2007.6に実施した作品アンケートのお礼作品です。本編をお読みになってからどうぞ!
ふと仰いだ天は、淡い翠の色に霞んでいた。 故郷では見ることのないこの色を確認するたびに、ここが遙か遠き地であることを思い出す。集落でも南、神山辺りで掘り起こされる鉱物の中にこれと似た色の石があるらしい。確か、翡翠の原石と聞いたような気がする。 穏やかな日和がしばらく続くと予想して、社の戸を全て取り払ってしまっていた。閉ざされた冬の間に籠もった湿気や匂いをこの陽気の間に全て飛ばしてしまいたい。この先、夏の終わりまでは分所を舞台に様々な行事が続くのだ。まだ真新しい木の匂いも残る分所の内部は無駄な装飾などない簡素な造りで、大抵の政(まつりごと)には対応できるようになっている。 「これならば、午後からは畳を上げられそうね。早い内に人手を頼んでおいて良かったこと」 すると少し前を歩いていた女の童(めのわらわ)が、にこやかに振り返る。肩にやっと付く程に伸びた蜂蜜色の髪が、軽やかに舞い上がった。 「そうですね、昼餉の支度が整ったら皆を呼びに行ってきます。日が暮れるまでにはすっかり片付けてしまわなければならないですし」 季節の変わり目には時折予想もしない天候の変化に見舞われるものであるが、今のところはその心配もなさそうだ。ここに居着いて当座は何もかもが新しい経験ばかりで戸惑わない日はなかったが、三度目の春を迎える今年はようやく落ち着いた気持ちで日々の支度を続けていけそうである。 今でも思い出す、この地に初めて辿り着いたのは冬の声を間近に聞く頃。都より遙か南に位置するのであれば、さぞ温暖な過ごしやすい土地であろう―― 愚かにもそう信じて疑わなかった藤華が目にしたのは、草も花も枯れ葉の消えた裸ん坊の樹木ばかりがじゃ果てしなく続く荒廃した風景であった。 「このように荒んでいるのはほんのひと月二月のことですわ。新しい年を迎えると程なく、南から温かさが一気に上がってきます。そう、しばしの辛抱ですから」 住まいが片付くまで当座の宿としていた村長の家で、妻である女主人は両手放しの歓迎ぶりであった。初めての懐妊で不安だらけの日々も、周囲の助けがあったからどうにか乗り越えられたのだと思う。子は授かりものであるとは言うが、自分としては新しい地での生活が軌道に乗ってからで構わないと考えていたのだ。思いがけない事態に夫となった人以外は相談する者も側になく、心細いばかりであった。 「奥方様のお務めは、お社様の政(まつりごと)を支えるだけではございませんよ。お側に人を置くことを、助けを借りるためではなく自らの手で育てるのだと思われたら宜しいのです。都で習得された作法などをこの土地の若い者たちにも是非伝えてくださいませ。皆、お声が掛かるのを心待ちにしております」 思いがけない言葉であった。まさかそのような立場に自分が置かれているとは到底信じられない。昔から目立つことを極端に嫌い、始終誰かの影に隠れるように生きてきた。新しい地でもその暮らしぶりがかわることはないだろうと信じていたのである。 「伺うところによれば、奥方様はお針の腕がことのほか素晴らしいとのこと。都では竜王の御妃さまから刺しものの手ほどきを受けられたというのは本当でしょうか。もしや、本日お社様がお召しになっている御衣装も奥方様の手によるものですか?」 藤華の夫となった鷲蘭(シュウラン)様は、今では分所を守る一官僚となられているがお生まれは王族、今の竜王様の末の御子様であられる。この地で華やかな刺しものの衣が許されているのは王族とその妃となった者に限られていた。華やかな都であればいざ知らず、今はあまり目立ちすぎるのも良くないと思い控えめな模様に仕上げている。それでも見る人が見れば、その仕事ぶりは隠しようもない。 「私の縁者の中から、気だてのいい女子を選びましょう。奥方様のご教育を受けられるとあれば、我こそはと名乗り出る者が後を絶たずに人選に手間取りそうですけどね」 あっという間に話がまとまり、後日裳着を迎えたばかりだという娘が藤華たちの居室にやって来た。村長の妻の実家の一人娘だと言う。朝餉の済んだ頃にやって来て夕餉の支度が終わった頃に退出するという生活を半年ほど続け、嫁ぎ先が決まったからと去っていった。初めから嫁入り前の行儀見習いのつもりだったのであろう。互いに目的がはっきりしているだけに、とてもやりやすかった。 今頼んでいる女の童は、あと三月ほどで成人の祝いを迎えるという。その時に羽織る上掛けを是非自分の手で縫い上げたいと、今必死に取り組んでいるところだ。晴れ着を一枚仕立てるのはかなり骨の折れる仕事であるが、やりがいも大きく藤華としても喜びが大きい。顔映りの良い反物を選び、下に重ねる薄物から練習してようやく本縫いに入ろうとしているところだ。 「奥方様、粥の準備が出来ました。それでは、これから村へ手伝いを呼びに行って参ります」 藤華は穏やかにねぎらいの言葉を口にすると、彼女を笑顔で送り出した。
「お前は何も分かっていません。本当の幸せがどこにあるかも知らないままで、よくもまあそのようなことが言えますね」 祖母が勧めていた縁談を断ったことで、藤華はその責めを一身に受けることになってしまった。領主の妻としてしっかりと一族を守ってきた祖母は、自分の最後の夢が潰えることをどうしても許せなかったのだろう。しかもその裏には末若様の存在があると知り、彼女の怒りは頂点に達した。 「何てこと……! それはきっと奥の居室の者の差し金でしょう。これで我が一族は末代までいい笑いものになってしまいます。兄姉が皆ふがいないことはもちろんのこと、末のお前までがとんでもないことをしでかしてくれました。 どんなに口汚く罵られたとしても、藤華は口をつぐむしかなかった。自分の胸にはたくさんの「秘密」がある。だがそれを口外することで、得られるものは何もないのだ。 ―― お祖母さまの逆鱗に触れるのも当然のことだわ。 祖母を悲しませている自分が許せなかった。そして、自分のしでかしたことで奥の居室の両親までが罵られるのを聞くのは辛すぎた。大人しい性格の藤華のことだ、強く言い聞かせれば考えを改めると信じたのだろう。毎日のように続く本館へのお召しは拷問に近く、しかしとうとう最後まで耐え抜いた。 このようにすっきりとした心地になれるようになったのも、つい半年ほど前からのことだ。二番目の子・愛らしい姫君を授かったことでようやく藤華は母として揺るぎないものを手に入れることが出来たのである。
そろそろ、居室に子らの様子を見に行こうときびすを返したとき、丘を上がってくる明るい歓声を耳にした。 「……殿っ……!」 両手に余るほどの子供たちが、ひとかたまりになって坂を駆け上がってくる。その一番真ん中に、さながらガキ大将のような風貌の青年がいた。鮮やかな紺の衣。上背だけはあるが、そのほかの部分では子供たちとあまり変わらない。皆、頭からずぶ濡れで、ひどい有様であった。 「まあ、まあ、これはっ! このたびは一体何をしでかしたのですか……!」 小袖の下は浅黄の小袴。今日は動きやすい格好がよいと言うので、下男と変わらないような装いになっていた。もちろん村人としては標準的な服装である。乾いていても艶やかな黒髪からはあとからあとからしずくがこぼれていた。 「いやあ、今日は皆に毛筆を教える日だったのだけどね。あなたがお社を大掃除するというので、いつもの部屋が使えない。だから、若菜摘みでもしようと野に出たのだけれど……いつのまにか」 温かな陽気に川遊びが始まってしまったというのか。それにしてもいただけない。仮にもお社様というご身分にある御方が、村の子らに混ざってはしゃいでしまうなんて。 あきれ顔の藤華を涼しげな視線でかわして、彼はまだ自分の腰の辺りで戯れている子供たちに大きな声で言った。 「さあ、みんな。そろそろ昼餉だから戻りなさい。何、丘を一気に駆け下りれば、濡れた服などあっという間に乾いてしまうぞ!」 そんなはずはないだろう思ったが、口に出す前に子らは大声を上げながら坂道を駆けだしてしまう。うららかな陽を背に受けた背中をひとしきり見守ってから、彼はこちらに振り向いた。 「ところで、子供たちは? ……おや」 藤華の腰の辺りが、ふわっと温かくなった。その場所を見れば、不安げな眼差しの幼子が藤華の衣をしっかりと握りしめている。肩で切りそろえた髪は父親似で黒く、怯えた瞳も同じ色だ。 「みんな……かえった?」 父親の帰館に出迎えたかったのに、あまりの人数の多さでひるんでしまっていたらしい。藤華が優しく抱きしめて「大丈夫ですよ」と告げると、彼はまだ周囲を確認しながら用心深く前に出た。 「お……かえりなさい、ちちうえ」 小さな紅葉の手を必死に伸ばす仕草がとても可愛らしい。鷲蘭は嬉しそうに目を細めて、愛息子を高く抱き上げた。 「ただいま。待っていてくれたのか、柳蘭(リュウラン)」 必死で父親にしがみつく姿は愛らしいばかりであるが、何とも情けないことだ。どうしてここまで臆病になってしまったのだろう。今朝だって「一緒に出掛けよう」と誘われたのを断ってしまうのだから。姿ばかりが父上にそっくりでも、これでは先が思いやられる。 「藤華」 思わず溜息が漏れてしまったのに、気付かれたのだろうか。口元を押さえながら振り向くと、彼はいつもと変わらぬ微笑みを浮かべていた。 「あまり難しく考えなくていいんだよ。ここはあるがままに受け止めてくれる土地柄だから、自分らしく生きることが一番大切だと思うんだ。あなたも私も、今までの人生の中で一番輝いていると思うよ。認めればいいんだ、何も恥ずかしがることなんてないんだから」 今の自分たちの姿をもしも実家の祖母が見たら、一体どんな風に言われるのだろう。想像するだけで恐ろしいが、その心配などする必要はない。まずは自分が幸せであること、心がたっぷりと満たされること。大切なことは、全てそこから始まる。難しいことは……その先考えればいいのだ。 「そう……ですね」
今まで歩んできた道のり、そしてこれから歩んでいく道のり。過ぎてしまえばあっという間の年月に確かなものをひとつふたつ遺していこう。それでいい、それだけでいい。嘆くばかりでも日々は過ぎていくが、それでは綺麗な天の色を見つけることが出来ないではないか。 もう一度、仰ぎ見る。遙か故郷へ続くその彼方にも、温かな今日があることを祈って。
了(071026) |