お焚きあげの赤々とした輝きが、山肌を明るく染め上げている。そこから滝の如く裾野に向かって流れ落ちる光の帯。闇の中にくっきりと浮かび上がる風景からこんなにも遠ざかったのに、賑やかなお囃子の音がまだ耳に届く気がした。 柔らかな水音、草の影で揺れる蛍たちの会話。ふわりふわりと浮かび上がり、またどこかに消えていく。振る舞われた濁り酒で少し顔を赤くした人が、こちらを振り向いた。それにつられるように、双葉も顔を上げる。川から上がってくる涼やかな流れが髪を衣を揺らし、ひととき言葉を忘れさせた。 「そろそろ、……行こうか」 どこへ、と訊ねる間もなく、彼はまた背を向ける。先導するように草履の音が目指す方向は、家族が待つ家からは少しずれていた。すでに夜半を迎え、通りは静まりかえっている。夏の盛りにあって、どこの家も戸を開け放ち、窓の覆い板も外している。その場所に目隠しに掛けられたすだれが、時々かたかたと音を立てていた。
久しぶりに人手のある場所に出掛け、自分でも気付かぬうちにだいぶ疲労を覚えていたようである。まっすぐに向けられる眼差しや気軽に掛けられる言葉に、こんなにも慣れていなかったのだと言うことを思い知らされた。いつまでも村の暮らしに馴染めずにいたのにも、その辺に原因があったのかも知れない。 それまでの館暮らしでは、全ての場面が見えない糸で張り巡らされている心地がしていた。己の置かれた位置を良く見極め、ギリギリの動きで相手を封じる。優しい言葉にはいつでも裏がある。表向きはどんなに親しく接している仲間にも、決して気を許してはならなかった。 無意識のうちに周囲とは距離を置くようになっていた。近づきすぎなければ、傷つくこともない。あの場所で生き抜くための唯一の処世術なのだ。それを習得出来ないまま、いいように餌になる者も多く見てきた。 祭りには双葉たちが暮らす村の者だけではなく、近隣の村々からたくさんの若者が集まっていた。行く先々で和希は声を掛けられる。二言三言の近況報告の後。やがて相手の視線は彼の後ろに隠れるように立っている双葉に向けられるのだ。 ――何だろう、見たことのない女子(おなご)だな。 その眼差しに含まれる全てがこちらまで伝わってくるようで、何とも居心地が悪い。和希はそんな双葉を気遣うように、軽口を叩いてすぐにその場を切り抜けてくれた。
「今夜は疲れたでしょう。ごめん、色々連れ回したりして」 いつもよりも狭い歩幅。乱れた後れ毛が、耳の後ろでふわふわと揺れている。 「ううん……、でもいいの? もっとあっちに残った方が良かったのではないかしら……?」 初めて出掛けた双葉の目にも、祭りの賑わいはこれからが本番という感じに見えた。その道の得意な者が芸を披露したりと、余興もあるらしい。和希が方々からの誘いを断っているのが、とても申し訳なく思えた。その頃にはかなり人酔いをしていたから、一刻も早く静かな場所に戻りたいと言うのが本心ではあったが。 「いいんだよ、双葉さんも我慢してくれてたでしょう? 途中で帰るって言われたらどうしようって、びくびくしてたんだ。一通りは回ったし、もう大丈夫だよ」 ……そんなことを言ったって。 夏の祭りは地元の者たちにとっては、年に何度もない楽しみのはずだ。ことに過酷な労働を強いられる若い男たちにとっては、その日だけは浴びるように飲める酒も腹一杯に振る舞われる餅もたまらないものだろう。時の経つのも忘れて、日頃の憂さを晴らす。こんなハレの日があるからこそ、頑張れるのだから。
やがて、前を行く草履の音が止まる。いつの間にか俯きがちになって、暗い地面ばかりを見ていた双葉にも、そこがどこなのかがはっきり分かっていた。 「ほら、見てよ。綺麗になったでしょう? 半月足らずで、自分でもすごいなと思ったよ」 和希が年老いた祖父とふたりで暮らしている小さな家。その裏手を数歩下がったところに、長いこと納屋として使われていた小屋があった。もともと人が住むように作られている建物ではあったが、いつの間にか床は抜けて山鳥や野ねずみの巣になっていたと聞いている。怖い者知らずの子供たちの間では格好の遊び場になっていた。 その小屋を腕が元通りになったばかりの和希が、毎日暇を見つけてはせっせと手を入れていると言う。それを教えてくれたのは用足しの帰り道で出会った力弥だ。あんな風に乱暴なやりとりはあったものの、今ではその分打ち解けている気がする。彼の妻も水場で会えばあれこれと声を掛けてくれるようになり、和希が山から戻ったこの一月で、以前とは信じられないほど村に馴染んでいた。 「あんまり張り切りすぎて、皆のいい笑いものだよ。なのに、何を言われても、にこにこ笑っているばっかりなんだもんなあ。何ともおめでたいというか、何というか……」 その昔、和希の両親が夫婦(めおと)になった頃、今までの家では手狭になったため裏に建て増したのだという。この地では良く行われることで、今ある家を壊して大きく立て直すよりは、ひとつの敷地にいくつも小さな家を建て増すことが多いらしい。それならばどちらかがいけなくなった時、手入れをするのも建て直すのも簡単だ。 「あそこまで大らかにやられちまってはなあ……、あんたも年貢の納め時、って奴かい?」 こちらの顔をのぞき込むように、わざわざ猫背になって脇から見上げてくる。双葉はそんなあけすけな問いかけに、自分の頬が燃え上がるのを感じていた。力弥は裏表のないあっさりした人間である。彼だからこそ、遠慮ない物言いをするのだろう。でも、その言葉がそのまま他の村人の意をも示しているのは明らかだった。 「……中も見てみる? きっと驚くよ。壁だってちゃんと塗り替えたんだからね」 「あ、……あのっ」 引きづられるように数歩歩き、ようやく声が出た。ぴくり、と和希の肩が上がる。絡んだ指に力がこもった。 「まずは、おじいさんに……声を掛けなくていいの? こんな遅くまで出ていたんだもの、心配なさっているんじゃないかしら」 自分の家に戻りながら戸口の前を素通りするのはどうかと思った。だいたいこんなやりとりを母家の中で聞かれていたりしたら、恥ずかしくて仕方ない。 「……いいんだ、それは」 喉の奥で、何故かくすっと笑ってから。和希は明らかに安堵したような声で告げた。 「じいさんは毎晩、夕餉のあとすぐ寝ちまうから。俺のことなんて、もともと気にしてないよ」
◆◆◆
彼の言葉通り。手直ししても何となく古びた感じの否めない外観からは想像が付かないほど、部屋の中はこざっぱりと片づいていた。梁や柱も念入りに磨かれ、壁は真っ白に漆喰(しっくい)を塗られている。板張りの床もさえざえと眩しいほどで、心して歩かないと足を滑らせそうであった。 和希は「お先に」と上がり段に腰掛けて、用意してあった水桶で足を洗っている。膝から下を念入りに洗い上げているその様をとても見ていられず、視線をそらすと今度は部屋の隅に置かれた寝具が目に付いた。 ――やっぱり。……その、そういうことなのかしら? 互いの間に何かの約束があったわけでもない。山を下りてふたりのことが村人に公になったのちも、皆が腹の奥で考えているような変化はなかった。和希にそれを強いられることなどあるはずもないし、自分としても積極的に働きかけることはない。もともと、黙っていれば半年もつかず離れずいられたような仲なのである。もしかすると、このまま元通りになってしまうのではないかと言う危惧さえ感じていた。 それでも、……なんとなくではあるが。皆の心をも解き放つ祭りの晩が節目になりそうな予感はあった。ただ、自覚するまでには至らなかったし、どうにかしてやり過ごせないものかと祈っていたのも事実である。あの日、ふたりきりの山の中でひとつの覚悟を決めたつもりではあった。だけど元通りの暮らしが始まれば、忙しさに紛れて、とても深いところまでは考えつかない。 「さ、双葉さんも早くお上がりよ。――悪いけど、俺はまだ飲み足りないんだ。いいかな、少し」 いつの間に忍ばせていたのだろう、懐から小振りな酒瓶が取り出される。彼は驚いてそれを見つめる双葉に、新しい手ぬぐいを差し出した。
自分の立てている水音がやけに大きく響いている。そして、それを上回るような胸の高鳴り。出来ることなら、この場を逃げ出したいと思う自分がいた。それなのに、何故留まっているのだろう。山道を歩いて汚れた足も、瞬く間に元の白さを取り戻す。 あの頃、毎晩のように湯浴みをして宴席に上がっていた。あのときの心地とは全く異なる緊張が胸を覆う。 「……どうしたの、早くお出でよ?」 いつの間にか手元が止まっていたらしい。そんな風に声を掛けられて、双葉はゆるゆるとそちらを振り向いた。彼は小さな盆の上に手のひらに包めるほどの器をふたつ乗せている。そして、こちらが板間に上がったことを確認してから、そのどちらともに酒を注いだ。 「あ、あの……」 私はいいから、と言うつもりだった。彼は立ちつくしたままの双葉を座した姿勢で見上げると、そこに座りなよと敷物を指し示す。盆を挟んで向かい合って腰を下ろすと、和希は緊張にひくついた頬で少しだけ笑った。
かたかたと、どこかで木板のこすれあう音がする。注がれた酒の水面がゆらゆらと揺れていた。そこに小さく映る自分の顔が驚くほど白い。どうしたらいいのだろう、何とも所在なげな心地だ。 「――双葉さん」 大きく深呼吸をしてから、彼はゆっくりと口を開く。見上げたその表情は先ほどまでの穏やかな色が消えて、どこまでもまっすぐな彼の心を感じさせた。 「その……、何と言って切り出せばいいのか、色々考えたんだけど実はまとまらなくて――」 震える指先。ゆっくりとふたつの器の上を越えて、双葉の手を取った。静かに握りしめられていくそれが、自分のものとは思えないほど小刻みに震えている。真剣なのだ、と思った。彼も、自分も。その心が真摯なものであるからこそ、恐ろしい。臆病すぎるところはお互い様なのだろう。 「仲間からはね、何となくそういう風になってしまえばいいんだとか、色んなことを言われたけど……そういうのもどうかなって。やっぱり……その、双葉さんの気持ちをはっきり聞いてからじゃないと」 暖かい色に辺りを照らし出す、燭台の炎。それがゆらりと揺れるごとに、胸の裏側までさすられるような気がする。張りつめた気に満たされた屋内、何かが途切れたらきっと泣き出してしまう。 「双葉さん、俺の――妻になって欲しい。ここで、一緒に暮らしてくれないかな……?」 水面ギリギリまで満たされた心が、大きく揺らぐ。次の瞬間、双葉の頬を熱いものが流れ落ちた。 「あ……あのっ、双葉さん……? ええと……」 思わず腰を浮かせかけた和希が留まったのは、その手に食い込むほどに強く握り返された双葉の強さを感じ取ったからであった。ほろほろと、あとからあとからしずくが落ちていく。ぼんやりと目の前が霞んで、鼻の先が痛くなった。 「わ……私、大丈夫かしら。ちゃんと、和希さんの……妻になれる? 何だか、……怖くて」 何度も何度も、自分に問いかけてきた。未だに胸を巣食う恐怖とどうやってこの先、戦っていくのか。和希を思う心が強くなればなるほど、同じくらいの不安が立ちこめてくる。どんなに明るく振る舞っていても、ふとした瞬間に、足下をすくわれそうになるのだ。 ――だけど、なりたい。幸せに、なりたい。 「……双葉さん」 和希は目の前の盆を脇に寄せると、こちらに膝を進めてきた。それから、握りしめられていた手をゆっくりとほどくと、双葉の背に腕を回す。そしてそのまま、しっかりと胸に引き寄せた。 「決まってるじゃないか、双葉さんが側にいてくれれば、俺は何でもするよ? 双葉さんを悲しませることなんて、絶対に許さないから……」 最後の方がくぐもって、良く聞き取れない。彼もやはり恐ろしいのだ、と双葉は気付いた。相手を大切に思えば思うほど、その恐怖も深くなる。だけど、それを乗り越えなかったら、一番欲しいものには手が届かない。 あの頃、当然のように双葉を取り巻いていたものが今は何ひとつ見当たらない。それを不幸と思うことも出来るだろう。目のくらむような美しい御館、香油の香りにきらびやかな装束。毎晩繰り広げられる華やかな宴と女たちの嬌声。人を惑わせ突き崩すことだけが、自分を生かす方法だった。 固めの杯を模して。互いに飲み干した器を盆に戻し、しとねの上に折り重なって倒れていく。帯に掛かる指先の動きがたどたどしくて、それが泣きたいくらい嬉しい。彼の動きを助けるために身を浮かし、首に腕を回した。しっかりと抱きつくと、首筋に熱い息が掛かる。焚きつけられるように自分の身体にも火が回ってきた。じんわりと肌が汗ばんでいく。 「……双葉さん」 熱く口づけられて。その余韻を感じる暇もなく、胸元を開かれた。恥ずかしさのあまり、そっと視線をそらしてしまう。彼の目に、そんな自分はどのように見えているのだろうか。 全て、伝えてしまった。かつで山持ちの男の館で、どんな風に生き抜いてきたかを。本来ならば、愛する人のためだけに行うはずの行為を、あんな風にまき散らして蔑んできた。今でも身体のあちこちにその毒が潜んでいる気がする。そんな自分を、和希はどう思っているのだろう。 「は……、はぁ……っ!」 刹那。躊躇いを吹き飛ばすほどの熱が身体に降り注いでくる。日々の労働で鍛えた和希の手のひらは、ざらざらと双葉の肌を滑り落ちた。そのたびに、何とも言えない感覚が胸の奥に宿り、次第に膨らんでいく。 「綺麗だ……、何て綺麗なんだろう。なんかもう、どうしようもない感じだ。自分が……止められない……!」 身体のあちこちに熱を落としながら、和希はうわごとのように呻く。未だかつて味わったことのない大きな波。熱い心が丸ごと押し寄せてくるような激しさに、口に含んだ酒とは違う酔いが回ってきた。知らずに溢れてくる涙を、彼の舌が絡め取る。そこからまた、始まる新しい情熱。身体の全てが、彼のために滾ってゆく。 「やっ、……やめてっ! 駄目っ……、もう駄目だから……!」 彼の身体に巻き付いたままで、必死に叫ぶ。こんな風になりふり構わずに叫んだことなどなかった。かつてはどんなに女子としての自分がたかみにのぼろうと、相手の男を冷静に見定めるだけの余裕を残していたはず。閨の営みは、男の心を買うための手段。溺れさせても溺れてはならないのだから。そんな過去の呪縛すらも、和希はいとも簡単に突き崩していく。 「駄目じゃないでしょう? すごいよ、双葉さん……! ああ、このままだと気が狂いそうだ。そんなに、……締め付けないで」 柔らかい物腰で、頑なに閉ざしたままだった双葉の心をいつしか解き放っていた人。そんな彼の中にあった、もうひとつの顔が今明らかになる。そうなのだ、彼の中の真実が知っているのだ。心のままに愛し合うことで、互いが深いところまで行き着けることを。荒々しく思える行為も、その中に溢れるほどの優しさを感じ取ることが出来るから、なおも燃え上がる。 朦朧とした意識の中を漂いながら、それでもいつまでも探し求めていた。荒い息づかいが、もはやどちらのものかも分からないほどに乱れている。 「うっ、……くっ……!」 腰がふわりと浮いて、更に強く引き寄せられる。熱を帯びた気の中に、半分浮かび上がる上体。内側がえぐり取られるほどの衝撃を何度か繰り返したあとに和希は果てた。
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「あ、ごめん。……起こしちゃったかな?」 首を回して声の方を振り向いて、ぎょっとする。まだ薄暗い屋内でも、腰巻きを付けただけの姿で身を清めているのを目の当たりにしてしまってはたまらない。慌てて顔を背けると、和希はくすくすと笑った。 何と言うことか、信じられないほどの回復ぶりである。もともとが頑丈に出来ているたちだと言うが、どうしたことだろう。あんなに幾度も幾度も繰り返し求められては、こちらはたまらない。起きあがろうとしても、身体の節々が痛くて、手足が全く言うことを聞かないのだ。 「いいよ、もう少しゆっくりしてて。俺は一番鶏が啼いたら、村長様のところまで行ってくるから。その隙に支度すればいいよ」 身支度を調えながら、軽くあくびをする。ぼさぼさにおろしたままの髪が、いつもよりも子供っぽくて新鮮に見えた。 「出来るだけ早く、祝言の手配をして貰わないとね。必死に頼んでくるから、双葉さんも覚悟しておいて」 そっと乱れたしとねの上に戻ってきた人が、軽く口づけてくる。小鳥の語らいのようなやりとりをしばし繰り返し、それから髪を静かに整えてくれた。 「まだ、夢を見てるみたいだ。これも夏山の神がくれた奇跡かな……?」 差し出された手のひらに、自分の手を重ねる。たどたどしいばかりのやりとりも、次第に輝き始める新しい一日に溶け込んでいく。
――満たされるばかりが、幸せではないかも知れない……。 小さな傷みを乗り越え、相手を自分を傷つけながらも、大切なものを守ろうと願う気持ち。ひとりでは出来ないこともふたりでなら、どうにかやり遂げることが出来るかも知れない。
遠い空の下、確かにあるはずのもうひとつの幸せを心に強く願いながら。双葉はもう一度、とろとろとまどろみの中に引き戻されていった。
了(050517)
(2005年5月17日更新)
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