遠いどこかで、かすかな水音が聞こえる。ここから一番近い水場はだいぶ歩いたところにあるはずなのに、それも響き渡ってしまうほど今宵の気は澄み渡っていた。
――これは……、一体どういうことなのだろう? 自分には全く身に覚えのないことである。ほんの数日前に最後の針を刺し終えた男物の晴れ着は、そのまま姫様にお渡ししていた。いつもと変わらぬ優しい微笑みで受け取ってくださったが、何しろ初めての仕事だったのだ。そこらじゅうに見苦しいところもあるだろう。あのままでは、とても正式な場で用いる衣装にはならないのは分かっていた。 出来ることなら手元に置きたいとも思ったが、そのようなことは畏れ多くてとても言い出せることではない。佳乃のような使用人の身では、よほど無理をしなければ手に入れることも叶わないような高価なお品。それに後生大事に持っていたとしても、それこそ宝の持ち腐れというものだ。近い将来、自分の夫となる人もここまでのものは立場上必要ないであろう。 ひと針、ひと針。普通の衣を仕立てる何倍もの時間を費やし、暇を見つけては針を進めた。艶やかな絹に触れるだけで、決して届くことのない想いがふっと胸奥から湧き出でてくる。他のことを考えて気を紛らわせようとしても、それは出来ぬ相談であった。この頃では夜ひとりで留守居をすることも増えたので、誰も憚ることはない。頬をこぼれゆくしずくと共に、溢れ出る全てを必死に針目に縫い止めていった。 辛かった、苦しくて苦しくて、自分がどうにかなってしまいそうだった。自分には無理だ、諦めようと何度も思うのに、上手くいかない。もう先々のことまで決まりつつある身の上で、何とも情けないことだ。
「あ、……あの。これは……」 それでも。思いも寄らぬ出来事が起こったことで、かえって冷静になることが出来た気がする。この晴れ着を仕立てているときも、一度として彼に手渡すことなど考えなかった。 この地で、女子の身の上で決まった殿方の衣を用意出来るのは、妻かそれに準じた立場の者だけである。そんな関係でもないのに、自分からことを起こすなどと言うことは、みっともなくてとても出来ないことだ。はしたなく高飛車な女子として、物笑いの種になるくらいが関の山である。竜王様の都では、使用人たちの間でそのようなやりとりも頻繁に行われていると聞いていたが、場所が変わればそれも滑稽なことになってしまう。 ようやく少しずつ考える力が戻ってきた頭で、ゆっくりと想いを巡らせる。もしやこの晴れ着は、姫さまの兄上様の元に届けられるお品だったのではないだろうか。季節の変わり目に使用人に与える衣を、しかるべきところに頼んで欲しいとお願いがあったのかも知れない。まだこちらに上がって間もない貴子様では、気の利いた仕立屋もご存じないのであろう。 「俺、やっぱり誤解していたかも知れない。佳乃さんがいつも言っていたとおり、こちらの姫様はとても素晴らしい御方なのだね。自分が自分で恥ずかしくなったよ、こんなにも心が狭くては佳乃さんに呆れられてもしかたないな……」 「……冬真さま?」 一体、何を仰るのだろう。佳乃には全く分からなかった。手渡された晴れ着の包みをようやく抱えていた腕をゆっくりと包まれる。握りしめられた部分が、切ない痛みを覚えた。 「お使者の方から、言付かったんだ。――今夜は佳乃さんがひとりで庵にいるから、って」 佳乃は俯いたまま、息を飲んだ。そんな……そんなはずはない。だって、姫さまは何もご存じないのだから。自分は何もお伝えしていなかったし、もちろん姫さまも何もお訊ねにはならなかった。衣のことだって、ただ……。 「あ、……あの」 違う、そんなはずはない。この人は何か思い違いをしているのだ、そうに違いない。だって、そんな。……まさか。ぐるぐると、頭の中で様々な想いが巡っていく。でも、いくら考えてもひとつにはまとまりそうになかった。 自分の心音ばかりが、大きく鼓膜に響いてくる。震えが止まらない身体をもてあましていたその刹那、冬真のぬくもりがふっと腕から離れた。 「あの、いいかな? 実は、俺からも渡したいものがあるんだ。これじゃあお礼みたいにだけど、そうじゃなくて――」 そう言うと、彼は懐を探った。袂ではなくて、懐の中に入れていると言うことから考えて、とても大切なものなんだろうと言うことが分かる。これほどに心が乱れているのに、何故か一方では冷静にそんな風に考えられる。自分が何とも滑稽に思えてならなかった。だけど、そんな余裕もそこまで。取り出されたものを見たとき、佳乃の頭を埋め尽くしていた全ての思考が吹き飛んでいた。 「な……、どうして」 手のひらにかろうじて乗るほどに小さな布張りの桐箱。そっと開けられた中に入っていたものを、一目見たあの夜から忘れたことはなかった。 「本当はね、あの場ですぐに買ってやれれば良かったんだけど、とてもそこまでの持ち合わせはなかったから。あのあとご主人様の居室に戻って、居残り組だった仲間たちに必死に頼んで工面して貰ったんだ。それでも足りない感じだったから、最後にはご主人様にまで給金の前借りをして。集められるだけの銭を集めて、もう一度あの出店まで戻ったんだよ」 磨き込まれた純白の表面はあの夜よりももっと艶やかに輝いていた。遠目には良く分からなかった小花の模様も、今はその細部までがはっきりと確認出来る。咲きほころんだ花弁も、少し俯いた蕾もそれはそれは愛らしく、香しい匂いが辺りに漂ってくるようであった。 「……こんな、でも……」 佳乃は力なく首を横に振るのがやっとであった。この櫛をどうしても自分のものにしたいと願った一瞬があったのは、まぎれもない事実。でも、とても叶うはずはないと言うことも承知していた。それがどうして、今、目の前にあるのだろう。これを夢と言わずになんとしようか。 「受け取って欲しいんだ、佳乃さんに。……欲しかったんでしょう? 戻り道でもずっとそのことを考えていたんじゃないかな。だから、あんなに大人しかったんだよね。……そうだよね?」 何と答えたらいいのかも分からず、佳乃はぼんやりと彼を見上げた。いつか見たことのある、不安げな瞳。それが切なくて仕方ない。 あのとき、物思いに耽っていたのは彼の方だと思っていた。何も話しかけてくれなかったから、こちらも返すことが出来ないままでいたのだから。それでも、満ち足りた気分でいたのだ、――あの瞬間までは。 思い出すと、途端にもの悲しい気分になって塞いでしまう。するとそれを感じ取ったのか、彼は小さな声でもう一度「ごめん」と言った。 「祭りの夜……佳乃さんがあんな風に綺麗にして待っていてくれたのが、本当に嬉しかったんだ。楽しみにしてくれていたんだって、そう思っただけで舞い上がりそうだったよ。でも……、途中で。やっぱり佳乃さんは、末姫様のことばかり考えているんだって気付いてしまって。そしたら自分でも分からないうちに腹が立って……あれからずっと、後悔してた。何と言ったら許してもらえるか、全然分からなかったよ」 どうしてそんなことを言い出すのか、全く分からない。そうしているうちにも、純白の輝きに吸い込まれそうになる。……駄目、そっちへはいけない。何故、こんな高価なものを受け取れるだろうか。違うのだ、この衣は自分の意志で差し上げたものではないのだから……、こんな風に喜んで頂くのは申し訳ないことなのだ。 心遣いは嬉しいが、とても受け取れない。そう言い出そうとした佳乃を、彼は先回りして制した。 「櫛だから、丁度良かったんだ。もしも他の品物だったら、こんなに無理はしなかったんだけど。……実はね」 彼はそこで言葉を切ると、自分の気を落ち着かせるように大きく深呼吸した。それでも震えている口元が、ゆっくりと開いて。 「俺の里ではね、櫛を女子に贈るのは一生に一度のこととされているんだよ。だから、受け取って欲しいんだ、俺の気持ちだと思って」 「そんな……」 佳乃はそれ以上の言葉を続けることがどうしても出来なかった。気を強く保っていなかったら、とてもこの状況に耐えられるものではない。こんな風に彼が目の前にいて、自分をまっすぐに見つめていると思っただけで何も考えられなくなるのに。 「駄目とは言わせないよ、だってこの晴れ着が佳乃さんの気持ちでしょう? ……そうだよね」 そう告げると。彼は櫛の入った箱はそのまま佳乃の手の上に残し、晴れ着の包みだけを自分の手元に戻した。それから、ぱらりとそれを広げて、ゆっくりと羽織る。下に着ているのはいつもの下男の水干と小袴。でも月の光が作り出す陰影に隠されて、その姿はさながら都の貴人のように見えた。 「ほら、ご覧よ……立派なものだろ? 俺、里に戻っても跡取りでもないし、このまま使用人の身分で一生を終えるしかない男だけど、それでも佳乃さんのためだったら、この晴れ着に負けないほどに頑張るよ。今はまだ心許ないかも知れないけど、……信じてくれないかな?」
それはまるで。 夢にも描いたことのなかった情景であった。どんなにこの想いが募ろうとも、決して彼が振り向いてくれることなどない。そう思いとどまることが出来たからこそ、どうにかやって来られた。 それが、……こんな風に何もかもが溢れ出でてしまったら。もう止めることが出来ない。
「……冬真、さま……!」 固く楔(くさび)を打っていたはずの想いが、堰を切ったように溢れ出す。これが夢なら、それでいい。何度も我が心が望んだこと。一度でいいから、この想いを遂げること、それ以外にどんな幸せがあろうか。多くは望まなくていい、誰もが保証する永遠なんてあり得ない。 しっかりと腕に抱かれた刹那。望まれた轍(わだち)から外れることを、少しも恐ろしくないと佳乃は思った。
◆◆◆
ごくごく近い場所で、衣擦れの音がする。ひとつだけ残した灯りの中、恥ずかしくてどうしても視線をそらしてしまう。緩んだ襟元から、差し込まれる手のひら。ふるっと、身体が震えた。 「離れ庵の末姫様のことは、それまでも仲間内で時折話題には上がっていたけど。辺鄙な場所を好む変わったお人だって、そんなに評判は良くなかった。たったひとりだけ侍女を置いていると聞いていたど、誰もどんな人なのか知らなかったし。それが……、こんなに小さくて可愛らしい人だったなんてね。正直、驚いたよ」
とり散らかったままの部屋に上げるのは、とても抵抗があった。それにここは姫さまの庵であって、自分の居住まいではない。主のいない間に男を上げるなど、里の母が聞いたら卒倒しそうだ。それなのに、何度も何度も口を吸われ甘い言葉を囁かれているうちに、頑なな心も解けていく。初めからそうするのが当然だったかのような、そんな心地すらしてきた。 男が用意した水桶で足を清めている間に、慌てて辺りを片づける。その時に、広げたままの母の文を目にしてしまい、どうしようもない気分になった。今から自分が成そうとしていることは、誰よりも自分を愛してくれる人への裏切りなのだろうか。館の者と一緒になったと知ったときの母の嘆きは想像に余りある。それを承知しても、今更後戻りは出来なかった。
「やっ、……そんなっ!」 何かに急き立てられるかのように、いつもに増して饒舌になっていた彼が、言葉を止めてこくりと喉を鳴らす。その次の瞬間に赤子のように胸に吸い付かれて、佳乃は耐えきれずに叫んでいた。彼の口内で存在を固くした頂がゆっくりとかたちを変えていく。自分の変化をにわかには受け入れがたい心、それすらも解きほぐそうとする甘い感覚。 姫さまの侍女として、男女の閨の営みについても一通りの教育は受けてきた。それでも、年配の侍女から口頭で聞かされる一部始終はあまりにもなまめかしく、何とも現実味に欠ける行為としか受け取ることが出来なかったのである。女子としていつかは通らねばならぬ道とは知りながら、どうにかして避けることは出来ないかと思った。 ――だが。こうして、深く想いを寄せる相手に出会って。それは必ずしも浅ましい行為ではないと気付く。彼の起こす波で、自分がたかまっていく。そんな互いのやりとりが、言葉を越えた世界で繰り返されていくのだ。 いつも心のどこかで不安で溜まらなかった。自分は女子として、確かなものを何も持ち合わせていないのではないだろうかと。でも……違う。自分はこうして愛されることが出来る。この瞬間に、求められる幸せは他のどんなことにも代え難いものであった。 己の肌がここまで柔らかく香しくあったのか。そして、これほどに深く愛おしんでもらえるものであったのか。嬉しくて、でも恥ずかしくて。ぎりぎりのところでもがき続けている。激しい動きに舞い上がる髪を、彼の指が絡め取り口づけた。その行為を見た途端に、その存在すら知らなかった自分の奥深い場所が疼き始める。 「こんな風に……佳乃さんの全てを手に入れたいと願っていたよ。俺は何て幸せな男なんだろう、こんな日が本当に来るなんて……!」 彼自身を受け入れるときの痛みは、佳乃にもう戻れない場所に行き着いてしまうことを教えてくれた。逃れたいような、でももっと深みにはまりたいような不思議な感覚。思わず彼の首に腕を回してすがりつくと、それよりもずっと強い力で抱きしめてくれた。もうそれだけで十分だと思えてくる。
――きっと、伯母さんは不幸なばかりの一生を過ごしたわけではないのだわ。 こんな風に愛する人と心がしっかりと結ばれた瞬間が確かにあったのなら。幸せは自分で感じるもの、他の誰かがその重さや深さを知ることは出来ないはず。だって今ここにいるのは、私自身だもの……。
心の隅に残っていたわだかまりが、解けて消えていく。もう……迷うことなどなかった。 闇色の気が、互いの漂う髪が、散らばり、戻り、また広がっていく。ふわっと身体が浮き上がるような感覚のあと、もっと強い波が訪れる。肌と肌が小擦れ合う音を生まれて初めて聞いた。激しさの中に静寂が訪れる刹那。気の遠くなるような夜がどこまでもどこまでも続くように思われた。
◆◆◆
「……お早う、佳乃さん」 毎朝のように聞いていたはずの挨拶も、何だか今日は恥ずかしくてならない。何もまとわないままの腕に抱き取られて、一頻り朝の語らいを楽しんだ。そのあと、名残惜しそうに唇が離れる。それでも彼はまるで自分の宝物を確かめるかのように、佳乃の髪を指に絡めて弄んでいた。 「末姫様と一緒にいるときの佳乃さんが素敵だと思ったんだ。あの方とご一緒ならば、あんなにも自然に微笑んで楽しそうなのに、俺の前に来ると妙にかしこまって顔をこわばらせるんだから。いつか絶対に、ふたりの間に割り込んでやろうと思ってた。……おかしいだろ、本当に。そんなの張り合ったところでどうなることでもないのに」 自戒のような言葉のあと。彼はゆっくり起きあがって、身支度を始める。朝の光にくっきりと浮かび上がる肩の輪郭が逞しくて、とても直視出来ない。想像以上に力強い腕は、夜通し佳乃を包んで放さなかった。一度こうなってしまうと、自分の方が彼を手放せない気分になる。自分の中の変化に今更ながら驚かされた。 「佳乃さん?」 少し遅れて自分も身を起こし、彼に背を向けて衣を整えていた。こんな風に寝起きの顔を見られるなんて、恥ずかしい限り。もう少し早く起きて、先に支度を終えていれば良かった。ああ、早くしなければ。朝餉の前に姫さまをお迎えに行かなければならなかったのに。 「はっ、……はいっ!」 慌てて振り向くと、彼はもうすっかり身支度が整っていた。普段通りの姿に戻ってくれたことで、少しは余裕が出てくる。すると、彼は佳乃の方に腕を差し出した。その手にあるのは……。 「いつものように、髪を結ってくれる? 何日も満足に櫛を入れてないんだ、梳くのに時間が掛かると思うよ。……やっぱり、ちゃんと毎朝お願いしないと駄目みたいだ」
触れる指先に、新しい熱が宿る。 この人と、ずっと一緒にいたい。彼をまっすぐに見つめ、そう心から思えたとき。佳乃の頬にはようやく温かい笑みが浮かんだ。
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