TopNovel玻璃の花籠・扉>露玉の祈り・1


…1…

「散りゆく杜の・番外〜佳乃」

 

 

 ここ数日の暖かさで、見慣れた風景もすっかりと彩り豊かに変わっていた。心地よい気の流れがゆったりと通り過ぎ、前を行く御方の控えめなお袖を揺らしていく。少し遅れて後に続きながら、気が付けば辺りの景色に見入ってしまう自分がいた。そうなると、どうしても足下が留守になる。何度か石に躓きそうになっていると、くすりと軽い笑い声が聞こえた。

「少し、休んでいきましょうか? まだ日暮れにも間があるし、このまま戻るのももったいないわ。ほら……、あちらの岩陰ならば人目にも付きにくいでしょう……?」

 お優しい声で、穏やかにそう仰る。振り向かれたその眼差しが、まるでこちらの心内まで見通しているよう。佳乃は小さく頷きながら、頬を染めた。

「お師匠様よりお土産の干菓子がございましたね。私、あちらの泉から水を汲んで参ります。……姫さまはこちらでお待ちくださいませ」
  木の根元に手にしていた包みを置くと、佳乃はそこから竹筒だけを取り出した。このように気候が良くなってくると過ごしやすくはあるが、遠出するにはどうしても喉が渇く。出掛けに満たしてきた分は、もうすっかりと空になってしまっていた。

「ありがとう。でも、あまり急がないで。ゆっくりでいいから」

 かしこまったままその御言葉を受け止めると、彼女はくるりときびすを返した。

 

 領下の集落からの戻り道には、ほとんど人気のない裏通りを選んでいた。耕地の中を通る表街道の方が近道になるのだが、どうしても昼間は人の目に付きやすい。どちらから言い出した訳でもなく、気付けば互いの足がひとつの方角に向いていた。
  遠目に見れば、ふたりとも同じような町娘の装いをしている。肩から掛けた重ねもごく薄いもので、まるで物売りの娘のなりであった。しかし、自分はともかくあちらは……、このように不用意に出歩いていることを誰かに悟られては大事になるような御方なのだ。

 西南の集落、大臣家に仕える重臣の中でも特に重きを置かれている三本柱のひとつ。そこが、佳乃が侍女としてお仕えしている御領主様だ。十年ほど前に今の御館様に代が移ってからは、更に覚えめでたく今をときめく御一家として知られている。先ほどの御方は、そちらの末姫さま。庶民の身ではお顔を拝見することすら容易には叶わぬ御身分だ。
  母が乳母(めのと)というお役目を賜ったご縁で、今もお仕えさせて頂いている。立場上は「乳兄弟」と呼ばれる間柄であり姫さまもそのように親しく接してくださるが、それももったいばかり。それでも、おそばに置いて頂けることが嬉しくて、こうして分不相応なお役目も務めることが出来た。

 さすがに高貴な御身分の姫君だけあって、ひととおりのお稽古ごとを滞りなくこなされていた。その中でも御針の腕は抜きんでていて、今や館の侍女の誰も敵う者はないとすら言われている。お小さい頃はその辺の者でも手習いを付けることが出来たが、今となってはそうもいかぬ。
  幸い、近くの村にその道の名手がおり、時折このようにお忍びで手ほどきを受けに行かれるのだ。本来ならば、あちらが館まで出向くのが当然であるが、何分高齢であるためにあまり負担は掛けられない。「ならば、わたくしたちが参りましょう」……そう提案されたのも当の姫さまなのである。村娘の姿に身をやつしていれば悟られることもないでしょうと、穏やかに仰った。
  今でもお支度の手伝いをするたびにもったいないことだと思うが、御本人はあっさりしたご様子。

「なんて顔をしているの? こんな風に気兼ねなく外を歩けるなんて、素晴らしいことじゃなくて」

 どこまでも穏やかで奥ゆかしい御方である。高貴な方にありがちな驕った態度などはちらりとも見せず、いつでもその口元には柔らかく笑みを浮かべている。御領主様の姫君としてのお立場は時として窮屈なこともあるのだろう、だがそのことをわざわざ口にして嘆くこともない。

 乳母子(めのとご)である佳乃よりも少しばかり遅れてお生まれになった姫君は、この春の終わりに15になられる。そろそろ色めいた話も耳にするようになり、お仕えする身としてはおめでたきことと思いつつも一抹の寂しさを覚えずにはいられなかった。

 

「ほら、ごらんなさい。見事な山桜だこと……このように赤みの強いものはこの辺りでは珍しいわ」

 二本の竹筒を満たして戻れば、姫さまは嬉しそうにそう仰った。指し示された方を見やれば、少し上の切り立った岩肌から無骨な枝が伸び、そこに鈴のような花を付けている。なるほど、あまり見たことのない珍しい種類だ。この辺りは山鳥の通り道に当たるので、時折珍しい種類の樹木や草花を見つけることが出来る。

「本当に……とても美しいです」

 佳乃は感嘆の溜息をつきながら、しばらくその枝に見入っていた。こんな風に姫様に教えていただくことはたびたびあった。ご一緒に御針の稽古をしていても、その差は歴然としている。ただ腕が確かなだけではなく、色あわせも的確で迷いがなく、時折ははっとした斬新な使い方をされることもあった。きっとお心映えの美しさがにじみ出ていらっしゃるのだろう。

「少し、手折って行きましょうか?」
  姫さまはそう仰ると、すっと立ち上がられお袖からすんなりとした腕を伸ばされた。こうして幾重にも衣を着込んでいらっしゃるととてもふくよかに見受けられるが、姫様はことのほかほっそりとしたお身体をなさっている。おそばに仕える者としては、もったいないことだと思うばかりだ。こうして並べば、かなりの身長差が出てしまう。

「まあ……姫さま。そのようなことは、私が」

 そうは言ってみるが、何しろ指の先が枝に届かない。そうしているうちに姫さまはさっさと幾枝かをお手にされていた。もちろんお持ちします、と腕を伸ばせば、にっこりと手渡してくださる。そして、少し思案するように首をかしげられてから、こう仰った。

「とても珍しい枝ですから、……綺麗に挿して貴子(たかこ)様に差し上げましょう。さあ、一服したら花の元気なうちに戻りましょうね」

 

◆◆◆

 姫さまには、三人の兄君と二人の姉君がいらっしゃった。一番上の兄上様だけが今も竜王様の都に留まっていらっしゃるが、そのほかの御方は今の御館様が都を下がるときにご一緒にこの地に戻られたと聞いている。今では二人目の兄君様がお世継ぎとして決まり、他のご兄弟方もそれぞれにご結婚されていた。一番あとまで残っていたのが末姫さまのすぐ上の兄君で、つい先だって奥方様を娶られたばかり。
  その御方がご結婚と同時に御祖父様である前の領主様の御館を出て独立することになり、佳乃が末姫さまと住まう庵の目と鼻の先に居室(いむろ)を構えられたのだ。お輿入れされた貴子様は名のある豪族の姫君だと聞いているが、とても気さくな方でこちらにもたびたび使いをくださる。人見知りなたちの末姫さまも次第に打ち解けて、今では和やかな交流が続いていた。

「では、あちら様に宜しくね。この前のお礼も忘れずに伝えてちょうだい」

 持ち歩くことを考えて、漆の水盤を選んでくださったらしい。佳乃の歩みにあわせてたぷんたぷんと揺れる水もごくごく控えめだ。とはいえ、姫さまのお手で美しく活けられたお花を運ぶのは緊張する。目と鼻の先とはいっても、それはもののたとえ。何しろ広いお庭であるから、隣のお住まいに伺うにも暇が取れる。いつもはひっそりと居心地のいい奥まった居住まいであるが、ひとたび他に足を向けるとなると面倒ごとになるのだ。

 長いこと胸の前で捧げ持っていたので、次第に腕がピーンと痛くなってくる。丁度良い切り株などあれば置いて休むことも出来たが、そのようなものはついに見あたらない。ようやく裏手の門が見えた頃には、声も出ないほどに身も心も疲れ切っていた。

 ……でも、こんな苦労は何でもないわ。姫さまに比べたら、私は気楽な身の上だもの。

 佳乃はぴりぴりと痛む腕の裏側をこらえつつ、必死に足を進めた。そうなのだ、末姫さまの御身分では軽々しく兄上様の居室を訪ねることも出来ない。貴子様と姫さまが直接お会いになったのはたったの二度、その他の交流は文のやりとりに限られていた。佳乃のような田舎暮らしの庶民から見たら、あまりお幸せなお立場ではないなと思ってしまう。しかし、姫さまはそれをこぼすそぶりも見せなかった。

 

「……あ……」
  居室を簡単に囲った生け垣までやってきて、佳乃は足を止めた。ぴっちりと閉じた門を両手がふさがった状態では開けることが出来ない。一度水盤を下に置くことも考えたが、適当な場所も見あたらなかった。

「どうしよう、表口まで回らなくちゃ駄目かしら……?」
  思わず、ぽつりと呟いていた。姫さまと暮らす庵とは比べものにならないほどのご立派な居室である。またしばらくは歩かなくてはならないと思うと、さすがに気が遠くなった。でも、お役目はお役目だ。きちんと果たさなくては、姫さまの侍女として恥ずかしい。

 自分に自分で気合いを入れて、そっと生け垣に沿って歩き出したとき。かさりと後ろから音がした。

「あれ、大丈夫? ……重そうだね」

 突然のことに驚いて、一瞬手から水盤を落としそうになっていた。どうにか体勢を持ち直し、恐る恐る後ろを振り向く。その声にも聞き覚えがなかったが、やはり姿を見ても思い当たるところのない者が立っていた。

 年の頃は佳乃よりも少し上……17か18、といったところだろうか。がっしりとした若者らしい体格で、背もかなり高い。もっとも、小柄な佳乃から見ては誰もが大男になってしまうのだが。身につけている衣から見て、こちらの若君様にお仕えする下男だろうかと考えるが分からない。
  まだこちらとの付き合いも日が浅く、使用人のほとんどとも面識がなかった。簡単なやりとりならば、文使いに頼むことが出来る。こうしてわざわざ出向くことが珍しいのだ。お仕えする姫さまがほとんど外との交流をなさらない方だったので、お付きの佳乃もあまり人慣れしてない。こんな風に見ず知らずの者に声を掛けられることも稀であった。

 とっさには返答することも出来ずに立ちすくむ佳乃に、男はにっこりと白い歯を見せた。

「もしかして、君は向こう庵の藤華様の侍女でしょう? それは、奥方様へのお使いものかな」

 ようやく小さく頷くと、同時に水盤が彼の手に渡っていた。奪い取る、と言うほどの荒々しさはなく、すっと自然にこちらの負担が軽くなる。思いがけないことに佳乃がぼんやりとその姿を見守っていると、彼は片手で水盤を軽々と持ち上げ、空いた方の手で裏門を開けてくれた。

「さあ、花はあちらの縁に置けばいいかな? 誰か取り次いでくれる者を探してくるから、ここで少し待っていて」

 夕焼けに照らし出された笑顔がそう告げる。そのときの佳乃も言葉なく、ただ頷くことしか出来なかった。

 

◆◆◆

「まあ……佳乃? どうしたのかしら」

 そのお声に、ハッとして姿勢を正していた。右手には針を持ち、どうも自分は繕い物の最中であったらしい。何と言うこと、このようにぼんやりとしてしまうなんて。

「どこか、具合でも悪いの? ……困ったわね、今日は早く休んだ方が宜しいのではなくて……?」

 少し眉をひそめたお顔で、姫さまが心配そうにこちらをのぞき込んでいらっしゃる。ああ駄目、こんな風に気を揉ませては。慌てて頬に手を当ててみれば、思いがけずに熱くて驚いた。

「い、いえっ! 何でもありません。ご心配には及びませんわ……本当に、大丈夫ですから!」

 そう? と不安げな面持ちのまま、姫さまはご自分の手仕事に戻られた。今手がけていらっしゃる文様は、王族の御方でなくては身につけることの許されていない種類だとされている。金糸銀糸をふんだんに盛り込んだ優美な刺し模様。こんな御衣装をまとう方があまたといらっしゃる都とはどんな場所なのだろう。
  ふう、と小さな溜息とともに自分の手にしていた柔らかな肌着に目を落とす。ようやく森も芽吹いてきた頃ではあるが、もう夏のお支度をしなければならない。侍女としてご主人様である姫さまの身につけるものを仕立てるのは当然であったが、御針の腕は敵わないのだから情けない。

 

 ――申し訳なかったわ、お礼も言えないままで……。

 あれから、程なくして何度か顔を合わせている年配の侍女がやってきた。その後にお花の説明をして、おいとまをしたあともあちこちを探したが、先ほどの若者の姿はない。せっかく助けてくれたのに、とんでもなく無礼をしてしまったと胸が痛んだ。口もきけぬほど緊張していたなんて、どうかしている。
  どんなにか彼の目にはみっともない娘に映ったことだろう。末姫さまの侍女として長いことお仕えしている自分がこんなにふがいなくては、どうしようもない。今頃、あちらではいい笑いものになっているのではないだろうか。……いいえ、そんなこと。ひどいことをなさる方には思えなかったわ。

 あちらの居室には年若い使用人が多く、いつでも明るい笑い声などが響いている。お食事のお膳を運ぶ折りなどにごく近くを通りかかることもあったが、どうしても自分には縁のない場所のように思えてならなかった。
  何故、あのように生き生きと楽しそうにしているのだろう。こちらは御領主様の広い御館で始終緊張しているのに。大好きな姫さまがいらっしゃらなかったら、自分はもうここにいる理由もない。それに多分……、お別れはもうそこまで来ているのだ。
  それを思うと寂しくてならない。だが、最初から分かっていたことだ。佳乃がお仕えしている姫さまも、そう遠くない頃にどこぞの御方に縁づかれることになるだろう。そうなれば姉君様方と同様に、この館を後にされるに違いない。もしも遠いところに行かれるなら、お供できないと知っていた。

 里には年老いた母がひとりで残っている。父はすでになく、佳乃はひとり子で他に頼る兄弟もない。身体の弱った母を守るのは自分しかいなかった。

「お前は藤姫さまが無事にお輿入れなさるまでを見届けておくれ、それだけが私の願いだよ」

 宿下がりをして里に戻るたびに、母はそう言って娘であるはずの佳乃に手を合わせた。本当ならばこうして離れて暮らすことも不安でならない。だが、身体の弱った母を気苦労の多い御領主様の御館に置くことは出来なかったし、そうかといって姫さまを残して里に戻ることも母の望むところではない。だから、もう少し。もう少しだけ……。

 自分も姫さまと同様に嫁ぐには丁度いい年齢になっていた。里に戻ったら、母の望む里の者と一緒になればいい。だから、この御館での暮らしはそれまでのつなぎでしかないのだ。心残りなどない方がいい、だから必要以上に親しくなる相手も作らずに来た。佳乃にとって大切なのは姫さまおひとり、他には何もない。

 ――だけど。

 不思議なことだ、昼間の若者のことが気になって仕方ない。あんな風にしばしのやりとりだけの相手、あちらはもう忘れているかも知れないのに。あのとき――優しく声を掛けられて、胸の奥が確かに疼いた。予期せぬ鈍い痛みは、それからずっと佳乃をしっかりと捕らえたままである。

 

「……ねえ、佳乃。たびたびで申し訳ないのだけれど、貴子様から良い椒の苗木があったら分けて欲しいと頼まれているの。丁度良いものが見つかったから、明日にでも届けてもらえるかしら?」

 また、ぼんやりとしていたのか。優しいお声に面(おもて)を上げれば、姫さまがいつもとお変わりなくふわりと微笑まれていた。

 

◆◆◆

 細い苗木は、昨日の水盤とは比べものにならないほど造作ない荷であった。丁寧に根元の縄を巻かれた部分を抱えても、その足取りは軽い。何度も通った道のりは何ら変わりもないはず、……なのに佳乃は胸の内側から打ち付けられる高鳴りを抑えることが出来なかった。

 ――あの方は、どちらにいらっしゃるのだろう……?

 さっさと表口に回って用件を済ませればいいのに、うろうろと裏手を回ってしまう。何しろ、皆が似たような西南の民。多少の色の濃淡はあれど、赤毛と褐色の肌は変わらない。背格好も似ている若者たちの中からたったひとりを見つけることは難しい。あちらの耕地を耕す者を見ても、こちらの薪割りをする者を見ても、全てが昨日の若者に見えてくる。しばらくのうちには緊張のしすぎでだいぶ混乱してきていた。

 そうひとこと、ほんのひとことだけ礼を述べたいだけ。だのに、誰かに訊ねようにも何ひとつ知ることがない。一体、こんなところで何をしているのだろう。早く言付けを済ませて庵に戻らなくてはならないのに……。

 ――と。

 どこからか、笑い声が聞こえてきた。ハッとして振り向く。しかし、その方向には誰も見当たらなかった。そのまま、足がするすると前に出る。何故だろう、あそこの小さな物置小屋の陰にいるのが、探している若者のような気がした。
  ゆっくりと気が流れていく。髪が後ろに引かれて、また胸が疼いた。ああ、この痛み。どうしたら消し去ることが出来るのだろうか。

 裕福な御実家をもたれた貴子様は、お輿入れのお支度も並大抵のものではなかったと言われている。だからであろう、広い居室にもお道具が入りきらず、いくつもの小屋を周囲に建て増していた。何か捜し物があるときなどは、あちらこちらを巡ることになりたいそうな仕事になると聞く。今も何か片づものをしている最中なのだろうか。

 大木の陰、ちらりと人影が見えたときに佳乃の歩みが止まった。

 そこにいたのは、若い男女だった。なにやら楽しそうに声を掛け合っている。男の方は樹の幹にもたれかかり、暗がりでよく顔が見えない。娘の方は佳乃と同じぐらいの年頃に見えた。華やかな重ねに吸い込まれそうな心地になる。意識したわけではないのだが、落ち着いた色目を好む姫さまに従って自分も地味な衣ばかりを身につけるようになっていた。
  離れた場所にいるから、会話の内容までは聞き取れない。しかし、様子から見てふたりはとても親しい間柄のように感じ取れた。娘などは何の気取りもなく声を上げて笑い、からかうように男の胸を軽く手のひらではたいたりしている。佳乃にとってはその何もかもが信じられない心地がした。

「……あ……」

 足下に何かが当たって、初めて気付く。大切なお届け物を、いつの間にか手放していたのだ。ゆっくりと横たわった苗木を見ても、すぐには拾い上げることすら出来なかった。

「あら?」
  こちら側を向いていた娘が先に気付いた。くっきりとした眉を少し動かして、遠慮ない視線を佳乃に向ける。

 見たこともない侍女がいれば、そんな風にするのも当然かも知れない。しかし、佳乃にとってはのぞき見をしてしまったことを責め立てられているような後ろめたい気分になった。すぐに立ち去ろうと思うのに、足が動かない。そのうちに男の方も振り向いた。

「あれ? ……君は昨日の――」

 聞き取れたのはそこまでだった。弾かれたように、身体が後ろに飛び退く。佳乃はもつれた足取りのままで、その場を後にした。

 

 どれくらい、走ったのだろう。見慣れた雑木林が目に映る。

 いつの間にか庵のすぐ近くまで辿り着いていた。頬から顎へとしずくが流れ落ち、自分が泣いていることに気付く。どうしたのだろう、何故このように涙が溢れてくるのだろうか。何もかもが分からず、佳乃は混乱していた。

 やはりもうひとりが、あの男だったのである。昨日に見たのと同じ笑顔が向けられたとき、たとえようのない悲しみがこみ上げてきた。それがじわじわとかたちを変え、次第に自分を追いつめていく。目には見えない石矢が次々に胸に突き刺さり、激しい痛みに変わっていった。

 ――ああ、愚かしいこと……! なんて、みっともないことをしてしまったのだろう。せっかくこちらに気付いてくれたのだから、さっさと昨日のお礼を告げれば良かったのに。このように髪を振り乱して立ち去るなんて、姫さまにお仕えする侍女として情けないばかりではないか。

 

 ほろほろと、悲しみがこぼれ落ちていく。その感情の行方も知らず、佳乃は日暮れまでそこにうずくまっていた。


 

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