ぼんやりと、春霞。白く煙った向こう、いくら目をこらしてみても見えない風景を心に思い描いている。 敷地の一番南に立てられた日当たりのいい居室。こんな風に気持ちの良い陽気の日には、庭先に椅子を出して手仕事をするのがこの頃の日課になっていた。
「佳乃? ……ああ、やっぱりこっちにいたのか」 居室の裏手の方から声がして、ゆっくりと振り返る。やりかけの縫い物を脇に置くと、佳乃はにっこりと微笑んだ。 「おかえりなさいまし、今日はいつもよりもお早いですね」 立ち上がって出迎えようとしたが、「いいから」と制されてしまう。こちらに移り住んですぐに、彼は侍従に昇格した。半年ほどが過ぎて、ようやくその姿が身に付いてきた気がする。でも、自分を見つめる優しい眼差しはあの頃から少しも変わらない。 「うわぁ、今日もたくさん作ったんだね。あまり根を詰めちゃ駄目だと、薬師(くすし)様にも言われたでしょう。仕事熱心なのは素晴らしいことだけど、何事もほどほどに、だよ?」 山積みになった小さな肌着をひとつふたつとつまみ上げて、感心するように改めている。その姿が何だかおかしくて、佳乃はくすくすと声を立てて笑ってしまった。 「あ……、そう言えば。南峰から文が届いたんだって? 戻る途中で文使いの方とすれ違って聞いたんだ、どんな知らせだったのかな」 そう訊ねながらも、彼はもう半分その内容を分かっているという様子だ。それもそうであろう、自分でも抑えきれないほどにうきうきとした心地になっているのだから。いつも側にいてくれる人は何もかもお見通しだと思う。 「ええ、月初めに無事に若君様がお生まれになったそうです。少し早いお産ではあったご様子ですが、姫さまも若宮様もお健やかとのこと。誠におめでたきこと、私も安堵致しましたわ」
あれから。瞬く間に一年の歳月が過ぎていった。 昨冬の声を聞いた頃、姫さまは夫君になられた御方とその方の新しい任地である南峰の地へ旅立って行かれた。それと前後して、佳乃もこの西の地に移り住んでいる。今では貴子様付きの侍女として、お務めに励む毎日だ。とはいえ、このしばらくは体調が悪く御館へ上がるのを控えているのではあるが。 姫さまにおかれては思いがけずに早いご懐妊であったので色々と気を揉んだが、こうしてはるばると離れた地ではただひたすらにご無事をお祈りする他にない。春先にご出産された貴子様のお世話で少しは気も紛れたが、ようやく良い便りを受け取ってやっと肩の荷が下りた気がする。 ――でも、良かった。きっとこれで、姫さまの御実家の皆様も安堵されるでしょう。 あれほどに強い想いが姫さまのお心にあったとは、長い間お仕えしていても気づけなかった。そのお姿を案じながらも、どんなにか勇気づけられたことか。やはり姫さまは佳乃にとって、永遠に憧れの御方なのである。
「そう、それは良かったね。佳乃も、すぐにでも飛んでいきたい気分ではない? 嫌だな、いきなり旅支度なんて始めないでくれよ。君のことだから若宮様の乳母になりたいと言い出すんじゃないかと、こっちは気が気じゃないよ」 その言葉には、佳乃は大きく目を見開いて絶句するしかなかった。一体何を言い出すのだ、冗談にしてもひどすぎる。 「もう……、冬真さま。私もそうしたいのはやまやまですが、これではとても間に合いませんし」 ようやく目立ち始めたおなかではあるが、この子が生まれるのは冬の初めだと言われている。乳母になるのであれば、お仕えする赤さまよりも二月は早く自分の子を産んでいなければならない。それに……そのようなこと、望んでも叶いっこないのは初めから承知していること。それなのにわざとそんな風に言う意地悪な人に、佳乃は思い切りふくれて見せた。 「おいおい」 彼はすぐに降参して、ご機嫌取りをしてくれる。いつまで経っても恋人同士のようだと皆に言われるが、本当にくすぐったいくらい幸せな日々が続いていた。こんなにも……、本当にこんなに何もかもが満たされる未来が待っているなんて、あの頃はとても想像が付かなかったのに。 「あ、それよりも。今回の文はあちらの若様の直々のお手蹟(て)だって言うじゃないか、それは素晴らしいお手並みなんだろう? 俺も是非拝見したいと思ったんだけど……その、文はどこなの? 隠したりしないで、早く見せてよ」 そろそろ夕餉の支度を始めなくてはならない。辺りを手早く片づけて、佳乃は席を立った。 まるで無視しているように見えたのだろう、彼が慌てて後ろから追いかけてくる。もうちょっと許してあげるのよそうかなと思うのに、もう顔が笑ってしまって駄目だ。 「それは無理です、すぐに母上が来て、あっという間に取り上げて行ってしまったもの。冬真さまより、よっぽど早業でしたわ。私だって、一度しか目を通していないのに……きっともう二度と手放してはくれないと思います。何と言っても、母上は姫さまが第一ですから。それこそ、娘の私なんて放りっぱなして旅支度を始めそうな勢いですわ」
里で暮らしていた頃は病がちで床についていることの方が多かったようであった母も、この地に移ってからは見違えるほど元気になった。 彼とのことも初めのうちは良い顔をしてくれなかったが、今では互いに打ち解けてくれてホッとしている。やはりそれも彼の努力が大きいと、このことについても感謝しきりだ。だいたい佳乃が何も言い出す前から、彼は母を同行させることをご主人様に願い出てくれたのだから。
「うわぁ、それじゃあ諦めるしかないかな。義母上は姫様のことになると、目の色が変わるから怖いよ。あれだけの執着心は尊敬に値するな、佳乃も是非見習って貰いたいと思うよ」 ふわっと、背中から暖かなぬくもり。優しく抱きしめられて、心地よい束縛を楽しんでしまう。耳元に掛かる息、くすぐったい幸せ。 「でも、佳乃が一番に想う相手は俺じゃなくちゃ駄目だよ? ……それだけは忘れないで」
そんなの、当然なのに。彼はいつも繰り返して、優しい気持ちを伝えてくれる。 この腕が永遠に届かないものだと諦めていたあの頃から比べたら、信じられないほどに全てが満たされている。ひとつ手に入れたら、ひとつ捨てなければならないと思っていたのに。今では、同時にふたつもみっつも幸せが手にはいることを知っている。 出来ることなら、姫さまとずっとご一緒したかった。でもそれが叶わなかった今でも、姫さまのお幸せを願いながらこうして生きている。これから先も、ずっと。それだけは変わらない。
――大丈夫、こうして心がつながっていれば。いつかきっと、必ず巡り会える日が来るはず……。
その願いがすみれ色の空に溶けていくまで、佳乃は彼の腕の中で心地よい夕べの風に吹かれていた。 了(050531)
(2005年5月31日更新)
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