TopNovel匂やかに、白・扉>匂やかに、白・6


…6…

 

 

 

 客人をもてなす宴は夜半まで続き、その頃には外の荒れもさらにひどいものになってきていた。

 狼駕などは生まれ落ちてからずっとここに住まっているので当たり前に思えるが、他の土地から来た者には館が揺れ響く様はたとえようもないほど恐ろしいらしい。今夜の客も始終それを気にしており、挙げ句に狼駕にも自分に与えられた部屋の隣の間で休むようにと提案してきた。頃良く酒を過ごした父も、当然のようにその言葉に従うようにと促した。

 西の対への渡りは柱を立て、その上に屋根を乗せただけの吹きさらしの縁である。遮るもののないそこは、気の流れの激しいときには前も見えぬほど進み辛くなる。今からあそこを通っては、衣も台無しになるであろう。たまには違う女子の肌も恋しいだろうなどと、無粋なことまで言い放つ。

「いえ……私はこれで」

 何だかんだと理由を付けて、狼駕は足早に客座をあとにした。
 外の物音が大きくなるにつれ、もう気が気ではなかった。部屋に残してきた妻のことが気になる。あの者の故郷は山間の穏やかな土地。こんなに気が荒れ狂う夜など、生まれて初めてに違いない。

 

 大きな木戸を開け渡りに出ると、足が一歩も前に進まぬほどの荒れよう。夜の気はただですらねっとりとまとわりつくものであるが、それがさらに大蛇のようにうねりながら激しく向かってくるのだ。つぶてのように袖に当たり、ばらばらと音を立てる。荒い流れの中に、落ち葉や細い枯れ枝が巻き込まれてそれが頬に腕に当たる。だが、引き返す気はなかった。
 薄暗い庭先で木々が生きているように揺れ、その黒々とした影を大きくたなびかせていた。天もどす黒いまだらな色に変わっている。大の大人であろうと、震え上がってしまいそうな光景だ。だが、どうして怖じ気づくことが出来よう。

 こんな土地に住まっていても、荒れる夜に好きこのんで外に出て行くことはない。あまり目にしたことのない大地の真の姿に、見知らぬ土地に飛ばされたような心細さが募った。

 錯覚なのだろうか。どんなに必死で足を進めても、先ほどから少しも目に映る風景が変わっていない気がする。これから自分が進もうとしている場所がどこなのか、いったい何のためにそこに行こうとしているのかすらも曖昧になっていく。気が吹き込むことのないはずの頭の中がぐちゃぐちゃになり、もしかしたらとても恐ろしい間違った方向を目指しているのではと不安になり始めた。

 他に頼るもののない暗がりは、とてつもない恐怖を運んでくるのか。全てを振り払った先に、一体何があるのだろう。

 

 ようやく西の対に辿り着く。
 手前の侍女たちの部屋表は固く戸を閉ざしていた。いつもなら几帳もどけてしまって、半分巻き上げた御簾の内から賑やかなさざめきが聞こえてくるのに、今はまるで他人顔だ。さながら「お前などに用はない」と言わんばかりに。

 ――どうしたというのだ。すっかり心が凍り付いている。

 一番奥まで進むと、ほとんど閉ざされている木戸の一番端に細く明かりが漏れ出でていた。蜜柑色の細い線が縁に長く描かれ、それが揺らめき色を変える。それが招いているようにも見え、拒絶されているようにも見えた。だが、行かなくてはならない。彼女を守れるのは自分しかいないのだ。

 木戸に手を掛ける。それを一気に引いた。

 

◆◆◆


「こっ、……これは。ご主人様……!」

 奥の寝所では、双葉が几帳の前に控えていた。狼駕の姿を認めると、慌てた様子で姿勢を正す。ただならぬ形相で見つめる表情からも、今の狼駕がどんな姿をしているのかをうかがい知れる。乱れてしまった髪は額に頬に貼り付き、重い気がまとわりついた袖はしっとりと板の床に垂れている。すっかり変わり果てているであろう。

「今宵は、あちらでお休みのこととばかり。今、お召し物の替えをお持ち致しますので……」

 無意識なのだろうか、この空間から彼を押し出そうとする感じで侍女はこちらへと促す。だが、今は我が身のことなど構っていられない。

「すずは? ――姫はこの奥か?」

 侍女の手を借りるまでもなく、バサバサと身に付けていた煩わしい衣を脱ぎ捨てる。肌着だけの身軽な姿になると、彼はずいっと中に進んだ。

「なっ、なりません! ご主人様っ……!」

 驚いて制しようとする侍女の腕を振り払い、薄布を押し開ける。そこはやはり薄暗い光のない空間であった。

「……すず?」
 目が慣れるまでは、どこに何があるのかも分からない。今宵は全ての木戸を立ててあるのか、いつもに増して闇が深い。傍らの侍女の持つ燭台を奪い取り、それをかざしながら足を踏み入れた。

 

「……あ……」

 ゆらり。

 突き当たりの壁に、幾重にも影が揺れる。若草の衣が滑り落ち、そこから鶸の髪が流れた。ゆっくりと面を上げる。青ざめた頬が小刻みに震え、渇いた口元が空を切った。流れ落ちていく輝きの向こうから焦点の合わない瞳がこちらに向いた。

「……う……」

 だが、しかし。彼女はすぐに俯いてしまう。さらさらと髪が流れ感情を乗せない顔を隠していった。外の荒れが、部屋の中まで流れ込んできている。それがゆっくりと美しい髪を表面だけすくい取るように舞い上がらせていく。目の前の妻は衣をしっかりと握りしめたまま、それ以上は何の動きも見せなかった。

 

 狼駕はしばし言葉をなくし、その場に立ちつくした。

 密やかな落胆が胸を突く。この姫が、味わったことのない様な恐怖に震え自分の戻りを待ち望んでいるなどとは、勝手な思いこみでしかなかったのだろうか。
 だが、そうであっても想像していたよりも取り乱していない姿に安堵していた。手も付けられぬほど泣きじゃくっていたらどうしようかと思っていたのだから。

 震える肩先。衣を手にした指先の白さ。言葉で伝えられない感情は、なかなか共有することが出来ない。だから察するしかない、この者の想いを。必要とされていると、自分自身に言い聞かせるしか術はないのだ。

「……恐ろしかったか、すず。もう大丈夫だよ? 俺は今宵もこの表で休もう。案ずることもない、この館は頑丈な造りになっているのだから、これくらいの荒れでどうなるものでもない」

 腰を落として、さらに少し前屈みになり視線を合わせる。自分でも驚くくらい、やわらかい声が出た。我が身から溢れ出る感情に熱いものがこみ上げてくる。

「……あ、うっ……」

 

 刹那。

 ふたりの間を満たす気が揺れた。何を告げようとしたのだろうか。折れそうに細い腕が衣を落とし、こちらに伸びてきた。

 ふわり。

 まるで自らの意志を持っているかのように、若草色の重ねが舞い上がる。その姿がキラキラと燭台の灯りに照らされ、ゆっくりと壁に映った影が動いていく。巨大な鳥の羽ばたきにも似た美しい姿を見守っていた。息をすることすら、しばし忘れて。

 

「――すず……?」

 元の衣に戻って、それが床に落ちる。先ほどまでその場所にいたはずの人が、気が付くと我が腕に収まっていた。

 にわかにはその状況が信じられず、呆然としていた。かたかたと小刻みに震える雛鳥のような儚さで、ぎゅっと狼駕の肌着を握りしめる。声にならない呻きを漏らし、ただ静かに涙を流していた。恐る恐る抱き留める手のひらが熱い。内側にじっとりと汗をかいたそれを細い背中に回したとき、じわりじわりと湧いてくる感情があった。

 

「双葉――」

 先ほどから背後にかしこまっている侍女に声を掛ける。言いたいことをみんな押しとどめて口を一文字に結んだ顔を見る気にはならなかった。

「今宵はここで休む。……姫の隣にしとねの準備をしてくれ」

 

◆◆◆


 今夜の荒れはこの秋一番ひどいかも知れない。いつまで経ってもそのけたたましい叫びを収めることはなく、それどころか我こそが秋の王だと言わんばかりにさらに強く吹きすさぶ。

 

 がたがたと木戸を揺らす音。ひときわ甲高く部屋の壁に響き渡ると、傍らで身を横たえた人がびくっと震える。だが、ふたつ並んだ寝具のひとつで休んでいると、外の喧噪すら心地よい雅楽に聞こえてくる気がした。

 どんなにか恐ろしい想いをしたのだろうか。先ほど胸に抱いたときに気付いた。妻の衣の袖口がしっとりと濡れそぼっていたことを。恐怖を押し殺してずっと暗闇でうずくまっていたというのか。裕福な何不自由のない育ちの姫君がなんとも哀れなことだ。

 ――双葉という侍女も不思議な存在だと思う。輿入れに連れてくる侍女の中には、年少より慣れ親しんだ者が必ず含まれる。たとえば、乳兄弟かそれに準ずるような。他の者を寄せ付けない奥でただひとりだけ傍に置かれた彼女を、初めは妻の腹心だと思っていた。

 だが、どういうことだろう。このように荒れた夜に、どうして几帳の内で姫君を慰めてやらないのか。ぬくもりを感じるほどの傍らで寄り添うのが筋と言うものだろう。姫君の病のさわりがあるというのは分かる。だが、侍女として仕える身であれば、今更そのようなことを気にするのはおかしいと思う。まるで扱いを分かっていないような感じである。

 妻の病のことは内密にと言われているので、誰に訊ねるわけにも行かず詳しいことがさっぱり分からない。やつれて声が出なくなる。伏せっていることも多く、前もって父である人から聞いていたのとはあまりにかけ離れた感じだ。明るくはきはきとした気性の姫君だと聞いていたので、少しうるさいくらいかなと案じていたほどなのに、これではまるで逆ではないか。

 手を差し伸べてやらなくては、何の反応も得られない。期待を裏切られることも多々あるが、それでも絶えず心を砕いていけば、わずかばかりの心が感じ取れることがある。それが何より嬉しい。

 

「……こちらへ、来るか?」

 衣を掛けたまま震えている姿を見ているうちに、そんな言葉が口からこぼれた。

 大きめに作ってある寝具は、その片方だけでもふたり寝に十分なくらい広い。身体をずらし、空間を空けてやる。衣の中で身を丸めている人に静かに語りかけた。そして、背に腕を回して引き寄せる。哀れなくらい軽い身体は、あらがうこともなく狼駕の胸に納まった。それどころか、ぬくもりを確かめるかのように、しっかりと身を寄せてくる。

 互いに身に付けているのは薄い夏仕様の寝着である。薄ものの一重であるから、お互いの体温を伝えあえるほど頼りない。ぴったりと寄り添ったことで、今まで目に触れたこともない妻の身体の部分まで感じ取ることが出来た。もちろん、どこもかしこもが細く頼りない。だが、今年で17という年の頃にふさわしくわずかに芽生えた女子(おなご)の柔らかさも備えていた。

 

 ――涼夜姫様はご病気にございます。ですから、ただいまはご主人様のお相手をすることは出来ません。

 最初の夜、双葉に言われたその言葉を忘れたわけではない。男女の営みは、ことに女子にとっては大変な労を伴うと言われている。それを案じるのは当然だと思っていたし、人としてのこともおぼつかないほどの存在をむげに扱うことなど出来ないと分かっていた。

 男として当然の欲求が胸の内に湧いたとしても、それはすぐにうち捨てねばならない。今はまだそんな時ではないのだ。胸を直にさするような切ない感情を抱きながら、その夜は過ごした。

 

 なかなか寝付けない。うつらうつらしたと思うと木戸を叩く物々しい音に起こされる。胸の中の人が安らかでいることを確かめると、また目を閉じてまどろむ。そんなことを繰り返しているうちに、いつか木戸の隙間からうかがえる空が白々としてきた。

「……夜明けか」

 腕の中の人はまだ深い眠りについているのだろうか、しっとりとした重みは動かない。身体をずらせば、無理に目覚めさせてしまうかも知れぬ。もうしばらくまどろんでいようと、再び目を閉じた。

 

「……さま」

 耳が捉えたその音にハッとして目を開ける。かすれた声は間違いなく我が妻のもの。慌てて胸の中を覗くが、愛らしい寝顔は変わらなかった。ただ、口元がかすかに動く。

「か……さま」

 ――え?

 再び耳に届いた声に、今度こそしっかりと目が覚めた。もしかしたら起きたのかも知れないと軽く揺すってみたが、反応はない。夢でも見ているのだろうか。

 

 「か、さま」……? ――誰だ、それは。

 

 このように寄り添って休んだこともなかったから、寝言を聞くのも初めてだ。普段は取り繕っていても、夢の中までは自らを偽ることは出来ない。しとねで女を抱きながら、つい他の恋人の名を呼んでしまったなどという笑うに笑えぬ話も良くあることだと聞く。

 たった今しがたまで、やわらかい夢心地に抱かれていたのに。いきなり見えない力で強く打たれたかのようだ。あまりに強い衝撃が狼駕の中を突き抜けていく。

 

 誰も寄せ付けず、寝所の奥でひとり怯え続ける姫君。その姿を見るに付け、何度か思ったことはある。

 もしかしたら、この者には里に残してきた恋人がいるのではないかと。あの父親はこの婚儀にそれは乗り気だったかも知れない。だが、それは本人の意志とは関係のないことだ。愛しい人と引き離されたことで身も心も病み、その果てにこのような姿になってしまったのだろうか。

 改めて腕の中の寝顔を見る。口元に浮かんだ笑みはどこまでも甘く、こちらにすり寄ってくるその様にも穏やかな親しみがこもっている。いつになく安らかなその表情を、一晩中飽きることなく眺めていた。言葉で何も告げてくれない人が、その想いを唯一の手段として伝えてくれているのだと勝手に解釈して。

 そうではなかったのか、やはり自分などはこの姫にとっては取るに足らない存在。だから打ち解けてくれぬのか。いつまでも距離を置こうとするのか。

 やっとのことで、少しばかりは心が触れ合った気がしていた。必要とされていると信じられたからこそ、ぎこちない関係でも続けてこられたのだ。それすらも、あの温かな時間すらも、偽りだと言うのか。姫君の中に息づいているただひとりの存在には到底叶うものではないと言い捨てるのか……!

 

 我が身の中で何かがはじけ飛ぶ。抑えに抑えていたそれは、歯止めを失ってしまったらどうなるか想像も付かない。我を忘れて、眠る人の胸ぐらを掴もうとした手が止まる。

 ふたりの間に形成されたささやかな空間に新たな音が響き渡った。耳の奥にかろうじて届くほどの頼りなさで。

 

「かぁ……さま」

 

◆◆◆


「……姫君の母上は、白鴎(はくおう)の花の香をたしなんでおられるのか?」

 翌日は、昨夜の荒れが嘘のように晴れ渡った。西の対の庭でも、枯れた枝を集めたり辺りを掃き清めたりするために、いつになくたくさんの者たちが出ている。縁との境の障子戸の辺りにぼんやりと佇みながら、狼駕は傍らで衣の手入れをしていた双葉に話しかけた。

「は……?」

 目の前で次々に刈り取られているのは、花の落ちた手鞠花の枝である。同じものが昨日と同じ姿で水盤の上、しなやかにその腕を伸ばしている。もう枝に実を付けている初夏の花の話題をいきなり出されて、利発なたちの侍女もにわかには反応できないらしい。きりりとした眉をすこしひそめてこちらを見た。

「さ……さあ。わたくしも、姫様の御部屋ばかりにおりましたので、母御様のことまでは……確かに香の物には長けた御方でしたが。もちろん王族の方のようには出来ませんけど……」

 そう返答する声も半分ほどしか耳に入っていない。

 狼駕には今朝から胸の中を巣くうむなしさをどうすることも出来ず、久々の休みをぼんやりと過ごしていた。姫君は相変わらず寝所に籠もったまま、いくら侍女が働きかけても外には出ようとしない。表に人の声が賑やかに響いているだけで、恐ろしいらしいのだ。

 

 ――かぁ、さま。……母様と言うことなのだろうか。

 あの年になって、もう輿入れして子も産める身体だというのに、今更に母親を恋しがるなどとはあまりに子供っぽく情けないことだ。そう言って笑い飛ばしてしまえたら、どんなにいいだろう。それが出来るくらいなら苦労はしない。

 

 我ながら、馬鹿馬鹿しいことだと思う。妻となった人の、わずかながらの頬のほころび。声にならぬと知りながら、必死で何かを告げようとする眼差し。その全てが愛おしくて仕方なかった。

 だのに――どうしたことだろう。思い当たるのはただひとつだ。あの日、姫君に引き剥がされた衣には、わずかばかりの香りが忍ばせてあったのだから。

 そもそも、香油と言うものは遊女がふんだんに用いるのが決まりで、あまり量を過ごすのは低俗なものとされている。だが、津根がどこで聞きかじってきたのか、それをまるで都の王族の方々が香を用いるようにほんのりと優美に扱う方法を試していた。それで外に出るのはさすがに都合が悪いが、館の中ならばどうにでもなる。ほんの遊びだった。

 妻が欲したのは、自分の衣ではない。白鴎の香の衣ではないか。懐かしい香りがするからこそ、あのように肌身離さず。だとしたら、今までの浮き足だった心はもう行き場をなくしてしまう。

 ――どんなに頼りない心でもいい。それを自分に向けて貰えるなら、他に何を望むだろう。

 こんなにもひとつごとに執着するとは思わなかった。余りにも西の対にばかり入り浸るので、この頃では「他の者にも少しは心を配りなさい」と母上からお達しが来るほどになった。やはり端から見ていても、尋常じゃないのだろうか。自分は領主となる者として失格なのだろうか。

 

 跡目としては、出来るだけ多くの子を作らねばならない。ひとりの女子ばかりに入れ込んでいてはそう多くは望めないであろう。だからこそ、幾人もの側女を置く。場合によっては外に囲うこともある。自分の血を……いや一族の血を多く次代に遺すために何よりも大切なことだ。

 幼き頃からそれは耳にタコができるほど、繰り返し聞かされてきた。狼駕自身も、周囲の期待には出来るだけ添うべきだと心得ていた。そんな当たり前のことが難しくなってきている。

 

 西の対での暮らしが始まって、半月になる。その間も幾たびかは、他の場所で夜を過ごそうとした。かなり遅い時間まで、自室に腰を据えたまま津根に酌をさせていたこともある。そうなれば傍らの女も期待するだろう。いつになくうきうきとした様子で、かいがいしく世話を焼いてくれた。

 ――しかし、なのである。

 いくら他の女子とも床をひとつにせねばと思っても、頭と身体がもはやひとつにならない。事実としては、妻を抱いているわけではないのだから、男としての欲求は満足しているはずもない。禁欲の生活も十日を過ぎれば普通でいられなくなるのも当然だ。

 慣れ親しんだ侍女のおしろいの香りを傍にしても、思うのは西の対にひとり咲く頼りない花ばかり。今この瞬間も、寂しげに自分の帰りを待っているのかと思えば、もう心はそちらに飛んでしまう。

 気付けば、しとねへと誘う津根の腕を振りほどき、乱暴に重ねを手にすると部屋を飛び出していた。

 

 母を思う妻の心内を知ったとき、今まで上手くかたちにならなかった感情がようやくひとつの色を付けた。それまで彼女が自分に向けてくれたと信じていたわずかばかりのぬくもりが、この身体を通り越して里の母親に向かっていたとは。深い深い絶望が胸の奥で渦を巻き、やがてそれが新たなる欲求を湧かせてきた。

 ――馬鹿な、もうお前の母上など傍にはいてくれないのだよ。

 輿入れに実の母親を伴って来るという話も聞かないわけではない。ただ、それはあんまりにも奇特なことであり、人々の失笑を買うだけである。そんなみっともない噂を流すなら、娘を嫁がせない方がずっといいだろう。
 年の頃よりもずっと幼いままの姫君には可哀想だと思うが、彼女はもう家の繁栄のために駒として送り込まれた存在なのだ。もういくら母親に頼りたくてもその願いが果たされることはない。

 分かっていないのだろうか、それくらいのことをもう三月近くになろうというのに。いつまで……こんな風にしているつもりか。もしや、このままやり過ごしていつか宿下がりで里に戻ったときに、それきりこちらに戻らぬつもりではなかろうか。

 怯えた瞳でこちらを伺いながら、いとまを告げられるその時を待ち望んでいるのか。そんなことがどうして許されよう。否、決して許すものか。

 

 今ここにいて、姫君のことを一番に想っているのはかの人の母親ではない、侍女でもない。他でもない狼駕自身だ。直接ほどこすのは侍女であることも多いが、彼女のためにあれこれ考えて申しつけているのは自分なのである。それを……どうして分からぬのか。

 誰よりも何よりも傍にいて、支えているのは誰なのか。それに気付いて欲しいというのはこちらの身勝手なのであろうか。

 

 天が澄み渡ってその果てが遠くなる。手に届かぬものばかりが思い起こされて、狼駕はひとり溜息を落とした。


(2004年4月30日更新)

 

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