初めて女子(おなご)の肌に触れたのは、十三で元服してすぐのことであった。その頃はまだ跡目として正式に言い渡された訳ではなかったが、嫡子としての待遇は受けていた。部屋を与えられ、それように扱ってよいとされる侍女も多く与えられる。何も狼駕(ろうが)だけが特別なわけではない。一定以上の身分のある家の跡目は皆同様であった。 津根(つね)は狼駕が初めての相手ではなかった。それを問いただしたわけではないし彼女も口にはしなかった。もちろん互いに何も知らぬままではその方が都合が悪いというのもあろう。ただ、心のどこかにそれが引っかかっていたのは確かだ。その後も何となく閨のあれこれに淡泊になってしまった気がする。 侍女という身分は、しっかりしているようで曖昧な部分が多い。ほとんど歳の違わない津根が、いつどのようにして男を知ったのか。多分、狼駕の父かその兄弟、または館に来た客人にでも見初められ、一夜を共にすることがあったのだろう。そのような場合、女子(おなご)の側から異を唱えることなど皆無に等しい。 まあ、そのことは狼駕にとって幸いであったのかも知れない。男女のことはただ家の安泰を願うために行うこと。そこでは特別の感情は邪魔になる。閨でその時を待っている女子と対しても、もはや人のかたちをした道具のようにしか思えないようになっていた。 ――それが、一体どうしてしまったのだろうか。 ひとときの快楽のために身体を合わせることも、厭わなかったはずだ。それがいつの間にか身の毛のよだつように浅ましい行為に感じられるなんて。何よりも心が欲しいなどと、子供じみた馬鹿げたことを考えている自分がここにいる。このまま、彼女の母親の身代わりとされるのは許せない。傍にいて絶えず心を配っているのが一体誰なのか、それを分かって欲しいのだ。 あの淡い微笑みを眼差しを、ひとつ残らずこの身に受け止めたい。こんなにも我が心の全てを占めてしまっている彼女の全て掴んでしまいたいと願ってしまう。 だが、どうしたら。心というものはそうやすやすと触れるものではない。だいたい今まで誰かの心がこんなに欲しいと思ったこともないのだ。全く方法も分からない。感情など除去して生きてきたから、どこまで戻ればそれを取り戻せるか見当も付かぬ。
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海底国の南の果ては東西に長い浦になっている。その向こうは結界が切れ、果てしない別世界が広がっていると聞いている。浜には漁夫たちの集まる小さな集落がいくつも点在していた。そこは当たり前に素通りしていく。まとう衣こそは目立たぬものに替えてきたが、それでも不用意に立ち回れば、すぐに噂になる。夜明けと共に漁に出る男たちの夜は早く、もはや夕餉も終わって火も消え静まりかえっている庵も見えた。 潮の香りに導かれるように松の林を入っていくと、その一番奥まった場所が彼の辿り着くべき目的地であった。薄紅の小さな草花の群衆に守られて佇んでいる小さな碑を前に、彼は長い時間何も言わずに跪いていた。遠く波音を聞きながら、狼駕の心は次第に凪のように静かに戻っていった。 再び西の対に帰り着いたのは、もう夕餉の時間を二刻近く過ぎてからである。
「まあ……ご主人様。そちらは――」 出迎えた双葉は彼が手にしているものに目を見張った。この侍女の賢いところは、余計なひとことをいわぬところにあると思う。この時もそうであった。狼駕はすぐには声を立てず、静かな視線を返した。にわかに青ざめた侍女の頬が、全てを悟ったことを告げている。 「すまぬ。――今宵、奥の花を手折るぞ」 野歩きで露に濡れた衣の着替えを手伝わせながら、狼駕はぽつりと言葉を落とす。腰帯を締めていた双葉の手が一瞬止まる。だが、彼女は何も答えず、そのあとも黙々と自分の仕事をこなしていた。
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昨夜ほどではないが、今宵も外気が荒れている。カタカタと木戸を揺らすその泣くような音に、隣で休んでいる小さな身体がぴくりと反応した。全てがひとつ前の夜と変わらぬ光景である。だが、傍らで身を横たえる狼駕の心地だけが全く違っていた。 ――どうしたらいいのか、どうすればいいのか。 頼りなく漂う気泡を手に入れるような心地だ。一度しっかりと瞼を閉じる。ごうごうと鳴る気の音を聞きながら、あっという間に過ぎたここでの日々を思った。 衣を取られ、成り行きのように夜を過ごすようになる。最初の頃は自分を見ると怯えて震えてばかりいた妻も、半月の間に見違えるように落ち着いてきた。そうは言っても、ふたりの間に言葉があるわけでもなければ、確かな約束があるわけでもない。ただ、振り向くとそこにいる。 だが、それも。 もしも今までの全てが、自分の勝手な妄想だったとしたら。姫君の心は最初からここにはなく、遠く故郷に置いてきていると言われたらそこまでだ。どうにかして打ち解けたいと、優しく言葉をかけ慈しんできた。それにより彼女は自分の母親と狼駕とを同一視してしまっていたのだったら。どうにかして、それを打ち砕くことは出来ないか。妻にとって無二の存在となれないものか。 この几帳の内は妻が一日のほとんどを過ごしている場所。立ち入るとまるでそこここに息づかいが感じられるようだ。いくつかの行李、塗りの文箱。並んでいる道具も慎ましやかで、とても金持ちの姫君とは似つかわしくない居住まいである。ここで日がな一日何を想い、何を憂いているのか。 枕元にはあの浦から持ち帰った薄紅の花を置いてある。それが几帳の向こうの灯りをほんのりと受けて、ささやかな輝きを見せていた。 「――すず?」 薄い衣越しに細い肩に触れてみる。何て頼りないのだろう。これでは婚礼の宴の折りの艶やかな衣装がどんなにか重かっただろうか。夏の初め。美しく髪を結い、綺麗に着飾った姿でも青ざめていた横顔を思い出す。あの時に、その心内に気付いてやるべきだった。 「……んっ……」 過剰な働きかけはかえって怯えさせることになる。どこまでは許されるのか、それを手探りで模索しながら過ごしてきた。あの天の光る夜に初めてこの腕に抱いた時よりも、いくらかふっくらと丸みが戻ったような気もする。だが、それでももともとが細い身体なのだろう。いくら精が付くようにと食事を工夫したところで、急激に病に打ち勝てる訳もない。 「こちらに、おいで」 そう促せば、おずおずと身体を寄せてくる。自らの意志でそうされることはなくとも、拒否されないだけ嬉しい。狼駕はゆっくりと背中に腕を回して抱きしめた。ごろんと仰向けに身体の向きを変えれば、胸の上に乗せたようなかたちになる。そのまましばらくはやわらかな髪の感触を楽しんだ。だが髪を梳く己の指先が情けないほどに震えている。 これから自分がしでかそうとしていることは、いったい何なのだろう。そんなことが本当に許されるのだろうか。高鳴る鼓動を抑えつつ、何度も何度も心に問いかけた。いっそこのまま、今宵も休んでしまおうか。そう思った時に、ふっと前触れもなく辺りが暗くなった。 「……あ……」 「すず……」 「やっ……、やぁっ……!」 「すず、……すず……!」 手探りのままでも分かる。やわらかなふくらみが揺れて、その頂の蕾が徐々にその存在をかたち取っていくことを。遊女のように感じて甘えてくれることは期待していない。でもどんなにあらがわれても、もう止まることは出来なかった。 初めて触れた柔肌は、想像以上にしっとりとして、すっかりと女子の香を匂わせていた。衣の上から眺めていれば、あのあどけない顔や細く小さな指先もあって、子供っぽく頼りない身体かも知れないと考えてしまう。でも、実際の妻はか細い手足には似合わずに、きちんと女子としてのものを持っていた。 鶸の髪は珍しいものとされているが、それは南峰の金の髪の種族と、西の銀の髪の種族の掛け合わせにより生まれると言われている。たが、いつもそう言う風になるわけはなく、ほとんどは西の血が負けてしまう。南峰の民でも、何代かに渡り西の血を受け継いできたような混血の者ではないとならぬらしく、なかなかそのような風にはいかないとされていた。 普段は生粋の南峰の女子を相手にすることが多く、それだけに陶器のような柔肌は不思議な手触りが感じられた。人のものでありながら、どこかひんやりとしている。手のひらを滑らかな曲線に沿わせて這わせようとしても、吸い付いてそこから離れなくなりそうだ。鼻先をくすぐる甘い香り。大樹に身体を絡みつけているような心地がする。 「……やっ……!」 やめて欲しいと切に願っているのは分かっている。だが、言葉を持たず力も弱い女子は、その必死の思いをなかなか伝えきれないでいた。狼駕としても、一度決めたことは果たしたい。今夜出来なくても、明日の夜は敢行することなのだ。男として、夫として施すことはただひとつであろう。 もしも里に残してきた恋人がいるのであれば、と心のどこかで恐れていた。でも身体を確かめればそんな馬鹿馬鹿しい心配事は一掃される。妻が未だに何人の手にも触れられていないことはしっかり身体で確信できた。花は開いていない。匂やかな蕾のまま待っていたのだ。 「すず……」 熱く火照った身体を重ねて、何かを訴えようと必死で震わせている唇に自らのそれで塞ぎ、吸い上げる。甘い香りが狼駕の体内を駆け抜けて、新たな熱となる。噛み合わない歯。この姫君の中にあるのは、恐怖か絶望か。 今まではこちらが何もしなくてもすり寄ってくるような女子ばかりを相手にしてきた。中には男を知らぬ者もいたが、それでもこれから起こるを自らがしっかりと受け止めているのが分かっていた。だから気楽だったのである。その女子自身も、そして親になる者たちも、誰もが望んでいる行為に及ぶのだから。 しかし、この妻は違う。どうにか堪えようとしているのであろうが、それでも溢れ出る涙が頬を濡らしていく。わずかに差し込む灯りに目が慣れて、たおやかな身体も、その途方に暮れた嘆きの表情も全てを見つめることが出来るようになった。頭では閨のことを理解してはいるのだろう。だが、実際にそれが我が身に降りかかることに抑えきれない恐怖にさらされている。 そしてそれは狼駕とて同じこと。自ら望んだ行為にようやく及ぼうとしていても心は震え、口をついて出てくるのは詫びる言葉のみだった。 「すまぬ……許せ、すず。俺はここにいる、ここにいるのは俺だ。分かるな……? お前の傍にいるのは俺なのだよ。わかっておくれ……?」 何故、痛みと共にしか自分の存在を妻に植え付けることが出来ないのだろうか。慈しみ守ることで満足できないなんて。どうしてこんなに愚かな心を持ち合わせてしまったのであろうか。 細い身体に自らを突き立てる場面に至っては、まるで妻の苦悩が我が身に乗り移ったように心が怯えていた。 夫として……ただひとりの男として。この命を投げ出しても守りたいと言う心。もうこの人の母の身代わりになどなりたくない。 「ああ……、すず……っ!」
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いつものように西の奥の対に戻った狼駕は、そのまま手前の部屋に腰を据えて持ち帰った書き物を始めた。そんな主の姿を、双葉がおやまあと言った表情で伺っているのは分かっている。でも、どうしてもいつものように奥の寝所を覗くことが出来ない。几帳のやわらかな掛け布が縁からの気の流れに揺らめき立つだけで、覚えず胸が高鳴っていく。 昨晩はあれきり妻がすっかり怯えてしまい、抱きしめることはおろか、なだめることすら叶わなかった。衣を頭まで被って泣きじゃくる細い背中になすすべもなく、ただただ「すまぬ」と言い続けるしかない情けなさ。 あのように乱暴に扱われて、どんなにか嘆かわしかったであろう。狼駕としても、最初の夜に最後まで行こうとは思っていなかった。もちろんそうしたいのは山々だったが、もしも妻があらがえばそこまでにして、彼女が納得してくれるまで待とうと決めていた。なのに……実際に行為に及んでみれば、そんな決意もどこかに吹き飛んでしまう。 妻は二度と打ち解けてくれないかも知れない。ようやく心をかよわせあうようになりつつあったのに、やり直しになってしまうのだろうか。いや、もう修復のきかない仲になってしまったとしたらどうしたらいいのか。愚かなことだ、どうして途中で止まることが出来なかったのか。あんなに怯えて訴え、泣きじゃくっていたのに。 朝目覚めたときも、とても顔を合わせる勇気がなかった。伏せったままの妻を起こさぬようにひとりで閨を出たのである。もちろん後朝(きぬぎぬ)の文は花の元に残してきたが。 ――しかし、である。 後悔が絶え間なく胸を突いているというのに、その一方で恋の成就を喜んでいる自分がいる。滑らかな肌を、やわらかなふくらみを、そして自分の全てを受け入れてくれた無数の襞まで。その全てが夢のような出来事であった。覚めないでいてくれるなら、その方が良かったとすら思う。決して触れることの出来ないと思っていた崖の上の花に手が届いたのだから。 出来ることなら、この喜びを妻とふたりで味わいたかった。妻も自分を求めてくれて、ふたりの心がしっかりと結ばれていたなら、どんなにか素晴らしい夜だっただろう。だが、その日を待つことが狼駕にはもう出来なかった。……愚かなことだ。
「では……わたくしは夕餉の膳を運んで参ります。しばらく留守にしますので、ご承知下さいませ」 そう告げる侍女の口元に堪えきれない笑みが浮かんでいるような気がして、覚えず頬が熱くなる。相変わらず妻が他の侍女を厭うので、こちらの奥ではこの者がただひとりでこの部屋に仕えているのだ。こなしきれないほどの仕事があるというのに、どこまでも涼しげな立ち回りの女子である。 「……ご主人様?」 しかし双葉はなかなかその場を去ろうとはせず、こちらをじっと伺っている様子だ。言葉尻に笑いを堪えているような気もして何とも居心地が悪い。一体なんだというのだろう。 「すぐに夕餉の支度は整いますので……それをお忘れになりませぬよう」 何とも小馬鹿にされたような念押しに思わず顔を上げた。だが、揺れる御簾だけがそこにあり、侍女はすでに立ち去っていた。
何だか背中が落ち着かない心地がする。どこからか誰かに見られているような……だが、今ここには妻と自分しかいないはず。気のせいだと休まず筆を動かすが、心がすでにそこにない。 涼やかな夕暮れの気が表より流れ込んでくる。狼駕の頬をかすめ、反対側の御簾の向こうに消えていく。そのかすかな揺れに勇気づけられるように、やっとの事で後ろを振り向いた。 「……あ……」 思わず息を飲む。几帳の影からこちらを伺っている人と目が合ってしまったのだ。 いつからそこにいたのだろう。もともとが大人しくあまり気配を感じない存在なので、気付かなかった。いや、たぶんかの人は寝所の奥にうずくまったまま自分の帰りなど知ることもないだろうと諦めていたのだから。 初めて男を受け入れることは、健康な女子ですら難儀であると聞いている。肉体への直接的な苦痛もさることながら、やはり男の前に身体を開き全てを晒すことは恥辱を通り越し恐怖すら心に植え付けることになる。ましてや妻は普通の身体ではない。どんなにか辛かっただろう。 もしかしたら自分の存在は、もはや妻にとって恐ろしい鬼と成り果ててしまったのではなかろうか。おぞましいものを見るような眼差しを向けられたら、あまりの絶望に立ち直れなくなりそうだ。自らの罪を顧みず何とも弱気なことであるが、今の心地をひとことで説明するならそう言うしかない。 「すず……」 思わず立ち上がり、一歩踏み出そうとした。だがその足が止まる。怖いのだ、妻の心が分からぬから、ここから先は道なき道のような気がする。辿り着く先に何があるのか。もしも、奈落の底を見ることの出来る絶壁だったら。 妻はこちらが気付くとすぐに几帳の向こうに隠れてしまったが、柱の影から耳の先と流れる髪が覗いている。ほんのりと翡翠の色が花色に染まっている。波打つ髪が静かに震えていた。 「すず、……すず」 鉛のように重い足を引きずりながら進む。今の自分を端から見たら、どれほど滑稽であろう。行く当てのない浮浪者のようにのろのろと進み、ようやくその人の前に辿り着く。ためらいながら腰を落とし、俯いた姿を伺う。辺りにはそこはかとなく甘い香りが漂い、目の前のその姿は昨日よりも今朝よりもさらに愛おしく感じられた。 「どうした、身体は大丈夫か? ……どこか痛むか。大事はないだろうな……?」 取って付けたように言葉を並べてみるが、そのどれもがふわふわとすり抜けていく気がする。たったこれだけのことで、また鼓動が早くなった。ああ、双葉はいつまで戻ってこないのだろう、どうにも間が持たない。いい大人がこんなに恥ずかしがっていてどうするのだと思うが、己の心の震えを止めることが出来ないでいる。 大丈夫なのか、嫌われてはいないのか。もしも、鬼ほどに恐ろしいと思うなら、とっくに奥まで逃げているだろう。ここに留まってくれていると言うことは、こちらを受け入れてくれたと思っていいのか。いや、腰が抜けて動けぬと言う理由も考えられる。 「……の……」 震える白い指先がすうっと伸びて、すぐ傍の狼駕の袴に触れた。かすれた声は、どうにかしてこちらに伝えようとしつつも、なかなか言葉にならない。 「……どうした?」 恐る恐る、そこに自分の手を重ねる。絶え間ない小刻みな震えがこちらまで伝わってきた。身体を前にかがめ、どうにかしてその響きを捉えたいと思う。 「……と、の……」 ――え……? 狼駕は思わず我が耳を疑った。この耳をくすぐるほどのかすかな音色は、本当にこちらが思っているような言葉なのだろうか? ぽかんと情けなく口を半開きにしたまま身体が固まってしまう。何か、言わなくては。ああ、なんと言えばよいのだ。 「俺を……呼んでいるのか?」 妻は彼の言葉に反応するように、ゆっくりと面(おもて)を上げる。まっすぐに狼駕を捉える翠の瞳、赤く染まった頬がほころんでいた。 「との」 「お……、そうか。そうか、そうか……そうか」 たくさんの言葉を並べて褒め称えることも忘れ、狼駕はただそう繰り返しながら妻を抱きしめた。おずおずと背に回してくる細い腕。すり寄ってくる身体。どこまでも暖かくやわらかなものをようやく手に入れることが出来た。そう……信じていいのだろうか。
ゆっくりと頬を伝うもの。半開きの障子戸。揺らめく視界の遙か向こうに、あかあかと燃える山際の風景が映っていた。
(2004年5月7日更新)
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