…3…

「匂やかに、白・番外〜双葉」

 

 妹たちの立てる物音とは明らかに違うそれに、気付けば転がるように戸口まで駆けだしていた。しかし、顔を上げた双葉が目にしたのは、期待していたのとは違う肩先。ほころびかけた頬が、再び凍り付いていく。

「……あ」

 どうしよう、こんな風に取り乱したところを見られて。戸惑う彼女に遠慮する様子もなく、目の前の若者はじろりときつい眼差しを向けた。衣の袖を短く落として、今風に着こなしている。涼しげな絣(かすり)が今日の暑さにぴったりだ。

「そんな風に意外そうな顔をすることないだろ、……いくら日頃の付き合いが悪くたって、俺の顔くらい知ってるだろうが」

 感情を抑え込んだ口調ではあるが、その端々にふつふつとした怒りを感じる。双葉はその言葉に応えて、おずおずと頷いた。
 ――確か、和希と仲の良い男だったと思う。ふたりで連れ立っている姿を何度も見ていた。名は、力弥(リキヤ)とかいったはず。和希とは同じ年だと聞いていたが、こちらはもう妻帯者だ。妻の方とはよく河原で洗濯をするときに隣になる。とは言っても、ほんの挨拶程度の付き合いではあるが。

「あんた、和希に何を言ったんだ?」

 思いがけない訪問にうろたえるばかりの双葉に、彼は更に言葉を重ねた。震える口元が、その心内を余すことなく示している。そう広くない上がり口は張りつめたもので満たされ、いつ胸ぐらを掴まれてもおかしくないほどの感じだ。

「え……」

 思わぬ言葉に息をのむ。この男は一体何を知っているのだろう。緊張に手のひらがしっとりと汗ばんでくる。しかし、対する力弥の眼はどこまでも冷ややかだ。何があろうと容赦ないという気持ちがそこに表れていた。

「あいつがどんなに必死だったか、本当に気付いてなかったのか? よそ者のあんたには分からないだろうがな、あれだけのものを毎日のようにここに届けるのは並大抵のことじゃない。それが分からないほどの心なしとは思わなかったけどな。
 そりゃ、和希はもともと人並み以上の働き者だよ。だけど畑にしても山仕事にしても、この半年もの間、あいつは人の倍は働いていた。周囲は皆でやめろと口をそろえたが、ついに忠告に耳を貸すことはなかった。……馬鹿な奴だよ」

 双葉は黙ったまま、俯いた。ああ、やはりそうであったか。和希はいつでも何でもない感じで手渡してくれるが、度重なる厚意にもしやと思うことは何度もあった。柔らかい笑顔に惑わされていた真実も、ひとつひとつ紐解かれていく。突然の来訪者は、彼女にいくつものくさびを打ち付けていった。

 ただ、分からなかったのはこの男が訪れた理由だ。まさか、友人の代わりに恨み言を言いに来たのだろうか。……いや、そんなことはあるまい。和希がそんな人間でないことは双葉が一番よく知っていた。ならば、何故。それを訊ねても良いものなのだろうか。

 何と言って切り出そうかと彼女が思いあぐねているうちに、目の前の男の方が震える口元を重く動かした。身体の脇で握りしめられた拳が白んでいる。

「あいつ、……二日前に山に入ったまま戻ってこないんだ」

 その言葉に、双葉は驚いて顔を上げた。
 一昨日と言えば、和希がここを最後に訪れた翌日になる。確かにあれ以来、彼の姿は見ていない。夏山でこそあるが、力弥の顔色を見ればそれがただごとではないと言うことはすぐに分かった。

「もう二晩も経っている、さすがにこっちも不安になり始めてね。いくらあいつが土地の人間でこの辺の山に詳しいとはいっても、程度というものがある。知ってるだろ、お社の裏の山を。普段はあまり立ち入らない場所なんだ、道もあってないようなものだし……これ以上はヤバいだろう。
 あいつは皆に心配を掛けまいとする奴だから、これ以上は無理だと分かれば潔く戻るはずだ。そうしないということは、最悪の事態も考えなければならないことになる」

 力弥はそこまで話すと唇をかんだ。何かを必死でこらえている、そんな感じで。

「もう少し早く気付けば、どうにでもなったんだ。だけど、あいつは一緒に暮らしている爺さんに口止めしていてね。それでこんなに厄介なことになってしまったんだよ……!」

 悔しさが全身から溢れてきている。じわりじわりと、その気迫が双葉まで伝わってきた。

 でも……何故。確かに自分は和希に対して言い過ぎてしまったとは思っている。だがしかし、だからといってどうなることでもないとも考えていた。愛想を尽かされることはあるだろうが、それで彼自身が他の道に進めるなら致し方ないと。

 軽い溜息をついてから。力弥は自分の足下に置いてあった提灯を、青ざめた双葉の鼻先に付きだした。何事かと視線を泳がせた先に、まっすぐにこちらを見つめる瞳がある。 

「とりあえずは、あんたが行け。一晩戻らないようなら、そのときは皆を集めて山に入ることにする。――もしもあいつに何かあったら、そのときは俺はあんたを絶対に許さないからな……!」

 

◆◆◆


 表山の中腹にあるお社奥の森を抜ければ、小さな峠を越えた向山が目の前に広がる。山越えの労力を軽減するために作られたのであろう吊り橋が、長く奥へと伸びていた。普段であれば、そこを渡ることすら躊躇するだろう。

 だが、今の双葉には何かを深く考えている暇などなかった。とにかく、時間がないのだ。

 力弥が表戸を叩いたのは、ようやく朝餉の片づけを終えて洗い物を全て干し終えたすぐのことであった。だが、今ではもう陽は西に傾き始めている。いくら灯りはあると言っても、日が完全に落ちてしまえば歩けなくなる。そのために、村人たちが使う山小屋の位置も前もって教えられていた。荷物にならない程度の食料も持ち合わせている。

 

「ガキたちのことは心配するな、ウチの奴に話をしておくから。――とにかくは、急いでくれ」

 まだ村人には話を広めていないから、と力弥は言った。そのときもまだ、双葉には彼の言わんとしている言葉の意味がくみ取れずにいたのである。そうであろう、情けないことだが土地のこともよく分かっていない双葉に行かせるより、自らが出向いた方が得策であるに違いない。それを彼とて気付かぬはずもない。

「社の裏の山はおいそれと足を踏み入れることはない、だいたい食用になるような木の実も山菜もほとんど採れないしな。誰もが気味悪がって避ける場所なんだよ」 

 針葉樹にびっしりと覆い尽くされた山道は、季節を忘れさせるほどひんやりとした気が漂っていた。大きく広がった枝葉で、見上げても薄暗く日の傾きも分からない。落ち葉を踏みしめる己の足音だけが、辺りにこだましていた。鳥の鳴き声さえ聞こえない。
 お社までの緩やかな上り坂とは対照的に、こちら山は首が痛くなるほどの急な坂が続く。その道行きは時として、「登る」と言うより「這い上がる」と表現した方が正しいと思えるほどだ。しっとりと湿った山肌は一面が苔で覆われ、触れるとじんわりと手のひらが濡れるほどの水気を感じる。
 本当に、和希はここを通っていったのだろうか。あまりの静けさに何度もそれを疑いたくなるが、次の瞬間にはまだ新しい足跡を見つけている。それが彼が付けたものであるという確証はないが、そうでないとも言い切れない。だから、進むしかないのだ。

 

 ……すまないな。

 途中適当な足場が見つからずに、何度も滑り掛けた。衣の膝もべっとりと泥に汚れ、むき出しの腕にいくつもの擦り傷が出来ている。必死に這い上がり膝を付けるほどの場所までたどり着くと、そんな言葉が耳元でこだました。

 ――願掛けだから、俺たちが行くわけにはいかないんだ。きっとあいつもそれを望んでいない。

 社の裏山の頂近くの崖に「御神木(ごしんぼく)」として奉られている大木がある。しだれの枝が滝のように流れ落ち、そこに南天にも似た実をびっしりと付けるのだ。力弥自身もそれを実際には見たことがないと言った。同様の村人がほとんどであるのだろう。
 それぞれの土地に同じようなものがあるのは知っていたし、それ自体は大して珍しいことではない。ただ、この土地に伝わる話は少し違っていた。

「誰もが知ってる話なんだがな、そこに夏の盛りにだけ『永久(とこしえ)の緑』と呼ばれるひと枝が見つかるそうだ。それを生きたかたちのまま手にして戻ったものは、どんな願いも遂げられると。……もちろん、本気にする奴なんているはずないし、あいつだってそうだと信じていたんだが――」

 話だけ聞けば、夏の夜の肝試しのような気がする。だが、こうして実際にその場所に立てば、どんなにか現実離れした出来事なのかが実感できた。普通の神経を持った者なら、すぐに正気に戻って引き返すことだろう。

 和希が逞しくそれでいて思慮深い若者であることは、改めて双葉が思い直すまでもない。このように無理を承知で突き進む愚かさが普段の彼の中にあるとは到底考えられなかった。

 

 幼い頃に両親を亡くして、その後は祖父母とともに暮らしていたといつか教えてくれた。長いこと面倒を掛けた祖母も先年亡くなり、そのときにも少し早い縁談の話はいくつも出たと聞く。
 だが、彼自身はそれほど乗り気ではなく、のんびりと気楽な生活を楽しんでいると言っていた。双葉自身は訊ねたことはないが、妹たちの話では家の中も男所帯とは思えぬほど綺麗に片づいているらしい。今でも働き者で知られる祖父とふたりで過ごしている。日々の暮らしに何も不自由はないという。

 そんな彼が、流れ者の双葉たちに興味を持ったのはどんな理由からなのだろう。訊ねたことなどないが、もしもきちんとした何かがあるとすれば、それは不安定な立場に対しての親近感ではなかったかと思う。故郷の村をあとにしてからはひとつの土地に根付くことが出来ず、放浪の生活を続けてきた。始終「まとも」でないことに対する劣等感が襲い、心が落ち着くことはなかった。
 同じような身の上の者たちが寄り添えば、言葉には出来ないほどの絆が生まれる。だからこそ、双葉の弟妹たちも彼に懐き、彼もそれに応えてくれたのだろう。

 出来ることなら、あの時間が永遠に続いて欲しいと思っていた。何の気取りもなく、彼がひょっこりと訪ねてきて、そのときに短い会話を交わす。それだけで、十分ではないか。
 この辺りの名物だと言う春先の強い気流が通り過ぎる頃は、小屋の外回りをしっかりと補強するやり方を丁寧に教えてくれた。何重にも板を張り付け麻紐を巡らせ、その上からくさびでしっかりと止め付ける。瞬く間に仕上がっていく様に見惚れてしまう。造作ないことだと和希は笑ったが、その背中はとても頼もしく見えた。
 炊事も洗濯も、慣れぬ手つきで奮闘する双葉よりもよほど手際がよい。今は得意となった川魚の煮付けも、初めは内臓の始末や鱗の落とし方まで彼に聞きながら覚えたほどだ。どんなに味付けを失敗しても、自分の取り分は毎回嫌な顔もせずに持ち帰ってくれた。

 誰もが知っている当たり前のことが、双葉にとってはとても難しい。だが、なかなか思い切って訊ねることも出来ずに途方に暮れることばかりだった。そんな心内を彼はすくい取ってくれる。春の日だまりはいつでもそばにあって、凍えきった心を温めてくれた。

 

 何故ここに来て、和希が道を変えようとしたのか分からない。ふたりの心が同じものを求めていなかったことが今は恨めしい。長い長い道のり、終点はもうすぐそこまで来ていたのではないだろうか。だとしたら、もう少しだけ、と願ってはならなかっただろうか。

 ……でも。

 

◆◆◆


 平坦な森の中を進んでいく道にいつか辿り着いていた。

 あとはただ道なりにいけばいいと、力弥から教えられている。木々の向こうに遠く見えるのはまだ日暮れ前の風景なのに、足下はほの暗く木の根に足を取られそうになった。何度か躓きかけて、とうとう提灯に火を付けた。ぽっと現れた蜜柑色の空間が、辺りをさらに薄暗く感じさせる。見えない何かに追われるように、双葉はさらに早足になった。

 ここまで来るのに、慣れぬ足でも半日。これが山慣れした若い男なら、更に短くて済むだろう。察するところ、先の道は少ない。これまでもほとんど一本道であったから、どこかにそれることは考えられない。ならば和希はどこへ消えたのだろう。
 この山のことはあまり知られていない。どう猛な獣なども生息しているかも知れぬから、夜は火を絶やすことがないようにと念を押された。その言葉に黙って頷きながら、しかしそれくらいの恐怖なら大したことがないと心の隅で考えていた。

 

 強い信念を持って山に入った者は、すなわち「山の神」の従者となる。もしも他者がその者を追って踏み入ろうとしても、決して叶うことはない。掛けられた願いも破れ、二度と果たされることはなくなると聞く。それどころか無理強いをすれば神の怒りに触れ、周辺の村や民に災いが起こるやも知れぬ。

 唯一、入山が許されるのは、求められたその相手だけ。だからあんたが行かなくてはならないと、力弥は言った。自分が出向きたいのはやまやまなんだろう、その表情には語りつくせぬ程の無念さがにじみ出ていた。
 普段穏やかで大人しい人間が一度決めてしまったことは、もう誰も止めることは出来ない。幼い頃からの和希をよく知っている彼だからこそ、それを思い知っているのだ。

 こちらとしても、迷いはない。色々と思いあぐねていたずらに不安になるよりは、自分で行動を起こした方がどんなに気が紛れるか。そう思い切ったとき、久方ぶりに心がまっすぐ伸びた気がした。

 

 ふと、双葉の中に懐かしい心地が蘇る。ああ、そうだ。あのときもこんな風であった。

 我が身にふりかかる火の粉など、何とも思わない。ただ、大切なお人を守り通すことだけが自分の信じた道であった。双葉としても、初めからそのような聖人の心地に至っていた訳ではない。だが、ぬくもりのある触れ合いはいつか彼女の中に人としての大切なものを思い起こさせていたのだ。
 限られた空間。目の前で繰り広げられる打算のない愛の姿に、凍り付いていた心が揺れた。ただただお務めを全うし、家族の元に戻ることばかりを考えていた日々。あの山持ちの館に戻れば、また以前の生活が始まるだけ。そうであっても、爆薬を抱えて眠れぬ日々を過ごすよりもずっといい。進むことも戻ることも出来ぬ一本橋の上で、震えていたはずなのに。

 あの御方は、何も持ち合わせていないお人だった。姿こそはかの姫君とうり二つであって、そのことが初めとても気になったことは事実。どうしてもふたつの姿を重ね合わせてしまい、戸惑うことも多かった。辛く当たってしまったこともある。そのような気持ちもいつしか消えていたが。
 たったひとりの母親も亡くし、あとは儚く散るだけの運命。きっと、山持ちの館主はこの人を生かしてはおかぬだろうとは初めから察していた。もしかしたら、その最後のお役目すら、自分に回ってくるかも知れない。
 花びらがひとつひとつ落ちる様を、ただ眺めていることしかできない。空虚な心地の中で双葉が出会ったのは、ひとつずつしかない心が互いに寄り添った姿であった。この世のものとは思えぬような美しい光景に、今までの自分を恥じ、さらには己の夢も未来も全て捨てることを決めた。もしもそうすることで、おふたりの幸せが叶うならば……。

 ――やはり、それで良かったのだと思う。最後の宿で別れたあとの消息は分からないままだが、出来る限りの手は尽くしたのだから。ささくれた指先に新しい痛みを覚えるごとに、あの御方にそれと同じだけの幸福が舞い降りればいいと思う。おそばにいた間に、十分にお世話できなかったせめてもの罪滅ぼしに。

 

 そう、だから今回のことにしても同様のことが言えるのではないだろうか。

 和希には誰よりも幸せになって欲しい、そのためには自分のことは考えてはならない。願いを叶えるためには、何かを捨てなければならない。そうに決まってるのだから。

 願掛けの話を聞いたときは、どうであっただろうか。一瞬でも我を忘れて喜ぶ自分がそこにいなかったか。気の迷いでも何でも、そこまで和希に想われる自分がいるなら、どんなにか幸せだろう。そのように考えてはいなかったか。……それが彼をここまで追いつめてしまったのではないだろうか。

 ならば、何としてでも彼を見つけ出し、導かなくてはならない。たとえ、己が身が心がどうなろうとも。

 彼が幸せになるために、一番不必要なのは自分なのだ。全部捨てないと、彼が今いる場所までは辿り着けない。

 

「……あ……」

 急に目の前が拓け、思わず声が漏れた。

 からりと、小石が落ちていく。森が途切れたその場所は、切り立った崖っぷちであった。一瞬その奥をのぞき込んでしまい、慌てて目をそらす。闇色の気に包まれ始めた渓の向こうは吸い込まれそうな気配がした。軽い目眩。ぐらりと足下が揺れ、身体が後ろに泳いでいた。

 背後の樹の幹に背中を預けて、見上げる。夕焼けの赤がだんだん消えていく天を背景に、幻のものとも言われていた頂が確認できた。そこから流れ落ちるのは茜に染まる無数の枝。さらさらと気の流れに揺らめき、心地よい音色がここまで届きそうな錯覚を覚える。

 ――ああ、招かれているようだ。ふらりふらりと足が前に出て、もう少し、と言うところまで来て双葉は立ち止まった。

 

「……?」

 空耳だったのだろうか、……否。

 何かが呻くような声を確かに聞いた。恐る恐る振り向いてみたが、暗闇の森には何も確認することが出来ない。もう一度、耳を澄ます。それは、足の下から湧き上がってきた。

「えっ……!?」

 西側、視界の隅に何かがゆらゆらと見える。立ち上がったままではとても下をのぞく勇気がなく、地面に膝をついて身を乗り出した。

 

 提灯をかざすと、身丈の倍ほども降りた場所に少しばかりの平らな空間があり、そこにうごめくものがある。よくよく目をこらして確認したとき、双葉は息を止めた。


 

 

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