TopNovel玻璃の花籠・扉>露玉の祈り・5


…5…

「散りゆく杜の・番外〜佳乃」

 

 

 夕刻、約束した時間に現れた彼は、戸口の前で待っていた佳乃に眩しそうな微笑みを浮かべた。夕暮れの色に輝くそれを見た瞬間に、恥ずかしくてまた下を向いてしまう。すると、すげ替えたばかりの赤い鼻緒が嫌でも目に付いてしまった。頬にさらりと飾り紐が流れて、先に付けた飾り珠が軽い音を立てる。普段より軽く柔らかい袖も、心許なくて落ち着かないばかりだ。

「無理に誘い出して、悪かったね。もう、仕事の方は全部片づいてるの……?」
  そう告げる冬真の方は、鮮やかな青の衣。変わり織りで洒落た仕上がりの一枚だ。腰に巻いた帯もくだけた結びに整えられている。脚にぴったりとした下履きは膝の辺りまで。ちらちらとのぞく膝小僧も新鮮だ。どこから見ても逞しい村の若者。いつもの下男の装いよりもむしろ似合ってるような気がした。

「え……、ええ。大丈夫、です」
  口ごもりながらそう答えるだけで、緊張から汗ばんでくる。やはり、もう少し控えめにしてくださるよう、お願いすれば良かった。そう思ったところで、今更どう出来るわけでもない。

 

  思いがけないことに。姫さまは佳乃にはもったいないほどの可愛らしい花色の衣だけではなく、それに似合う牡丹色の帯も出してくださった。しかも後ろで花びらのようにかたち取られた結び目には、かんざしにも似た飾りが遊びのように挿してある。しまいには髪まで飾り紐とともに丁寧に編み込んで頂いた。

 ――もう。こんなにめかし込んで、おかしな女子(おなご)だと笑われたらどうしよう。

 楽しげな姫さまの御手を振り払うことなど出来なかったが、姿見の向こうで飾り立てられていく自分が場違いで滑稽に思えて仕方なかった。その後、姫さまはあちらの居室からのお迎えが来て、出掛けられている。夕餉の膳を運ぶ心配をする必要もないので、いつもよりも何もかもが早く片づいてしまった。

 

「あ、……あの」
  少し気分が落ち着くのを待って、ようやく顔を上げる。彼の後ろ、林の向こうまで見渡してから訊ねた。

「他の方はどちらにいらっしゃるのですか……?」

 向かうお社はこの庵を越えた方角にある。だから、一緒に行く仲間たちと連れだってこちらに寄るのだとばかり思っていたのだ。今夜はどの居室でも、若い使用人たちはこぞって宿下がりを願い出ているのだと聞いている。

「え?」
  冬真は不思議そうにそう呟くと、佳乃の顔をまじまじとのぞき込んだ。

「皆が一緒の方が……良かった?」

 少なからずの落胆を含んだように見える瞳。佳乃はその眼差しに耐えきれず、また俯いてしまった。ぎこちない気が辺りに漂っている。途切れてしまった会話を取り繕うことが出来ないまま困り果てていると、彼はするりと自分の髪をほどいて細紐を差し出した。

「いつものように結んで貰えるかな? あまり格好悪くしてるのも良くないし……」

 差し出した手のひらに、一瞬だけ触れた指先。その熱さを紛らわせるように、佳乃は懐から櫛を取り出した。

 

◆◆◆


 天の輝きがない夜であった。

 御領主様の敷地から出て、山をぐるりと回ったところにある大きなお社。そこでは今年一年の豊作を祈って、春たけなわのこの時期に毎年大きな祭りが開かれていた。氏子の数も多く、方々の村からたくさんの人が出る。そのにぎわいは広いこの西南の地でも一、二を争うとさえ言われていた。
  お社は山の中腹に奉られていることが多いが、ここも例外ではない。山の裾野から上がっていく参道の両脇にはびっしりと提灯が灯され、離れた場所からはまるで黄金の帯が流れ落ちているようにすら見える。笛や太鼓のお囃子の音が途切れることなく続き、それに重なるように人々の晴れやかなざわめきが広がっていった。

 自分でも意識しすぎないようにと思うのだが、どうしても隣ばかりが気になってしまう。こんな風にふたりきりでいたら、誰かに誤解されるのではないだろうか。自分は別に構わない、でも彼は……。そんな後ろめたさも、雑踏の中に飲み込まれれば、いつかほぐれてくる。
  蜂蜜色の輝きはその下を歩く者たちを同じ色に染めていく。誰も彼も頬を生き生きと紅潮させ瞳を輝かせているように見えてくるのだ。そんな浮かれ立った人並みが鳥居の奥まで続いている。これだけたくさんの人々がいれば、誰も自分を場末の庵の侍女だとは気付かないだろう。佳乃はホッと胸をなで下ろした。

 すれ違う者たちは男も女も皆、いつになく晴れやかな装いをしている。もしかすると今まで過ぎた中にも顔見知りのひとりやふたりはいたかも知れない。だが、お互いにそれに気付くこともないのだ。

 ――そして。

 そんな賑やかな人々の群れにも増して佳乃をときめかせたのは、参道の両脇にずらりと並んだ露店の品たち。色とりどりの子供の玩具から見るからに高価な玻璃細工まで、その全てが物珍しくて心を引き寄せられる。明るい提灯の下では、いつも見慣れているはずのお道具ですら輝いて見えるのだ。
  普段は御館を訪れる物売りの品物くらいしか見たことがない。はしたないとは思いつつも、人垣のあちら側がのぞきたくて必死に背伸びをしてしまった。

「あ……」

 ひときわ女子たちが多く足を止めている一角に、知らぬ間に吸い寄せられる。そこに飾られていたのは端布を使った色とりどりの小物たちだった。優美な刺し模様を施したものもあり、もしや王族の方の御衣装の残りではと思えてくる。ぷっくりと可愛らしくかたち作られた巾着の袋。小さな小物入れに、匂い袋。あれこれ眺めているうちに、大振りの針刺しが目に止まった。

「何? それが欲しいの……?」

 その声に振り向けば、すぐ後ろに立っていた冬真が小銭の入った袋を手にしている。佳乃は慌てて小さく首を横に振ると、自らの懐から小銭入れを取り出した。祭りに行くのに手ぶらは体裁悪いだろうと、少しばかりの銭は持ち合わせていたのである。 

「ええと……その。姫さまに、お土産を差し上げたくて……」

 もしかして、彼はねだれたのだと勘違いしたのだろうか。そんな風に見られてしまったことが情けなく、また頬が染まる。近頃では女子の方からあれこれ品物をねだるようなことも当たり前になっていると聞いてはいた。ここ数十年のうちに、都を皮切りに若者たちの姿もあとを追い切れないほどに様変わりしている。でも、自分がそのような者たちと同じように思われたとは、すこし悲しかった。

 銭を数えながら袋から出し、店の主に差し出す。いくつか並んだ針刺しの中から、姫さまに一番似合う薄紫のものを選び手にした。金糸をびっしりと縫い込んでいるので、両手に包み込むと光の珠のようにも見える。どことなくぬくもりすら感じる気がして、嬉しかった。

「ねえ、あっちの団子屋が旨いんだ。人気があるから、早く行かないと売り切れてしまうかも知れないよ?」

 冬真はそう告げると、さっさと歩き出す。その態度が先ほどまでとは違って、どこか素っ気ないように感じた。

 押し寄せる人の波をものともせずに先へ先へと進んでしまうので、その背中を見失いそうになる。彼の方は自分がきちんとあとに続いていると思っているのだろう。確かに上背のある人だから、たくさんの人の中でも容易に探し出すことが出来る。ただ、追いつけるかというとそれとこれとでは話が別だ。
  祭りに集まる人々は露店や美しい飾り付けに心が奪われて、どうしてもよそ見をしがちになる。そんなときに佳乃のように頼りない身丈では彼らの視界には全く入らず、あちこちでぶつかったりはじき飛ばされたりするのだ。それでも必死に前に進もうとしたその時に、髪に結んだ紐が何かに引っかかってしまう。

「……あっ!」

 足下がふらついて、次の瞬間には膝を地についていた。衣の裾はまくれ上がっていたので汚さずに済んだが、その分膝にはべったりと泥が付いている。片手は先ほどの買い物を大切に抱えていたから、上手に手をつくことも出来なかったのだ。うずくまっていても、次々と人波は押し寄せてくる。ひとりふたりには蹴り上げられたかも知れないが、定かではなかった。

「佳乃さん……、大丈夫!?」

 ようやく人が切れたところに、彼が戻ってきた。心配そうにのぞき込む瞳に、たまらなくなって目を伏せる。ああ、やはり。何てふがいないんだろうか。こんな風に普通に歩くことすらおぼつかないなんて。彼の方ももはや、足手まといを連れてきたことを後悔しているのではあるまいか。

「立てる? 境内の奥にある手洗い場を借りよう。もうすぐそこだから、歩けるよね?」

 佳乃は俯いたまま、小さく頷いた。すると、彼はそんな彼女の手を取る。そして、それが泥だらけであることにも構わずに握りしめるとゆっくりと引き上げてくれた。

 

◆◆◆


「悪かったね、こういうの慣れてないと歩きづらいもんなのに」

 彼は申し訳なさそうに呟くと、串団子の一本を佳乃の前に差し出した。手ぬぐいを借りて拭ってみると、柔らかい土の上だったのが幸いだったのだろう、擦り傷ひとつ出来ていない。かいがいしく世話を焼いて貰うのがこの上なく申し訳なくて、何と言って応えたらいいのか全く見当が付かなかった。

「旨いから、お食べよ。あっちで冷茶も配ってたから、貰ってこよう」

 そんな言葉とともに、またひとりで取り残される。去っていく背中を見つめながら、佳乃は今は洗って綺麗になった自分の手のひらをぼんやりと見つめていた。

 ――すごい。まだ、どきどきしてる。何だか自分のものじゃないみたい……。

 すぐに振りほどかれるかと思ったのに、境内までのささやかな道のりは彼に手を引かれたままだった。いつも眺めているばかりだった大きな手のひらは、想像以上に逞しくて、それでいて柔らかかった。大きさも厚みも佳乃の二倍はありそうに思える。殿方にしっかりと手を握られたことなんて初めてであったから、それだけで胸がいっぱいになってしまった。

「冬真さま……」

 その場所で自分の頬に触れれば、ひんやりとした冷たさだけが広がっていく。人前であんな風に手を取り合うなんて、まるで本物の恋人同士のようではないか。

 次の瞬間、慌てて自分の想いを振り切る。
  ……何てこと! こんな風に浅ましく私が考えていると知れたら、彼はどんなに迷惑するだろう。きっと彼にとっては、これくらいのことは何でもないことなのだ。それをご大層なことのように思い違いをしたら、申し訳ない限り。

「……ごめん、待った?」

 顔を上げれば、冬真が小走りに駆け寄ってくるところだった。

「何だか冷えてきたから、温かいものの方がいいかと思ってね。少し離れたところで甘酒を配ってたから、そっちにしたんだ」

 入れ物はあとで返すんだよ、と言いながら、一方を差し出される。たっぷりとした大きさの器に、まだ湯気を立てている甘酒がなみなみとつがれていた。揺らめく水面を眺めていると、彼は当然のように佳乃の隣に座る。境内の中はいくつかの大きな置き石があり、幾人かの人影がそこで同じように休んでいた。左手の参道の方では、今も賑やかなさざめきが聞こえている。

 

  しばらくは、また沈黙が続く。

 隣にいる冬真が時折甘酒をすすり上げるときの音だけが、耳に付いた。あまりに手持ち無沙汰なので、ぼんやりと闇に包まれた境内を見渡している。最初は暗がりにしか見えなかったそこも、目が慣れて来るに従って、だんだん様子がはっきりとうかがえるようになった。

 ――うわっ、……嘘っ!?

 かろうじて叫び声を喉の奥に留めた。慌てて目をそらしたが、それでも今見たばかりの出来事が何度も何度も目の前に再現されていく。どうしようもなくうろたえているのではあるが、それを隣の人に悟られるのだけはどうしても避けたいと思った。

 丁度、自分たちから見て右手の奥。お社の影に隠れたふたつの人影が、遠目に見てもはっきりと分かるほどに寄り添っている。それだけではない、互いの身体を衣の上からさすり合ったり顔を寄せ合ったり。その姿から、自分ともあまり年の変わらない若い男女だと思われるが、誰が見ているかも分からないような状況で信じられないような行為である。

 どうにか気を紛らわせようと団子を口に含んではみるが、全く味も分からない。柔らかい餅の感触は口の中に広がっていくが、醤油あんの甘い味が舌に感じ取れないのだ。その一方で気になるのは、隣の人の存在ばかり。そうなのだ、祭りに誘われたときには仲間のひとりとして大勢で連れ立ってゆくのだと考えていた。こんな風に……ふたりきりでなんて意識したら、もうどうしていいのか分からなくなる。
  他の誰かなら、こんなに緊張はしないだろう。でも、今隣にいるのは、佳乃が人知れず想いを募らせている男に違いないのだ。もしも、……あんな風にされたら、幸せすぎて死んでしまうかも知れない。そんな場所に行き着くことが決して叶わないことは分かっている。だけど、それでも願ってしまうのだ。

 

「そろそろ、行こうか? あまり遅くなると良くないでしょう」

 こちらの気持ちなど、少しも分かってはいないのだろう。冬真は軽い動作で立ち上がると、空になったふたつの器を重ねて持った。そして、空いた方の手を佳乃の方に差し出してくる。

「また、はぐれると大変だからね。さっきは、本当にごめん」

 当然のように向けられる微笑みを、さらりと一瞬だけ瞳に宿した。

 

◆◆◆


  はっきりと決められたわけではないと思うが、境内に続く石段の上から眺めれば、登りと下りの人の波はきっちりと左右ふたつに分かれていた。お参りを済ませて戻る列に加われば、先ほどとは反対側の露店がずらりと並んでいる。またよそ見をしていては迷惑を掛けてしまうだろう……、そう思いつつもちらちらとそちらを見ることをやめられなかった。

  どういう風に場所取りが行われているのかは分からないが、登っていくあちら側よりも高価な品が多いように思える。そうは言っても、御館務めの侍女でも給金を幾月か貯めればどうにか手の届くほどのものばかりではあるが。
  自分は頂くもののほとんどを仕送りとして里の母に渡すのでいくらも残らない。しかし、それがなかったとすれば、食事も身につけるものも全て支給されて使うところはないのだから、だいぶ蓄えられそうだ。

 何重にも吊された飾り紐や細帯などは、佳乃のようなつましい暮らしにはおよそ縁遠いものに思われる。眺める分には胸がときめくが、実際にこれを結んで出掛ける先など思いつかなかった。御館にいる今でもそうなのに、里に戻ったらそれこそ一生行李の中に入れっぱなしになるに違いない。それでは、せっかくの品が可哀想だ。

 

 そろそろ山裾まで辿り着く、というその時。仕舞いの店先に美しい櫛を見つけた。
 見たこともない風合い、どんな種類の木で作られているのだろうか。磨き込まれた表面は純白の輝きを放ち、その上に可愛らしい小花模様がこぼれんばかりに散っている。きっととてつもなく高価な品なのだろう。それは他のものとは違い、美しい布張りの木箱に入っていた。

 とても、手に取ることなど出来ない。添えられた値札が裏返しになっているのを表にするだけの勇気もない。だが、佳乃はしばらくその場から一歩も動けず、ぼんやりと白い輝きを見つめていた。
  自分の櫛は母から譲り受けたもので、もうだいぶ使い込んでいた。丁寧に扱ったつもりであるが、それでも櫛の歯の端の方が何本か折れてしまっている。姫様のお世話をさせて頂くときは、専用のお道具を使うので構わない。でも、毎朝に冬真の髪結いを頼まれるときには、それが知られないように必死に手の中に隠していた。

 ――もしも、あれが私のものになったら。どんなにか晴れがましい気分になれるだろう……。

 どれほどに高価なものを手にしたからと言って、その者本人が素晴らしくなるわけでもない。慎ましくお暮らしになっても、その内側からお美しい心根が感じ取れる姫さまのように。あんな風な生き方こそが本物なのである。人は傲る心では決して満たされることはないのだ。
  分かっている、それくらいは分かっている。でも……、もうしばらくで自分は里に戻ることになるのだ。それまでの間、あとわずかな時間だけでもかけがえのないものにしたい。あの櫛を毎朝懐から取り出して、大切な御方の髪を梳いて差し上げる。その時の心地は何ものにもかえがたいと思った。

 

「佳乃さん、……どうしたの?」

 片手を包み込むぬくもりに、ハッと我に返る。次の瞬間に、佳乃は静かにかぶりを振った。

 

◆◆◆


  山を裾野に沿ってぐるりと回ると、それまでの賑わいが嘘のように元通りの風景がそこにあった。お囃子の音も聞こえず、耳に届くのは近くの沼に住む蛙の鳴き声だけ。ころころと喉を鳴らす歌声が、辺りに響き渡っている。

 それから。

 さくさくと踏みしめる草履の音。先ほどから、会話らしい会話もなく、いつもよりももっと無口なふたりがいた。もともと佳乃は訊ねられた時にしか口を開かない。言葉を掛けられなければ、永遠に沈黙が続くのは当然であった。

 ――どうしたのでしょう、やはりお疲れなのかしら……?

 毎晩のように夜回りの当番を引き受けていると言うのだから、大丈夫と言いながらも疲れが溜まっているのは当然だ。それなのに、こんな風に自分を祭りに連れ出してくれたのである。感謝しなくてはならない。

 繋いだままの手。大きな手のひらにすっぽりと覆われてしまった心許ない自分の指先に、佳乃は必死に力を込めた。

 西側の門から入れば、末姫さまの庵はすぐそこ。この手が解かれれば、もう再び触れることは叶わないだろう。

 だから、この道が永遠に続けばいいのに。夜の闇がどこまでも切れず、ふたりだけで当てのないまま歩き続けたい。同じ館にお務めする使用人としての親しさで、こんなにも優しくしてくれるのは分かっている。だけど……私は、この人が好き。出来ることならば、ずっとおそばにいたいのに。

 

「……ね、佳乃さん」

 気付けば、もう庵の灯りがちらちらと林の向こうに見えていた。真っ暗にするのは物騒なので、出掛ける前に灯しておいたのである。それを見た刹那。言い表しようのない寂しさが辺りに立ちこめ、ちりちりと心まで焼け付くような心地がした。
  このままお別れするのは辛い、でもこれ以上引き留めるのは迷惑だろう。様々な感情が胸を埋め尽くし、溢れ出そうになる。ぎりぎりのところで持ちこたえながら、ゆっくりと顔を上げた。でも、そこにあったのは見たこともない冷ややかな表情。闇に溶けそうな口元が、静かに動き出す。

「やっぱり、迷惑だった? 今夜の佳乃さん、あんまり楽しそうじゃなかったね」

 

 ――え……?

 瞬きをする間もなく、するりと解かれた手。寂しそうな瞳が一瞬佳乃をとらえ、そのまま彼は背を向けて去っていった。

 

◆◆◆


 翌朝。いつも通りに、水桶が炊事場の近くに置かれる音を佳乃は裏戸の内側で聞いていた。しばらくはそこに立ち止まっていた足音が、やがて遠ざかっていく。時々、それがやんで。もしかしたら振り向いてくれたのはないかとすら思う。……それでも。

 ちっぽけな双の手にはしっかりと使い馴染んだ櫛を握りしめている。再び、あの方の髪を梳くことはないのだ。……もう、そんなことをしてはならないのだから。

 

 佳乃は土間にうずくまったまま、声を殺して泣いた。頬を止めどなく、しずくが流れ落ちていく。泣いても泣いても、悲しみはさらに募るばかりであった。


 

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