愛らしいばかりであるが、何とも情けないことだ。どうしてここまで臆病になってしまったのだろう。今朝だって「一緒に出掛けよう」と誘われたのを断ってしまうのだから。姿ばかりが父上にそっくりでも、これでは先が思いやられる。

「藤華」

 思わず溜息が漏れてしまったのに、気付かれたのだろうか。口元を押さえながら振り向くと、彼はいつもと変わらぬ微笑みを浮かべていた。

「あまり難しく考えなくていいんだよ。ここはあるがままに受け止めてくれる土地柄だから、自分らしく生きることが一番大切だと思うんだ。あなたも私も、今までの人生の中で一番輝いていると思うよ。認めればいいんだ、何も恥ずかしがることなんてないんだから」

 今の自分たちの姿をもしも実家の祖母が見たら、一体どんな風に言われるのだろう。想像するだけで恐ろしいが、その心配などする必要はない。まずは自分が幸せであること、心がたっぷりと満たされること。大切なことは、全てそこから始まる。難しいことは……その先考えればいいのだ。

「そう……ですね」

 

 今まで歩んできた道のり、そしてこれから歩んでいく道のり。過ぎてしまえばあっという間の年月に確かなものをひとつふたつ遺していこう。それでいい、それだけでいい。嘆くばかりでも日々は過ぎていくが、それでは綺麗な天の色を見つけることが出来ないではないか。

 もう一度、仰ぎ見る。遙か故郷へ続くその彼方にも、温かな今日があることを祈って。


了(071026)


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