TopNovel玻璃の花籠・扉>露玉の祈り・4


…4…

「散りゆく杜の・番外〜佳乃」

 

 

 彼が戻ってきた、そして以前と同じように朝の水くみを引き受けてくれる。隔てられていた時間など無かったもののように、何ひとつ変わらない日々が始まるはずだった。

 ……でも。

 佳乃はすでに気付いていた、自分の心だけが密やかにかたちを変えていることに。それは幾重にも重ねた衣で固く閉ざしていても溢れ出てくるほどに、彼女の内側で熱くたぎっている。自分でも抑えることの出来ない感情を、いつかもてあますようになっていた。

 

◆◆◆

 色とりどりの花が咲き乱れる細道をゆっくりと進んでいく。いつものように貴子様の元にお届け物をした戻り道。野の花とは違う、洗練された美しい花弁に知らず心を奪われていた。貴子様の御実家は、温暖な気候を生かして花の栽培を広く行っているのだと聞いている。かなりの財産家であるというから、きっと使用人もたくさん雇って、広く手がけているのだろう。
  この辺りの風景もほんの少しの間にかなり様変わりしたものだと思う。居室が造られる前のこの場所は、鬱蒼と茂る森であった。夕暮れ間近になれば脇を通るのも恐ろしくて、つい回り道をしていたほど。それが今では光が溢れるばかりの明るい花園に姿を変えている。

 ――このように新しく迎えられるものがあり、また一方では異なる地へと去りゆくものがある。

 ゆらゆらと頬を過ぎていく気の流れは昔と少しも変わらないのに、何もかもが少しずつ動いていることを時折思い知らされる。そのたびに佳乃の胸の奥が、またちくりと痛んだ。こちらをおいとまするその時が、静かに近づいてくる。そう思った瞬間に、また言い尽くせぬほどの寂しさが湧き上がってきた。

 

「佳乃さん!」

 突然名を呼ばれて、立ち止まる。あまりにもぼんやりしていたので、どこから声がしたのかも分からなかった。きょろきょろと辺りを見渡していると、少し離れた林の間から見覚えのある姿がのぞく。彼は振り返って奥の方に声を掛けてから、軽い足取りでひょいひょいと切り株を越えてきた。

「……冬真さま」

 そんなにかしこまらなくていいのに、と白い歯を見せて笑う。このように見晴らしのいい高台。誰がどこから見てるかも知れないような場所でこんな風に振る舞われては、普通にしていろと言う方が無理であった。
  いつまでも他人行儀のように振る舞うのがおかしくて仕方ないと言われるが、こちらとしてはこれでも精一杯なのである。もう少し目立たぬようにしてくれないかと告げる勇気もないのが、自分でももどかしかった。

「今日はたくさん薪が集まったんだ、少しそちらの庵にもお裾分けするよ。そろそろ、焚き付けがなくなりそうだったんじゃないかな?」

 その手には荒縄でしっかりとまとめられた細枝の束がある。しかも左右にひとつずつ。彼は軽々と持っているが、あれだけの大きさならばかなりの重みがありそうだ。少し小さくして貰わないと持ちきれないな……と思いつつ手を差し出すと、彼はその束をつっと脇に戻してしまう。

「いいよ、俺が運ぶから」

 言い終える前に、彼は佳乃の前に立って歩き出す。そうされてしまえば、後に続くしかなかった。

 このようなことは、今やたびたびである。ご用を仰せつかって姫さまの兄上様やその奥方様の貴子様の元を訪れるたびに、こちらが探すまでもなく冬真の方から声を掛けてきてくれた。こんな風にひとりのときならばまだいいが、大勢の仲間と一緒に仕事をしているときなどでも、何の遠慮もない。彼が自分の名を呼んだ瞬間に、たくさんの眼差しが一斉に自分の方に向くのが恥ずかしくて仕方なかった。
  もうすぐ一服するから君も一緒にどう? などと誘われても、どうして頷くことなど出来るだろう。残してきた用事がたくさんあるからなどと適当な理由を付けて断るのだが、そんなわずかなやりとりの間ですら気が気ではない。あれはどこの侍女? などとあちらで囁かれていたら、どうしたらいいのだろうか。

「あ……の、もうここで宜しいですから。お務めの途中なのに、こんな風にして頂いては……」

 ようやくのことで、広い背中にそう告げた。佳乃にしてみれば、ただひとことを話しかけることすらも大仕事なのだ。彼のように次々に口から自然に言葉がこぼれ落ちれば楽だろうが、人付き合いに慣れていないこともあり難しい。

「大丈夫だよ、これからしばらくは休憩の時間なんだ。俺、今夜も夜回りの当番だから」

 肩越しに首だけで振り返りそう告げると、彼はまた歩き出す。そこまで言われてしまえば、もう何も言い返すことは出来なかった。

 ――でも、そんな。お疲れなのに……。

 夜回りの当番の時は、夕刻前にお務めを上がって仮眠を取るのだと聞いていた。ゆっくり休んでおかなくては、疲れが残ってしまうだろう。頑丈だから大丈夫だと彼は笑うが、若いからと言って我が身を過信してはならないと思う。それに……こんな風に迷惑ばかり掛けてしまう自分が情けなくてならない。もしも手で運ぶのが無理なら、手車でも貸してくれればいいのに。

 言いたい言葉は限りなくあった。でもそのひとつも口にすることが出来ない。時折、ぽつりぽつりと話をしたり佳乃に訊ねたりしながら、彼はゆっくりとした歩幅で進んでいく。始めの頃はあまりの早足で後に続くだけで息が切れたが、この頃ではまるでこちらにあわせてくれているような錯覚も覚えてしまう。でもそう考えることすら、とんでもない思い上がりに感じられて、また傲慢な自分を恥じた。

 ……あ。

 夕刻の気に流されて、彼の衣の裾がなびく。そこから糸の端がちらちらと見え隠れしていた。裾が少しほつれているらしい、よく見れば小袴の脇にもほころびがある。何度も見たことのある衣であるから、昨日今日に出来たものではないのかも知れない。繕わないまま何度も洗濯をしたので、だんだん傷みが広がっていったのだろうか。

 気付いて繕ってくれる方がいらっしゃらないのかしら、と思うと少しだけ嬉しい。もしも決まった女子(おなご)さまがおそばにいれば、あれくらいの仕事は造作のないことだ。今までの話しぶりで、彼がまだ独り身であることは知っている。だが、そうであっても、すでに将来を誓い合った恋人がいるかも知れない。どうすることも出来ない自分なのに、何故かそれを決定づけることは辛くて仕方なかった。
  出来ることならば自分の手で繕って差し上げたい、と思う。でもそんな風にこちらから申し出るのはあまりにもはしたない気がして出来なかった。

 ……それに。あの場所であれば、御針を使う間は脱いで頂かなくてはならないし。

 刹那、佳乃は自分の頬が灼けるように熱くなるのを感じた。西の天を染め上げた朱の色でも隠しきれぬほど赤くなっているであろう頬。それを隠すために、更に俯く。彼が……上衣を脱いで自分に差し出す。そんな光景を脳裏に思い浮かべてしまったことを、前を行くその人に悟られては大変だ。こんな風になってしまう自分が恥ずかしくてあさましくて、気が狂ってしまいそうである。
  下男の上の衣である水干、その下には今の時期なら何も身につけていないのではないだろうか。ただですら日中は蒸し暑く汗ばむほどの陽気だ。身体を動かす男たちはそれだけ汗をかくはずである。何枚も着込むのはそれだけ洗濯の量を増やすことになるのだ。彼の身分ならば、身の回りのことは自分でするはず。そうなれば面倒なことは避けるのが当然だろう。

 ……ああ、もう。私は、どうなってしまったのだろうか。

 熱い頬を手のひらで包み、彼が振り向く前にどうにか元通りになろうと試みる。情けなかった、穴があったら入りたい気分とはこのことだろう。こんな風に、ほんのひととき後に続いて歩くだけで胸がいっぱいになってしまうのに、どうしてその上のことを考えてしまうのか。

 

「ただいま、佳乃さん――」

 あの朝、彼が目の前に再び現れて。佳乃はあの瞬間に湧き上がった感情を、今も胸の奥に閉じこめていた。指の先が白むほどに水瓶を抱え込み、抑え込むしかなかった欲求。晴れていく朝靄、やわらかな笑顔。息を切らしてやってきてくれたその人の胸に、なりふり構わずに飛び込んでしまいたかった。
  嬉しくて、……ただ嬉しくて。もう、何もいらないと思った。逞しく温かなぬくもりにしっかり抱かれることが出来たなら。永遠の夢の中に迷い込むことが出来たなら、どんなにか幸せだろう。

 殿方に対して、そんな欲求を覚えたことは一度もなかった。だからこそ、戸惑っている。はっきりと自分の中に恋心を感じ取ってしまった今、それを必死に押しとどめること以外に出来ることはひとつもない。

 だって、……彼はそんなこと望んでいるはずもないのだから。

 

 隣の庵に暮らす、頼りないばかりの侍女。何となく縁が出来てしまい気遣うようになったのは、彼の当然の優しさからなのだろう。せっかくの厚意をはき違えられたら、どんなに腹立たしく情けないと思うだろうか。だから気付かれてしまうのが、怖かった。朝別れるときは再び会うことを必死で願うのに、こうして再び巡り会えば素っ気ないと思われるほどの態度を取るしかない。

 多いときは日に何度か。お目に掛かるごとに、愛しさが心に降り積もる。いつか自分の胸は熱くなりすぎて焼け落ちてしまうのではないだろうか。なりふり構わずすがってしまい彼を当惑させる日が、もうすぐそこまで来ている気がした。お顔を見るのが怖い、でも会えないのは寂しい。交錯するふたつの心、なおも募る想い。

 もう少しで触れることが出来る距離まで近づけば、確かに彼の体温を感じることが出来た。こんな風に同じときを過ごしているのに、心はあまりにも遠い。

 

 かまどの近くの置き場に薪を置くと、明日の朝の約束をして去っていく人。遠ざかる背中を見つめていると、次第にその視界がにじんで何も見えなくなった。

 

◆◆◆

 姫さまとともに過ごす日々。でも月に何度かは、ひとりで留守居をする夜もある。

 姫さまが御両親の居室にお泊まりになる夜、場合によってはご一緒させて頂くこともあったが、あちらもそれほど部屋数があるわけでもない。他にお客様などがあるときには、こちらから申し出て庵に残るしかなかった。

 今宵もそんな一夜である。久しぶりに姫さまの上の姉君様がお里帰りをされることになり、張り合いが悪いのも良くないからと秋茜様よりお誘いがあったのだ。あちらにはたくさんの御子があり、その幾人かがご一緒されると言う。佳乃はあちらの居室まではお供して、夕餉のあとにひとりで戻ってきた。

 早めに戸を立てて休んだのだが、いつまでたっても寝付けない。表は少し荒れているのか、がたがたと引き戸が大きく揺れているのも気になって落ち着かなかった。姫さまとご一緒ならどんなに荒れた夜も少しも恐ろしくなどないのだが、やはり人寂しい庵は独り寝には辛い。それに……、しとねに横になっても、思い出すのはあの方のことばかり。苦しくて切なくて、胸が締め付けられる。

 いつの頃からか、叶わぬ夢とは知りながら願わずにはいられないようになっていた。とても添い遂げられるような自分ではない、でもせめてこの想いをお伝えすることが出来たなら。このままでは苦しくて苦しくて、儚くなってしまいそうだ。そう……、一度きりで構わないから、あの腕にしっかりと抱かれて夢を見ることは叶わないだろうか。

 ……なんて、愚かしいことを。

 慌てて想いを打ち消したその時に、こぼれ落ちた想いがしずくになって頬を伝った。そんなことがあるわけもないのに。こんな風に私が勝手に想いを寄せてることが知れたら、あの方はどんなにか迷惑に思われるだろう。すっかり呆れてしまって、もう二度とここに訪れてくれないかも知れない。……それに。

 佳乃はすでに承知していた。もしも万が一、彼が自分の想いに応えてくれる奇跡があったとしても、決してその先には進むことは出来ないということを。誰よりも里に残してきた母が、それを快く思わない。ただひとりの母の心を踏みにじることなど、出来るはずもないのだから。

 

 ――ここでつかめる幸せなど、あるはずもないのだよ。お前はただ姫さまをお守り申し上げることだけを考えれば良い、それが出来ないと言うならおいとまをいただくしかないね。

 自分ひとりが御領主様の御館を去ると言うことを、母は必要以上に不安に考えていた。元々、ある時期が来たら娘である佳乃は里に戻し、自分だけがこちらに残ろうと考えていたようである。それが出来ないのが、無念で仕方ないという感じであった。

  母の姉である人が、元々こちらにお仕えしていた。それが縁で母にも乳母の話が来たのである。だが、佳乃の伯母に当たるその人の生涯は決して幸せなものではなかった。

 伯母は村中の女子の中でも、抜きんでて美しく聡明な人であったと聞いている。何かの折りに御領主様のお目にとまり、侍女として御館に上がることとなった。その頃はまだ今の雷史様の代ではなく、その上の姫さまの御祖父様が御館様であったと聞いている。好色な御方であったので、ゆくゆくは御手をつけようとお考えだったのだろう。そのような女子は当時御館に溢れるほどにいたと聞いている。
  伯母は御領主様の元に上がることもなく、そのうちに同じように地方の村から出仕していた男と恋仲になった。しかし、男は里に戻れば豪族の跡目。すでにしかるべき婚約者もいて、もしも伯母が男について行っても側女(そばめ)にしかなれないと言われた。もちろん男の方も最初から騙すつもりはなかったのだろう、何度か実家に働きかけてくれたらしいが、それも無駄骨に終わってしまう。

  傷心の伯母はそのまま里に舞い戻ったが、誰にも縁づくことはないままそのうちに流行りの病で世を去った。「馬鹿な女だ」と罵られ、弔いもささやかなものになったらしい。一部始終を目の当たりにした母は、娘の佳乃には同じ轍を踏ませまいと誓ったのだろう。

 御領主様の御館には、近隣の村々からたくさんの人々が働きに出て来ている。その多くは一年や三年の年季奉公で、お役目を終えれば元の通りに里に戻ることになるのだ。いわば、御館での暮らしは煩わしい村の風習をしばし忘れた気楽なもの。特に年若い者であれば、どうしても羽目を外しやすくなる。伯母のような話はそう珍しいものではなかった。

 それだけではない、御館でお仕えすると言うことは里では忌まわしい行為として見なされる。侍女は御領主様にお仕えする者、もしもお召しがあれば閨に上がるなど当然のこと……などという今は廃れきった慣習が継続しているとまことしやかに囁かれていた。
  以前はそのようなことが実際に行われていたことを、佳乃も長い侍女としてのお務めの中で聞き及んでいる。御領主様御自らの御手だけではない、よそからお越しになった官僚の方などをおもてなしするためにお目にとまった侍女がお相手をすることも、先代の世では日常的なことであった。だが、それはすでに過去の出来事である。今の御領主様であられる姫さまの御父君はそのような横暴な御方ではない。
  しかし、いくら佳乃のような小娘がそれを伝えたところで、村人の目が好意的なものに変わることはない。それどころか自分を守るために偽りを言う女子だと、さらに評判が悪くなるだけだ。

 姫さまがしかるべき御方の元にお輿入れをされる日も遠くないと知った母は、今からいくつかの縁談を佳乃に持ちかけている。だが、そのどれもが妻に先立たれた男の元への後添えの話ばかりであった。少しも後ろ暗いところなどない自分なのに、選択の余地はない。それも母が望んだことであれば、素直に受け入れるしかないだろう。

 

 自分が切り出さなくても、もう別れはそこまで来ている。残された日々を、暖かい日だまりの中で過ごしたい。彼の笑顔を最後まで心に焼き付けておけるなら、もうそれでいいのではないだろうか。

 そう思い切ってしまいたいのに、何故かもうひとりの自分がそれを踏みとどまらせる。もしも自分が何かことを起こせば、たくさんの人が傷つくことになるのだ。分かっているのに、どうして振り切ることが出来ないのだろう。

 

 がたがたと、また戸が動く。

 もしや、夜回りをしている彼がここまでやってきたのではないだろうか。そんな風にさえ思えてしまう。しとねを濡らさずに一夜を過ごすことなど、もう長いこと忘れていた。

 

◆◆◆

「お社の春祭り、……もう誰と行くか決まってる?」

 短く切りそろえられた丸太が、目の前で次々とふたつに割れていく。しばらくはそれをぼんやりと眺めていた。
  姫さまはお昼から、中央の御館の御祖母様の元に出掛けられている。長く掛かるからと言われたのでお供の後こちらに戻り、縫い物の続きをしていた。そんなときに昼間のお務めが終わった彼がひょこりと現れたのである。

「そろそろ、薪が終わりでしょう? 少し作っておいた方がいいよね」……その言葉に、佳乃はすぐには応えることが出来なかった。いつの間に気付いていたのだろう、確かに薪の置き場は心細くなっている。困ったなと考えていたところであった。
  普段は昔なじみの下男に頼むのだが、彼はもう長いこと腰を患って伏せっていると言う。姫さまの御両親の元で長く仕えていた男で、もうだいぶ年配の者であった。それを告げると、じゃあ自分が、と言ってくれる。さすがに重い鉈(なた)を自分で振り下ろすのは大変だと思っていたので、申し訳ないと思いつつお願いすることにした。

「お祭り……?」

 佳乃がそう呟くと、彼は手を止めてこちらを振り向いた。

「うん、明日の晩でしょう。今年は七年ごとの節目になると言うし、いつもよりも賑やかになるんじゃないかな。その……良かったら、佳乃さんも一緒にどうかなって」

 佳乃は口を半分開いたまま、動けなくなってしまった。いつもなら、こんな風に見つめられた途端に恥ずかしくて目をそらすのに、それすらも出来ずにいる。あまりにその姿が滑稽だったのであろう、彼は喉の奥でくすっと笑うと、目の前の仕事を再開した。

「今すぐ返事はいらないから、明日の朝までに考えておいて。君の姫さまのお許しだって頂かないといけないでしょう……?」

 何て軽々と鉈を使うのだろう、気付けば薪の小山が彼の両脇に出来ている。佳乃は慌てて立ち上がると、仕事の邪魔にならないように注意しながらそれを片づけ始めた。

 

 ――お祭りなんて、もう長いこと行ったことがないわ。

 そんな行事が自分の身近であることすら、忘れていた気がする。まだ幼くて母が一緒にいた頃には、ねだって幾度か連れて行ってもらったことがあった。でも姫さまはそのような場所にはお忍びでも出掛けられない方だったし、いつのまにかとても遠い出来事のようになっている。

  冬真のように身近に同世代の仲間がたくさんいれば、誘い合って出向くこともあっただろう。普段のお務めとは異なり村人と同じような格好で気兼ねなく過ごせるのも楽しみのひとつだ。きっと彼は気の置けない仲間の幾人かとすでに約束しているに違いない。その上で、誰からも誘われることのない佳乃を不憫に思って、わざわざ声を掛けてくれたのだ。またもや気を遣わせてしまって、申し訳ない限りである。

 

「――まあ、素敵ね。どうぞいってらっしゃい」

 その夜、恐る恐る切り出すと、姫さまは明るくそう仰った。

「わたくしのことなど、少しも気にすることはないのですよ。それに姉上がまだ父上の居室にいらっしゃるし、そちらからもお声が掛かっているの。佳乃もせっかくこちらにいるのだから、お社のお祭りを楽しまないとね」

 それから姫さまは御針のお道具を脇に置くと、佳乃を行李の側へと呼んだ。

「お祭りに行くのなら、華やかな色目のものがいいでしょう。……ほら、こちらのものはわたくしには少し明るすぎて顔映りが悪かったの。あなたならとても良く似合っているわ。草履も鼻緒を付け替えて可愛らしくしましょうね」

 お許しが頂けなかったら、それを口実に断れると考えていた。それなのに、このようにあれこれと支度まで手伝ってくださるなんて……。

 

 心から嬉しいと思わなくてはならないのだろう。なのに、何故か自分だけが置き去りにされた心地がする。何かがゆっくりと動き出していくのを感じながらも、佳乃は何もかもが他人事のような居心地の悪さを覚えていた。


 

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