二日、三日。日を重ねるごとに、箸の進みも良くなってくる。 実はあのあと双葉に申しつけ、妻の膳は盛りを加減させていた。器もわざわざ少し小振りなものを用いているので、パッと見ただけでは狼駕の膳と大きく違いは感じない。元々が小食だと言うから、狼駕の屋敷のやり方だと、彼女にはとても平らげられる量ではないのだ。 「おお、ご覧。魚がこんなに進んだではないか」 慎ましく端の方から箸を付けてある。好ましい食事の取り方だ。狼駕はあまり食い散らかす箸使いが好きではなく、そう言った作法の者が近くにいるとそれだけで食欲がなくなってしまう。目の前の姫君に関しては、そのような心配はなかった。 「……」 塗籠(ぬりごめ)の戸をきっちり閉ざしたその一番奥にしまい込まれてしまった心。それがわずかに空いた隙間から、ちらりちらりと垣間見られる。傍にいて、こちらから絶えず働きかけていなければ、厚い雲間からさすほんの一筋の光のような幸運には巡り会えない。彼はその身が自由になる時間のほとんどを、西の奥の対で過ごすようになっていた。 少しばかり赤みの戻った頬がほころぶ瞬間……、それを見逃すのは辛い。父の部屋での務めの最中ですら、時折ぼんやりと思いをはせてしまう。皆の失笑を買っているのは知っていたが、気にもしていなかった。
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やがて館の主となる者として、この時期の領下の見回りは特に心して行わなければならない。豊作だから一概に良いとも言えぬのだ。何故なら、あまりひとつところが豊かになりすぎれば、また難しい出来事が色々起こる。世襲制と言われている領主制度ではあるが、上に立つ者がしっかりしなければならないと地が荒れる原因となる。そのことは知っていた、いくつもの実例も目の当たりにしてきている。
父や他の兄弟たちと分担して、狼駕も外回りの務めをこなしていた。 ただ、今までとは違うのはどんなに日が暮れて遅くなったとしても、出先で宿を頼むことがなくなったことである。幸い、馬術には長けていたので、ひとりの供だけを連れ、道中は休むことなくひた走った。 大人しい気性の下男であったから口に出しては言わない。しかしながら、内心「いい加減にしてくれ」と思っているに違いない。だが、気付いていても知らぬ振りをしていた。この者は乳兄弟――つまり、狼駕の元の部屋に仕えている津根(つね)という侍女の弟に当たる。彼が何を言いたいのかは分かっていた。 以前なら、行く先々で宿を借り、そこでひと遊びするのが常であった。狼駕としても、自分の館や大臣家への出仕では色々と気を回し疲れることも多い。たまには「御領主様の若君」という身分で馬鹿騒ぎでもしないとやっていられないと言うのが本心だった。 そうなのだ、何も自分の妻となった涼夜(すずや)という姫君だけが特別な訳ではない。ある一定以上の身分を持つ家ならば、良家の跡目に娘を差し上げるのはとても栄誉なこととされていた。正妻となったかの人の他にも、たくさんの候補はあったという。ただ、それを選ぶことに狼駕は関わっておらず、全てが館の主である父とその重臣たちの手で進められていた。 たくさんの妻を持ち、子を産ませることで家が安泰となる。また、娘を差し出した側としても、もしも我が娘が子宝に恵まれ生母としての地位が確立すれば、実家の格もおのずと上がっていく。 男女の営みは、性愛とは全く別の場所で大きな意味を持っていた。柔らかい肉の下で、様々な思惑が渦巻いている。美しく寝化粧を施した娘たちは甘い言葉でねだりながら、その腹では全く別のことを考えているのだ。それを知りながら、寝着の帯を引き組み敷く。そこにあるのは愛ではない、欲である。互いが己を満たすためのものでしかない。 艶やかに揺らめき立つ燭台に照らし出されたふたつの肉体は、どこまでも重なり合うことはない。そう割り切らなければやっていられない。余計な情など湧いてはあとが厄介になる。 変わり映えのない生活の中での潤滑油とも思えていた務めが、どうしてこんなに煩わしいのであろう。西の奥の対にいるあの者を知ってから、狼駕は変わってしまった。自分自身ですら、持て余してしまう感情。手綱を握り馬を急き立てながら、進む場所はひとつだった。
――山持ちの御家の娘子は、どんな手腕を持って跡目殿を虜にしているのか……。 何も知らぬ者たちは、面白おかしく騒ぎ立てて噂する。中にはこちらに聞こえるようにわざと大きな声を立てる者すらいた。 傍らにいる下男は心配そうにこちらを伺っているが、狼駕は何食わぬ顔で茶をすすり上げる。あの姫君を辱める言葉など切り捨ててやりたいのは山々であったが、そんなことをしてもかえって面倒なことになるだけだ。
時には沈黙することで守れる砦もあることを、彼はすでに知っていた。
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馬を下りて手綱を下男に預けると、その足で奥へ向かう。父への帰館の挨拶もあるのだが、とにかくは一目会わぬと気が済まない。珍しくまだ明るさの残るうちに戻ってくることが出来た。今夜は久しぶりにゆっくり出来そうだ。 「すずは……、うわっ!」 御簾の内に入った途端に、狼駕はみっともなく大声を上げてしまった。 慌てて足を止めたそのすぐ傍で、きょとんとこちらを見上げている翠の瞳。今までこんなに表まで出てきたことはなかったから、驚いてしまう。いつもならば一番奥の部屋の、さらに几帳の内にいる。食事の時間ですら、その部屋の中だ。余りにも勢い込んでいたので、もう少しで蹴り上げてしまうところだった。 「ただいま戻った。……どうしたのだ、ここで俺を待っていてくれたのか?」 膝をつき、その表情を覗き込む。だが視界の向こう、白っぽい顔はどこかぼんやり霞んでいる。今宵は秋の荒れのためかもう薄暗くなってきていた。夜半にかけてもっとひどくなると聞いている。それもあっての早めの到着であった。 しかし、顔向きはよく分からずとも、嬉しさがこみ上げてくる。姫君は俯いたままゆるゆると力無く首を横に振ったが、そんなことで惑わされたりしない。 「あ……」 「――え?」 その意が掴めず、思わず聞き返してしまう。その時、背後からもうひとつの滑るような足音が響いてきた。 「これは……お帰りなさいませ、ご主人様。御館様より、今宵はあちらで膳をご用意しているとのお言葉です。お客人のご接待をと――お急ぎ下さいませ」 双葉は礼を尽くして跪きそこまで告げると、ようやく固くしていた表情をほころばせた。 「御庭の花が……今夜の荒れで皆散ってしまうのではと思いまして。綺麗な枝をいくつか手折って参りました。それを姫様が……」 狼駕は侍女に向けていた視線を、ゆっくりと妻の方に戻した。目の前の人は恥ずかしそうに顔を伏せたまま、床に流れ落ちた鶸の髪が静かに波打っていく。 「お前が、活けてくれたのか。俺のために……?」 純白の手鞠花が、やわらかな花玉を匂わせている。この頃はまだ夜も明けぬ内にここを出て、戻るのはもうすっかりと暮れたあとだった。ゆっくりと庭の花を愛でる暇もなく、忙しいばかりの日々。この花がこれほどに美しく咲き誇っているのさえ、知らなかった。 「……」 答えなどない。可哀想なくらい縮こまって、消えてしまいそうに震えている。だが、その姿だけで彼女の心が分かる気がした。慣れぬ仕事をしたからだろう、袖口から覗く指先にいくつかの擦り傷が見える。 夢中な作業だったのだろう。髪の流れのまにまには、指先ほどの花びらがいくつも散っている。聞けば、花を摘んできた双葉が夕餉の膳を取りに行った隙に、姫君がたったひとりで挿していたのだと言う。 「おお、そうか。……そうか」 狼駕は大袈裟にそう叫ぶと、立ち上がり大股で花の前まで進んでいった。そこで改めて腰を下ろす。双葉が慌てて燭台を用意して運んできた。 正直、花の活け方などあまり詳しくはない。どれも同じに見えるし、興味を示したこともなかった。だが、これは妻が自分のために施してくれたものなのだ。そう思えば、すんなりと素直にのびたひと枝までもが、美しい心映えを示してくれている気がする。姫君を知ることが出来るのなら、何でも嬉しかった。 あまりうるさく騒ぎ立てれば、恥ずかしがって尚更小さくなってしまうのは分かっている。だが、この喜びをどうして表せばいいのだ。
「ああ、そうだ。俺からも土産があったのだ、……すっかり忘れていたぞ」 しばらくして。狼駕は袂を探ると、そこからするりと飾り紐を取り出した。 銀糸と瑠璃の糸が交差して、ともすると寂しげな色目ではあったが、ところどころに純白の小さな珠が織り込んである。若い女子(おなご)たちが髪を美しく結い上げ、これを綺麗に結ぶ。蝶や花に見立てた変わり結びもたくさんあった。 今までほとんど伏せっていた妻だったので、髪をきちんと梳いて結うこともなかった。だが、ここまで回復したのなら、少しは美しく飾りたいと思っているのではないか。裕福な実家からはそれこそまだ行李も開けてないほどのたくさんの衣装や道具が運び込まれていたが、彼女はそう言ったものにあまり頓着していない様子だった。 この紐を店先で見つけたときに、思いついた。 髪を結い綺麗に飾れば、次は化粧をしたくなるだろう。艶やかに紅を引けば、今度は華やかな衣が。妻も若い娘であるから、そうして我が身を美しく飾ることで、気持ちも晴れやかになるに違いない。そうなれば今よりももっと生き生きと明るい表情になっていくだろう。そんな彼女が、どうしても見たいと思った。 こんな風に奥に籠もってばかりいるから、あれこれとあらぬ噂を立てられるのだ。あまりに明け透けなのもどうかと思うが、もう少し人前に出て行っても良いと思う。狼駕の父や母からも、たまには一緒に膳を囲もうと言われているのだ。早くそんな気になって欲しい。どうにかして、この姫君にここの館での居場所を見つけてもらいたかった。 「まあ、これは……お美しい織りですわ。ほら、姫様、素晴らしいですわよ……?」 手渡したものをぼんやりと見つめている妻に、侍女がそう告げる。 「姫様の御髪にも、よくお似合いになりますわ。……早速明朝にでも、結って差し上げましょう。姫様のために特別にしつらえたような素敵な贈り物ですわね」 姫君はまだしばらくぼんやりと紐を眺めていた。やがて、ゆっくりと顔を上げる。そして、揺れる瞳で狼駕を見つめた。 「……の?」 低い、かすれた声が外の気の荒れにかき消されていく。だが、かすかな唇の動きで、狼駕は彼女が何を言わんとしているのか分かった気がした。 「そうだ、お前のものだよ。お前のために、買い求めてきた。どうだ、気に入ったか……?」 「……」 気の流れが静かに胸まで流れ込んでくるような静寂。狼駕は暖かい感情をゆっくりと噛みしめていた。
ちょっとした気まぐれで土産物を求めることなど、今までにも何度もあった。津根や他の女子たちにそれを与えると、こちらが気恥ずかしくなるほどに喜んでくれる。すぐに髪に付けたり身にまとったり、そんな仕草でこちらの心を十分に満足させてくれた。 ――だが、違ったのだ。 ようやく気付いた。ただひとり、自分のためだけに施されることがどんなに嬉しいのか。実際のところ、ほんのひととき咲いて散る花を挿したところで、何の得になるわけでもない。それなのに、どうだろう。物言えぬ花がたくさんのことを教えてくれる。清楚な輝きが、まるで妻の心内を示してくれているかのようにすら感じられるではないか。 そして彼女を今、輝かせているのは自分なのだ。唇の端が少しだけ上がる微笑みも、しっとりと赤く染まる頬も、その全てが狼駕がいなかったら存在しない。 誰よりも何よりも大切なのだ。そして、そうやって柔らかく思うことで、自分も満ち足りた気分になっていく。永遠にさすらうはずだった感情が、行き着く先を見つけた。笑い飛ばされてしまいそうなぬくもりでも、狼駕にとっては唯一の安らぎであった。
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「いやはや……昼間のうちに、野を越えて山裾まで行けるかと思ったのですが……」 初老の客人はそう言いつつも、どっかりと腰を落ち着けてしまっている。 狼駕の父はこんな時に、頼られることを喜んでしまう幸せな人種だ。何の見返りも求めずに、たっぷりとしたもてなしで迎える。やはり、豊かな地の人間はそうなってしまうのであろう。人に足元をすくわれることもなく悠然と生きていける選ばれた人だと、狼駕は思っていた。 「こちらの若様も、正妻様をお迎えになり……あとは次代を担う御子の誕生を待つばかりですな。誠におめでたいことでありますなあ」 接客のために館の中でも綺麗どころで知られている侍女がふたり、客人の傍で世話を焼いている。もう心得た者で、男の手がいやらしく肩に回ろうが、にこやかに微笑んでいるのだ。こういうときに女子とはしたたかだなと思わずにはいられない。今まで狼駕の周りにいたのは、この手の者ばかりだった。多分、どちらかが今夜の伽(とぎ)をするのだろう。 ちろりと客の視線が回ってくるのを感じる。さりげない風に装いつつも、全身を値踏みされているような心地悪さが背中を流れていく。狼駕は無言でそれに耐え、杯を煽った。 「ま……、ここは一献」 「我が家にも、娘がおりましてね。今年15で、若様とも年回りが丁度良い。今度、あちらにいらした折りには、今宵のお礼を致したい。是非、我が家を宿にお使い下さい」
――やはり、そう来たか。
態度には出さずに腹の中で、狼駕は言葉を留めた。姫君を正妻として娶ってからと言うもの、前にも増してこの手の誘いが増えた。今まではほんの慰みのような感じであったのが、違ってきている。 年若い跡目を喜ばせようという配慮であったのか。以前は出先で宿を借りた際にも、それなりに経験を積んだ女子があてがわれることが多かった。恋人がいようが夫がいようが、この地の女子は客人に身体を差し出す。まるで美酒を振る舞うように、そうすることが当然とされていた。 しかし、婚儀を境にそれが一転する。宿にした家で閨に待つのは、男とまみえたことなどないような年若い娘ばかりだ。もちろん、全てを知った上でそこにいるのだから、なんの遠慮もいらない。ただ、気を遣いながらの行為は気が重く、なかなかその気になれないのも事実だった。だからこそ、外で過ごしたあとは津根の肌が恋しくなった。お互いを知り尽くした関係だからこそ、気兼ねがない。 狼駕の父には、正式に側女としている女子だけでも、館に片手で足りぬほどいる。この地の女子は、30を過ぎると子が出来にくくなることが多い。そのため頃合いを見て暇を取らされることが多く、その顔ぶれはどんどん変わっていく。ずっと寄り添うのは正妻のみだ。まあ、その地位にある者は、得てして夫に顧みられないものではあるが。
好いた惚れたで一緒になれるのは、気楽な身分の者だけだ。何不自由のない裕福な暮らしと引き替えにするのは、そう言う純粋な気持ちなのかも知れない。そう……思っていた。今まではずっと。 当然だと思っていた頃は何でもなかったことが、今ではとてもいやらしく浅ましく思えてくる。己の欲のために、娘を犠牲にする。彼女たちは好きでもない男の元に差し出され、そこで望まぬとも女子同士の争いごとに巻き込まれていくのだ。途中で心や身体を病んでしまう者も少なくないらしい。
「西の対の姫君のお噂はかねがね伺っておりますが、我が家の華だって負けてはおりませんよ?」 ああ……どこかで聞いた台詞だと思う。そうか、妻の父親が何度も繰り返して告げていた言葉と同じだ。皆自分の家の咲き誇る娘を自慢し、我が子こそはと売り込む。それに応えることも領主の跡目としての義務だと思ってきた。
――だが、もうそんな気分にはなれぬかも知れない。
あの奥の部屋で。妻はただひとり、自分の帰りを待っている。いや、そう口にして言われたわけではないし、態度で示されたこともない。狼駕が勝手にひとりで思いこんでいるだけだと言われればそこまでだ。 未だにあの日の衣が手放せず、幼子のように始終傍に置いて、時にはしっかりとくるまっていると言う。言葉にしなくても、求められているのが分かる。男として、夫としてではないかも知れない。だが、彼女にとって自分は無二の存在なのだ。それだけは信じている。 もちろん、誰も知らない。まだふたりの間に何もないなどと。周囲の者たちは、妻の懐妊を今か今かと待ち望んでいる。そして、もしも半年以上子が出来ぬとすれば、今度は余所で子を作れと言う話に変わってくるだろう。
時間は早く流れすぎる。それがもどかしくて仕方なかった。
(2004年4月28日更新)
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