またしばらくは、静寂が辺りを包み込んだ。 顎を伝って落ちていく流れを拭うこともせず、和希はただ炎を見つめている。静かすぎるその光景に、思わず見惚れていた。男の泣き顔など、こんな風にあからさまに眺めるものではないとは知っている。それが分かっていても、目をそらすことが出来ない。 「双葉さんたちが、初めてこの村にやってきたとき。あの日のことが、ずっと忘れられない。あんなに美しい人がこの世にいたんだって、しばらくは夢を見ているような心地がしたよ。初めてだったんだ、女子にそんな風に心を寄せたのは。だから、自分でも驚いた」 新しいひと枝が放り込まれ、ぼうっと炎が上がる。ひらりと黒く焼けただれた葉が、その勢いに舞い上がっていった。 「俺にはうるさく言う親もいなかったし、何となく気楽にこのまま独り者でも構わないかなと考えていたんだ。だって、その方が面倒なことを考えずに済むし。だいたいさ、どんなに大切に想っても、いつかは先にどちらかが死んでしまうんだよ。そのときの辛さを考えたら、最初から何もない方が楽じゃないか。変わり者って言われても構わなかった。
何かを守るために、他の何かを犠牲にする。当然のことじゃないか。全てを手に入れようと欲張った考え方をすれば、必ず天罰が下る。双葉にとって、捨てるべきものは自分自身の幸せ。心を引きちぎってもそれを置き去りにしなければ、大切なものは手に入らない。
ぱちっと、大きな音が炎の中で響き、輝きを増した光が双葉の足下までを赤く染め上げた。 「やっぱり双葉さんのこと、諦められない。そんなこと、双葉さんが望んでいないって分かってるのに、それでも双葉さんがそばにいて欲しいって思う。今までだって、何度も自分に言い聞かせようとしたよ。このままだって、いいじゃないかって。双葉さんの嬉しそうな顔が見られれば、それだけで十分じゃないかって……。だけど駄目だ、どうしても欲張りになってしまうんだ」 「……」 双葉は唇を噛みしめたまま、そのひとことひとことを受け止めていた。……そんなはず、ないのに。普通ならば、「あちら側の人」だと知った時点で心は離れていくはず。ましてや、ここまで全ての過去を晒し出せば、どんな熱い想いも冷え切ってしまうに違いない。 ならば、どうか。ここで、和希の想いをすべて受け入れると自分が言えば、そのときはどうするのか。多分、言葉では喜んでくれるに違いない。しかし、その実はどうであろうか。意地悪い想いが不意に湧いてきて、慌てて呑み込む。なんて、あざといことを考えてしまうのだろう。これも業というものなのか。 口惜しくて口惜しくて、どうしようもないのはこちらの方だ。何故、こんなときに泣くことしか出来ないのだろう。もっと自分は強かったはず、もっとしたたかだったはず。ぼやけた視界の向こうにあった横顔が、ゆっくりとこちらに向き直る。 「――身体が元に戻ったら、またここに登るよ。今度は双葉さんのために、きちんと生きたままの枝を持って帰るから」
一瞬、頭の中が真っ白になる。どういうこと……? 一体、何を言い出すのだ。驚きのあまり、言葉が続かない。まさか、落胆のあまり自暴自棄になっているわけではあるまい。耳に届くのは、自分をしっかりともった落ち着いた声だ。 「そうしたら、双葉さんを過去に囚われた心から解き放てるでしょう。そんな寂しそうな顔はもう見たくない、新しくなって欲しいんだ。出来ることなら、俺の力でどうにかしてやりたかったけど……それが無理ならば、神懸かりでも何でも。一度で無理でも、何度もやってみるから」 迷いのない眼差しが、しかし穏やかに双葉を見つめる。青ざめた頬でうろたえるばかりの女子の姿が、金茶色の瞳に揺らめいた。 「そ、そんなっ……、嘘よ! 駄目、なんてことを言い出すの……!」 こちらをからかっているのだろうか、とてもそのようには見えないが。だって、尋常じゃない。一度は命を落としかけたこの山に、もう一度臨もうなんて。 「……大丈夫だよ」 くすり、と喉の奥で笑う。口元からこぼれ落ちる白い八重歯。彼の中では、もう何かが動き出しているのが分かる。だけど、何故。そんな馬鹿な。慌てる双葉を静かに制して、彼はきっぱりと言った。 「一度登れば、だいたいのことは分かるから。今度はこんな失敗はしないよ、だから心配しないで」 安堵の吐息をついて。彼はゆっくりと天を仰いだ。どこまでも広がる濃紺の闇。その彼方にあるものを、しっかりと見上げるように。 「村長様から、双葉さんの話は聞いていたよ。誰とも一緒になる気はないって、そう言ったって。だから、仲間たちからもいい加減にしろってずいぶん言われてきたよ。双葉さんには、もうよそにいい人がいるんだろうからって。きっとその人が迎えに来るのを待ってるんだからってね。――そうじゃなかったって、分かっただけでも嬉しいよ。 普段はこんなに饒舌な人ではない。むしろ、心の端々をぽつりぽつりと摘み取るように何気ないひとこと落としていく。何かがこの人を変えてしまったのか、もしや「山の神」にでも魅入られてしまったのか。その頬に、すでにしたたるものはない。 「あの紅を手に入れたとき、俺の心には双葉さんを手に入れようと思う気持ちしかなかった。もう想いを抱え込んでいることは苦しすぎるから、どうにかして受け入れて貰おうと必死だったんだ。このままでいたら、いつか双葉さんはどこか遠くに行ってしまいそうな気がした、二度と手に届かない人になってしまう。だいぶ、焦っていたみたいだな……情けないよ。無理強いをしても手にはいるはず、ないのにね」 「和希さん……」 双葉は未だに信じられなかった。この人の心はなんて深いのだろう、否、人の心とはこのようにそれぞれに誰にも知られない部分が潜んでいるのだ。そして、それを隠して静かに微笑むことが出来るしっかりとした自分を持っている人。これが、地に足をつけて生き抜いてきた力なのか。 だが、違う。強いからこそ、道を違えてはならない。このように危険を冒すことが二度とあってはならない。今回はどうにかなっても、次はないのかもしれないのだから。留めなければ、いかにしても。でも……そのために、自分はどうすればいい? 「駄目、そんな恐ろしいことを言わないで! 自分がどんなに間違っているか、どうして分からないの!? 和希さんが、……和希さんがこんな風になって、皆が悲しまないとでも思う? 今だって、山の麓では力弥さんや他の村の人たちが、じりじりしながら夜明けを待っているわ。だから、……そんな、馬鹿なことを考えないで!」 彼自身は、本当に叶うことと信じているのかも知れない。だが、誰から見てもそれはあまりにも無謀だ。きっと誰もが反対する。しかし、彼はその声を決して聞き入れないだろう。 「あんな……あんな、恐ろしい思いはもうたくさんよ……! こうして和希さんが無事でいてくれて、どんなにか良かったか。私……」
それまでは、ほんのりと淡いばかりだった心が、にわかに芽吹き溢れ出してきた。和希という存在が自分の中でしっかりと根付いていたこと、今までの全てをなくしてもいいと思うほど大切に感じていたこと。必死に足を進めながら、願うのはひとつだけだった。 ――無事でいて欲しいと、ただひたすら祈り続けた。そのためになら、自分の全てにかえてもいいからと。 あとから、あとから。溢れ出てくるものが止まらない。あの瞬間の恐怖が何度も蘇り襲いかかってくる、こうして無事な和希の姿を見ても、ぬぐい去ることの出来ないほどの深さで。だから、思ったはずだ。彼を救うためには自分はいらないと。自分の幸せなど未来など全て捨てるから、彼を助けて欲しいと。
泣き崩れる背中に、ふわりとぬくもりが落ちる。それが彼の大きな手のひらであるということを、しばらくしてから知った。 「双葉さんも、そう? 双葉さんも俺がいなくなったら、悲しんでくれる……?」 のろのろと、顔を上げる。思いがけずに近い場所まで和希が寄ってきたことに気付いたが、それを払いのけるだけの気力はすでに残っていなかった。やさしく言い含められた幼子のように、静かに頷く。その間も顎からほろほろとしずくが衣に落ちた。 「なら、……もう少し。もう少しだけ、頑張ってみようと思ってくれないかな? 無理はさせないから、俺はただ、双葉さんを幸せにしたいんだ。ゆっくりでいいから、……今のままでいいから」 双葉は、言葉を無くしたままで和希を見つめた。長い間、自分を苦しめてきた過去。いくら断ち切りたくても、それはまるで手足と同じようにしっかりと身体に根付いてしまっている。明るい日差しの中で生きてきた人々とまみえるのは無理だと最初から諦めていた。 「でも……私は……」 力なく首を横に振って見せたが、それはいつかやわらかいぬくもりに阻まれていった。 「俺も、急ぎすぎたから。双葉さんの気持ちをもっと考えなくちゃいけなかったよね。なんか、こういうの慣れてなくて、力の入れ方が分からないよ。……ごめん」 生臭い土の匂いが鼻を突く。髪も乱れ、どちらの衣も泥だらけで、情けないばかりの姿だ。だが、これは「生きている」という確かな証拠。互いの鼓動が響き合い、ここがどこなのかを忘れさせる。ゆっくりと身体を預けながら、双葉は遠い記憶を辿っていた。
ただ寄り添うだけで、それだけで良かったのだ。言葉で伝え合うことが出来なくても、分かり合えたあの方々のように。夢の中でしか叶わないと思っていたことが、ふわりと現実に降りてくる。
ぼんやりとしたまどろみが、そんな言葉に遮られる。片腕に抱かれたまま顔を上げると、困ったような微笑みがそこにあった。 「身体の方はゆっくりじゃ、嫌みたいだ。……だって、双葉さんはすごくいい匂いがする。どうしよう……」 「え……」 思わず双葉の身体がこわばる。その緊張もすぐに伝わったのだろう。大丈夫だよと言うように、再びやさしく抱き取られた。 「ふふ、いくら何でもこの腕じゃ無理だから。この先、俺に黙ってどこにも行かないって約束してくれるなら、待てるから平気だよ」
……だけど、この人を失うことに比べたら。どんな痛みもささやかなものに変わっていく。今欲しいのは、ほんの少しの勇気だ。それを、忘れないでさえいれば。
◆◆◆
裏庭から見える風景は、夏の盛り。傾き掛けた日差しにまっすぐに伸びた枝葉が揺れていた。前の所有者が残していった蜜柑の木の枝に、ぽつぽつと青い実が見える。その根元を色とりどりの草花が囲んでいた。 一間しかない部屋で身支度を調えているというのに、いきなり表の障子を開けられては困ってしまう。双葉は櫛を置くと、もう一度手鏡をのぞき込んだ。出来ることなら大きな姿見でしっかりと確認したいところだが、あいにくこの家にそんなものはない。 「もうっ……! お姉ちゃんたらっ!」 妹たちがあまりにせき立てるので、ゆっくりもしていられない。どこかおかしいところはないか不安で仕方ないが、双葉は覚悟を決めるように立ち上がった。 「……やあ」 くるりと振り向けば、すぐにこんな風に目が合ってしまうのも恥ずかしい。昼間にも一度顔を合わせている人が、少し改まった格好になって戸口に立っていた。その瞳が明るく輝く。 「わあ、綺麗だな。衣を新調したって亜希ちゃんたちから話は聞いていたんだけど……本当にすごく似合ってる、こんなに着飾ってくれて嬉しいな」 いつもと変わらないやさしい微笑みに、何故か頬が熱くなる。ぼーっとして俯いてしまうと、後ろから小紅が背中を押した。 「お姉ちゃん、早く行ってお出でよ! もう、早くしないとお祭りが終わっちゃうよ!」 上がり間の下では亜希が草履を揃えてくれる。こちらを見上げた無邪気な笑顔が、双葉の緊張した心をいくらか解きほぐした。
表向きを見れば、それまでの生活と少しも変わらない毎日が続いている。でも、察しのいい妹たちは、目には見えない変化に確実に気付いている様子だ。この頃では和希に対して何か無理強いをすることもなくなり、それどころかふたりきりになれるようにと気を利かせてくれているようにすら思える。
戸口のところでもう一度振り向いた双葉の言葉に、妹たちは横に大きく首を振る。そしてにこにこと笑いながら言うのだ。 「いいよ、今日は父ちゃんたちも早く戻るって言ってたし。ふたりでいっぱい楽しんで来て!」 ……まあ、なんて分かったような口をきくのだろう。あきれ顔のまま向き直ると、すぐそばに立っていた和希が、こっそりと彼女の耳元に囁いた。 「こんなに綺麗な人を皆に見せるのは、誇らしいけどもったいないね。――祭りは夜通し続くって伝えてあるし、今夜はお持ち帰りしちゃっても平気かな?」
すでに西の方は、双葉の口元を彩る紅と同じ色に染まっていた。山鳥たちが群れをなしてねぐらへと戻っていく。あの空の向こうにも、きっと幸せが満ちている。そんな風に思える今日の自分が少し好きだ。
了(050406)
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