…2…

「匂やかに、白・番外〜双葉」

 

「もうすぐ夏祭りがあるんだって」

 その日、陽が落ちる頃になってようやく戻ってきた妹たちは嬉しそうに言った。

「村はずれ、山の中腹に大きな鳥居があるでしょ。あそこのお社はこの辺のいくつかの村を護る偉い神様なんだって。だから祭りにはたくさん人が来て、べっこう飴やくじ引きや金魚すくいの店も出るって」

 聞けば、まだ一月ほど先のことである。でも話を聞いてしまった幼子たちにとっては、それが明日のことのように思えるのだろう。その日に着ていく衣や履き物のことまで心配している。気持ちは分かるが、勘弁して欲しかった。周辺の村々から集まればたいそうな人手になるに違いない、そんな場所に出掛けるのはどうにかして避けられないものか。

「ねえねえ、お姉ちゃんももちろん行くよね? 村の若い者たちは、男も女もみんなめかし込んで出掛けるんだって、角の兄ちゃんが言ってたよ。その日だけは夜通し騒いでもいいんだって」

 ――やはり、そんなところか。

 双葉は妹たちの質問には答えずに、さっさと夕餉の支度に取りかかった。先ほど貰った魚は、もう煮付けに仕上げてある。あとは粥と野菜汁でいいだろう。ひとつしかない釜の段取りを頭の中で考えつつ、もう一方では全く違うことを思い浮かべていた。

 

 その土地それぞれに、時節の祭りがあることは知っていた。

 山持ちの館にいる頃も、そんな話を幾度となく聞いたことがある。それに参加するために、わざわざ宿下がりの願いを出す侍女たちもいた。表向きはや社の神々を奉る行事なのだろう、だがもうひとつの一面も確かに持ち合わせている。そこは若い男女が縁を結ぶのにふさわしい場所なのだ。

 双葉も今年で十七になった、早い者では同い年でも子供がふたりいても珍しくない年頃である。この地に着いた当初は、村長からもそのことについて訊ねられた。もしもこちらが望むなら、ねんごろとなる相手を見つけてやろうというわけである。両親はもちろん乗り気で、是非にお願いしなさいと口々に言った。
 だが、双葉としてはそのような浮ついた気分にはなれそうにない。こちらが遠慮しているのだと思ったのだろう、二度三度の呼びかけにとうとう適当に流すことは出来なくなった。

「もしも、後添えのお話などありましたら……」

 思わずそう口走ってしまい、それを聞いた村長は信じられないと言いたげな表情になった。まあ無理もない、若く美しい娘であるのにそんなことを言い出すなんてどうかしていると思われるのが当然である。そのやりとりのあと二度と同じような話がされることはなくなり、ホッと胸をなで下ろした。

「外から見れば普通だが、あれはきっと人に言えぬような大病でも抱えているのだろうよ」

 まことしやかにそんなことを囁かれるようになったことにも、恥じるどころかこれ幸いと思ったほどだ。今はまだ幼い弟妹たちも、数年のうちには立派な働き手として成長するだろう。そうなれば自分がここにいる必要はない。そうなったら、どこかまた遠くの土地で下働きでもしようと決めていた。自分にふさわしいのはそんな生き方なのだから。

 互いに想い合った相手と結ばれ、生涯を添い遂げる。若い娘なら、誰でもそれに憧れることであろう。年の割には世の中を知りすぎていた双葉であっても、その心奥にはくすぶり続けるものが確かにあった。そう、全ての過去をうち捨てて新しく生まれ変われるのだと信じた旅路。大切なおふたりの再会をただ神に祈りながら、同時に自分の将来をも夢見ていた。

 だが、しかし。この地に辿り着いた双葉は、そんな己の考えがいかにあざといものであったのかを知る。通りですれ違う若者たちは、それまで彼女が生きてきた世界の住人たちとは何もかもが違っていた。健康そうに灼けた肌、一点の曇りもない明るい笑顔。はじけるような笑い声。男も女も隔てなく肩を並べ軽口を叩き、大声で名を呼び合ったりしていた。
 まだ所帯を持たぬ独り者も多くいたから、双葉やすぐ下の妹などはすぐさま彼らの「値踏み」の対象となる。そのときもかつて双葉が味わっていたねっとりと絡みつくようないやらしさはなく、かえって意外な感じすらした。さらりと肌に感じる遠くからの息づかいに戸惑いながら、双葉の心はしかし、日に日に閉ざされていく。とうとう、耳鳴りのような声が深い場所から聞こえるようになった。

 ――いつまでも、ここにいてはいけない。

 そんな想いを、もちろん家族にすら口にすることは出来なかった。ただ時が静かに過ぎていくことだけを望み続けている。時折、何かを思い出しそうになって胸が痛み、更に願いは深くなった。

 

◆◆◆


 そういえば、この二日三日は顔を見ていない。寂しさにも似た違和感を心に覚えた頃、ようやく戸口を叩く者がいた。誰であるのかは、顔を見ずともだいたい察しが付いている。もうこの頃では、通りを歩いてくる草履の音だけで聞き分けられるようになっていた。
 そう慌てるほどのこともないとは知りながら、気付けば急ぎ足になっている。柱の影で一度止まり呼吸を整えつつ、何となくいつもとは違う何かを感じていた。

「……やあ、久しぶり」

 土間に立った和希は、いつになくかしこまった衣をまとっていた。泊まりがけで山を二つ越えたところにある大きな村に働きに出ていたのだという。
 そういえば、この辺では村を挙げて土地を広げるときになど人手が必要になると、近隣のあちこちの村々から力自慢たちを呼び合うのだと前に聞いたことがあった。だからなのだろう、ここ数日は表通りを歩く男たちの姿が極端に少なかった。聞けばつい今し方、戻ってきたばかりなのだとのこと。
 先日会ったときよりも、だいぶ日に焼けている。この炎天下にかなりの重労働だったことがうかがい知れた。

「まあ……、それは」

 普段は世話になりながら、不在だったことにすら少しも気付いていなかったとはうかつであった。ねぎらいの言葉もなく、ぼんやりしていたとは。どんなにか目の前の男も呆れているであろう。
 もちろん往復は徒歩(かち)であるから、かなりの時間が掛かる。昼前にあちらを出たのに、辿り着いた今はもう夕刻。途中の山道なども疲れた身体には堪えたであろう。ここは茶の一杯でも出してもてなさなくてはと腰を上げかけたが、それを静かに制される。訝しげに見上げる双葉に、和希は緊張した頬を無理にほころばせた。

「これを、――お土産」

 懐から差し出されたものが板張りの上がり間に置かれる。ことり、と静かな音のした方に目をやった双葉は、思わず息を飲んだ。すぐに言葉など返せるはずもない。

「気に入らなかったら、ごめん。女子(おなご)のものはよく分からなくて……。店のおかみさんは少しずつ色が違うんだって言うんだけど、俺には皆同じに見えて駄目だ。ああいう場所は本当に恥ずかしかったよ」

 ……どうして、何故。

 心が心を押し返そうとする。そのせめぎ合いで、胸が痛い。ああ、何とあさましい心なのだろうか。早くこの熱さを吐き出してしまいたい。ようやく涼しくなり始めた外から、静かに気が流れ込む。髪が後ろになびいていくのを、己の影で知った。

 握り拳の中に収まってしまいそうなささやかな塗り物の中身は、開けてみるまでもない。河原の丸石のようにころんと愛らしい漆塗りの蓋には、白い花の絵が涼しげに描かれていた。
 毎日と言ってもいいほど、ものを恵まれる生活を続けていたが、こんな風に口に入れることの出来ないものを贈られたのは初めてのことである。いや、違うのだ。だからといって、自分が考えているようなことが起こるはずもない。……そうだ、そうに決まっている。

 和希は今更思い起こすこともなく、いつも優しかった。自分だけではなく、弟や妹たちのことも気遣ってくれ、彼のお陰で里でも生活も滞りなくやってくることが出来たのである。村中をあげての祝い事がある時などの品物なども、ひとつひとつ教えて貰ったからどうにか整えることが出来た。
 でもそれは、単に自分たち家族のことを憐れんでのことで他意はない。それに村人たちの噂も、とっくにその耳には届いているはず。だから、違うのだ。これは自分の思い過ごし……そうに違いない。

 襟元を握りしめた手のひらが、じっとりと冷たい汗をかいていた。こんな風に黙ったままではおかしいと知りながら、どうしても次の言葉が喉の奥にへばりついたまま。

「まだ、先の話ではあるんだけれど。社の夏祭りに、俺と一緒に行ってくれないかな……?」

 しかし、願い続けたささやかな希望は、和希のこのひとことでもろくも崩れ去る。それでもなお、信じがたくて顔を上げた双葉の目に映ったのは、かつて向けられたことのないほど熱を帯びた双の瞳であった。

「亜希ちゃんや小紅ちゃんから聞いてるでしょう、祭りの話は。踊りや山車も出るし、いつもからは想像できないほど賑やかなものなんだ。双葉さんは今年が初めてなんだから、見所を案内してあげるよ」

 ――いいえ、違う。そうじゃない、そうであってはならない。必死に取り繕いながら話を進める様を見ても、まだ双葉は心の中でそう叫び続けていた。

 だが、どんなに己に言い聞かせようとも、ここまで何もかもが揃ってしまってはどうすることも出来ない。

 この地にあっては、異性に身の付けるものを贈るという行為には特別の意味を持つ。もちろん親兄弟のように気の置けない仲ならそれは親愛の気持ちを伝える手段に他ならない。しかし、そうでなかったとしたら。
 手のひらに収まってしまうささやかな紅も、数日の働きの手当などあっという間に吹き飛んでしまうほど高価なものである。よほどの覚悟がなかったら、それを求めることなど出来ないだろう。
 さらに若い男女が連れ立って祭りに出掛けると言えば、ふたりの仲は公のものとなる。それを知った上で承諾するなら、まさしく求愛を受け入れたと言うこと。幼い子供ですら、知っているような当然の事実だ。

 それなのにまだ、思い過ごしであって欲しいと願う自分がいる。掴むことも出来ぬあやふやなものに、双葉はすがっていた。

「駄目だわ、そんな。……だって、うちは両親の帰りも遅いし。小さな子供たちだけ残して留守にすることなんて出来ないわ。それくらい、和希さんだって分かっているでしょう……?」

 出来るだけもっともらしい理由を付けて、きっぱりと断らなければ。頭ではそう考えていても、自分がどんな言葉を話しているのかすら、曖昧になっていく。奥歯が上手く噛み合わないほどに身体が震えていた。

「……何だ、それくらい。一日限りのことなんだし、村の誰かに頼めば大丈夫だよ。俺から頼んでやってもいいし」

 こちらの言葉をどんな風に取り違えたのか、和希の声は少し明るくなった。心の歯車が噛み合わないもどかしさが、双葉をどこまでも追いつめていく。

「こんな田舎だしね、普段と変わらない格好で大丈夫だから特別に晴れ着の用意もいらないよ。心配することなんて、ひとつもないんだから。境内までの山道は提灯で照らし出されるんだ、それはそれは見事なんだ。きっと双葉さんも驚くと思うよ?」

 

 和希の声はいつもと少しも変わらない穏やかなものだ。押しつけがましいところがひとつもなくて、だけどしっかりと自分の意見を伝えてくる。そんなすがすがしさに裏表のない心が映し出されていた。

 含みのないまっすぐな言葉に、初めのうちは戸惑うばかりだった。それまで双葉がいた世界では、耳に届いた言葉の裏の裏をかかなくては本音の伺えないような者しか存在しなかったから。唯一心を許せる家族からも離れて暮らしている生活で、緊張を解いて人と向き合うことを長いこと忘れていた。

 優しい言葉を掛けるのは、所詮こちらを欺こうと画策しているだけ。すぐにそんな風に考えてしまい、なかなかうち解けることもかなわなかった。そうしているうちに世話を焼いてくれていた村人たちもだんだん疎遠になっていく。気が付けば、今では戸口まで訊ねてくれるのは和希ひとりだけになってしまった。

 いわば彼は、双葉とこの土地との間を繋ぐ最後の糸だ。これがとぎれたら、今度こそひとりきりになってしまう。それが怖くて、今まで曖昧に過ごしてきてしまった。それが、そもそもの間違いだったのだろうか。

 

「あの、……和希さん」

 ぎりぎりのところまで張りつめられた糸が、今にもちぎれそうだ。このままやり過ごす方法がないだろうかと、未だに迷う心がある。だが、……もう限界だ。これ以上は良くない。返事は早いほうがいい、期待させるのはかえって傷つけることになってしまう。自分の心は初めから決まっているのだから。

「返事は急がないから」と、いとまを告げた背中に必死で呼びかける。胸が苦しくて、もう息をすることすらおぼつかなかった。

「ごめんなさい、私は行かない。誘うのは、他の人にして。……これも、受け取れないから」

 このような場合は、顔を上げてしっかりと相手の目を見るべきだろう。しかし、そこまではどうしても出来なかった。先ほどから目に映るのは、和希の衣の織り文様ばかりである。それが次第にぼやけてきた。

「双葉さん……?」

 男の方も、このように切り返されるとは 思っていなかったのだろう。進み掛けた歩みが止まる。

「どうして? その……、気に入らなかったかな。もっと別のものの方が良かった? ごめん、若い女子が欲しがるものは本当に良く分からなくて。だけど……」

 こちらが差し出したものをすぐには受け取ろうともせず、和希はただうろたえていた。決して責め立てる風ではない、それが心苦しくてならなかった。

 

 彼が待っていてくれることに、いつの頃からか気付いていた。時折こちらを探るような瞳を知りながら、それでも知らぬ振りをし続けていたのだ。
 だけど、すでに和希は耳にしているはずなのである、双葉が村長の前で告げた言葉を。誰にも縁づくつもりはない、重い病かそれともとんだ変わり者なのか。何と言われても、仕方ない。あとから傷つくことだけは避けたかった。

 決して無理強いをしたりはしない、和希の優しさが救いだった。自然に少しの気負いもなくいつもそばにいて気に掛けてくれている。包み込まれる暖かさに、家族の親愛にも似たものを感じ始めていた。
 願わくば、今少しだけこんな穏やかな時間が過ごせないだろうか。長くは望まない、だからもう少しだけ。初めて知る甘い心地を何かにすり替えさせることに必死になっていた。

 ――だけど、これ以上はもう駄目だ。動き出してしまった事実を、止めることはもはや不可能である。和希が壊してしまったのだ、今まで守り続けてきたものを。そう考えるのは見当違いだと知りながらも、口惜しくて仕方ない。

 

「こんなものいらないって、言ってるでしょう……! それに、祭りにも行きたくないって。――今まで良くしてくれたのは、そういう理由だったの? だったら、迷惑よ。金輪際、やめてちょうだい……!」

 いつまでも手にしてくれないものを、怒りにまかせて投げつけていた。どこかにぶつかる軽い音がして、そのまま何も聞こえなくなる。それと同時に、双葉の心も粉々に壊れた。

 

◆◆◆

 
 ――きっと、二度と和希はここを訪れてはくれないだろう。

 家族の前ではどうにか何気ない振りで過ごすことが出来たが、ふとひとりの時間が出来ればそればかりを考えていた。もう少し、穏やかに取り繕うことは出来なかっただろうか。彼を傷つけることなく、やり過ごす方法だってあったはずだ。あの瞬間、押し寄せてくる波を避けることばかりを考えて、平静になれなかった自分が恨めしい。

 ぼんやりと何も手に付かず、身体を柱に預ける。優しい思い出ばかりが浮かんできて、気付けば頬がぬれていた。だけど、他にどうすることが出来た? これ以上、長引かせては傷が深くなるだけだ。手当が出来るほどの痛みで引き返さなくては、取り返しが付かなくなる。彼はいい、きっと他にいくらでも相手はいるだろうから。……だけど、自分は。

 二日経ち、三日経ち、それでも戸口の物音に耳をそばだてる自分がいた。何とも愚かなことだ、あれだけのことをしておきながら、よくもまあ期待することが出来るものだ。
 土間に転がったままになっていた贈り物を拾い上げ、中身を確認した。夕日の一番濃い色によく似た朱色はどこかに忘れてきた記憶を思い起こさせる。気品のある香りで気付く、これは南峰の紅だ。特に純度が高く発色も美しいが、その分他のものの数倍も値が張ると言われている。紅もおしろいも、あの頃にはとても身近なものであった。それだけに一目見るだけでその価値が分かってしまう。

 ただ、和希がそこまで承知していたかどうかは定かではない。彼のことだ、きっと自分の目で一番良いと感じたものを選んでくれたのだろう。それを手にする双葉のことをその心に思い描きながら。

 

「ごめん、……いきなりで驚かせて」

 双葉の言葉は聞こえていたはずなのに、最後に彼はそう言った。

 心ない言葉と態度に怒りの表情を見せるどころか、包み込んでいたわるような瞳で。少なからずの落胆を頬に浮かべながら、それでも彼は微笑んだ。謝らなくてはならないのはこちらの方なのに、全くそんな考えには至らないようであった。

 

 あんな風に言い残したのだから、また何もなかったようにやってくるのではないだろうか。あるわけのない望みとは知りながらも、そう思えてならない。失って気付く、彼の存在の大きさ。受け入れることは出来ないのだから、いつか離れてしまうのは仕方のないことなのに。

 ああ、せめて。気付かれぬように物陰から姿を見ることが出来たなら。でもそれすらも、今となっては叶わぬ夢のような気がしてくる。彼の幸せを切に願いながらも、もしも他の女子と仲良くしている光景など目の当たりにしたら、それこそ先を生きる心地もしない。

 

 溢れても溢れても涸れることのないしずくが頬を伝っていく。裏庭の夏草がゆらりと首をかしげたとき、小屋表で人の気配がした。

 

 

 

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