TopNovel匂やかに、白・扉>匂やかに、白・4


…4…

 

 

 

 その日、決められた務めが全て終わった夕刻。

 狼駕は父であるこの館の主の部屋から退座すると、すぐに西の奥に向かった。一度部屋に戻って衣を改めるのが礼儀であろうが、そうすればまた津根が何を言い出すことか。早朝に舞い戻ったときも、あれこれと詮索されてげっそり来てしまったのだから。

 

「まっ、まあ……これはご主人様。お出でなさいませ……その……?」
 日をあけずにこちらに参ったことなど、新婚の三日だけだ。出迎えた双葉は滑稽なほどにうろたえていた。敷物を運び、座を作る手つきもおぼつかない。急な渡りで、使者もよこさなかったので慌てたのだろう。

「……姫はどこにおられる?」
 いくつかに区切られた空間をぐるりと見渡しつつ、彼は静かに訊ねた。もちろん、用意された場所に腰を下ろすことはない。

「は、はいっ! その……、寝所の方に」

「何……?」
 狼駕はその言葉に、眉をひそめた。

「そんなに具合がお悪いのか? 日中ずっと伏せっていたと言うのではないな……?」

 そう言いながら、ずんずんと中に進んでいく。昨夜にしとねをしつらえてもらった場所は、まだ昼の居住まいになっており、その奥には早朝に見たのと同じように几帳が置かれていた。後ろからもうひとつの足音が静かに追ってきているのは知っていたが、そんなことは気にすることもない。

 そこに掛かっているのは、夏仕様の薄もの。向こうが透けて見えそうな布をゆっくりと押し上げると、狼駕は動きを止めた。

 ――天女が、眠っている。

 彼女は狼駕の衣をしっかりと抱えて、安らかな寝息を立てていた。主人を出迎えることもなく眠りこけている妻など、本来ならば憎らしいばかりであろう。だが、その時の彼にはこんな妻の姿に毒々しい感情は湧いてこなかった。

「……う……」

 ぴくりと、指先が動いて。差し込んだ明るさに気付いたのか、目の前の人が面を上げる。そして、几帳の傍に立っている狼駕の姿を確かめると、にわかに瞳の色を変え震え上がった。

「……あっ……、やっ……!」
 もともと彼女がいたのは部屋の一番奥である。それなのにさらに行き止まりの壁に身体をすり寄せ、これ以上下がれないところまで後ずさろうとする。手にした衣を抱え直し、何度もいやいやと頭を振りながら、牽制した。

 ――ああ、そうか。衣を取り返しに来たのかと思っているのか。

 初めはその態度の意が掴めず困ったが、よくよく考えれば合点がいく。狼駕はふうっと溜息を落とすと、その場にゆっくりと膝をついた。そして、袂から紙包みを取り出して差し出す。

「……どうした? 俺はお前から衣を奪いに来たのではない。幾日もの間、何も口にしないと言うから、こんなものならどうかと持参したまでのこと。どうだ、少し食してみないか? 薬だと思えばいい」

 白い紙包みを開く。指の先ほどの色とりどりの花がそこに咲いていた。量にして、大人の手のひとつかみ分ほど。だが、この地にあってこれだけの干菓子を手にするのはそうあることではない。砂糖というものが極端に少なく貴重な品なので、甘味と言えばそのほとんどは果物か芋類で摂ることになる。このように砂糖を固めて作った菓子などとというものは、とんでもなく高価な品であった。

 休憩の時間に茶菓子に出されたこれを見たとき、ふとこの妻のことを思い出していた。

 今までは母親からの使者に急き立てられ、ようやく思い起こすような存在でしかなかったが、昨夜初めて知った様々なことが狼駕の心に引っかかっているらしい。ふと筆を持つ手を止めた時などに、あの濡れた瞳が脳裏に浮かび上がる。賑やかな奥のさざめきの向こう側、誰も知らぬ場所にうずくまって震えているに違いない。そう思うだけで胸が締め付けられる。

 珍しいものではあるが、彼自身はそれほど甘いものが好きではない。目立たないようにこっそりと懐紙に包んで持ち帰ろうとしたら、それに気付いた父や叔父たちも、自分たちの皿にあるものを分けてくれた。

「……?」
 彼女は身体を緊張させたまま話を聞いていたが、差し出されたものを見て小首をかしげた。そしてまた、再び狼駕の顔を見上げる。

「何をしている、こちらに来なさい。……動けぬわけではなかろうに」

 まあ、食べ物を差し出されてすぐさま寄ってきては、余りにもはしたないと思うのであろうか。桃や薄水、若葉色に色づいた花弁を遠目に見ながらも、彼女はその場を離れようとはしなかった。こうなることは予想していたので気にならない。狼駕は後に控えた双葉に背中で命じた。

「すまないが、茶の支度をしてくれるか? 夕餉の膳はそのあとで良い」

 

 衣擦れの音が去っていったのを確認してから、彼は包みを手に立ち上がった。

「……あ、うっ……」

 一歩近づくたびに、妻はさらに怯え身体をこわばらせる。昨日はそれが腹立たしくて、つい声を荒げてしまった。しかし一晩経った今日は、いくらかのゆとりが戻っている。どんな態度であっても構わないと言うように、彼は躊躇なく足を進めた。

 やがて、ごくごく間近まで来て静かに腰を下ろすと、その気配を感じ取った姫君が俯いていた顔を少しだけこちらに向けた。寝起きのためか少しはれぼったい眼差しではあるが、ゆっくり休んだらしく頬の色が昨日よりは持ち直したように見える。

「干菓子は知っているだろう? 体の弱ったときには、甘いものが良いと言われている。ほら、口を開けなさい」

 まるでむずかる幼子をなだめているかのようだ。自分で自分の言葉を滑稽に思いながらも、彼は小さな薄桃の花をつまみ上げると彼女の口元に運んだ。かすかに感じる香料が、甘い香りを漂わせている。それに誘われるかのように、震える唇が少しだけ開いた。

「どうだ、都の品だと言うから味がいいだろう……?」

 舌の上に乗せてやると、彼女ははっとして目を見開いた。まるで何かにしびれを感じたかのように、ぼんやりと狼駕を見る。頬にわずかながらのほころびが感じ取れた。

「そうか、美味いか。じゃあ、もうひとつ」

 庭先にやってくる野鳥の餌付けをするときは丁度こんな風にするなと思いながら、彼は注意深くゆっくりとそれを繰り返した。一瞬のうちに溶けていく淡雪の様な菓子である。侍女が茶の支度を終えて戻ってきた頃には、懐紙の上の花畑はほとんど空になっていた。

「……まあっ……!」
 双葉は目を見張っていた。彼女の瞳に映ったのは、それほどに思いがけない状況だったのだろう。

「急にこんなに召し上がって……御気分は大丈夫でしょうか? 姫様、少し横になられますか」
 侍女はすぐさま夫婦の間に割って入り、己の女主人の身体をさすった。そして、狼駕を押しやるように次の間に促す。

「ご主人様、あちらで控えの者が夕餉の支度を整えております。どうぞお出であそばせ……こちらは、わたくしが」

 傍に寄ってはならぬという言葉の従わなかったことをわざわざ口にしてなじるような真似はしない。だが、双葉の態度や言葉尻にはやはり狼駕を制する強いものが感じられた。

 

 退出するときに、間口の辺りで一度振り向く。

 あれこれ声を掛けられながら身を横たえる姫君の姿は侍女の影になっていて分からない。だが、決して触れ合うことなどないと思っていた心が少しだけ寄り添ったような……そんな温かさが指先に残っていた。

 

◆◆◆


 ひたひたと月明かりが満ちている庭。天を覆い尽くすその輝きは、ゆらゆらと無数の光の柱を地上に届けている。上の方は穏やからしい。草も木も花も。皆言葉をなくしたまま、静かに眠りの時間を迎えていた。

 ――眠れない。

 中庭に面した縁に出でてひとりで佇みながら、彼は自室からとは違う庭の趣を楽しんでいた。夕餉の膳を平らげたあと、部屋に戻っても良かったのだが、何となくこちらに留まってしまった。館の中でも離れ庵のように奥まっているここに来ると、全ての喧噪から解き放たれたような気分になる。静寂に沈んでいた草陰からちらちらと虫の声が聞こえてきて、確実に季節の移ろいを感じることが出来た。

 西の奥の対は彼が正妻を迎えることになり、新たに建て増した場所である。まだ木の香りも新しく、白い木目が日の中では眩しすぎるほどだ。几帳などの調度も全て新しく揃えられていた。こちらでは板間に敷物を敷いたしつらえで、休むときには畳ほどの厚みのある寝具を用意する。それのい草の香も新しくたどたどしい気がしていた。

 ふと、指先を見つめる。そこに残るかすかな感触を思い出していた。

 先ほど、干菓子を与えたときに妻の唇にもわずかに触れた。病のためかその表面はかさかさに乾いていたが、それでも何とも形容しがたい柔らかなぬくもりを感じ取っていた。今まで御簾の内にいて言葉も交わさぬ妻を、物言えぬ人形のようだと思えてならなかった。しかし、押し殺してはいてもその内側には感情を持ち、白すぎる肌の下には血潮が流れている。そんな当たり前のことが、今更に新鮮だった。

 おかしなことだ、まるで初恋を覚えた少年のようである。元服してすぐに女を知り、閨のことなどはもう慣れすぎていると感じていた。それがどうだろう。このようにうきうきした面持ちになるのは久しぶりだ。滑稽すぎる自分が、意識を切り離した他人のように思えてくる。一体どうしたことか。

 

 ――と。気の流れが、彼の垂らしたままの髪を肩先で揺らした。

 ことり、と奥の方で物音がする。何だろうと肩越しに振り向き部屋の中をうかがって、几帳の向こうから覗いている人と目を合わせてしまった。いつの間にあんな場所まで出てきたのだろうか。こちらの視線に気付くと、すぐに薄ものの向こうに隠れてしまう。昨夕までは狼駕のものであったはずの衣と鶸の髪が隠れきれずにちらっと見えていた。

 見て見ぬ振りをしていると、またそっと覗いてくる。こちらがぴくっと反応すると、顔を隠してしまう。何度もそんなことを繰り返しているうちに、狼駕の口元には独りでに笑みが浮かんだ。

「……こちらにお出でなさい。天の輝きが眩しいほどだよ……?」

 それだけ告げると、さっさと背を向けた。あまり無理強いをしてはならぬだろう。かえって怖がらせてしまうだけだ。だから、ようやく耳に届くほどの衣擦れの音が背後で聞こえても、決して振り向かなかった。

 

 縁の板に映る枝影がかたちを変えていくほどの長い時間を掛けて、そろりそろりと近づいてくる。大股で歩けば数歩の距離が、どんなにか長く感じられるのだろうか。

「お前の故郷と、月の明かりは同じだろう? 天を照らす輝きは海底じゅうどこでも変わらない。そうは思わぬか……?」

 後ろに控えた人は何も答えない。だが、もうそんな些細なことは気にならなかった。

 この者も……寂しいのだ。ただですら、病で気弱になっているところに見知らぬ土地に連れてこられる。家族とは引き離され、慣れない土地で暮らして行かなくてはならない不安を狼駕は知らない。だから、想像するしかなかった。

「お前も……哀れだな」

 少しも打ち解けようとしない妻に激しい憤りを覚え、やがてそれをやり過ごすために心の中からその存在すら排除しようとしていたのかも知れない。心に留め置かなければ、裏切りも落胆もない。最初からなかったことにすれば良いのだ。

 だが、それは違う。誤解していたのはこちらの方かも知れぬ。この者の輿入れまでにも、館では様々な憶測が飛び交い、実際に対面する前に姫君のことはすっかり承知している気になっていた。

 さんざんの初夜を過ごし、大臣家でのお務めの際に耳にした仲間の言葉が真実だと知る。正妻なんて、お飾りでかわいげがないというのは本当だったのだと。もともと好きで一緒になった仲ではない。それだけに、一度ほころんでしまった心は時が経つにつれ、大きな裂け目となっていった。

 辺りの気を揺らさぬほどのゆるやかな動きで振り向く。俯いた頬に髪が掛かり、その表情は見えない。ふと視線を落とすと、袖口から覗いた小さな手と折れそうなほどにか細い手首が映った。

 思わず、腕を伸ばしていた。

「このように……やつれて。里の親御様がどんなにかお嘆きになるであろう」

「……うっ……」

 今度は逃げようとはしなかった。衣に包まれた細い肩を大きく震わせながら、妻は低く呻く。ぽとぽとと雫がふたりの手の甲にこぼれ落ちてきた。崩れそうになった身体を思わず抱き留めると、余りの軽さに背筋が凍えていく。この身体は……本当に血の通った人のものなのだろうか。

 

 ――可哀想に。

 もしも、自分がこの姫君の父親ならば、病がすっかり治るまで手元に置いて慈しもうと思うだろう。それなのに彼は娘の気持ちや身体よりも、己の欲を重んじたのだ。その結果がこうだ、許されることではない。

 ――守ってやらねばならぬ。

 初めてとも思える感情が腹の奥から湧き出てくる。強く抱けば折れてしまいそうな背に腕を回し、狼駕は彼女の嘆きを自分の胸に受け止めていた。

 

◆◆◆


 その翌日から、彼女は柔らかく煮た粥を口にするようになった。

 最初の日は一口だったのが、二口になり三口になり、いつの間にか小さな器を平らげるようになる。相変わらず奥の間に籠もったままではあったが、日に日に回復していくのが目に見えて分かる。夕刻戻るたびに双葉が嬉しそうに報告するのを聞くのが、狼駕の楽しみになった。

 

「おお、よく食べきったな。これが昼餉の椀か」

 大袈裟に声を上げながら、器を逆さまにしてみせる。恥ずかしそうに俯くその人に向かって、自然に笑みが浮かぶようになった。さもあろう、心をかけて接すれば、驚くほどに素直な反応が戻ってくる。注意深く見守っていなければ見落としてしまいそうなその仕草も、音のない空間ならゆっくりと眺めることが出来るのだから。

「これならば、今宵の夕餉はそろそろ普通の膳で良いのではないか? 身体にも障りはないのであろう」

 そう訊ねながら、後ろに控える侍女を振り返る。始めの頃こそ、狼駕と姫君の間のやりとりを不安げに見守っていた様子であったが、近頃ではその色合いも薄れてきた。未だに心内の分からぬ女子ではあるが、ひとりの姫君を想う気持ちは通じるものがある。少なくとも狼駕はそう感じていた。

「はい、左様にございますね。ではすぐに用意をさせましょう。そうですわ、風通しの良い日に御髪も洗いましょうか。ずっと伏せってばかりでしたし……きっと晴れやかな御気分になられるかと」

 自分に仕える侍女の言葉に、姫君はますます頬を染める。薬湯も難なく口に出来るようになったが、やはり言葉は戻らない。自分では話したい気持ちはあるようだが、喉の奥が駄目になっている様子だ。必死になりすぎて咳き込むこともあり、痛々しいその姿がたまらない。そのたびに、彼女からの言葉を強要することだけはやめようと悟るのであった。

 いつの頃からだろうか。狼駕は侍女である双葉と共に、この姫君の保護者にでもなってしまったような心地がしていた。

 豪族の跡目である彼には、幾人もの弟や妹がいる。だが、皆腹違いであり、日常的に交流のある者は少ない。だからこの歳になって、いきなり妹が出来たかのようでもある。立場上は夫であっても、そうであることすら忘れていた。

 


 一枚の衣を介してのやりとりから半月ほどの時が過ぎ、渡り奥の部屋に狼駕の持ち物が増えていく。文机も運ばせ、簡単な書き物などはここで済ませるようになっていた。

 昼間の務めが早く上がったときなどは、ゆっくりと墨を擦り書に向かう。艶やかな香に誘われるのか、いつの間にか端近まで姫君が来ている。決して邪魔をすることはないが、気が付くとそんな場面が増えてきた。だんだん打ち解けてくれているのだと嬉しくなる。

「お前も何か書いてみるか……?」

 何度となくそう働きかけてみたが、彼女は筆を取ることもなく恥ずかしそうに俯いてしまう。無理強いをすれば几帳の奥に戻ってしまうのは分かっているから、それ以上は言わない。姫君のあの美しい仮名文字をしたためるところを見てみたい気もするが、このように奥ゆかしい性格では人前で書き散らすことなど出来ないのかも知れない。

 狼駕の方はもう慣れたもので、こうして視線を感じながらでも手元が狂うこともない。さらさらと新しい薄紙に書き付けて、そっと差し出した。

「……?」

 何事か、と言うようにそれを白い指が拾い上げる。綴られた文字を翠の瞳がなぞっているのが分かるとやなり気恥ずかしい。文というものはこんな風に近くにいてやりとりするものではないのだ。

 ――かくばかり 恋ひむものそと……と始まるその歌は、いにしえの恋歌を模したものである。もちろん分かりやすい内容であるから、字面を追うだけでその意はすぐに分かるだろう。今までの文のやりとりからでも、この姫君が深い教養を持っているのは知っていた。

「それは……お前のものだ。ほんの遊びだから、あとで処分しておいておくれ……?」

 あまりに一緒にいたので、だんだん仕草までが似てきてしまったのか。自分の頬が熱く染まっていることが、手鏡などに映さなくとも分かる。

 走り始める鼓動を悟られぬように、彼はわざと大きな物音を立てて辺りを片づけ始めた。

 

◆◆◆


「さあ、頂くとするかな?」

 奥の寝所の表に燭台を灯し、ふたり分の膳を並べる。女子の手でようやく持ち上がるほどの大振りのそこには、海のものや山のものがふんだんに使われた豪奢な料理が並んでいた。

 狼駕の父であるこの館の主はたいへんな美食家として知られている。それだけに御台所の方もかなりの趣向を凝らすようになっているのだ。他から招かれた客人などは、余りの量に平らげるのが難儀であると目を白黒させながら告げるのが常である。

 今宵の膳に置かれた見事な焼き物は金目鯛。塩をしてピンと上を向いたひれや尾が今にも動き出しそうだ。

「……?」

 しばらくすると、目の前に座したままぴくりとも動かなかった妻が、不思議そうに面を上げた。彼女の瞳に映っているのは、やはり座したまま微動だにもしない夫・狼駕の姿であろう。指先も透き通るほど白く、どこもかしこも儚げな姿。こちらを見つめる眼差しも相変わらず不安げで、おぼつかない。

「どうした、粥ばかりでは飽き飽きしたであろうな。お前は魚が好きか? この先の浜で上がったものは上手いぞ」

 もともと狼駕もあまり口が立つ方ではない。相手が口達者ならば、黙ったまま話を聞いている方が楽だと思っていた。幼き頃より年上の侍従や口うるさい侍女に囲まれ、何かを欲する前に先回りして支度が出来ているのが常であったのである。もちろん出仕先の大臣家では相応に気を遣うが、少なくともこの館にいるときには周囲を気にすることもなく気楽に過ごすことが出来た。

 今、目の前の彼女が何を思っているかはだいたい分かる。だが、もうしばらく困り果てた様子を楽しんでいたいと思うのはどうしてだろう。何とも子供じみているとは思うが、こんな些細なやりとりが楽しくて仕方ない。翠の瞳が悲しそうに揺らめいたとき、ようやく限界だなと口を開いた。

「今宵はお前の真似をすることにしよう。ほら、箸をもって何でも好きなものを食せばよい。お前と同じように俺も動こう、もう腹の虫がさっきから騒いで大変だ。これ以上、待たせないでくれよ……?」

 言葉は返せないが、こちらの言うことはだいたい理解できている。

 山をひとつ越えると言葉が微妙に違う。この姫君の父親にもひどい訛りがあり聞き取るのに手間取った。狼駕自身も意識はしていないが、彼女が分からない言葉を用いているかも知れない。そう思うから、会話のひとことずつに注意していた。

 ゆっくりとかみ砕くように語りかけると、妻の唇がまたかすかに動いた。

「……あ……」

 白い額にわずかに皺が寄る。戸惑っている表情ではあるが、こちらが空腹を訴えたことで覚悟を決めたのだろう。のろのろと箸をのばすと、しばらく思案したのち芋の煮物を口に運んだ。それに従うように、狼駕も同じように動く。その次に菜を取り、汁をすする。魚は尾の近くを少しつついた。

 ひとつの動作を行うたびに、確認するように顔を上げる。その頬が恥ずかしそうに真っ赤に染まっていた。あまりからかっては可哀想だと知っていても、反応のひとつひとつが面白くてつい困らせてしまう。

 やがて。

 膳を半分も片づけぬうちに、必死に動いていた彼女の箸が止まった。胃の辺りを押さえて苦しそうにしている。さすがにもう限界の様子だ。

 

「頑張ったな、もう良い。双葉を呼んで、薬湯の準備をさせよう」

 おずおずと申し訳なさそうに見上げる妻に、狼駕は静かな微笑みで応えた。空き腹も潤うほどの温かな心地を感じ取りながら。


(2004年4月23日更新)

 

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