やがて、涼やかな気が庭先から流れ込んでくる。そろそろ日暮れだ。きっと津根がいそいそと夕餉の膳を用意して、帰りを待ちわびているだろう。狼駕は器に残った茶を飲み干すと、立ち上がった。 「では……またそのうち来よう。姫も身体をいとえよ?」 いくら言葉をかけても返事はない。もう良いのだ、このままならそれで。物言わぬ人の佇む御簾に背を向けて、足を踏み出す。 ――と。肩から掛けた重ねがつんとつれた。 この地では身分のある男は小袖と袴を身につけたその上からたっぷりとした衣を掛ける。外歩きの時は地に着かないようにたくし上げるが、こうして屋内では床に流しておくのが風流だ。先ほど召し替えたそれは、若草の色に染め上げた糸を変わり織りにした優美なものであった。 どうしたことかと振り向くと、その裾は、御簾の内に引き込まれている。何気なくこちらに引くと、なおも強い抵抗を感じた。 「……はて?」 ――衣の裾を、白い指が掴んでいる。双葉……ではない、あの侍女は先ほど「姫君の夕餉の膳を取りに行く」と告げて出て行ったきりだ。その後、どこで油を売っているのかなかなか戻ってこない。そうなれば、今この場所にいる者は、あとひとりしか考えられないであろう。 「……どうした? 離しなさい。もういとまは告げたはず」 こんな風に妻の方から自分に歩み寄ってきたのは初めてのことである。本来なら、少しずつでも打ち解けて心を通わせていくのは、風流であり楽しいことなのかも知れない。しかし、それにはあまりに時間が経ちすぎた。 「出仕から戻ったばかりで、俺は疲れているのだ。……悪ふざけもたいがいにせよ」 返事はない。だが、こちらが衣を戻そうとすれば、さらに抵抗が強くなる。一度だけ見たことのある、白い衣に包まれた細い身体。それのどこにこんな力が隠れていたのかと思うほどであった。 少し乱れた毛先が、揺らぐほどのかすかな動きを感じ取る。 「……うっ……」 いつもの彼なら、もう少しのゆとりがあっただろう。だが、疲れの溜まった身ではそこまで配慮することは不可能であった。きつく締めた帯紐を解き、だらんとした姿でくつろぎたい。こんなところでいつまでも押し問答をしていても仕方がないのだ。夫婦の間の取り次ぎをしてくれる双葉がいない今、事をなすのは自分しかいない。 「ええいっ! 離せと言っているであろう……!? どういうつもりだ、えっ……!?」 ばっと、乱暴に御簾を払う。夕刻の少し重くなった気に抵抗しながらも、それが舞い上がっていく。薄暗い部屋の中、顔を伏せたままの姫君が現れた。 碧の輝きを持った髪が、キラキラと輝いて広がる。南峰の民の金色の髪も柔らかいとされているが、それよりもさらに頼りなくやわらかな流れを描く。少しでも涼しげに見せるために誰もが薄い色の衣を身につけているこの時期に、彼女は藍色の重ねを掛けていた。袖口からわずかに見える指先が、しっかりと狼駕の若草の重ねの裾を握りしめている。 二月ぶりにみる姿は、記憶にあるよりさらに、か細くなったように感じられた。 「……離しなさい」 目の前の妻は頭を垂れたままで、大きく頭を振った。髪が舞い上がり、衣の上からでも身体中がガクガクと震えているのが分かる。まるで、あの初めての夜の対面と同じように。彼女は狼駕を前にして、この上ない恐怖を覚えているのだ。だが、今日は逃げるどころか、こちらを押さえ込もうとする。 正直、この者の真実をはかりかねていた。 言葉のない女子とのやりとりは文が主なものになる。幾度となく届けられたそれはなかなかの達筆で、才の深さを感じさせた。短い言葉ではあるが「またのお出ましを心待ちにしております」と言う内容が簡潔に書かれていた。 しかし、それは単なる社交辞令だと言うことも悟っている。こちらとて何も知らない子供ではない。人の心に本音と建て前がいつでも並んでいることを知っていた。少しでも期待と言うものを抱けば、裏切られて傷ついたと思うことになる。だから、最初から何も望まないことだ。 病を盾にいつまでも打ち解けようとしない妻。もしかすると、このままふたりの関係は平行線を続け、二度と顔もあわせぬまま里へ帰すことになるかも知れぬと考え始めていた。二月という時間は、狼駕にそんな乾いた諦めの境地に至らせるのに十分すぎたのだ。 だからこそ、戸惑っていた。このいきなりの行動が何を意味しているのか察することが出来ない。そこに出仕先での疲労が溜まっていたことが重なり、彼を怒りに導いていく。間でやりとりを仲介してくれる双葉がいないことも、それに拍車を掛けていた。 「離さぬのか! ……離さぬなら、もういいっ! こんなもの脱ぎ捨ててやる。人を馬鹿にして、今更なんだ、いい加減にせよ――」
目の前の、気が大きく揺らぐ。 ――刹那。狼駕の言葉を遮る戦慄が走った。実際に何かが彼に施されたわけではない。だが、言葉を止め、視線を一点に集中したまま動けなくなるほどの衝撃が身体を駆けめぐったのは事実だった。
「……あ……」 色をなくした唇が、かすかに動く。白さを通り越して青ざめた頬はいつから流れていたかも知れぬ雫で溢れ、顎からこぼれ落ちたものが彼女の袖や、握りしめた狼駕の衣にまで落ちていた。ゆらゆらと濡れた翠の瞳が、一瞬だけしっかりとした意志を持ってこちらを見た。 「……や……」 また、頭を振る。辺りに舞い踊る鶸の帯が彼女の全てを取り巻いていく。編み目のように折り重なったそれが再び静かに流れ落ちたとき、うずくまった小さな身体を前に狼駕はもう何も言えなかった。
◆◆◆
「……姫様、お気を確かに。ご主人様もお困りになっていらっしゃいます。さあ……」 賢い侍女は、決して手荒な行動には出ずに、でも静かに諭しながら手を外そうとしてくれる。だが、そのたびに、妻は力無く首を横に振るばかり。伏せた顔を少しだけ上げると、かすれた嗚咽が聞こえてくる。病とはどのようなものなのだろう、大声を上げて泣くことすらこの者には叶わないのか。 何度となくそう言うことが繰り返されたあと、狼駕は諦めたように腰を下ろした。 「良い、今宵はもう疲れた。悪いが、向こうの部屋まで出向いて、俺の膳を持ってきてくれるか? 部屋の侍女が用意しているはずだから」 「まあ……」 そんなことで宜しいのですか、と言うように、双葉は大きく目を見開いた。くっきりした焦げ茶の髪が闇深くなってきた屋内では黒く見える。ここは南峰の果てに近い地であるが、彼女はずっと北の方の生まれなのだろう。 北や西南の民の血は濃く、そのような者と交わることによって南峰や西の地は混血の色を濃く見せた者たちが溢れる。狼駕のように、生粋の金の髪は希有のものでそれだけに誇り高いものとされていた。わざわざ西の地の血を引く正妻を娶ったのも、南峰の民である証を後世に伝えたいという館の主の心の表れであった。この妻が狼駕の子を孕めば、それは南峰の姿をしている赤子に違いない。 この場所に足を運ぶことすら嫌がっているのが誰の目にも明らかであった狼駕が、ゆっくりと腰を据える。そのことについて、双葉は深い戸惑いを覚えたらしい。だが、侍女としての身分をよくわきまえているこの女子は、それ以上のことなど口にせず、すっと立ち上がる。そして、先ほど運んできた膳をこちらに差し出した。 「では……これからあちらにその旨をお伝えして参りましょう。もう夕餉の刻を過ぎております、つきましてはこちらを先にお召し上がり下さい。たいへん失礼とは存じますが、ご夫婦の膳は同じものだと伺っておりますので……」 「えっ、だが――」 彼はまずその言葉を告げた侍女の方を見、それから次に我が妻の方を振り向いた。 「宜しいのです。この膳はこのまま置きましても無駄になるだけですから……」 「お魚などは、ご自分でお召し上がりになれますか?」 「ああ、それは」 反射的に箸を受け取りながら、狼駕はもう一度、膳を揃える侍女の方に向き直った。少しも表情を変えず、穏やかな微笑みを浮かべたままで彼女は言った。 「姫様は……ほとんどお召し上がりになられませんので。もしも必要なら、あとでわたくしの膳をお分け致しますのでご心配なさらず」
綺麗に並べられた膳を前に、しばらくは想像もしていなかった事実に戸惑っていた。渡りに静かに消えていった侍女は多くを語らない。元々、こちらに働きかけてこない妻になど興味もなく、初めにあれだけ強く拒絶されてしまったこともあって、歩み寄ろうという気もなかった。 「お前は、俺の家の飯がまずくて食えないと言うのか。そんな当てつけがましいことをして何になる」 吐き捨てるようにそう訊ねたが、答えなどあるはずもなかった。 もしかすると、食事を満足に摂れぬのも病の為なのかも知れない。いつからそんな状況が続いていたのかも分からないが、かといってこのままでいいはずもないだろう。 優しい言葉をかけてやるべきなのか。どうしてそんなことが出来よう。このように可愛らしいところなど微塵もない女子に。
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当の姫君はさらに几帳の奥に入ってしまったため、言葉を交わすこともなかった。まあ、こちらが話しかけたとしても答えはおろか、身振りで応えることもない。しかし、とうとう狼駕のあの重ねは手にしたまま離そうとはしなかった。 身に付けた衣を置いて戻る。そのことは特別な意味を持つ。我が妻となったあの者がそれを承知しているかは分からないが。もしもその意を知ってあんな行動に出たのであれば、あまりにも明け透けである。 ――津根は今頃どうしているであろう……? ふと、そんな考えが頭を過ぎり、またすぐにあちらからかすかに流れ来る気配を感じ取った。かすれた嗚咽は一晩中聞こえていた。女の泣き声は哀愁をそそる。情の欠片も感じない相手であっても、捨て置けない心地になる。だが、もしも慰めようとしてもまた拒否されるだけだ。 気になっていないと言えば、嘘になる。すぐに替えの重ねを用意させ、さっさと部屋に戻ることも出来ただろう。津根も衣が違うことに気付けば少しはなじるかも知れないが、あれはあっさりとした女子である。そういつまでも長引くことはない。 食事も満足にとらず、引きこもったままの姫君……もともと食の細い人であったとは言うが、こう何も受け付けなくなってしまったのはつい最近のことであるという。何か変わったことがあったのかと聞いても、傍に仕えている双葉には覚えがないという。 ――何がそのように気に入らないのであろうか。 普通の女子と同じようにしろとは言わない。だが、少しばかりでもいいからこちらに対する好意を示してくれたら、施しようもあろうというものを。当てつけのように身体を壊されては、さらに腹立たしさが募るというものだ。 漂う気の向こう。月の光に照らし出された天井を見つめたまま、狼駕もまた、なかなか寝付くことが出来なかった。
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仕方なく身を起こす。部屋の中まで入り込んだ朝靄が、帯になって身体の周りに漂っていた。 「……姫?」 まだ休んでいるのだろうか? 几帳の向こうに声を掛けても返事はない。出来ることなら重ねだけでも戻して貰おうと、思い切って内に入っていった。 「もう、いいだろう。それを返しなさい。俺はこれから部屋に戻って支度をし、父上に今回の出仕のご報告をしなくてはならない」 「……う……」 薄暗い部屋の隅。子猫のようにうずくまっていた白い身体が動いた。ゆっくりと顔を上げる。瞳だけがキラキラと薄闇に輝いた。 「……やっ……」 その仕草は、昨夕のそれを全く同じであった。妻は狼駕の姿を見た途端に怯え、身を翻す。全てを自分の方にたぐり寄せた衣をしっかりと抱き、彼女は鶸の輝きの髪を辺りに散らした。 「……やっ……や」 昨日はこれで許したが、今度は済まされることではない。身に付けていった重ねで戻らなければ、津根がどんな詮索をするか知れない。いちいち言い訳するのも面倒であるし、だいたい奥でのことを誰かに漏らせば、その時は双葉がまたよからぬことを言い出すであろう。 「あらまあ! お目覚めですか、ご主人様。……これは、姫様。もう宜しいでしょう、こちらはお戻し致しましょうね……?」 騒ぎを聞きつけて、次の間に控えていた双葉が音もなく飛び込んできた。侍女にとっては主人の閨などはもしも行為の最中であったとしても、呼び立てがあれば入ることなど躊躇ないと思っている。そう言う風に教育されているからこそ、全てを任されることが出来るのだ。 彼女は一瞬で状況を判断し、すぐさまうずくまる姫君の背後に回って腰を落とすと、細い肩に手を置いた。何度か優しく声を掛け、背中や二の腕をさすって落ち着けてから、衣を受け取ろうとする。しかし、そんな注意深いやり方でも、願いが聞き入れられることはなかった。 「姫様……! ご主人様がお困りです、さあ、早く……!」 とうとう業を煮やしたのであろう、彼女は今度はきっぱりとした態度で衣を奪い取った。本気を出せば、容易いことである。 「……あっ……、やっ……!」 いつになく強い態度に出た侍女に姫君は一瞬ひるみ、それから無理矢理解かれた衣を今一度手に入れようとした。だが、のばした袖の先、細い指は頼りなく空を切る。必死になって伸び上がった身体は、ゆっくりと敷物の上に崩れていった。 「……あうっ……」 双葉はその姿をちらっと見てから、すぐに立ち上がり衣を手にこちらに歩み寄った。 「大変失礼致しました。こちらを……あとはわたくしが収めますので、ご主人様は早くお出下さいまし」 時として、主人を諫めるのもお付きの侍女のお役目だと聞くが……それにしてもこのときの双葉は毅然としていた。少しもためらいというものを感じないことに、狼駕は驚いた。くっきりとした太い眉、しっかり閉じた口元はかすかな笑みさえ浮かんでいる。 「あまり姫様のお側にいらしては、病の障りがあるやもしれません。大切なお身体、もしものことがあっては……」 彼女は狼駕の背を押して、寝所の外に出そうとした。追い立てられるようにその声に従い戸口まで出て振り返る。 「いいのか。……だが」 狼駕がそう言いかけたとき、視界の先の姫君がゆっくりと顔を上げた。 「……」 袖口から伸びた腕が、やせ細って痛々しいばかりだった。思わず目を背けたくなるほどの衰弱ぶりだ。明るい日が差し込んできた場所にあって、頬がすっかりとこけ、泣き明かした姿が朝露の如くぼんやりと消えそうに思える。もうかすれる声が音にならない。ただ、新しい涙を流しながら、彼女は必死でこちらに腕を差し出した。 ――言葉がないと言うことは、何と不自由なことか。 当たり前の生活に慣れすぎて、表情や仕草から汲み取る手段をおろそかにしていた。物言えぬ妻が何を真に望んでいるのかは分からない。この衣が欲しいというのは明らかだが、一体何をもってそう訴えるのか。 「あっ……! ご主人様、いけません……っ!」 制する双葉の腕を払い、彼は姫君の元に舞い戻っていた。敷物に膝をつくと、手にしていたものをそっと差し出す。 「これが……欲しいのか?」 しっかりとその翠の瞳を見つめながら語りかけた。対する妻の方はまるで言葉の意が伝わっていないかのように驚きの表情で見つめ返してくる。薄い唇が何度も空を切るが、言葉にならない。 「朝夕はだいぶ涼しくなってきたであろう、今日のところはこれをお前に預けていく。それでいいか?」 ふわり。浅黄の衣が辺りに広がっていく。触れることすら許されぬような細い肩にそれを掛け、裾の方を直してやる。まだ、彼女は戸惑ったままだ。輝きを失いかけた髪がそれでも朝の気に揺れ、思わず触れてみたいという欲求が狼駕の指先に宿った。 もう少し、と言うところまで指を伸ばし、そこで立ち上がる。振り向くと、不安げにことの推移を見守る双葉と目があった。 「悪いが……替えの衣を用意してくれるか? 急いで頼む」 侍女は何かを言いたげに一瞬唇を動かしかけたが、すぐに考え直したらしい。軽く頭を垂れると身を翻し、衣装の間に入っていった。
(2004年4月16日更新)
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