TopNovel玻璃の花籠・扉>露玉の祈り・3


…3…

「散りゆく杜の・番外〜佳乃」

 

 

 夜回りを任されるのは、主に年若い下男たち。そうは言ってものんびりした土地柄で、始終張りつめていなければならないわけでもない。御庭表の一角に作られた見張り小屋に集まって、決められた時間ごとに周辺を見回る。その他の時間は雑談をしたり花札などの簡単な賭け事をしたりして過ごしているのだと言う。

  侍女や下女はそれぞれのお仕えするご主人様のお住まいの一角に住まうことが通例であったが、下男たちには専用の「寄り所」と呼ばれる宿泊場所が設けられている。そこでも同じくらいの年頃の者たちが集い、夜遅くまで賑やかに過ごしているらしい。

  冬真は仲間内の中でも夜に強い方で、一睡もしなくても次の日のお務めに何ら支障がないほどであるらしい。夕刻にいくらかの仮眠を取っただけで、また一晩過ごすことも少なくないと言った。夜回りは交代制になっているのだが、仲間の分も引き受けているのだと笑う。やはりどうしても夜はしっかり寝ないと身体が保たない者もいて、重宝がられていると言うのだ。

 姫さまが御両親とともに都から戻られた折に母とともにこちらに上がり長い間を過ごしてきたはずの佳乃ではあるが、そのような話は馴染みがなかった。母が里に下がってしまったあとは、たったひとりで姫様の身の回りのお世話をさせて頂いてきたのである。奥まった離れ庵で決まったやりとり以外は他の居室の使用人との交流もなく、それを不自由に思ったこともなかった。
  姫さまの元を訪れるのは年配の方がほとんどであったから、同世代の者と会話らしい会話をすることも目新しい程である。だからであろう、冬真の話はそのひとつひとつが物珍しく興味深かった。

 彼は領地の西に位置する小さな村の出身で、主である方の元服にあわせてこちらに上がったのだと教えてくれた。お付きの者たちの中でも古株で、仲間たちをまとめる位置にいるらしい。明るく気さくな性格であるから、人望も厚いのであろう。楽しげに暮らしている様子が短い会話からもうかがえる。

  同じ使用人の立場でありながら、何故こんなに何もかもが違っているのだろうか。今まで少しも感じていなかった様々なことがにわかに胸奥で騒ぎ出して、誰よりも当の本人である佳乃自身を驚かせた。そんな賑やかな場所に自分も飛び込んでみたいとは決して思わなかったが、小さな覗き窓から眩しい世界がかいま見られるような気分が嬉しくてならない。
  それは娘らしいまともな感情であったが、佳乃は全く気付くことが出来なかった。それどころが浮ついた自分の心が何とも浅ましく思えて落ち着かない。

 

 毎朝のささやかなひととき。いくつかの会話で済んでしまうわずかなその時間を、佳乃はいつか心待ちにするようになっていた。

  少し早めに目覚めてすっかりと身支度を調える。はやる気持ちを抑えつつ、慎重に紅を引く指先が震えた。それまで化粧らしい化粧もしたことがなかったが、自分でも驚いてしまうくらい念入りにしてしまう。寝起きの顔がせめて少しでも引き締まって見えるようにと願った。髪も何度も梳き直し、鏡をのぞいて確かめる。ほお紅をはたいたわけでもないのに、ほんのりと色づいた頬がそこにあった。

 まだ十分な時間があると知っていても、少し先まで歩いていって出迎えようとは思わなかった。それどころか、庵の裏口から外に出て待つことすら出来ない。戸口の陰に隠れて、その足音がだんだん近くなるのをじっと聞いている。そして、ことんと手桶が置かれる音がして、初めて気付いたように戸を開けるのだ。
 
「お早う、佳乃さん」

 にっこりと微笑む彼を目の前にしても、口ごもりながらようやく「お早うございます」と返すのがやっと。一度でいいから自分も自然に微笑み返せたらと思うが、どんなに意気込んでも上手くいかない。恥ずかしくてしっかりと顔を見ることすら難しいのだ。
  俯いた脳裏にはあちらの居室で出会う今風に着飾った華やかな女子(おなご)たちの姿が浮かび、あまりに違いすぎる自分の姿が恥ずかしくて仕方ない。それもあってせっかくあれこれと言葉を掛けてくれても、なかなか上手に受け答えが出来ないのだ。そんな情けない自分に泣きたくなってしまう。ああ、どうしてこんなにも駄目なのだろうか。きっと、どんなにか呆れられていることだろう。

 頭の中ではあれこれと上手に思い浮かべることが出来る。こうやって話しかけられたら、こうやってお返事をしようといくらでも考えられるのだ。しかし本人を前にするとそれだけで胸がいっぱいになって、そこで止まってしまう。口惜しくて口惜しくて、でもどうしようも出来ない。

 冬真の目に映る心許ない自分に、もっともっと臆病になる。それでも、次の朝を待つ自分がいた。あの日に贈った細紐が差し出され、柔らかな髪に櫛を通す。姫さまの御髪を梳くのは佳乃の務めであったから、この程度のことならば難なくこなせるはず。そう自分に言い聞かせても、思うようにいかなくてもどかしかった。
  楽しい時間はいつもあっという間に過ぎてしまう。彼が礼を述べて背を向ける瞬間、今までに感じたことのなかった引きつれるような痛みが胸に走った。

 

「明日から、しばらく留守にするから」

 ある朝そう告げられたときも、すぐには言葉の意味を理解することが出来なかった。彼がいつになく神妙な顔で切り出すので、それだけで怖くなってしまって思考が止まっていたのかも知れない。しばらくぼんやりとしてしまったから、おかしな奴だと思われてしまっただろうか。
  領地を回るご主人様――すなわち、佳乃がお仕えする姫さまのすぐ上の兄君様のお供で遠方まで出向くとのこと。今までの話しぶりでは彼は単なる下男のひとりであるような感じであったが、そうではなかったのだ。こんな風にお供を仰せつかるのは、それだけ目を掛けられているということになるのだから。

「……あの。水くみ、大変だけど頑張って」

 そんな問いかけにも、上手に受け答えをすることが出来ない。それくらい何でもないから大丈夫、と首を必死に横に振ったつもりであったが、そう見えていたかも怪しかった。

 

 その言葉通りに。

 翌日からまるであの出会いまでが幻であったかのように、当たり前の生活が戻ってきた。
  朝はいつもと同じ時間に目を覚ましてしまう。すぐに起きあがればいいのに、何となく身体がだるくて仕方ない。そんな自分を恥じながらどうにか身を起こすと、何とも形容のしがたい空虚な気持ちが胸を突いた。彼に会えないのだ、そう思う瞬間に眩しい朝の日差しも感じられなくなる。
  ささやかな時間を失って初めて気付いた。どんなにか彼の存在が自分の中で大きくなっていたのかを。お目にかかれるわずかなひとときこそが、全てになっていた。話の内容など、本当はどうでも良かったのである。ただ彼がそばにいて笑ってくれれば。何故そんなことを欲するのか、佳乃は自分でもよく分からなかった。

 ――もうあの御方は、二度とこちらには訪れてくれないのかも知れないわ。

 ふと、そんな絶望にも似た予感が胸を過ぎる。だがそれはずっと以前から絶えず不安に感じていたことであった。水くみの仕事は元々佳乃がやるべきことで、それを代わって貰ったところで彼には何の得もない。姫さまにもこのことを告げられぬまま過ごしていたことにも後ろめたさがあった。人に頼ることを当たり前だと考える傲慢な娘だと、彼もとうに呆れていたのではないか。
  色々な思いが湧いてくると、いつか彼の言葉までもが嘘のように思えてきた。「留守にする」と言ったのは、ただの口実だったのではないだろうか。ありのままの事実を述べることがはばかられて、ついそんな言葉を告げたまでで。ついにはあの居室に彼は普段通りに留まっているのではないかとすら思えてきた。

 何もご存じない姫さまは、以前と変わらずあちらの居室へのご用を佳乃に申しつけられる。それをお断りすることは出来ず出向くことになれば、ついつい彼の姿を探してしまう自分がいた。姫様の兄君様がお供を数人連れてしばらく留守にしていることは馴染みの侍女から聞いている。貴子様も寂しく過ごしていらっしゃるのだろう、姫さまを花見の宴に誘ってくださるのだ。
  でもそのお供の中に彼が本当に入っているのかは、誰も教えてくれない。このように多くの使用人がお仕えしているのだ。佳乃があちらを訪れるときにだけ身を隠すなど造作ないことなのではないか。
 
  悲しい物思いばかりが溢れてきて、いくら抑えようとしても上手くいかなかった。いつの間にか人を疑ったり罵ったりする娘になってしまった自分が恥ずかしくて仕方ない。どうしても塞ぎがちになるので姫さまにもご心配を掛けてしまい、ますます申し訳ない思いでいっぱいになった。

 

◆◆◆


「どうしたのかしら、何か心配事でも? もしもお里の母君のご様子が心配ならば、宿下がりのお願いをしましょうか。今の時期ならば、大きな行事もないから数日は平気よ」

 ある夜、思いあまったように姫さまが問いかけられて、佳乃はハッとした。それまでは自分ではどうにか上手く取り繕っているつもりであったのである。そんな思い上がりすら、恥ずかしく思えた。

 姫さまは自分には本当にもったいないほどのご主人様であった。乳母子(めのとご)である佳乃を実の妹のように可愛がってくれ、あれこれと世話を焼いてくれる。ご自分が衣を新調されるときには決まって佳乃の分も用意してくださるほどだ。
  里の母もこんな自分を見たら、どんなに嘆くことだろうか。毒々しい物思いに胸を巣食われ変わり果ててしまった姿など知られたくはない。こんな風にしていても誰も幸せにはなれない、自分は間違っているのだとその時にようやく気付いた。

「いえ、何でもありません。ご心配おかけして、申し訳ございませんでした。……私は大丈夫ですから」

 人を恨んではならないのだ。もしもあの出来事が夢だったのだとしたら、美しい姿のままで終わらせてしまえばいい。だいたい、自分はどうかしていたのだ。姫さまのことだけを考えて、姫さまのためにお仕えしていれば良かったのに、他のことにうつつを抜かしていたのだから。今回のことは天地の神が姿を変えて自分を試したのかも知れない。それに惑わされていたとは、何とも愚かしいことだ。

 ほんの少しだけ、よそ見をしただけ。だから、全て忘れよう。元通りになればいい、姫さまと自分とこの庵で暮らしていけば。他に望むことなど、何もありはしないのだから。

「……そう」

 ようやく顔を上げて微笑むことが出来た佳乃を、姫さまはまだご心配そうに見つめられていた。でもそれ以上深く追求することはせず、手にしていた刺しもののお道具を脇に置かれる。

「あの、佳乃? 悪いけれど、そちらの包みを持ってきてちょうだい。ここで開いてくれる?」

 ゆらりと磨かれた板間の上に燭台の輝きが動いた。姫さまが指し示した先には、昼間のうちに御領主様の居室から届けられた布包みが置かれている。何だろうと中身は気になっていたのだが、自分の方から訊ねるのもどうかと思ってやり過ごしていた。その心内すらも、すでにお気づきであったのだろうか。

「まあ……、これは」

 包みをほどいた指先が、思わず震えた。畳紙(たとうがみ)に丁寧に包まれたその中から、美しい正絹が現れたのだ。控えめな織り文様ではあるが、かなりの熟練の仕事と見受けられる。きっちりと目が詰まっていて丁寧な仕上がりが目に眩しいほどであった。

「あのね、あなたもそろそろきちんとした御針を身につけた方がいいわ。手仕事はいくら習得していても無駄にはならないから。丁度、わたくしも父上の夏衣を一枚任されているの。まだ時間はたくさんあるから、ゆっくりと仕上げましょうよ」

 佳乃は驚いて、姫さまの方を見上げた。そして、すぐに力なく首を横に振る。

「いえ……、そんな。私にはあまり上等なものは必要ありませんわ。御針など……今まで姫さまに教えて頂いただけでもう十分ですから。それ以上は、……とても」

 あまり多くを語る御方ではなかったが、この状況はだいたい把握することが出来た。姫さまは御母君であられる秋茜様にこの絹をお願いしてくださったのではないだろうか。そして、自分にも正式な晴れ着の仕立て方を教えてくださると。もったいなくも有り難いお申し出ではあったが、とてもそのようなことは自分には畏れ多く、また不似合いなものに思われた。
  正絹の晴れ着をまとうのは、しかるべき地位に就く貴人に限られる。そのような御方の妻になれば、夫君の衣を整える必要が出てくるはずだ。だが、佳乃にはそのような将来は考えられなかったし、あのような里でそれほど高貴な縫い物を頼む人がいるとも思えない。
  今までに簡単な繕い物から始まって、肌着や野良着程度のものなら仕上げられるまでになっていた。これなら里に戻っても、一生食うに困ることはないと思っている。このように……触れることもはばかられるほどの美しい絹を仕立てるなど、想像すら出来なかった。

 ――ああ、もしもあの御方なら。将来を約束された人望ある方だ、このような衣を晴れの席で羽織ることもあるだろう。

 何色もの糸を美しく折り合わせた布目を見ていると、ふとそんな想いが胸を過ぎる。慌ててかき消そうとしたその時に、胸につっと鋭い痛みが走った。

「まあ……そんな。困るわ、わたくしはあなたにもあなたの母君にもとてもお世話を掛けてきたのよ。きちんとした手習いもせずに里に帰したと言われては恥をかいてしまいます、ここはどうかわたくしの顔を立ててちょうだいね。……大丈夫よ、ゆっくり丁寧にやれば、普通の針仕事とあまり変わることもないのだから」

 大人しい御気性の姫さまには珍しく、何度お断りしてもご一緒にと仰るのだ。何かにせき立てられているようなご様子も感じられ、あまりむげにするのも申し訳ない気がする。あまり強情に自分を通すのもどうかと思い、とうとう佳乃が折れることになった。

 良家のご息女であられる姫さまの御衣装には触れるのももったいないほどのお美しいものが数多くあった。だが、そのようなものはあまり好まれない御方なので、せっかくのお品も季節の変わり目に虫干しをするに留まっている。そのような時には手伝いの者を頼んで一日がかりで行李の中を改めるわけことになるが、ひとめで高価なものと分かる御衣装は扱うのにも緊張した。
  今回についても、始めからあまり高価なものを扱うのは気が引けてしまう。どうかもう少し普通のものに変えて欲しいとお願いしたが、姫さまはどうしても聞き届けてはくださらなかった。

「やはり本物で仕立ててみなければ、分からぬことが色々あるのですよ」……というのがその理由である。確かに日常に用いる綿や麻とはだいぶ違う風合いでもあり、つるつると滑るばかりで扱いづらく苦慮してしまう。慣れるまでは奥の目立たない場所で何度も運針を練習したが、あまりの緊張に知らぬ間に肩や二の腕がこちこちになっていた。
  ふと隣を見れば、姫さまは美しい針使いでどんどん先に進められていく。やはりそのお姿を見れば、自分とはあまりに違いすぎる御方だと言うことを思い知らされる。姫さまを妻に迎えられる御方は何とお幸せであろうか。このように全てにおいて優れていて、その上に奥ゆかしくお優しい。始終ご一緒にいても、少しも疲れを覚えることはないのだ。

 高貴な御方にお仕えするにはそれなりの気苦労があると聞いているが、自分に関してはそのような悩みは感じたことがなかった。むしろ、こんな風にもったいなくもおそばにおいて頂いて、有り難いばかりだと思っている。そのお美しい心映えはそばにいる者を温かく満ち足りた心地にしていく。だが、残念なことにそれに気付く方があまりにも少ないのである。
  それは佳乃が至らない侍女であるからかも知れない。もっと姫さまのことをきちんと言葉で皆様にお伝えすることが出来れば、いくらか違ってきたのではないだろうか。このように自分が情けないばかりだから、姫さまにもご苦労をおかけしてしまう。こちらが頂くばかりで、何もお返しするものが内のは申し訳ないばかりだ。だからこそ、貴子様のように姫さまのことを分かってくださる方がもっと増えればいいと思う。

 ひと針ひと針、様々な想いを針目の中に閉じこめていく。どんなに塞いでいるときでも手仕事をしていればいつの間にか心は晴れてくる。姫さまもそれをご存じであるから、自分に勧めてくださったのかも知れないと思った。ぼんやりと悲しいことばかり考えていた時間が次第に減っていく。この衣が無事に仕上がる頃までには、あの方との全ても思い出の中に閉じこめることが出来るのではないかと思った。

 

 静かに、静かに。心が穏やかに戻ってゆく。でも、ふとした瞬間に蘇る優しい笑顔が佳乃を夢の中に連れ戻そうとした。指先に残る姫さまのものとも自分のものとも違う髪の感触。女子のものとは確かに違う香り。針目に押し込めようと思えば思うほど、溢れてくる気がしてたまらない。

  必死にこらえているつもりでいても、毎夜のように夢枕を濡らしまう。それに気付くたびに「忘れる」ということの難しさを、佳乃は改めて感じていた。

 

◆◆◆


 いつもと同じように、まだ夜が明けきらぬ前に庵を出た。

 この地の夏の訪れは早く、春の花が盛りをすぎるころにはすでに日中は汗ばむ程の陽気になる。それだけに朝のひとときは貴重で、夜明けが早くなるとともに使用人たちの起き出す時間も早くなっていく。水場にも思いがけなくたくさんの人影が見えるようになり、それが恥ずかしくてつい先回りしてしまうのだ。

 ――私がひとりでこんな風に大きな水瓶を抱えていては、姫さまにまで恥ずかしい想いをさせてしまうわ。

 15と言えば、この地では女子の結婚適齢期である。身も心も成熟した頃であるから、一通りにお務めをこなしても何らおかしくない。ただ、佳乃の場合は身丈が他の者よりもずっと低く、どうしても見た目で幼く思われる傾向にあった。もしかするとあの男もそう感じたのかも知れない。女の童(めのわらわ)のような娘をこき使っている女主人だと、姫さまのことを誤解したのだろう。申し訳ないことだ。

 姫さまがお気づきにならぬようにと、静かに注意して裏の戸口を閉める。薄闇の中、佳乃が丹誠込めて世話をした青い花畑が一面に広がり、すんなりと伸びた細い茎の上に今開こうとしている蕾を揺らしていた。東側の端にそっと目をやる。そこにはあの男が水桶とともに運んでくれた苗たちを植えていた。特に念入りに手入れしたわけでもないのに、ひときわ大きな蕾を付けている。それが何とも嬉しかった。

 ――さ、急いで行ってきましょう。

 髪が靄の中をゆっくりと泳ぎ、しっとりと湿り気を含んでいく。何かが自分をどこかに引き戻そうとしている気がして、言い表しようのない痛みが胸に宿る。それを振り切るように、先を急いだ。

 

 林が折れたところで街道に出て、ゆっくりと向き直る。空の水瓶を揺り上げたとき、朝靄の向こう側から辺りに響き渡る草履の音を聞いた。地を蹴って、かなり早く走っているのが分かる。朝早くから仕事をしている文使いだろうか、ふとそう考えた。

「……あ……」

 相手と自分との距離がだんだん近くなると、薄闇の中でもうっすらとその姿が確認出来るようになる。見覚えのある水干の色目に佳乃は思わず足を止めた。

「ああ、良かった。どうにか間に合ったみたいだね」

 すぐに近くで立ち止まった足音。懐かしい声が優しく語りかけてくる。

「ご主人様が少しでも早くお戻りになりたいと仰るから、俺もご一緒させて頂いたんだ。表の厩(うまや)からずっと走ってきたから、やっぱり疲れたな」

 白い靄がゆっくりとふたりの間を流れ、ゆらゆらとその姿を見え隠れさせる。佳乃はすぐには応えることが出来ず、それどころか水瓶をしっかり抱えたまま俯いて唇を噛みしめていた。指が白むほどに力を込めて気を強く保っていないと、すぐさま混乱の極みに陥ってしまいそうである。そうしているうちにも鼻の付け根の辺りがつんとして、何かが自分の内側から溢れ出そうになった。

「お……お帰りなさいませ」

 震える声でかろうじてそう告げたが、半分も声になっていなかった気がする。言い終えてから、少しおかしな言い方だなとまた恥ずかしくなった。これではまるで必ず戻る人を待っていたかのようではないか。思い上がりも甚だしいというものだ。他に何か言いようがありそうなものだが、どうしても思いつかない。自分が今一体どんな表情をしているかも確認出来ず、顔を上げることすら出来ないままだ。

「ただいま、佳乃さん。どうしたの、早くそれをこっちによこしなよ?」

 冬真は以前と少しも変わらない口調で明るくそう言うと、ひょいと水瓶を持ち上げた。そして緊張しきっている佳乃の様子など気に掛けることもなく軽い足取りで歩き出す。

 しばらくはその背中をぼんやりと見守っていたが、そうしているうちにどんどんふたりの距離が開いてしまう。彼の姿が元通り靄の中に消えてしまう前に、どうにか早足で後に続いた。

 


 

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