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「匂やかに、白・番外〜双葉」

 

 だらりと垂れ落ちていたのは、大蛇にも見まがうほどに太い蔓草。表面にごつごつと適当に引っかかりのある肌合いは思ったよりも扱いやすく、伝って下に降りるのは意外と簡単であった。

「……和希、さん……」

 地に足がつくやいなや、足下に提灯を残して双葉はそこに駆け寄った。見覚えのある衣に、崖の上からでもすぐに彼だと気付いた。何としたことだろう、しっかりと地面に身体を横たえてはおらず、膝から下は天を向くように山肌に沿わせている。その片方の足首に、双葉が伝った蔓が幾重にも絡みついていた。

 かすかに揺れる背中に勇気づけられながら言葉を掛ける。のろのろと、うつぶせていた首が持ち上がった。

「……ぁ、さん……?」

 すぐには目の焦点が合わないらしい。ぼんやりと視線を泳がせて、彼は唇を動かした。でも、その言葉ははっきりと聞き取れない。露に濡れて色を濃く変えた髪が、額に頬に張り付いている。袖の裏側にべっとりと貼り付いた泥の様子から、だいぶ長い間同じ姿勢でいたことがうかがえた。

「……あ……」

 膝の力が一気に抜けて、気付けばその場にぺたりと座り込んでいた。何か声を掛けなければと思うのに、舌がもつれて上手くいかない。ここへ来るまでの道のり、最悪の状況も考えていた。……ああ、でも。確かに彼だ。いつもの様子ではないものの、はっきり意識はある様子。ひとりぼっちで、こんなにやつれて。一体どれくらい、こうしていたのだろう。

 不安と安堵が一気に押し寄せて来て、しばらくは溢れ出すものを留めるだけで必死であった。

 

◆◆◆


「ごめん、……その、大丈夫だから」

 辺りがすっかりと闇に包まれた頃、ようやく和希がそう告げた。彼方の灯りに浮かび上がった右側の頬がうっすらと微笑む。無理をしているのは明らかだった。一度にたくさんの言葉を発するのは難しいらしく、とぎれとぎれに続く。

「情けない限りなんだけど……山頂付近からから、足を滑らせたんだ。幸い、この蔓のお陰で渓底まで落ちずに済んだけど、その代わりにひどく頑丈に絡んでしまってね。……引けば更にきつく締まるからどうにもならないんだ。他は大したことないから」

 何とかしてこちらを励まそうとしているのだろう。あっさりと明るく告げてはいるが、やはり見るからに辛そうだ。このように宙づりにも近い無理な姿勢でいては、どうしても頭の方に血液が降りてくる。それだけのことでもだいぶ身体に負担が掛かっているはずだ。強く締め付けられた方の足先は、すでに色が変わり始めている。

「蔓が……」

 崖を這い上がるときには命綱の代わりに腰に巻いていたはずのものが、落下する過程にずれて足首まで移動していたという。伝って降りてきた双葉には、それがどれくらい強靱なものかが分かっている。あのように全体重を掛けぶら下がってもびくともしなかったのだから。
  気を落ち着けてよくよく見れば、和希の左腕には全く力が入っていない様子だ。落下の際にどこかに強く打ち付けたのだろうか。これ以上行動範囲を広げることが出来なければ、打ち砕くための岩なども手にすることも無理だ。それでも片方だけの腕で、考えられる手段は試して来たのだろう。その爪の先は全て緑色の汁で染まり、さらに血がにじんでいた。あまりの痛々しさに、直視できないほどに。

「何か……これは鋭利なもので切り落とさないと無理だ。夜が明けたら、山を下りて皆にそう伝えて貰うしかないな。迷惑を掛けてしまって、本当にすまないけど……ごめん」

 のろのろと、片腕が双葉の衣に伸びる。ようやく辿り着いた裾を力なく握りしめると、彼はかすかな吐息をついた。

「夢かと思った……本物なんだね。すごく嬉しいよ、まさか双葉さんが来てくれるなんて思わなかったから。こんな風に取り乱したところを見るのは二度目だ、……ほら」

 ゆっくりと、差し出されるもの。暗がりでは良く確認できない。そっと触れてみると、それはかさかさと音を立てた。――まさか、これが。

「手にした瞬間にね……双葉さんに、もう一度会いたいと思ったんだ。他にもっといろいろ考えていたはずなんだけど、そのときには何も思い浮かばなくなってしまって」

 夕日に照らし出された斜面。遠目に見ると無数の細い糸のように見えた枝。このようにひからびてしまう前は、美しい夏色をしていたのだろうか。だけど、何故。こんなことをしでかそうとしたのだろう。誰もが納得するような大志を抱いていたというのなら説明も付く。だけど……彼の場合はあまりにも愚かなばかりだ。

 思わず、向けられた眼差しにすがりたくなる。己にそんな資格がないことはとっくに承知しているのに、まだ心のどこかで期待している。哀れだ、と感じるのは目の前の男か、それとも自分自身なのだろうか。

 ――もう、ここは覚悟を決めなければならない。

 捨て身なほどの本気で突き進んできたこの人には、やはり曖昧な返答では納得してもらえないのだ。分かっていた、……分かっていたはずなのに。何故、あのときに躊躇してしまったのだろう。だから今ひとたびは、勇気を出して。

 無言のまま立ち上がると、双葉は静かに懐を探った。そして、取り出されたもの。心を揺らさないように、ゆっくりと布包みを開いていく。再びこれを手にするときは、我が身が果てるその日だと思っていた。だが、違ったのだ。それより前にひとつ、もう一仕事しなければならない。

 するりと軽い音を立てて姿を見せた輝きがその瞳に映ったとき、和希の顔色が白く変わる。視界の隅でそれを感じ取りながら、双葉は迷うことなく腕を振り下ろしていた。
  ざくり、ざくりと緑色の繊維が途切れる振動が二の腕に伝わってくる。一振りごとに確かな手応えはあるものの、全てを断ち切るまでには息が上がっていた。

 ぶつっ、と最後の音がして。呪縛から解き放たれた和希を、ゆっくりと振り返る。大きく息を吸って吐いて。手元に張り付く視線も構わず、双葉はその頬にしっとりと笑みを浮かべた。

「これで、分かってもらえた? ごめんなさい、……私は和希さんに選んでもらえるような人間じゃないのよ」

 何かを告げようとかすかに動く唇を制して、双葉は手の中の輝きを元通り鞘に収めた。

 

◆◆◆

 岩肌がゆらゆらと照らし出される。ぱちぱちと、火のはぜる音。夏の盛りだというのに、夜を迎えた山はそれを忘れさせるほどにひんやりとした気で包まれていた。

 今宵は穏やかな方だと言われるが、それでも指先はぬくもりを求めてしまう。たき火にかざした手をぼんやり眺めていると、その向こうに静かな横顔が見えた。

 

 一息ついたのち、こちらが運んできた水や食料で当座の飢えをしのいで貰う。日頃鍛え抜いた若い肉体の回復は目を見張るばかりで、一刻も経たぬうちに辺りを普段通りの足取りで歩けるようにまでなっていた。だが、やはり目の利かない闇の中を進むのは得策ではないと悟ったのだろう。とにかくは夜明けまでここで待機しようということになった。

 その後、ふたりの会話はほとんどなかった。

 互いに一番気にしている話題を意識してそらしているのだから尚更である。ひとこと訊ねられると、ひとこと返す。すぐに静寂が戻り、指先に鈍い痛みが走った。何か一口でも、と勧められてもそんな気にはなれない。結局、持ち合わせのほとんどを彼が食い尽くし、戻りの荷を軽くしてくれた。

 

「初めて、あのお屋敷に上がったのは、十になった晩秋だったわ。とにかく何もかもが、まぶしくて艶やかで、……自分が生まれ変わってしまった心地がしたの。不思議なほど、罪悪感はなかったわ。私、――あれからずっと『あちら側』の人間だったから」

 自らが発した「あちら側」と言う言葉。本当に久しぶりに耳にしたような気がする。過去にも何度かそんな風に言い放たれたことはあった。ことに農村部では「こちら側」と「あちら側」をはっきりと二分する思想が根強い。それを知っていたからこそ、今まで過去を口にしまいとしてきたのに。

 この地の人口の8割以上を占めるのが、農村に暮らす者たちである。彼らのほとんどは「地主」やそれをさらに取りまとめる「領主」の下に禄を納めることで暮らしていた。豊かな地もあれば、貧しい地もある。だが、そこに暮らす人々の心には土に触れしっかりと二本の足で立っているという確かな自尊心が宿っていた。その心意気が「あちら側の人」という言葉を生み出すのだ。
  農閑期に出稼ぎに出る農民は多くいるが、そのほとんどは「下男」「下女」と呼ばれる下働きとして大きなお屋敷にお仕えする。そう言う者たちは「あちら側」とは呼ばれない。多少の違いはあれど、それはどこの地でも同じことであった。

 双葉の懐刀を見た和希はすぐに悟ったのだろう、彼女の以前過ごしていた世界を。懐刀は高貴な御方やそれに仕える侍従や侍女が始終身につけているものとされている。何かことが起これば、主である御方をお守り申し上げるためにそれを振りかざすことも辞さないという心の表れ。もはやそこに個人としての意志は存在しない。それの代償として、普通にしていたらおよそ味わえないよな豊かな暮らしを約束されるのだ。
  山持ちの館を後にしたとき、そんな忌まわしい思い出ごと捨ててしまいたかった。だが、もしもの時には少なからずの金に変えられるだけの価値のあるものである。先の暮らしが落ち着くまではと、部屋の隅の行李(こうり)にひそめていた。このたびのことで久しぶりに手にしたこれが、和希の命を救う道具となるとまでは思わなかったが。

 分かっている、「あちら側の人」は忌み嫌われる存在だ。何故なら、農民として生きることを放棄したと見なされるから。華やかな生活に一度飛び込んでしまっては、もう二度と故郷に戻ることが出来なくなる。そんな風にして生まれ里を捨てていった者が築いた過去が今もなお、人々の心に重く影を落としているのである。
  宿場町などでも泊まる店によりきっちりと区別されていることが多い。そのほとんどは「こちら側の人」からの申し出により分けられたものだと聞いていた。洗い場なども同じにするのを快く思わない者が多いらしい。
  自分には直接の責任はないと思ったところで、長い時間を掛けて作られた観念が改まることはない。侍女という立場は時として遊女と同等の誹り(そしり)を受けることとなるのだ。それを理不尽に思う者もあるだろう、だが双葉としてはそれくらいが当然だと考えていた。

「黙っていて、……ごめんなさい」

 腕を伸ばせば届くほどの微妙な距離が、ふたりを隔てていた。このことを告げてしまえば、少なからず和希の自分に対する意識が変わると言うことは承知している。だからこそ、怖かったのだ。暖かい眼差しに、柔らかな声にいつしか魅入られていたから。もう少し、もう少しだけと自分をごまかしてきた。その罪深さが今は悔やまれる。

「変なの、そんな風に謝ることなんてないのに……」

 しかし。和希が放った次の言葉は、双葉に大きな驚きをもたらした。どんな蔑みも覚悟していたのに、彼の言葉にはやわらかい安堵しか感じられない。ゆっくりと顔を上げれば、静かな微笑みが彼女を迎えた。

「そりゃあね、少しは驚いたけど。双葉さんがきちんと話してくれれば、いつだって平気だったのに。ずっと隔てられているのが悲しかったよ。俺、そんなに小さい人間に見えた?」

 双葉は唇を噛んで、また俯いてしまった。そうではないと……信じたかったのは事実。だが、それを望むのはいささか虫が良すぎると言うことも知っていた。どんな風にして隠しても、いつかは知れてしまうこと。自分が辿った過去は、決してなかったことには出来ないのだから。

「俺は平気だよ、そんなの気にしない。皆には言いたくないのなら、このまま秘密にしてればいいじゃない。双葉さんが双葉さんなら、それだけでいいんだよ。こんなに綺麗な人だもの、そうじゃないほうがおかしいくらいだよね」

 まるで自分に言い聞かせているかのように、ひとことずつを噛みしめている。少なからずの動揺が、この数刻の彼にあったことは間違いないだろう。乗り越えて初めて見ることが出来る清々しさが切ない。
  黙ったままそれを受け止めていた双葉の頬に、さらりと新しいしずくがこぼれた。だがそれは、さらなる悲しみを宿す一筋でしかない。和希の言葉には一点の曇りもないことを知りながら、それでもなお心は凍り付いていく。

「いいえ、……駄目。そんな風に言わないで」

 正直な心を語れば、和希の心遣いは嬉しくて仕方ない。ここでひとつ頷いてしまえば、全てが心地よい方向に動き出すのだ。分かっていても、大きく頭を振るしかない。和希に紅を渡されたあの夕べよりもさらに、心は引きちぎれそうに痛んだ。

「私……あのお屋敷で、生き残るためにどんなこともしてきた。自分が残してきたものは決して消えないから。このまま、当たり前に暮らしていくことは出来ないの。そのようなことが許されるはずも……」

 断ち切れるのかと思っていた、過去への記憶。だが、この村の人々の瞳の輝きに、到底たどり着けることのないものを見つけた。しっかりと土地に根付き、毎日を生き抜いていくどこまでもしなやかに伸びた心は、さまざまな色に手を染めた双葉にはまぶしすぎる。隔たりは日を追うごとに広がっていき、いつしか心が深い場所に置き去りになっていた。
  和希に対する自分の特別な想いにも、とっくに気付きながらやり過ごしていた。絶え間なく降り注ぐ春の日差しのような心遣いに、寂しい暮らしがどんなにか救われてきたことだろう。しかし、彼の想いを受け入れることは、同時に彼を欺くことになる。やさしい人を傷つけることだけは出来ないと思った。

「侍女と遊女が同等だとはよく言われることだけど……、本当にそうかも知れない。いいえそれならば、表面上は取り繕ってる侍女の方がよほど罪深いと思うわ」

 

 お仕えする姫君と同じだけの教育を受け、どこに出しても恥ずかしくないと言われるまでに全てにおいて上達していった。そんな双葉を館主は大げさなほどに褒めそやし、特別の手当を出してくれたりした。ただですら、十やそこらの小娘としては信じられないほどの給金を受け取っている。でも、どんなに心苦しいと思っても他に選択肢はなかった。
  小さな弟妹を抱え、あまり丈夫でない母親は下働きもままならない。父親の方も途切れなく生活に必要なだけの仕事が見つかるわけではなかった。すべては双葉の細い両腕に掛かっている。そう思えば、必死になるしかないのだ。

 自分がどのような働きを望まれて、お屋敷に召されたかと言うこともやがて明らかになった。月のものを迎え女子としての色香が芽生え始めてきた頃、年配の侍女頭に呼ばれた双葉はこの懐刀とともに新たな使命を告げる。
「これからは夜のお座敷に上がる前は、きちんと湯浴みしておくように」――有無を言わせぬその言葉の意味を知りながら、どうして逃げ出さなかったのか今でも不思議だ。その道すら、自分で断ち切っていたのか。
  最初の相手は以前からお屋敷に出入りしていた顔見知りの官僚であった。宴席ではやさしく声を掛けてくれる身なりのしっかりした貴人には憧れの念すら抱いていたと思う。だが、その男の閨での変わりように、幼い心と身体は消えない傷を負った。それが癒える間もなく、次々とお役目は与えられる。何も双葉に限った仕打ちではなく、どの侍女も似たような境遇にあった。

 ただ、夜伽の相手をつとめるだけには留まらない。それだけなら、雇われの遊女でも事足りるのだ。双葉たち侍女に要求されたのは、女子として相手の男の心まで手中に収めるという大儀である。立派な男たちが己の心を山持ちの豪族に売り渡していく過程を、幾たびも肌で感じ取っていた。それを哀れだと思う心すら、いつか忘れていった。
  あまたの侍女の中にはそんな自分の立場を逆手に取り、まんまと官僚の側女(そばめ)に収まる者もあった。食うか食われるかのギリギリの状況の中、誰もが普通の心などでは生きていけるはずもない。人を見ればその心の裏側を探り、どうにかして突き崩す隙をうかがっていた。

 

「こんな話……とても本当のこととは思えないだろうけど、紛れもない真実なの。私はそんな風にして、生きてきた人間よ。もう何もかもが骨の髄まで染みついていて、逃れようがないの。……そういう女なのだから」

 和希との幸せを願わなかった訳ではない。だが、偽りの心のままに穏やかな暮らしを送ることは、やさしい人を欺き続けることになる。それだけは出来なかった。いつか汚れきったこの手のひらが、彼の心まで悪しきものに染め上げてしまう。

 ――何故、道を違えてしまったのだろう。

 自分が選び取った来た生き方だ、誰にも恥じることはないと思ってきた。なのに、この村にたどり着いて、和希と出会って。それからは己の今までを呪い続けることしか出来なかった。差し出される腕に応えることの出来ない自分が悲しい。想いが募れば募るほど、心だけが深く堕ちていった。
  彼への全てを断ち切るために双葉が出来るのは、こんな風に隠し立てのない真実を語ることしかない。それにより和希が自分に対して背中を向け、去っていく。いつか他の綺麗な心の女子と幸せになってくれるのを祈るだけだ。まだ、今ならば引き返せる。

 ごめんなさい、という言葉が声にならなかった。誰に対しての謝罪なのかも、もはや分からなくなっている。全てが溢れ出し空になったはずの心から、新しいしずくがこぼれた。指先に触れた枯れ枝。こんなにも想われながら、受け入れることの出来ない自分が恨めしい。

 

「……聞きたくなかったかも、そんな話」

 細枝でたき火の中をかき混ぜていた和希の右手が止まる。赤みの強い光に照らし出された横顔。その目元から、ほろりとしずくが落ちた。

 

 

 

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