TopNovel玻璃の花籠・扉>露玉の祈り・2


…2…

「散りゆく杜の・番外〜佳乃」

 

 

 まだ明け切らぬ風景は、一面に靄が立ちこめ視界もままならない。ゆらゆらと流れていく半透明な気の帯が、まつげのすぐそばで左右に分かれていくのがはっきりと確認出来た。外歩き用に衣を短く上げていたから、足裁きは悪くない。だが、草履はしっとりと露を含んですでに重くなっていた。

 日中であってもあまり人通りのない抜け道。脇に続く並木の様子から、そろそろ庵に近いことが分かる。ばさばさと靄の向こうで、鳥の羽ばたきに似た音が響き、佳乃は一瞬足を止めてそちらを伺った。

 ……もう。いい加減、慣れなくてはいけないわ。毎日のように通っている道なのに。

 自分に自分で言い聞かせて、両手で抱えた水瓶を揺り上げる。再び歩み始めたとき、自分の足音が更に大きく辺りに響く気がした。

 

 御領主様のお屋敷は、あまりに広大である。それを分かりやすくたとえるとしたら、佳乃の育った里がすっぽりとその中に入ってしまう程と言っても言い過ぎではないはずだ。一族の皆様がそれぞれに大きな居室(いむろ)を構えられても、まだまだお庭はどこまでも広がっている。その中に山も森も林もあり、更に小川までがゆったりと流れていた。
  蒸し暑い夏の盛りには、そこで使用人たちが水浴びをする姿も日常的なものになる。もっとも佳乃のお仕えする姫さまはそのような遊びを好まれなかったから、冷たいしぶきにはしゃぐ声を遠目に眺めるだけに留まってはいたが。領下の村々から働きに出てくる者たちはそれこそ数えきれぬほどであったし、場末の庵にいてはその移り変わりにすら無頓着になりがちであった。

 まあ、賑わう場所にはさらに人だかりが出来ていくというのが世の常だ。逆を返せば、差し迫った用事でもない限り足を向ける者のない場末の離れ庵は、その存在を知る者すら少ないと言って良い。だから朝夕に膳を受け取るために御台所(みだいどころ)まで行っても、わざわざ声を掛けてくる者もいなかった。
  知られていないということは寂しい反面、気安くもある。下手に親しくなったりして、色々な話を聞かされてもかえって困ってしまうだろう。難しい話を小耳に挟むこともあり、佳乃は人付き合いというものに対してさらに臆病になっていた。

 

「あ……」

 次に並木が切れたところで脇に折れれば、と言うところまで来たその時。次第に晴れていく靄の向こうから、こちらに歩いてくる人影が見えた。同じように水くみに来た者かと始めは思ったが、その手には何も持っていない身軽な様子である。水干(すいかん)に小袴という装いは下男のそれに違いない。小振りな袖が差し始めた朝日にきらめき、ひときわまぶしく映った。

 ――もしや、この先の宿場から戻ってきた者ではないだろうか……。

 そう思い当たった刹那、ハッとして目をそらす。頭の中で互いの距離を素早く計算し、そのまま足早にすれ違ってしまおうと考えた。
  佳乃とて、何も知らない幼子ではない。姫さまにお仕えする侍女として、一通りのことは承知していた。御領主様に仕える若い衆が、時折夜の宿場まで降りていくその理由も。今朝はいつもよりも少しのんびりしてしまったらしい、全く気まずいものである。

 御領主様にお仕えする使用人たちには、それぞれの働きに見合った報酬が与えられていた。だが、その上に若い男衆にだけ、年に一度正月に特別のものが振る舞われるのだと聞いている。まるで女子の身につけるような赤いうすもの――それは遊女小屋では本物の銭と同じように使えると言うのだ。
  決まった相手のいない若者は、時として女子の肌が無性に恋しくなるらしい。佳乃などには想像もつかぬ事であったが、それが男女の違いなのだと納得するほかにない。

 あまり出くわしたことのない状況ではあったが、このようなときは素知らぬふりをするに限るということは知っている。あちらとて、思いは同じであろう。そう思ったから、足音がさくさくと近づいてきても顔を上げることもなかった。

 

「……きゃっ!」

 その瞬間に、みっともない叫び声が上がってしまった。そうするつもりはなかったのだが、仕方ない。自分の草履の赤い鼻緒ばかりを眺めて小走りしていたら、すぐ向こうにもうひとつの足が見えていたのだ。

「すっ、すみません……!」

 どうも前から来る相手に突っ込んでいくかたちになってしまったらしい。慌てて脇に飛び退くと、足の主もぴたりと同じ向きに身体を動かした。まるで、いたずらをしてこちらをからかっているように。何と言うことだろう、顔を上げる勇気もなくどうしたいいのか分からずにいると、そのうちに相手の男がくすくすと笑い声を上げた。

「何をそんなに慌てているの? ちゃんと前を見て歩かないと危ないでしょう」

 その声にはどこか覚えがあった。いままでの躊躇いも忘れ、思わず顔を上げてしまう。ホッとしたような笑顔がそこにあった。

 ――え、……どうして?

 あまりにも驚きが大きすぎて。言葉を返すことはおろか、何か反応を示すことすら出来なくなっていた。何故、この人がこんなところにいるのか。もう、その理由を考えることすら出来ずに。

「君はよくここを通るんだって? そう聞いて、待っていたんだけど。もしかして、違うことを想像していたんじゃない……?」

 その言葉に、佳乃はまた俯くしかなかった。水瓶を抱えていては隠しようがないまま、頬が赤く染まるのが分かる。それを見ている相手がいることも、さらに緊張を高めた。こうして立っていることすら辛い程である。ああ早く、一刻も早くここから立ち去りたい……!

「ごっ、ごめんなさいっ……! ……そのっ……」

 心内まで言い当てられてしまって、もうどうしたらいいのか見当が付かない。さらにあろうことか相手があの男なのである。なんという巡り合わせであろうか。知らぬうちに手のひらがじっとりして、まだ蒸し暑い気候でもないのに身体中から汗が吹き出しそうである。

 あれから三日が経過していた。その間はあちら居室への用事もなく、ようやく気も鎮まってきたところ。それなのに、こんな風に再会するとは。さらにあらぬ誤解までしてしまうなんて……、なんて浅はかだと思われただろう。ああ、嫌だ。どうして自分はいつもこうなのだろうか。
  あの日、湧き上がってきた痛みが再び胸を覆っていく。みっともないにも程がある。このまま朝靄の中に溶けてしまえたらいいのに、それも出来ない自分が心底恨めしかった。

 下の瞼がぴくぴくと痙攣している。佳乃は今にも涙が溢れそうな状況をこらえていた。それなのに、男は一向に立ち去る気配もなくそこに留まっている。かすかな息づかいさえ届く距離。さらに、彼の口からはさりげなく意外な言葉がこぼれた。

「それ、重そうだね。……持とうか?」

 思いがけない提案である。もちろん、すぐにしっかりと首を横に振って辞退したつもりであった。なのに、彼はいつかのようにひょいと佳乃の腕から水瓶を取り上げる。そして片腕に軽々とそれを抱えて、迷うことなく歩き出した。佳乃が戻る庵の方向へ。そうされてしまえば、慌てて後を追うしかなかった。

 

 目に見えるほどの早さで靄が晴れ、朝の風景がくっきりと現れてくる。木々の根元に揺れる野の花、枝を渡る小鳥たちのさえずり。その何もかもがいつもとは違って感じられるのはどうしてだろうか。
  しばらくは互いに無言のままだった。佳乃の方は色々な感情が胸の中で渦を巻き、とても言葉を紡ぎ出せる状態ではない。ずいぶんの距離を歩いてから口火を切ったのは、やはり男の方だった。

「こんなにたくさん汲んで……、これじゃあ運ぶの辛いでしょう? 君のご主人様もひどいね、力仕事なら別に下男を雇えばいいのに。何もかもをひとりに押しつけるなんて、無理だよ」

 その言葉に、佳乃は驚いて顔を上げた。その頬がみるみるうちに凍り付いてくる。たとえようのない悲しみが再びこみ上げてきて、ようやくのろのろと進んでいた歩みも止まった。しかし男の背中はどんどん遠ざかるばかり。自分の言葉すら、あまり気に留めていない様子である。佳乃はもう、たまらない気持ちになった。

「ち……違いますっ! そうじゃ、ありません」

 どんな風に説明したら分かってもらえるのか、全く思いつかない。だけど、必死だった。突然の大声に振り向いた男の顔を見ながら、唇を大きく震わせる。

「これは私の一存でやっていることです、姫さまのご命令などではありません! 姫さまは、……姫さまはとてもお優しい方です。何もご存じない方が、そんな風に仰らないで……!」

 この水を汲みに行くようになったのは、泉近くのあの小川が飲み水としても申し分がないとどこかで聞いたからであった。試しに手桶に汲んできてそれでお茶をいれると、姫さまはとても喜んでくださった。いつもと同じ茶葉なのに、どこかほんのりと朝露の香りがすると仰る。佳乃の舌ではとても深いところまでは分からなかったが、姫さまの笑顔だけで十分だった。――それを、このように誤解されるなんて。

「……あ」
  佳乃はハッとして口を手で覆う。思わず口走ってしまった言葉が、自分でも思いがけないほど強くきつくなっていたことに言い終えてから初めて気付いた。多分、男としては何気なくこちらを気遣うつもりのひとことだったのだろう。でもとてもそこまでは、気を巡らすことが出来なかった。

 男は一度目を見開いて、まじまじと佳乃を見た。それだけで身の縮まる思いがする。次に来る蔑みの眼差しを覚悟していると、意外にも彼はふっと頬をほころばせた。

「そう、……それでこんなに早くから。その花も君から『姫さま』へのお土産なんだね」

 今度は佳乃の方が驚く番だった。

 いつの間に気付いていたのだろうか、袂に大事に隠した朝露草のひと株を。そうなのだ、本当ならばこんな人気のない刻限にわざわざ出向くこともない。姫さまはおひとりで何でもこなされる方なので、日中でも少しの間留守にさせていただくことは可能だった。……しかし、なのである。

 水を汲む小川のほとりには、朝のごくごく早い時間にだけ深い青の絨毯が敷き詰められたように花が開く。そして日が昇りきる頃にはもうしぼんでしまうのだ。夢のような美しい風景をひとりで眺めるのは忍びない、是非姫様にもご覧に入れたいと思った。
  しかし御父上である御領主様の御庭とはいえ、表だって姫さまがそちらまで行かれるのはお立場上難しい。無理を知ってお誘いするよりもと思い、こうして毎朝美しく咲いたひと株だけを持ち帰っている。もちろん、密植していて窮屈そうなところを選んで。
  葉に付いた露が消える前ならば、移植することも可能だとも人づてに聞いた。いつの間にかそんな風に植えた株で、小さな庵の周りにも花畑が広がりつつある。朝のひととき優しい透き通った香りが辺りに漂って、嬉しかった。

 男がまた歩き出したので、佳乃も黙ったまま後に続いた。いい加減なところでやめておけばいいのに、ついつい欲が出て汲みすぎてしまう。両腕でもしびれてくるほどの重みを、男は軽々と持ち上げてしまう。その上に鼻歌までも聞こえてくるのだ。

 ――不思議な人、あんなに失礼なことをしてしまったのに。

 そもそも水瓶を運ぶことを頼んだわけでもないのである。何もかも信じられない思いがした。どうにか声を掛けようと思うのだが、気の利いたひとことが思い浮かばない。それに、また会話がすれ違いそうな気がして怖かった。

 

「じゃあ、ここに置けばいいかな? ……俺は、これで」

 佳乃が毎日植え続けている花の脇をつぶさないように歩いていった男は、水場のすぐ脇に瓶を置いた。話らしい話もしないままに、気付けばあっという間に仕事が済んでいる。思いがけず庵まで早く辿り着いてしまったことを、何だかとても寂しいと思った。

「あ、ありがとうございました。……それから」

 言うべきか、言わないべきか。佳乃は口の中でしばらく次の言葉を転がしていた。今朝は思いがけず出会うことは出来たが、もう再びこんな偶然は起こらないかも知れない。胸が素手で鷲づかみにされたように、ぎゅっと縮まった気がした。

「こ、この前は椒の苗を……。ありがとうございました」

 男の表情が和らぎ、すぐに言葉の意味をくみ取ってくれた様子なのにホッとする。言いたくて言えないままだったひとことをようやく口にすることが出来て、佳乃も胸をなで下ろしていた。
  そうなのだ、あの日だいぶ暇が掛かってから姫さまの元に戻ると、もうそこには貴子様よりのお礼の文が届いていた。そう告げられて初めて、佳乃はあの苗木をそのまま落としてきてしまったことに気付いたのである。

「助かりました、本当に。その……、私」

 あの瞬間の自分の情けない態度が蘇ってくる。何故あんな風に心を乱したりしたのだろうか、この男もどんなにか驚き礼儀のない娘だと思ったことだろう。転がったままの椒の苗を、どんな気持ちで拾い上げたのだろうか。

「いい、そんなの。何でもないことだから」

 男はそれだけ言うと、すっときびすを返した。そのまますたすたとだいぶ前に進んで、それから何かを思い出したかのように足を止める。何をしているのだろうと、頭の上でくくられた髪が揺れるのを眺めていた。先ほどまでは緊張しすぎて気付かなかったが、よくよく見れば慌ててまとめたあとが伺える。結んでいるのもその辺の植木をしばるような麻ひもだ。

「あいつ、従姉(いとこ)だから」

 言葉の意味がくみ取れずに瞬きをした佳乃を、彼は振り返って見つめる。少し、頬が赤い気がしたが、あれは朝日のせいだろうか。

「……それだけ言いたかったんだ、じゃあ」

 

 翌朝、いつものようにまだ外が暗いうちに目覚めた佳乃は、身支度を調えて裏戸から外に出て驚くことになる。

 そこにはなみなみと水が汲まれた手桶がふたつと、それから朝露草の苗がひと株置かれていた。まだ開いたばかりの花を見て、慌てて表まで出てみるが誰もいない。その次の日も、また次の日も。佳乃がどんなに早く起きても、それと競っているように手桶は鎮座しているのだ。

 ――何故、どうして……?

 朝靄の漂う並木向こうを眺めながら、佳乃はぼんやりと立ちつくしていた。

 

◆◆◆

「あのぅ、……姫さま」

 幾日か過ぎて。佳乃は夕餉の後のくつろいだ時間に、意を決して切り出した。ゆっくりと刺しものをしていたお手が止まる。やわらかい物腰で、姫さまがこちらを振り返られた。

「その……、細紐の組み方を教えて頂きたいのですが」
  こんな風にお願い申し上げることも珍しいことであった。わざわざ姫さまのお手を煩わせることもないだろうと思うのだが、他に適当な相手が見つからない。こんな時に自分の外との交流の浅さが恨めしかった。

「まあ……。飾り紐ならば、わざわざ作らずとも宜しいでしょう。わたくしが使っていないものがいくらでもあるわ。佳乃に似合いそうなものを見繕ってあげましょう」

 そんな風に仰る姫さまはとても嬉しそうに見受けられた。御自身も派手に着飾ることを好まれないので、華やかな小物なども行李に溜まっていくばかりなのである。良家の姫君にふさわしく相応のものを揃えられていたが、身分の低い侍女などがするような結い髪などにも施されることはなかった。

「あ、いえ……。そんな、もったいないことは……」
  何と言ってお伝えしたらいいのかが分からず、佳乃はしばらくもごもごと口の中で言葉を転がしていた。

「華やかな色目でなくて……その、簡単な組み方で構わないのです。私も里に戻る前に、せっかくですから少しは習ってみたくて……」

 前もっていくらかの糸は揃えてあった。だが、それらを実際に組むことは何も知識のない素人では難しい。本職になれば織機を用いることもあるそうだが、そこまで極める必要もないだろう。姫さまが御母上様から紐の組み方を直々に習われていることは知っていた。一緒に、と勧められたこともあったが、畏れ多くてとてもおふたりに同席など出来なかったのである。

「まあ……、そう。分かったわ」
  姫さまは手にしていたお道具を脇に置かれると、佳乃の方に膝を向けられた。

「では、あちらの上にある行李を取ってくれる? わたくしも久しぶりに楽しみましょう」

 深い瞳の色が何もかもを見透かしてしまいそうで、恥ずかしくて仕方ない。燭台の灯りに輝く御髪の流れも素晴らしくて、対する自分のみすぼらしさが際だつ気がした。もちろん最初から比べるような間柄でもないのだが、生まれが違うだけでどうしてこんなにも違ってくるのだろう。

 

 この地ではさまざまな場面で細紐が使われていた。髪を結うときだけに留まらず、衣を外歩き用に改める際に腰に回したり、また贈り物を包むために使ったりもする。高貴な御方だけではなく、庶民の間でも日常的に愛されるものであった。
  平たく織り上げる細紐は、そんな中でももっとも良く用いられる品である。まずは何本かの糸を縄をなうようによって、出来たものをまとめて編んでいく。もともとの糸が細いために、時間を掛けて編んでもいくらも進まないのだ。手の込んだ組み方になれば、身丈ほどの一本を仕上げるのに数ヶ月も費やすと聞いた。

 佳乃はあまり器用な方ではなかったので、姫さまについて教わってもなかなか思うように進まなかった。普段は用事もあって、日中はほとんど自分の時間など取れない。それでもご迷惑にならない程度に夜更かしを続けたりして、ようやく半月ほどで肘から指先ほどまでの長さが仕上がった。

 淡い緑と落ち着いた紺を簡単な文様にしてみたそれを、夜のうちに空になった水桶の持ち手にそっと結んだ。いつの間にか毎朝忘れられることなく決まってふたつが置かれ、空にしたふたつが持ち帰られるようになっている。すぐには気付かなくとも、しばらくすれば分かってくれるだろうと信じて。一緒に文のひとつもしたためることを考えたが、あまりに押しつけがましい気がしてとうとう出来なかった。

 あの日以来、顔を合わせることもないまま過ごしている。あちらの居室に言付けを頼まれることはたびたびであったから、その時に意識して探せば見つかりそうなものであるが、恥ずかしくてどうしてもそこまでは無理だ。よくよく考えれば、あの男の名も知らない。姫様の御兄上様の元で働いている下男だという他は、何ひとつ分かっていなかった。
  でも、誠実で優しい方だということは分かる。こんな風にひと月近くもの間、佳乃の水くみを代わってくれているのだ。その理由はいくら考えても思い当たらなかったが、それでも何かお礼がしたいと思った。
  ぼんやりとしたひとときに、あの笑顔がふわりと浮かんでくる。そのたびに、佳乃は胸の高鳴りを抑えることが出来なかった。もう一度お目に掛かりたいとは思う、でもどんな話をしたらいいのか見当もつかない。きっと気の利かないことを言って、呆れられてしまうだろう。それはあまりにも悲しかった。

 

◆◆◆


  翌朝、裏口から出た佳乃が目にしたのは、ふたつの水桶だけではなかった。そろそろと戸口を開けて一歩踏み出したところで、慌てて柱に隠れてしまう。その物音に気付いたのだろう、薄青の水干姿が振り返った。

「やあ、……佳乃さん」

 すたすたとこちらにまっすぐにやってきた男に、ますます身を縮めてしまう。とても顔を合わせられる状況ではなかった。だが、俯いたままでようやく気付く。この者は、どうして自分の名を知っているのだろう……?

「お早う。これ、君が作ってくれたんでしょう? 嬉しいな、お礼が言いたくて今朝は待っていたんだ」

 手のひらに大切そうに握られたのは他の何でもない、佳乃が仕上げた細紐だ。よくよく見れば、そこら中、糸が浮いて、あまり良い出来ではなかった。朝の光の中でそれに改めて気付いてしまい、どうしようもなく情けない気持ちになる。

「いっ、いえ! こちらこそ、その……毎朝、本当に申し訳ありませんっ……! 何とお礼を言ったらいいのか、……その」

 こうして男と再び会えたのは、本当に嬉しかった。でも、面と向かうとなかなか思うように話が出来ない。気恥ずかしいばかりで顔は赤らんでくるし、言葉も舌足らずになってしまうのだ。

「お礼なんて、そんな別に。だって、こっちは夜回りのついでに桶をふたつ抱えてるだけだから。特別のことでも何でもないんだよ」
  あっさりとそう言うと、男は佳乃が贈った紐をこちらに差し出した。何だろうと思っているうちにくるっと背を向けて、その場に腰を下ろす。

「悪いけど、こんな風に洒落たものは上手に出来ないんだ。君が髪を整えて、結んでよ?」

 

 殿方の髪に直接触れたのは、その時が初めてであった。震える指先が何度も滑り、それでもどうにかかたち作ると、男は満足そうに後ろ手で何度も確認している。想像したよりもずっと柔らかな赤髪に、くっきりした色目の細紐が美しく映えた。

「やっぱり、上手だね。……ふふ、毎朝こうしてお願いしようかな」

 男の名は、冬真(トウマ)と言った。その朝、去っていく背中を眺めながら、佳乃は震える胸でささやかな幸せを受け止めていた。


 

<<     >>


TopNovel玻璃の花籠・扉>露玉の祈り・2