TopNovel匂やかに、白・扉>匂やかに、白・2


…2…

 

 

 

「まあ……本当に、ご丁寧でありますこと!」
 取り散らかった辺りを片づけながら、馴染みの侍女がわざと大きな溜息をついた。銅色に光る髪を後ろでひとくくりにした姿は、きびきびしたこの女子(おなご)の全てを表しているようだ。まだまだ夏仕様の衣。暦の上では秋と言えど、この地は真冬でも綿入りの上掛けがいらぬほど温暖な地である。涼やかな浅黄の袴が目に涼しげだ。

「そう、拗ねるな。……これも礼儀だからな」

 口も手も出るタイプの女子である。あっという間に着替えの一式を取りそろえて舞い戻ってきた。久しぶりに眺める中庭のしつらえに季節を感じ取りながら、彼は傍らにやって来た彼女の手を素早く握りしめた。

「一刻(2時間)もすれば、戻る。あんな辛気くさいところにいつまでもいられるか。もしも母上のご命令がなければ、どうして出向くだろう。……お前だってそれくらい、分かっておるだろうな?」

「まっ、……まあ、左様でございますけど」
 気丈に見えてもこんな風に頬を赤らめる姿は可愛らしい。もともとは乳兄弟、そしていつの間にか男と女の関係になっていた。場末とは言え、豪族の跡取りとしての彼にはこの者の他にも幾人ものお手つきの女子がいる。

「そっ、そりゃあ……私も。狼駕(ロウガ)様の元に御正妻様がお輿入れなさると伺ったときには生きた心地がしませんでしたわ。何しろ、こちらは側女(そばめ)。確たる地位もございませんもの。あちらに行かれたまま、それきりお戻りにならなかったらどうしようかと思いましたわ……」

 珍しくしおらしいことを申しているのも、悪い気はしない。女子が寵を争う姿も、度か過ぎなければ雅で楽しいものだ。後ろから抱きかかえ、首筋に唇を這わせる。はぁんと鼻を鳴らして、侍女は身をすり寄せて来た。

「ふふ……それは全くの杞憂であったであろう。あれは山持ちの成金の姫君だとか言うが、取り立てて秀でたところもなく、面白味のない女子だ。お前が案ずることもない」

 戯れに、するりと胸の袷から腕を差し込む。そうなることなど最初から知っていたかのように、そこは少し緩んでいてあっさりと手が入る。弾力のある豊かなふくらみの感触を楽しんでいると、にわかに男の欲情が湧いてきた。だが、それはあとの楽しみとしなければ。まずは面倒なことを片づけなければならない。

「あぁん……若様ぁ……! 津根(つね)は……津根は口惜しゅうございます。側女と申せど、子を成さねば館では身分も与えられませんわ。なのに、どうして。正妻様が先にご懐妊下さらないと、我々下々の者にはそれをすることも叶わぬなどと。早く、若様の、狼駕様の御子が欲しいですわ」

 いつもの戯れ言である。この女子も、他の女子も言うことは同じ。側女はそのような者なのだ。子を成すためだけに存在する。そのことを自らが承知しているからこそ、寵を争う。だが、正妻の腹でない跡目はお家の騒動の火種となる。それは狼駕自身が誰よりも良く知っていた。

 忌々しい過去を振り払うように、話を遮る。

「支度を……帰館したのにいつまでもここに籠もっておれば、お前があとで母上から小言を言われるだろうし。ああ、重い腰が上がらないとはこのことだな……」

 地方豪族の跡目として、任された領地を守る他にもいくつかの大切なお務めがある。そのひとつが、月に7日ほどの大臣家への出仕だ。ここから歩いて半日ほどの中央の地に、立派なしつらえの御館がある。そこで様々な任務をこなすと共に、近隣の領主との情報交換もするのだ。

 今回もそれを終えて、ようやく我が館に舞い戻ったばかり。いくら元服したあと、もう5年以上続けているお務めとはいえ、精神的にも肉体的にも疲労する。高い地位の者に屈するのも上手に出来るようになったが、その理不尽な想いはぬぐい去れない。どうして、こんな中途半端な家に生まれたのだ。
 あちらでは仲間との付き合いもあり、滞在中に何度か遊女小屋などにも繰り出す。おしろいや香油の匂いに浸りながら、商売女を抱くのも悪くない。だが、よそ行きの顔でのやりとりは、情事の間も全てを忘れることは出来ないのだ。金や契約で結ばれた関係はいつも虚しい。

 津根とは気の置けない関係であり、身体の相性もぴったりだ。今夜は久々に楽しい夜になりそうだと思う。渡りを通りながら、彼はもう一度、庭の花を眺めた。

 

◆◆◆


 ――あの日は……一面に白鴎(はくおう)の花の咲き乱れる夏の初め。肩の高さほどの低木に、びっしりとこぶしのような花が付く。一斉に天を向いて咲き誇るので、白く火を吹いたように見えるのだ。幸運を招く樹と伝えられており、館の中庭にも所狭しと植えられている。

 純白の風景を、狼駕は神妙な面持ちで見つめていた。

 良家の跡取りとして、しかるべき正妻を娶る。それは自分に課せられた義務のようなものだと思っていた。お務めに出ても皆が言う、本当は側女の方が可愛いが、そればかりと戯れれば色々とまずいことになる。だいたい正妻と言われる身分を持った女子は気位ばかり高くて扱いづらい。可愛らしさというものが欠片もないのだと。

 結婚とはすなわち、家と家との結びつき。両家の間に確立した関係を築くために執り行われるものだ。それは重々に承知していた。

 しかし、である。

 狼駕とて、若い男。新しく妻を娶るともなれば、少なからずの期待をしていた。どんな冴えない女子でも、閨ではそれなりに楽しめたりする。何も、親の決めた女子に遊女と肩を並べるような美しさや可愛らしさは求めてない。ただ、同衾して子を成さねばならぬとなれば仕方ない。きちんと務めは果たそうと覚悟を決めていた。

 婚礼の儀当日に顔を合わせた女子は、話に聞いていたより美しかった。キラキラと光り輝く髪は淡い色、鶸(ひわ)の色に見えた。ごくごく薄いクリーム色に、どこか碧の色がある。金の髪を持つものが多い南峰の地の民は、誰も同じように見えて、微妙に異なるのだ。狼駕はこの色の髪を間近に見るのは初めてであった。想像していたより艶やかに美しく、思わず触れてみたくなった。
 口も聞かず、終始緊張した面持ちで俯いている。知らぬ土地にひとり来て、かなり心細くなっているのかなと思った。あれこれ話しかけてみたが、返事はない。時折、顔を上げてぼんやりとこちらを見る。翠の瞳は美しかったが、そこに生気はなかった。

 ――この者も意に添わない縁談を受けたのだな……。

 その時、腹の底でそう感じた。それは自分も同じだったから、おかしなことだが腹立たしさよりもむしろ憐れみを感じてしまう。こんな風に互いを想い合わない男女が生涯を共にしなければならないのだ。馬鹿げたことである。そう思えば、不思議な親しみすら湧いてくる。打ち解けることは出来ないかも知れないが、煩わしさもないだろう。飾りとして置くのには丁度良い女子と言えよう。

 固めの杯にそっと口を付ける横顔を、狼駕は菫色の瞳で感慨深く眺めていた。

 

◆◆◆


「殿のご帰館にございます〜!」

「こちらにお渡りにございます〜!」

 仰々しいほどの声を立てて、奥の部屋の侍女たちが出迎える。正妻と言うだけあり、実家から連れてきた者たちだけで十数人、さらにこちらで揃えた者たちも同じくらいいて、そのものたちが住まう部屋だけでいくつもの区画を占めている。

 正妻の部屋はその一番奥手にあたり、そこまで辿り着くのも難儀する。だが、狼駕としてはその渡りの長さがいつまでも続けばいいとすら思っていた。それくらい、ここへ出向くのは気が進まないのだ。あれから二月が過ぎ、白い花はもうどこにもない。

 ――まあ、派手な出迎えで騒ぎ立ててくれた方が幸いだ。

 彼は腹の内でそう思っていた。あちらの対にいる母上に聞こえるくらい、騒々しくしてくれなければ困るのだ。

 あの御方は、何かに付け口うるさい。こちらに三日足が遠のいただけで、早く渡れとお達しが来る。さらに、半刻ほどで舞い戻れば「あまりにも腰が軽い」とまたお小言が侍女により届けられる。出来れば渡った時くらい夜を明かせと言われるが、苦痛以外の何者でもないので、その申しつけだけは聞き入れることが出来ない。

「男女の睦み合いは、一刻もあれば十分でしょう?」
 一度そう面と向かって申し上げたら、もう二度と深いところまでは仰らなくなった。

 侍女たちの足音が遠のくと、やわらかな琴の音が耳に流れ込んできた。いつも思うが、なかなかの達人である。田舎の成金の娘にしてはあれこれたしなみがあるなと感心していた。まあ、あまり大事にされていない正妻であるから、手慰みは必要だと言うことなのかも知れない。巷に才のある妻が多いのはそんな理由があるのか。

 音色に誘われるように歩みを進めると、もう少しと思うところでそれは途切れた。まるでこちらに聞かれたくないと言うように。やがて、御簾を上げてひとりの侍女が出迎えに来た。

「これはこれは……ご主人様。ようこそお出でくださいました」
 恭しくかしづく仕草も品がある。この双葉という侍女は始終、正妻の傍に寄り添っているのだ。全ての取り次ぎを行っている。

「すぐにお席をご用意致しますわ……ささ、中へ――」

 にこやかな微笑みにやましいところは何もない気がする。だが、狼駕は首を横に振った。

「いや――、いつものようにここで良い。敷物を持ってこい」

「えっ……、でも」
 双葉は申し訳なさそうに俯く。が、これも何度となく繰り返されたやりとりなのだ。彼女はすぐに気を取り戻したように、言いつけに従った。流れるような物腰で、御簾の内に消える。そして、その奥で控えめに声を立てた。

「姫様……涼夜(すずや)姫様……! ご主人様がお渡りになりましたよ? さあ、端近までお出でくださいまし」

 返事はない。だが、少しの間をおいて、奥の方から静かな衣擦れの音が聞こえてきた。それと共に、わずかばかりの気の乱れがこちらまで伝わってくる。御簾がかすかに揺れ、何とも言えない甘い香りが漂ってきた。

 ――来たな、と思う。だが、すぐには声を掛けたりしない。御簾の内にかしこまっている影を見守る。よくよく顔も拝んだことのない女子なのである。全くおかしな話であるが。

「久方ぶりに、館に戻ってきた。留守中は何か変わったことはなかったか?」

 人払いをしてある、だからこんな風に御簾の内にも入らずに縁で話をしているとは誰も知らない。この姫君本人と傍らの双葉以外は。

「いえ……取り立てて何も。ご主人様におかれましては、お務めお疲れ様でございました」

 しばらくして、そう答えたのは彼の妻ではない。傍らの侍女だ。この受け答えにももう慣れた。今ではこれが当たり前だと思っている。

 ――それに、こうして御簾の内に入らねば……彼はふと思う。お互いに気まずい思いはしなくて済む。少なくとも、お互いがお互いに、この時間を持て余していることを悟られずに済むのだ。

 深く吐息を付いて……また、庭を見る。花だけは季節を感じて咲く。秋の紫草が、ゆるやかな気の流れに揺れていた。

 

◆◆◆


 異変を知ったのは、婚礼初夜のことである。

 明け方まで続く祝賀の宴。だが、それに付き合うよりももっと大切な務めが狼駕にはあった。――婚礼より三日の間は何があろうと男は女の元に通わねばならないのがしきたり……それくらいのことは聞き及んでいる。それに周囲も当然だと心得ているのだ。新妻となった人は、自分よりもさらに半刻ほど早く宴を辞していた。

「婚礼の儀、ご立派に果たされまして……誠におめでとう存じます」

 いつもなら他の女の元に出向くときでも、あっさりと支度を手伝い送り出してくれる津根ではあるが、その夜ばかりは緊張しているのが触れる指先から感じられた。かろうじて気を強くもとうとしているその姿を、別段深い想いもなく眺める。我ながら薄情なものだとは思うが、仕方ない。もともと深い情が存在したわけではなく、ただ何となく関係を結んでいたのだから。

 心を繋ぐこともなく、身体を重ね合う。そこにあるのは、一体どんな真実なのだろう……?

 そしてまた。自分は自らの手で、不幸な女子をひとり増やそうとしているのだ。新しく妻となったその者が、一体何を思っているのか知らない。そして、知らぬままならそれでいいとすら思えてくるのだ。与えられた天命をただ受け入れていくのが一番楽だと言うことを、今までの18年ほどの人生で嫌と言うほど悟っている。

 およそ初夜にはふさわしくないような物思いに耽りながら、彼は新妻の待つ西の対へと進んでいった。

 


 だが。そこで彼を待ち受けていたのは、不安げにその時を待つ純白の花嫁ではなかった。

「これより先は……ご容赦願います」

 当たり前のように縁から御簾の内に入り、奥の寝所へと足を進めようとしたその時に、出迎えた双葉が急に行く手を遮ったのだ。彼女は低い押し殺した声でそう告げると、寝所へと続く几帳の前で額を床にこすりつけた。

「ご主人様と言えど、お通しするわけには参りません。無礼を承知で申し上げます、どうかお許し下さいませ」

「……え……?」

 突然のことに、にわかには怒りの感情すら湧いてこなかった。それほどの驚きだったのである。

 こちらがすぐには騒ぎ立てないことに安堵したのだろう。双葉はゆっくりと青ざめた顔を上げた。一介の侍女とは言え財力のある家に雇われているだけあって、その衣も豪奢である。几帳の隙間から差し込んでくる外の月明かりにキラキラと金糸の織りが瞬く。

「誠に勝手ながら、お人払いをさせて頂きました。これから申し上げることは……出来ることならば、ご主人様の胸の内に収めて頂ければと……」

 声が震えている。必死の思いで話を続けているのだ。頬に掛かる一房が乱れ、揺れている。床に置いた指先にも血の気がなかった。

 そういえば、おかしいとは思った。正妻を迎えるにあたって、狼駕の家でもそれ用に新しく侍女を配した。それに妻が伴ってきた者たちも予想よりも多く、ここに渡るまでの部屋にはその者たちが溢れかえっていた。皆、御簾越しに狼駕を眺めてあれこれと言っているのが分かる。明るく弾ける空間であった。

 しかし、細い渡りを過ぎてその場所に着くと、うって変わったように静寂が訪れる。まあ、あまり周りで騒がれているところではさすがの狼駕であってもことに集中できない。そういう配慮なのかと思っていた。

「何だ、難しい話なら今はよせ。俺は酔いが回っているし、うだうだと御託を並べられてもうるさいだけだ。話を聞けと言うなら聞くが、その内容によっては容赦しないぞ。お前は自分がどんなことをしているのかわかっておるのだろうな……?」

 彼はそう告げると、その場にどかっと腰を下ろした。ハッとした双葉が慌てて敷物を運んでくる。迎え入れた新妻と同じくらいの年頃の若い侍女ではあるが、かなりの才があるのではないだろうか。その動きのひとつひとつにも無駄がない。

「……で、折りいっての話とは一体なんだ? さっさと申せ」
 肘置きに身体を預けて、訊ねる。女子に意見されるなど心外ではあったが、捨て置けないほどの気迫が彼女には感じられた。

「はい――、姫様は。涼夜姫様はご病気にございます。ですから、ただいまはご主人様のお相手をすることは出来ません」

「何っ……?」

 狼駕は燭台の灯りに照らし出された頬をぴくりと動かした。

「何を申す。そのようなこと、姫の父君も申してなかったではないか。それに、宴の席では普通にしていたぞ、とても体の具合が悪いようには思えなかったが」

 輿入れに伴い、新妻の父親になる人も長い行列を従え牛車に揺られてやって来た。早馬でなら半日と言われる距離を、のろのろと7日も掛けて進んできたという。沿道ではたくさんの者たちがきらびやかなその列を見送ったと聞いている。そんな仰々しさが、狼駕にとっては気に入らなかった。だが、娘婿としてこれから付き合って行かねばならぬ。

 上機嫌でとっくりを手に列席した人々の間を回っていくその姿は嬉々として、この縁組みを心から喜んでいる様子だった。

「さ、左様にございます。……このお話は、何人にも悟られぬように過ごさねばならぬことですから……」
 双葉は震える口元を動かして、かすれる声で続けた。

「まあ、良いだろう。体調は悪くとも、話し相手くらいにならなろう。ねぎらいの言葉のひとつもかけれやらねば、あとで俺が恥をかく。姫はどちらだ……中か?」

 夫婦の閨には夏を象徴する虫除けの蚊帳が吊られていた。鈍色の布の中に何があるのかはよく分からない。まるでまがまがしいこの世のものから逃げるが如くの要塞のようだ。そこに手を掛けたとき、双葉が慌てて追ってきた。

「いけませんっ……、姫にお近づきになってはっ! あのっ……!」

 ばさりと、布がはためく。中は闇色の気が流れ、明るい部屋から入ってきた狼駕はしばらく視界がなくなった。灯りの用意すらしておらず、人の気配もない。だが、もうこれより先には部屋がない。手にした燭台をかざす。ゆらりと浮かび上がった光に、隅の方でうずくまっていた白いものが動いた。

「何だ、そこにいるのか」

 努めて優しく告げたつもりである。しかしながら、その言葉に対する反応は余りにも予想とはかけ離れたものであった。

「……っ!」
 白い衣に身を包んでいるのは、宴で隣に座っていた我が新妻に違いない。あの鶸の髪がそれをはっきりと告げている。だが、どうだろう。その眼差しはたとえようのないほどに怯え、身体全体が大きく震えていた。そして、腕を伸ばすと、必死で暴れて身を翻す。捕まるものかと言うように。

 鬼でも見たかのような態度に、狼駕はさすがに憤った。

「何だっ! それが夫に向かっての態度か……! どういうことだ、ええい、許さぬぞ! 言いたいことがあるなら申せっ!」

 しかし、妻はなおも震えながら首を振るばかり。これ以上、近寄らないでくれと言わんばかりに腕を払う。やがては元のように、蚊帳の奥に身を隠してうずくまってしまった。

「あっ……あのっ! ご主人様……! 姫様は、ご病気のため、お声を出すことが出来ません。ですから……お話相手は……!」

 双葉が必死にそう告げる。これでは埒があかぬ。しかも、当の妻がこの調子では、頼まれたって相手をしたくない気分だ。だいたい、こんな辱めがあるのか。新婚の初夜に、妻にここまで拒絶されるとは。

 たとえようのない怒りがこみ上げてきた。だが、それを爆発させることはせず、彼はさっさとその場を離れた。そして、まっすぐに部屋の表に向かう。

「もう良い、身体に障りがあるというならこのまま部屋に戻ろう。……それでいいのか?」

 吐き捨てるようにそう告げながらも、心のどこかで安堵していた。あんな白い人形のような女子とまみえるのはあまり好ましくない。今夜は宴の喧噪ですっかり疲れている。早く慣れた場所に戻り、横になりたかった。

 しかし、またその行く手を双葉が遮る。彼女の髪は薄闇の中では黒っぽく見える。多分、栗色に近い色なのであろう。それが闇を編んだ気の中を、帯のように乱れていく。

「そっ、それは困りますっ……! あの、もしもこのことが露見すれば、姫様は離縁を申しつけられるやもしれません。ご病気はすぐに回復されます。ですから、今夜は……!」

 双葉は慌てふためいた様子でそこまで言うと、胸元を押さえて大きく息をした。そして、もう一度狼駕を見上げる。

「わたくしで……宜しければ、お相手をさせて頂きます。ですから、儀礼通りにこちらに留まってくださいませ」

「……は?」

 立ち上がった狼駕は、目の前の女を見下ろした。いきなり何を言い出すのだ。こちらが行為に及べないのを憤っていると思われたなら心外である。

「もしも……どうしてもと仰るなら。わたくしは姫の父君である御館様に申し開きが立ちません。そこまで仰るなら、こちらにも相応の覚悟がございます……!」

 彼女は素早く自らの胸元から両手に収まるほどの布包みを取り出した。丁寧にそれを解き、中のものの鞘を抜く……そう、それは侍女たちが「何かあらば、お仕えするご主人様を身をもってお守り申し上げる」という強い覚悟をもって胸に忍ばせている懐刀であった。それをためらいもなく自らに突き立てようとする。

「わ、分かった。――それは収めよ。お前の言葉に従うから……!」

 いきなりの行動にすっかり度肝を抜かれてしまった。慌ててそう叫ぶと、双葉は未だに崩さぬ表情でのど元に突きつけていた刃を元に収める。震える手つきからも、この行動がただの狂言紛いのことではないのが分かった。

「もちろん、相手はいらぬ。今日はもう休みたい。――蚊帳の前に寝具の準備をしてくれ」

 かの人を包んだ空間は、それきり物音を立てることはなかった。

 

◆◆◆


 あれから二月が過ぎた。だが、二度と顔を見ることもなく今日に至る。そして、このことを知るのは、ここにいる3人……自分と双葉と、それから当の姫君本人である。お互いに気まずいのも良くないからあまり訪ねたくないのだが、周囲への配慮も考えなくてはならない。難しいところだ。

「その、病とやらはいつ治るのか?」

 双葉の話では、姫君は本来とても明るい気だてであると言う。初夜のあの態度から察するに、とてもその言葉を信じる気にはならないが、これも全て病の為らしい。どこかで担がれている気もしないではないが、まあ隠したいなら隠せばいい。いつまでもこんな風にしていれば、自分が手を汚さずともいつか周りが気付き出す。その時を待てばいい。

「完治するのは……半年ほどと聞いております。しかしながら、このようなことを、ご主人様の御父上に正直に申し上げれば、輿入れのお話は余所に行ってしまうと。そればかりが姫君の父君であられる御館様には気がかりで……誠に申し訳ございません」

「半年……それはまた、長いな」

 そう答えながらも、それならばそれでいいという気がしていた。

 もしも双葉が偽りを申しているのなら、それでも構わない。半年も子が出来ねば困るのは妻の方……自分は痛くもかゆくもない。正妻を迎えたことにより、にわかに軋み始めた他の女子たちとの関係も面倒で、たまにこうしてぼんやりした時間を過ごすのも悪くないと思っていた。


(2004年4月9日更新)

 

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