そんな朝がいくつ続いただろう。恐ろしくて、途中から数えることもやめていた。 こんな風にしていれば、いつかあの方も恩知らずな自分に愛想が尽きて、二度と訪れなくなるに違いない。口に出してそれを希望する勇気はどうしても持てなくて、佳乃はただひたすら祈るのみだった。
――今夜の佳乃さん、あんまり楽しそうじゃなかったね。 時折、耳鳴りの如くこだまする彼の言葉。せっかく忙しい中、佳乃のために時間を作ってくれたのだ。いつもいつもひっそりと晴れやかな場所になど縁遠く過ごしているのを、見るに見かねて誘ってくれたに違いない。それなのに……あんな態度しか取れなかったとは。 ……でも、あんな風に思わせてしまって。何故すぐに、それは違うと否定することが出来なかったのだろう。人の口は時として、心にもないことまで吐き出す。それなのに……揺るぐことのない真実を伝えることが叶わないなんて、情けない限りだ。 もう、二度とお目に掛かる勇気はない。これ以上、惨めになるのは耐えられなかった。
彼は優しい人だ、きっと佳乃がいつも通りに姿を見せれば、何事もなかったかのように笑いかけてくれるだろう。でも、その微笑みの下でどんな風に思われているかを考えながら過ごすのは辛すぎる。それならばいっそ、二度とお目に掛かることもないままでいよう。永遠に羽ばたけることのない心を抱いて、残りわずかな御館務めをしっかりとこなそうと決めた。 幸い、貴子様が御実家にお里帰りされているので、しばらくはあちらの館への用事もない。姫さまも内心は気になさっているご様子だが、いつもながらの穏やかさでお声を掛けてくださる。あの晩にお借りした衣も小物も全てお返ししようとしたが、「お土産のお礼だから」とそのまま受け取ることになってしまった。
◆◆◆
いつか部屋の奥まで差し込んでいた日暮れの朱が、板間の上から消えていた。自分の分の夕餉の膳だけを受け取りに行くのも億劫で、ぼんやりと過ごしている。留守居を頼まれたとはいっても、たいした仕事もない。このようにひとり置かれれば、どうしてもいらぬことまで考えてしまうのだ。 ――ああ、こんなことなら無理を言ってご一緒させて頂けば良かった。 大切なご主人様の前では、出来る限り明るく振る舞おうと気が張る。それに他にもたくさんの御方がいらっしゃれば、取り急がしく過ごしているうちにあっという間に夜は更けてしまうだろう。
「一度、お里の方に戻ってみてはどう? この文の様子ではあなたの母上もお元気そうじゃない、実際に顔を見れば安心出来ると思うの」 有り難いお言葉ではあるが、とてもそんな気分にはなれなかった。無言のままにかぶりを振る佳乃を、姫さまはどんな風に思われただろう。こんなときにすぐに気の利いた言葉が浮かべばいいのに。どんなに自分を奮い立たせようとも、出来ないものは出来ないのだ。――それに、今戻ることは届いたばかりの母の文に従うと言うことに他ならない。 ぱらり、と力ない指先が文を開く。姫さまの乳母に取り立てられたほどであるから、佳乃の母には一通りの教養があった。とてもご立派な方々と同じようには行かないが、かな文字の文なども難なくしたためることが出来る。筆の運びには、知らないうちに書き手の心映えが表れると聞く。母の気丈さをそのままに映し出したしっかりとした文字を辿りながら、佳乃は深い溜息をついた。 母は姫さまと自分へ、それぞれに別の文を届けてくる。姫さまは佳乃が受け取ったこの文の内容をご存じない。だが、たとえ訊ねられたとしても、正直に答えることはせずに曖昧な言葉で濁してしまっただろう。姫さま御自身も色々と心配事を抱えられているのだ。この上に、自分のことで心を痛められる必要はない。 近頃の母からの文は、縁談の話ばかりだ。方々に世話を頼んでいるらしく、それなりの手応えを感じていると言う。母としては里に戻ってくる娘のために出来るだけ安定した場所をと考えているのだろう。だが、そのどれもが心の上を素通りするばかり。どうしても自分に向けられている話とは思えないのだ。今回も例外はない。
――山向こうの分所の主殿が、先年妻に先立たれて独り身になっているそうです。十と八つの娘さんもいて、男手ではこれから難しくなるでしょう。出来ることならすぐにでも来て欲しいと、先方はとても乗り気ですよ。 話を進めている母の嬉しそうな顔が目に浮かぶ。御領主様やそのご家来衆が視察の際に滞在される分所を守る家は、どの地でもかなりの名家である。そのような家に入る女子は、高い教養を身につけてないととても務まらないであろう。仲介してくれた人もその辺りを考慮に入れたらしい。……でも。 佳乃には、全く想像することが出来なかった。会ったこともない一回り以上も年の離れた男とこれから暮らしていく自分を。お目に掛かる前に、見ず知らずの相手をあれこれ想像するのは申し訳ないと思う。でも、それが娘心に描くときめきとはかけ離れていることだけは明らかだ。 このまま自分がどうしたところで、進み始めた話の成り行きが変わることはないだろう。母は信じてる、佳乃が御館でのお務めを終えればすぐさま里に舞い戻ると。今まで長い間離れて暮らしてきたのだ、この先は母の幸せを一番に考えなくてはばちが当たるというものだ。それは最初から承知している、なのに……どうしてこんなにも胸が痛いのだろう。
――冬真さま……。 手のひらに残る、わずかな感触。たっぷりとした逞しい手に身体中が包まれているような気がした。何て情けないのだろう、自分には何もないのに求めるだけは一人前だなんて。 母には申し訳ないと思う、こんな気持ちを抱いてしまうこと自体が情けない限りだ。他の何よりも誰よりもただひとり、姫さまのことを大切に思いお仕えしなくてはならなかったのに。今の自分は、その大切な御方にまで気を揉ませてしまっている。使用人の身でお気遣いを頂くなんて、とんでもないことだ。どうにかしなくてはならない、早く吹っ切らなくてどうすると自分に問いかけても、未だに上手くいかない。
彼との未来ならば、いくらでも思い描くことが出来る。浅ましいこととは思いながら、それでも夢見ずにはいられなかった。御館務めの使用人が夫婦になったところで、与えられるのは廃屋を手入れした小さな部屋だけ。でもそこで慎ましくも幸せに暮らすことが出来たなら……。 とんでもない馬鹿げた妄想だとは思う、でも願わずにはいられない。たとえうたかたの夢であったとしても、もう一度あの優しい笑顔で見つめられてみたい。この世にふたりしかいないと錯覚してしまうほどの満たされた心を、再び抱くことが出来たなら……。
「……うっ……!」 今宵は誰にも聞かれる心配はないと分かっていても、大声を上げて泣くことも出来ない。ほろほろとこぼれ落ちるしずく、それが留まるところを知らずに流れ落ちていく。嫌われてしまうのは怖い、でも会いたい。会いたいけど、……恐ろしい。こうしているうちにも時は流れていく。お暇(いとま)を頂けば、たったひとつの糸も断ち切られてしまう。 彼にふさわしい女子になれないのだから、仕方ないのだ。満足に話も出来ないような情けない身の上では、どうしようもない。いくら手鏡をのぞき込んで笑顔を作ってみても、ひとたび彼の目の前に立てば恥ずかしくて俯いてばかりなのだから。この想いをお伝えする術はない。伝えたところでどうなるものでもないとは思うが、最初のきっかけすらなければ何も始まるわけはない。 もっと、ゆっくりと過ごしたかった。せめて、まっすぐに彼を見上げて微笑み返せる自分になれるまで。でも、駄目。もう自分に残された時間はわずかなのだ。人はそんなにすぐには変われるものではない。 このような感情を、よもや自分が抱くことになろうとは思っても見なかった。初めから母からきつく釘を刺されていたし、佳乃自身でも大好きな姫さま以上に心を寄せるお方が現れることなどあるはずはないと信じていた。それなのに……彼に出会ってしまったのである。他の誰の目から見ても、ありふれたやりとりでしかなかっただろう。でも、佳乃にとってはそれはかけがいのない夢のようなひとときであった。 そうか。夢であったから、こうして覚めてしまうのが当然。永遠に続くことなどあり得ない、最初から多くを望まなければ良かったのだ。明け方の夢のように、ほんの少しの余韻を残して早く忘れ去ってしまいたい。こんな辛い心地のままでは、この先どうして生きながらえることが出来よう。
――ああ、このまま。この心ごと、跡形もなく打ち砕くことが出来たなら。
ゆらり、と。たったひとつ灯した蝋燭が揺れる。戸締まりはしっかりとしたはずなのに、どこからか気が流れ込んでいるのだろうか。今宵はそれほど外が荒れている様子もない、でも……やはりかすかな揺らぎを感じた。 「……?」 何かに引かれるように振り向く。でもそこには、ぴっちりと閉じてかんぬきをした裏戸があるだけ。何ひとつ変わったところは見受けられない。佳乃は軽く吐息を落として、またぼんやりとまどろんだ。もう自分用のしとねは敷いてあり、その上で姿勢を崩している。姫さまはお部屋の奥の几帳で仕切った場所でお休みになる。今夜はその場所もひっそりとしたまま、闇に包まれていた。 この庵に姫さまのお相手となる御方をお迎えするのもそう遠くないはずである。どこから見てもつましい佇まいを、どうしたら少しでもお客様をお迎えするにふさわしい場所に出来るかが、当面の佳乃の悩みであった。季節の花を欠かさずに飾り几帳も明るい色目に変えてみるが、なかなか上手くいかない。大がかりにお道具を動かせば良いのだろうが、とても自分ひとりの力では無理であった。 ――と。 枝葉を揺らす、かすかな気流と共に。静かな闇を切り裂くように、草履の音が響いてくる。最初はやはり聞き違いかと思った。だが、それはやむどころか次第に大きくなるばかり。まるで文を運ぶ使者のように早足のそれに、再び振り向いていた。 素通りして他に行くのだろうとばかり思っていたのに、足音は裏口のすぐ側で止まる。一瞬の間があってから、どんどんと裏戸を強く叩く音がした。
――え? 何事……?
ひとりきりの闇にいて、それはとてつもなく大きく辺りに響き渡るように感じる。すぐには反応することも出来なくて、佳乃は震える指先で自分の羽織った重ねを握りしめた。 何だろう、こんな夜更けに。急ぎの文なんて、今までここに長く住んでいて一度も届いたこともないのに……。まさか、里の母に何かあったのかと、悪い想像まで浮かんでしまう。ぞくぞくと背筋が震え、この上ない不安が胸を覆い尽くした。 先ほどとはまた違う恐怖で涙が溢れそうになる刹那。足音の主は、ようやく声を発した。 「――ね、いるんでしょう、佳乃さん。ここを開けて、出てお出でよ……!」 どくん、と胸が大きく波打った。でも、そんな。……まさか。 ハッとして腰を浮かし、それでも信じられない思いですぐには立ち上がることが出来ない。だが、そうしているうちにも、戸を打ち鳴らす音はやむことはなかった。このまま居留守を決め込むことも出来るだろうか。しかし彼は姫さまの兄上様の元にお仕えする者なのである。もしも、お取り次ぎをしなくてはならない用件があるなら無視することは出来ない。そう、……自分は姫さまの侍女なのだから。
やっとのろのろと動きだし、その場所までたどり着くのにどれくらいの時間が掛かったのだろう。ごとん、と鈍い音を立てて戸を開けると。そこに立っていたのは、やはり想像通りの人であった。 「佳乃さん――」 どんなにか慌ててやってきたのか、その姿を見ればすぐに分かる。まとめた髪は半分以上がばらばらと落ちて、膝下ですぼまった小袴の裾まで泥しぶきが跳ね上がっていた。足やすねは言うの及ばず、草履はもはやその役目を全く果たしてはいない。それに……、何だろうこの、今にも飛びつかんばかりの弾んだ様子は。未だに息は荒く苦しそうだが、それでも喜びがその表情に溢れている。 「……?」 引き戸にしっかりとつかまったまま、佳乃はしばらく呼吸をすることすら忘れていた。今さっきまであんな風に嘆き悲しんでいて、顔もぼろぼろになっていることだろう。それが分かっていても、衣の袖で隠すことすら思いつかなかった。
何故、彼がこんな風に訪れるのだろう。 いくら考えても、全く見当が付かなかった。もう二度とお目に掛かることは出来ないと諦めていたのに……いきなりこのように現れないで欲しい。こちらは一度開いてしまった木戸を今更閉じることも出来ず、ただただ呆然と立ちつくすばかりだ。気の利いた受け答えなど、出来るはずもない。
「ああ、思ったよりも元気そうで良かった……! 伏せっていると聞いていたから心配していたんだ。この間は夜風にたっぷりと当たらせてしまったから、それが原因だったらどうしようかと気が気じゃなかったよ」 明るくはじける声に耐えきれず、すっと顔を伏せてしまう。何だろう、この人は。どこから話を聞いたと言うのか、自分は全く普段と変わらないのに。確かに心は元気ではないかも知れないが、少なくとも毎日のお務めには支障がない。およそ心配をして貰うような状況ではないのだ。どこでどう勘違いをなさったのだろう、申し訳ない限りである。 「そんな、……その」 あの祭りの夜に別れて、それきりである。自分の態度でがっかりさせてしまった彼に、詫びる言葉のひとつも未だ伝えていなかった。これでは何とも情の薄い女子ではないか。嫌われてしまうのなら当然だが、こんな風に訪ねてもらえる理由はついに思い当たらない。 「ああ、佳乃さん――」 そんなこちらの心地など、気に留めてくれる気配もなく。長い指先が顎の線に沿って触れ、そこにこもった強い力で難なく顔を上向かせられる。恥ずかしくて情けなくて、とても面と向かえるような状況ではないのに、どうして分かってくださらないのだろう。怯える瞳で見つめれば、キラキラと彼の瞳に天の輝きが瞬いていた。 「嬉しいよ、俺……何だか信じられなくて。もう、いてもたってもいられない感じで、慌ててお暇を頂いてきたんだよ。ご主人様も仲間の皆も呆れているのが分かったけど、そんなのは構っていられなくって――」 唇がぶるっと震え、慌てて押さえた目元からほろっとこぼれ落ちるしずくを確かに見た。訳が分からず呆然としているままの佳乃をすっかり置き去りにして、彼はひとりで舞い上がっている。……そうだ、何かにとても感激している様子なのは分かった。だが、肝心のその理由が分からない。こちらから訊ねればいいのだろうが、それも上手くいきそうになかった。 このように、殿方が涙を見せることがあるなんて……。一体、どういうことなのだろうか。
涼やかな気の流れが、ふたりの間をすり抜けていく。 全く用をなさないままの口元、それを震わせながらかろうじて立っているだけの自分。くすん、と彼が鼻を鳴らす気配が、少しぼやけた闇の向こうから聞こえて、まだ夢が続いていたことを思い出させた。 「あ……、ああ、ごめん。すっかり取り乱してしまって……。そうだね、まずはお礼を言うのが先だった。こんなじゃ、呆れられてしまうね」 彼はようやく気付いたように、脇に抱えていた布包みをこちらの目の前に差し出した。何となく見覚えのあるそれに、佳乃は小首をかしげる。色々なことがいっぺんに起こりすぎてしまって、すっかり心が乱れてしまっていた。普段ならすぐに思い当たることも、上手くいかない。 「さる御方のお使者だという方が、先刻これを届けてくださったんだ」 一度は解いて、いい加減に結び直したあとのある布端。それを再び解くのは造作のないことであった。……そして。 「……え?」 佳乃は我が目を疑った。だが、あれほどに時間を掛けて向き合った文様を忘れるはずもない。特別の変わり織りは、全く同じものをこしらえる方がむしろ難しいと言われている。一枚一枚が一点ものと言っても間違いないのだ。艶やかな群青の輝きが目に映る。
そう……包みの中から現れたのは。姫さまに丁寧に教えて頂きながら初めて仕上げた、あの晴れ着に違いなかった。
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