辺り一面、純白の粉が舞っていた。だんだん暮れていく風景が、その色に霞んでいく。歩いても歩いても、先が見えなくなる。天も地も全てが白。 海底国――竜王様の「結界」で護られたこの地には「雨」や「雪」は降らない。空気よりも重いねっとりした「気」で満たされた空間では、水の流れのような動きだけがある。ただ、それがあまりに荒れるとまるで嵐の中を歩いているような重い感触となることもあった。 ――遠き西の果てでは気が凍る冬もある……。 聞いたことはある。だが、実際に目にし、肌で感じるのは初めてのことだ。 次第に足の指に感触がなくなってくる。凍える地ではしっかりとした保温をしなければ、身体ごと朽ち果てていく――そんなことも知らなかった。ある日、紫色に染まっていた足指の先がぼろりと崩れて来たのを知って、ぞっとする。それまで我が身を労ることも知らなかったが、このときばかりは仰天してしまった。 今、目の前に広がるのは「気」が余りの寒さに凍り付いた現象だ。それが地に降りれば「霜」になるが、頬を打つ気流の中で、さながら降りしきる雪のように見えた。「雪」と言うものを知らない海底の民であっても、その幻想的な姿には魅せられる。魅せられると同時に惑わされる。 このまま……我が身も埋もれてしまうかも知れない。 それもいいかも知れぬ。探し続けてとうとうこんな地まで来てしまったが、だからといって何の希望もない。もはや望みはないであろう。生きて再び会うこともないと思うのに、それでも足だけは前に進む。歩み寄るのか、遠ざかるのかも知らず。心が狂おしいほどに、追い求めている。
◆◆◆
すげ笠を取ったところで、そんな風に声を掛けられた。土地により、見目かたちの造作が異なる。金の髪を見れば、南の出身だと言うことはたちどころに分かるのだ。遙か遠き地よりの客人だと知って、家主は少し驚いたのかも知れない。口元だけで微笑んで、小さく会釈をした。 ぱちぱちと囲炉裏の赤がはぜる。橙色に淡く浮かび上がったささやかな空間。外はまだ気が荒れ狂っていたが、ぼろぼろな外装からは想像も付かないほどここは頑丈な造りになっていた。余計な調度などはひとつもなく、ひとり住まいの気軽さが感じられる奥の部屋だ。
道なき道、どこまでも続く平原をさすらい続け、辺りが闇に包まれた頃、視界の先にほんのりと揺れる明かり窓を見つけた。こんな場所に人が住むとも思えなかったが、この際は狐の仕業でも構わない。自分から望んでこんな風にしているとは言え、やはり暖は取りたい。この命を明日に繋ぐためには、今夜のねぐらを探さなくてはならない。 吸い寄せられるように近づいてみると、明かり窓の正体は小さな社(やしろ)であった。 戸を叩くと、すぐに人の良さそうな老人が応対に出て来た。聞けばこの地をひとりで護る神官だという。厚意に甘えて一夜の宿を借りることにした。
濡れた身体を拭いていると、温かい湯気を上げる湯飲みが傍らに置かれ、老人が静かに話しかけてきた。 もともとの色なのか、白髪に変わったからなのか、頭全体が銀糸に覆われている。神官は髪を襟足の辺りでひとくくりにして地味に装う。この男も例外ではなかった。身に付けているのは、白の装束。その下に淡い紫を重ねている。 「それにしても見事な金糸の髪でございますなあ。これほど立派なお姿をなさっているのは南の地でも、さらに果ての……あなた様は神山(しんざん)辺りのお生まれではございませんか」 ぴったりと言い当てられて、思わず目を見張る。こちらの反応が嬉しかったのだろう、老人は目を細めた。 「わたくしは……様々な地を歩いてきた者です。方々を……もう、果てから果てまでをくまなく。風来坊な人生でした。――はて、あのような遠き地から、何故ゆえにここまで。徒歩(かち)ならば、三月は掛かりましょう。お見受けしたところ、かなりのご身分の方と思われますが」 時々、思う。神に仕える者というのは、俗人とは違った「目」を持っているのではないだろうか。それが生まれながらに備わっているのか、修行の末にもたらされるものなのかは分からない。ただ、普通では見ることの出来ないものがはっきりと見えているような気がする。 着の身着のままの道中であったから、元の色もないほどにすすけてしまった装束。袴の裾はばらばらにほつれ、結い直すこともない髪はザンバラに肩から背に流れていた。最後に顔を洗ったのは3日前に通った川である。 西へ、西へ。そして北へ。ひたすらに進んできた。でも、まだ辿り着けない。その場所も知らないまま、彷徨っている。 「人を……捜している」 「お人……捜しにございますか。それはまた、どのような。お捜しの方は、この地の者なのでしょうか……?」 その声はどこまでも情に満ちていた。見ず知らずの者に、どうしてここまで出来るのだろう。今まで、様々な地で、たくさんの人間に出会ってきた。そこで感じ取ったものは、それまでの当たり前の生活では到底味わうことの出来なかったもの。人を見る目、というのも少しは備わってきたと思う。 「女だ、年の頃は17,8――淡い鶸の髪に、翠の瞳。名は……知らぬ」 瞼を閉じると、思い浮かぶままに告げてみる。この頃では記憶で姿を辿ることすら、あまりしなくなっていた。その存在はどこまでも淡く儚げで、強く念じただけで砕け散ってしまいそうだ。だが、求めずにはいられない。 「お名が……お分かりにならないのですか、それでは難しいことですね。こちらは西の奥への玄関口になっております。旅のお方は、必ず立ち寄られる場所なのですが……女子(おなご)様に、ございますか。何かお役に立てればと思いますが、それだけでは……とても」 がたがたと木戸が揺れる。こんな夜は、どこかで呼ばれているような気がする。自分の里ではこのように白い粉が舞うことも、霜が降りることもない。とても住みやすい暖かく豊潤な土地である。だが……あの場所には、彼女がいない。 「こちらも何しろ、老いぼれて来ましたので。物忘れがひどくなって参りました。何か思い出すことがあれば、お伝えしましょう。まだお若い身空でこのように……大変なことでございますなあ。お役に立てずに申し訳ない限りです」 粥の鍋を混ぜながら、淡々と話を続ける。このように悟りをひらける日が自分には来るのだろうか……分からない。彼は小さく溜息をついた。 「構わぬ……案ずることもない」 また、目を閉じる。一日中歩き続けた為だろうか、こうしてくつろいでいても瞼の裏には降りしきる白い風景だけが映る。あとからあとから、舞い上がり舞い落ちる、白の舞。
そして、記憶が還っていく――あの頃へと。
(2004年4月9日更新)
|