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「匂やかに、白・番外〜双葉」

 

 やわらかく午後の日差しが降り注ぐ、明るい裏庭を見ていた。そこは「猫の額ほど」と呼ぶにふさわしい、ささやかな空間。夏の始まりに、しなやかに伸びた木々の枝も地面の草も天を仰いでいる。真っ青に澄み渡ったそこはどこまでも遠く、彼方の山並みまで続いていた。垣根の向こうを水鳥たちが通り過ぎていく。その余韻で辺りの気が揺れ、こちらまでかすかな流れが広がってきた。

「……ふう」

 繕い物の手を止めて、双葉は軽く吐息をついた。それほど急ぐ仕事ではないが、他にやることもないのだからついつい頑張ってしまう。早くて正確な仕上がりが評判になり、この頃ではちょっとした家計の足しになっていた。

 追っ手を恐れながらの逃避行。ようやく遠縁のつてを頼ってこの地に根を下ろした。見ず知らずの「よそ者」の来訪を快く思っていない村人たちも少なからず存在しただろう。豊潤な土地ならいざ知らず、ここは昔ながらの民たちが肩を寄せ合ってようやく飢えをしのいでいるような村なのである。それでも心優しい土地の者たちは、廃屋に手を入れて双葉たち家族に与えてくれた。
 どうにか雨露をしのぐことが出来る。それだけで、有り難いと思わなくては。この上に、ひとつの迷惑も掛けることは出来ない……幾度となく己の心に言い聞かせ、心に留めて暮らしてきた。

 外に職を求めて、両親や双葉のすぐ下の妹は隣の村に働きに出ている。毎日夜明けの前に家を出て、日没後に戻ってくる生活。彼女自身も出来ることならそうしたかったが、家族の誰もがそれを止めた。仕方なくこうして家に残り、小さな弟妹たちの世話をして過ごしている。

 ここに居着いたのは、ほんの半年ほど前のこと。なのに、すべてが遠い出来事のように思えてならない。こんな風にぼんやりと天の色を見上げているなんて、あの頃の自分には想像できなかった。いつもいつも息を詰めて、ギリギリのところで生き抜いてきたから。


「お姉ちゃん、お姉ちゃんっ……!」

 小屋の表がにわかに賑やかになった。ふたつの足音が一間しかない部屋を通り抜けてこちらまでやってくる。それが誰かを想像することは双葉にとって容易いこと。山持ちの館にいた頃は住み込みだったため、なかなか顔を合わせる機会もなかった幼い妹たちとも今ではすっかり馴染んできた。どうしたのだろう、まだ夕刻までには間があるのに。そんな風に考えつつ手を止めて、そちらを伺う。
 障子戸を開けて飛び込んできたのは、少しだけ身丈の違う女の子たちだ。肩のところで切りそろえられた髪はほとんど同じ明るい茶色。深い緑の瞳がきらきらと輝いていた。

「ねえねえ、川の向こうの花畑に行こうよ。綺麗なお花がいっぱい咲いてるんだ」

「お隣の佐依(さい)ちゃんが、教えてくれた。こんなに大きなお花もあるんだって!」

 ひとりが叫べば、もうひとりも負けじと小さな手のひらを示す。よほど浮き足立っているのだろう、そのうちにこちらの袖を取って、早く早くと引っ張り始めた。
「妹」とは言ってもひとまわりほど年が離れている。貧乏人の子だくさんとはよく言ったもので、双葉の兄弟は生きているだけでも片手に余るほど。そんな子供らしい問いかけに、双葉は静かにうつむいた。

「ごめんなさいね、わたしはこれを仕立ててしまわなくてはならないから。……平太たちは? 声を掛けて、連れて行ってもらいなさい」

 あれこれと難しい言葉で説明しても、納得させるのは無理だということは承知の上。軽くあしらって、そのまま仕事を再開する。だが、それくらいで引き下がる子らではなかった。

「駄目だよ、お姉ちゃん。こんな風に家の中ばかりにいるから、そんな白い顔になっちゃうんだよ。もっともっとお天道様を拝まなくちゃ健康になれないって、角の兄さんが……」

 ぎゅうぎゅうと力任せに袖を引かれては、困ってしまう。駆け込んできたふたりもかなり着込んだあとの見える衣をまとっていたが、自分のそれだって負けてはいない。洗いざらしで弱くなった布が破れたりしたら、繕う手間が増えてしまう。
 今年の正月は食うか食えないかの状況で、とても新しく晴れ着を仕立てるまでには至らなかった。それでも古いなりに繕い繕い見苦しくないようにしているが、どうにか夏の終わりまでには工面して一枚ずつ新調したいものだ。もちろん、自分のものは一番後回しで構わない。まずは外で働く両親や幼い弟妹たちのものからである。

「子供がそんなことを心配しなくてもいいの。それにね、ここが済んだら裏の畑に出るから大丈夫よ。そこら中がぼうぼうになっているから、今日は念入りに草取りをしなくてはね。わたしだって、お天道様とは仲良しだわ」

「でもぉ……」

 笑顔で応えても、ふたりはまだ浮かない顔だ。桜色の唇をとがらせて、次の言葉を探している。初めのうちこそは大げさに騒ぎ立て駄々をこねて見せたりしたものだが、こちらが淡々と諭し続けたためかそれも収まってきた。近頃では、おしゃべりばかりが上手になっている。

「あたしたち、近所の人にいつも聞かれるんだよ。『お前の姉ちゃんはどこか悪いのかい?』ってね。ねえ、父ちゃんや母ちゃんも言ってたよ。お姉ちゃんはあたしたちのお守りさんなんだから、そんなに仕事ばかりしなくていいって。平太兄ちゃんたちは山に行っちゃったもん、夕暮れまでは戻らないよ」

「川の方にはあたしたちだけで行っちゃ駄目って、言ったのはお姉ちゃんだよ。だったら、連れて行って。一緒に首飾りを作ろう」

 四つの瞳に見つめられて、双葉は困り果ててしまった。同じことなら朝早くとか日の落ちてすぐの時間とかに出来ないものだろうか。こんな人通りの多い刻限に外に出るのは気が重い。それこそ、誰に会うか分からないのだから。
 人目を気にすることのない幼子たちの方が、よほど早く土地に馴染んでいった。双葉としても失礼がないようにと心がけているが、たいした用事のない時にはあまり表通りを歩きたい気分にはならない。同じ年ぐらいの娘たちとも、いつまでもうち解けることが出来なかった。未だにすれ違いざまに挨拶を交わすのがやっとである。

「あのね、あなたたち……」

 何か気を紛らわせるようなことを言って、この場を切り抜けよう。そんな風に考えて口を開きかけたとき、表の方で新しい物音が聞こえた。


「双葉さん、双葉さんはいるっ!?」

 どさ、と何かが土間に置かれた気配がする。彼女が慌てて立ち上がろうとする前に、妹たちの顔がぱっと華やぐ。そして、ふたりは我先にと飛び出していった。

「あ、角の兄さんだ!」

「兄さん、兄さんっ! 今日は何を持ってきてくれたの……?」

 表のやりとりを聞きながら、双葉は襟先を直して立ち上がる。開けっ放しの障子戸から中へと自分の細い影が伸びていた。それを踏みつけつつ、歩み出す。
 ここが領主様の長い渡り廊下であったなら、いつまでも歩き続けることが出来るのに。どんなに足取りが重くても、数歩で目的地にたどり着いてしまうことが恨めしい。

「やあ、双葉さん!」

 戸口に立ってこちらを伺っていた若者は、双葉の姿を見つけると口元から白い歯をほころばせた。健康そうに日焼けした肌には玉の汗が浮き出ている。ふたりの子供に遠慮ない力でまとわりつかれても、何ともない感じだ。ざんばらに刈り込んだ髪からは、しずくがしたたっている。

「今日は仕掛けにたくさん魚がかかってね、だからお裾分け。ほら、ごらんよ。この活きのいいことを……!」

 大振りの魚籠(びく)をのぞき込んだ妹たちの歓声が上がる。それを困り顔で見つめてから、双葉は小さい溜息を落とした。

「でも……、いつも悪いわ。うちばっかりがこうして和希(ワキ)さんから頂いちゃ、申し訳ないから」

 昨日は籠いっぱいの山菜で、一昨日はとれたての青菜だった。こちらは食いぶちが多いのだから、確かに有り難くはある。だが、やはりこのように毎日のように貰ってばかりでは気が引けてしまうのだ。何度となくそう告げてきたが、彼は少しも態度を改めてくれない。

「いいって、いいって。困ったときはお互い様って言うだろ? そんな遠慮することないって、こっちだって小人数で食いきれないんだからさ。かえって助かるよ」

 これだけあからさまな態度を取っているのだから、心苦しく思っていることに気付いてはくれているのだろう。なのに若者は魚籠は土間に残したままで、さっさときびすを返す。その背中に、双葉の妹たちが飛びついた。

「ねえねえ、角の兄さん。もう、今日の仕事はもうおわり? だったら、遊んでよっ!」

「お姉ちゃんは駄目って言うから、兄さんが花畑に連れて行って!」

 もう、こちらが言って聞かせる間もない。通りまで追いかけて引きはがすほどの勇気もなかった。そうしているうちに、和希は大きく頷いてふたりを両腕に抱き上げる。

「じゃ、ちょっと行ってくるよ。良かったら、その魚煮付けにしてご馳走してくれないかな?」

 戸口まで出て行った双葉に笑顔で振り返ると、楽しげな三人はそのまま向こう辻を曲がって見えなくなった。

 

◆◆◆


 とくに村人から何を言われた覚えもない。だが、双葉はどうしても心に壁を作ったまま、彼らと必要以上に交流することを避けていた。顔なじみになれば、色々と言葉を交わすことになる。そうすれば自分の今までのことも訊ねられることになるだろう。その煩わしさからはどうにかして遠ざかりたかった。

 双葉が幼い頃を過ごした里は、この村よりももっと寂れた場所だった。普通に収穫できる年でも、食うにやっとにしかならない痩せた土地。貧しかったけれど、何の憂いもなかったあの頃が一番幸せだったと思う。それこそ、今の妹たちと同様に野山を駆けめぐり日が暮れるまで遊んでいた。
 だが、彼女が十になった年、突然の大水が里を襲った。収穫間近になっていた作物も家屋もすべて流され、命からがら逃げのびた住民は皆土地を追われることになる。方々をさすらった末に辿り着いたのが、あの「山持ちの豪族」の館であった。

 その館はちょうど増築して人手が必要だったらしく、すぐに仕事にありつくことが出来た。両親は領地の耕地で働くことになる。だが双葉だけが館主の目にとまり、館の中に招き入れられた。同じ年頃の姫君の世話役としてそばに置きたいのだという。その言葉通りに、その後の数年は「涼夜姫(すずやひめ)」と皆から呼ばれている御方の部屋で過ごした。
 それまでの田舎暮らしとは生活が一転し、住み込みであるから容易には家族に会うことも出来ない。そんな窮屈な身の上であったが、双葉は静かに耐えた。厳しい年配の侍女から礼儀作法を叩き込まれ、姫君の傍らで一緒に手習いを受けることになる。墨をすり筆を持つことすら初めてのことであったが、努力の甲斐あってしばらく経つと全てにおいて館の姫君をもしのぐほどの腕前になっていた。
 身につけるものもだんだんと華やかな色目に変わってくる。館を訪れるお客人の前では舞を披露するようにと命ぜられ、宴席からお褒めのお言葉をいただくことも多くあった。そんな折、このような言葉が囁かれることもある。

「あの姫君は、何番目の御方ですか?」

 幼い頃から、顔かたちが整っていると言われていた。小さな里には似つかわしくないほどであったし、両親のいずれともあとから生まれた弟妹ともあまり似ていなかったため、「どこぞの落とし子ではないか」と陰口を叩く心ない者までいたという。ひときわ明るい栗色の髪も光の加減では金色に光ることもある薄緑の眼も、目立ちすぎていて嫌いだった。
 それでも忌み嫌っていた我が身の姿であったからこそ、お務めにありつくことが出来たのである。両親ふたり分を合わせたよりも、受け取る給金が多い。一家の養い手として、幼くして双葉はきちんとその役目を果たしていた。自分がしっかりすれば、皆が楽が出来る。

 館主はガマガエルのような小太りの男であったが、その妻や側女(そばめ)たちは目が覚めるほどに美しく、きらびやかな館の内装にも少しも引けを取ってはいなかった。
 双葉がお仕えした姫君もそれはそれは美しい御方で、初めてお目通りが叶ったときは驚きのあまりお返事をするのも忘れたほどである。透き通る肌に鶸の髪、こぼれ落ちそうな翠の瞳。それは今までに見たこともないお姿であった。世の中には自分では到底及びも付かないほどのこのような御方がいるのである。そう思えば、今まで心を巣食っていた嫌な記憶も思い出さずに済んだ。
 何不自由なくお育ちになった方であったから我が儘なのは仕方なかったが、でもその反面とても素直な方であった。こちらが上手に持ち上げて差し上げれば、それで満足される。人の心の裏側を感じ取ることなく生きてゆける幸せな御方。そんな姫君に仕えていたからなのだろう。館での暮らしは、どうにか耐えることが出来た。

 だが今では、その頃のこともその後のことも、遠い記憶の彼方。その音色を指先が覚えていても、つま弾く琴はここにはない。身につけた才も今更ひけらかすつもりはなかった。

 

◆◆◆


 和希と顔なじみになったのは、ここにやってきて程ない頃のことである。

 いつものように朝早く両親たちが出掛けてしまい、双葉は幼い弟妹たちの面倒を見ていた。けんかっ早い平太が同じくらいの里の子と取っ組み合いを始めたと聞いて慌てて止めに走ったわずかな間、家に残してきたはずの末の妹がひとりで外に出て行ってしまったのだ。騒ぎが収まって戻ったときにはもう姿がなく、途方に暮れているうちに今度は川の方で叫び声が上がった。

「お姉ちゃん、お姉ちゃん! 小紅(こべに)が、小紅が川に……!」

 流れてきた小枝を拾おうとして、足を滑らせてしまったのだと言う。だが、そんなことをそのときは考えている暇はなかった。年が明けたばかりの身を切るような寒さの中で水の中に落ちたりしたら、まず身体が保たない。足をもつれさせながらもようやく河原にたどり着いたが、その先どうしたらいいのか分からなかった。

 まだ知り合いらしい知り合いもいない、村長様は何かに付け気遣ってくれるが、こんな時に助けを請うてもいいのだろうか。いや、もしも誰かの手を借りてその人に大事があったら。ぷくんと沈んでいく小さな手のひらに、我を忘れて悲鳴を上げていた。

「どうした……、何をしてるんだ!」

 そのとき、背後から声がした。騒ぎを聞きつけてやってきたのだろうか。振り向くと、ひとりの若者が血相を変えて土手を駆け降りてくるところであった。

「あ、あのっ! 妹が……!」

 双葉は丁寧に説明する言葉も思いつかず、小紅が沈んでいった川面を指さした。かすかに揺れるそこを見た若者がひとつ頷く。

「そうか、――分かった!」

 言うが早いが、彼は腰巻きひとつを残して衣を全て脱ぎ去ると、ためらうこともなく川に飛び込んだ。しかし、表面は静かに見える流れも、底の方はかなり急になっているらしい。冷たい水の中、思うように身体も動かすことが出来ず、沈んでは浮き上がることを何度も繰り返していた。
 そうしているうちに他の村人たちも次々に河原に集まってくる。縄や板きれを差し出す者、川の流れの変化を橋の上から指し示す者。怒鳴り声があちこちから響く中、だいぶ時間が過ぎて若者が再び川面に浮かび上がった。小脇に抱えてられていた幼子は背中を何度か強くさすられると水を吐き、大きな泣き声を上げる。その瞬間、集まった者たちから安堵のどよめきが広がった。

「……怯えているから、しっかり抱いてなぐさめてあげて」

 荒い息の若者にそう言われたとき、双葉は何も返事が出来なかった。恐ろしさのあまり顎が膝ががくがくと震えて、視界はぼんやりとかすんでいく。冷え切った小さな身体を受け取っても、ただぼろぼろと涙をこぼすことしか出来なかった。


 そんな出会いがあってからというもの。和希は何かに付け、双葉たち兄弟に世話を焼いてくれている。弟や妹も今では本当の兄のように懐いていた。もともとが子煩悩な優しい性格をしているのだろう。有り難いと思う反面、その想いが重く感じられることもあった。

 村人たちが自分のことをあれこれと陰で言っているのは知っている。その内容もだいたいは察しが付いていた。でも、双葉はただ貝のように口を閉ざし続けるだけ。

 同じぐらいの年頃の娘たちにも、和希はとくに人気があった。何かと声を掛けられたり誘われている姿を目にすることもある。顔立ちこそは素朴であるが村の若い男たちの中でも飛び抜けて体格がよく、性格は明るくて仕事も確かだ。仲間たちからの信頼も厚い。もうとっくにねんごろな相手がいるのだと、初めは信じていた。

 だけど、……なら、どうして。

 腰まで伸びた栗色の髪をうなじのところでひとくくりにまとめる。置きっぱなしになっている魚籠を手にすると、双葉は裏の炊事場へと向かった。

 

 

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