TopNovel匂やかに、白・扉>匂やかに、白・8


…8…

 

 

 

 知らぬ間に。浜の向こうから上がってくる気流に、冷たいものが混ざるようになった。南の果ての風景が、ぼんやりと霞んで見える。サラサラと肌の表面を撫でられると、鋭利な玻璃の切り口でさすられた如き痛みを覚えることもあった。

 南のつい果ての地であるから、真冬でも暖かく過ごしやすいと思われがちであるが、やはり厳しい季節はやってくる。普段から乾いた気がさらに水分をなくし、時折息苦しさも感じるようになるのだ。初めてこの地を訪れる者には、秋先の荒れ狂う天候よりもさらに辛いと嘆かれる。
 聞くところによると、海底のあまたの集落の中で一番過ごしやすいのは西南の中央か、南峰の北手の辺りだという。適度の湿り気があり、土地も豊潤で作物も良く実る。凶作などには無縁であると聞いている。土地を守る領主の家に生まれた身としては、そのように恵まれた地を治める者が羨ましく思えた。

 憂鬱な時節の足音ががそこまで聞こえて来ている。庭の花も次第に少なくなり、色を失っていく屋敷周り。そんな中で、西の奥の対だけが、ほんのりと色づいて見えた。

 

◆◆◆


 妻の身体のことを思えば、今少しの辛抱が必要だったのではないだろうか。

 花を抱いてしまったあと、そんな後悔が狼駕の胸を突いた。その鋭い痛みは一夜が明けてからと言って消え失せるものではない。明くる夜、当たり前のように妻の隣にしとねを設えている双葉に、思わず「大丈夫なのか」と訊ねていた。

「まあ、左様なことを。今更、何を仰いますのやら」

 こちらは顔色をうかがいながらの申し出であったのに、その返答は呆れ果てた響き。とても侍女が主人に申し上げるそれではない。てきぱきと仕事をこなしながら、双葉はまるで狼駕に聞かせるためと言わんばかりに大袈裟な溜息をついた。

「ご主人様におかれましては、たいへん聡明な方だと存じ上げておりましたが……その風に仰るのなら大事を起こすその前に、もう少し深くお考えになって欲しかったですわ」

 妻の病はまだ完全には癒えたわけではないが、とくにさしあたって具合の悪いところも見受けられない様子。あとはわたくし如きが口を挟むのも野暮というものですから、と言われてしまう。なかなかにしてはっきりとした物言いをする女子である。もしもこのような者を妻にする男は、どんなにか苦労するだろうか。狼駕にはとても辛抱ならないと思ってしまう。

 昨日の今日ではあるし、あまり負担を掛けるのも身体に障るであろう。再びあのやわらかな香を抱きたいと己が身が欲しても、間を置けと言われるなら耐えようと思う。だが、しとねを並べて敷かれてしまえば、どこまで己の意志が貫けるか危うい。実際、その時が来れば、もう我慢がならなくなってしまった。
 身体が焼け付くように熱く、身を横たえることすら出来ない。いつまでもぐずぐずと几帳の内に入らず、燭台のところで読み物などしていた。字面を追っているだけで、一向に頭に入らないのはもちろんのことである。

 大きく布に映った影を一体どんな心地で見守っていたのであろう。静かな衣擦れの音がして、妻が几帳の布端からこちらに顔を覗かせた。

「……あ、騒がしく音など立てていたら寝られないだろうな、すまない」
 頭の中では全く違う思考が渦巻いているというのに、何を取り繕っているのだろう。自分の滑稽さが恥ずかしくて仕方ない。このやりとりをどこからか双葉が聞いているやも知れぬと思うと、身の縮まる思いがする。

「……」
 目の前の妻は恥ずかしそうに俯くと、静かに頭を振った。昨夜までのそれとは違い、少し色づいた寝着をまとっている。こんな所まで双葉は気を遣っているのだ。鶸の流れの下で、薄紅の袂が揺れる。桜の花びらの浮き文様は全く季節を違えている。だが、今まさにほころんでいく妻の愛らしい姿にはこれ以上の衣装はないと思えた。その上に流れ落ちる髪は萌える若葉か。

 どこからか夜の気が忍び込み、柔らかすぎる妻の髪は抵抗することもなく舞い上がる。鶸の髪だ、と初めの時から思っていたが、それは光の加減でそう見えるだけ。元はほんのりと黄味に色づく程度のどこまでも淡い銀の色に近い。指先に触れたそれを思わずすくい上げる。少しばかり香油を塗ったのだろうか、昨夜とはまた違う香りがした。

「さあ、今宵はもう休もう。――お前も疲れただろう、早く横にならなくては」

 ひどく具合のすぐれない日などには、一日のほとんどを伏せって過ごすこともある。だが、今日は夕刻に狼駕が舞い戻ってから、ずっと几帳の影からその姿を覗かせていた。あまりないことではあるが、寝所以外は他の侍女たちが訪れることもあり、それが恐ろしくてならないらしい。だから、表の方の部屋には滅多なことでは出てこない。
 何も夜行性の獣の如く穴蔵のような薄暗い場所に隠れていることはないと思うのに。利発なたちの女子などは、夫の客人を自らもてなしたりもするほどだ。そこまでの社交性をすぐに持ってくれとは言わないが、領主の妻としてゆくゆくは立派に立ち回って貰わなくてはならないだろう。

 ――まあ、今宵は。もしも身体が辛いというのであれば狼駕にその非はある。

 特に他意はなかった。あちらに促すような気持ちで細い肩に手を掛ける。だが、それが合図になったかのように、妻は狼駕の胸にそっと寄り添ってきた。

「……すず?」

 その瞬間、狼駕の身体は大きく震えた。角張った文字を目で追いながらその意味も解せず、ただ「今夜はやめよう、耐えよう」と自分に言い聞かせていたのだ。どうにか留まれそうな気がしていた。そのつもりだった。だけど……己の心の軟弱さに呆れてしまう。

 妻の変化は他にもあった。昨日まではいつ何時も肌身離さず持っていたあの若草の衣が傍らにないのだ。一体どこにやってしまったというのだろう。そして今は、まるでいつも衣にしていたように、頬を狼駕の寝着に寄せてそのぬくもりを感じ取っている。

 まさか、との期待が胸を過ぎる。ただ一夜の出来事でここまで人の心を塗り替えられることはないと思う。だが、やはり何かが違っているのだ。

「すまぬ、すず。……許せ」

 身体よりも先に。心が妻を欲していた。

 

◆◆◆


 寂れ行く季節に咲き始めた花は、甘い香を放ちつつそこにある。何と不可思議なことか。求めても求めても涸れることのない泉は朝となく夕となく我が身を我が心を包み込んでくれる。抱きしめるだけでこんなにも満たされるとは。今まで味わってきた女子(おなご)とはまるで違う存在に、いつか引きずり込まれ、飲み込まれて行く気がする。

 ――あんなにか細く儚い身体のどこにそんな力があるのだ。

 毎夜、抑えきれない想いに支配されていた。

 妻の身体のことも顧みず、抵抗する身体に己を突き立て自らの欲望を満たす。それしか、存在を知らしめる方法がなかったのだろうか。どこまでも情けない自分であったのに、妻は震えながら受け止めてくれた。最初の時こそはさすがに驚いた様子であったが、その後もひどく恥ずかしがりはするものの、強い抵抗はない。病のこともあるので、度を過ごしては双葉から注意を受けるかと危惧していたがそれもない。


「との」

 そう初めて名を呼ばれたときは、もう嬉しくて我を忘れてしまった。子供のようにはしゃぎ、大袈裟にはやし立てたので、夕餉の膳を手に戻ってきた双葉が唖然としていたのももっともだと思う。

 ようやく聞き取れるほどの、かすれた音であったが、この分ならすぐに普通の者と同じように言葉のやりとりを楽しめるようになるやも知れぬと期待した。だが、やはり無理は出来ないらしく、愛らしい口元からは言葉にならぬ呻きが漏れるのみ。それ以上のものは望めなかった。

 しかも唯一妻が口にすることの出来るこの意味を持った言葉は、何人にも同じように聞こえているわけではないらしい。

 たとえば、館のことで双葉とあれこれ打ち合わせをすることもある。その家々により様々な取り決めごとや行事が多くあるのだ。こちらの対も正妻としての立場があり、しかるべきものを用意しなくてはならぬことも多い。
 供物にもひとつひとつ決まり事があり、気が抜けない。新しい館に来て勝手が分からず戸惑うことも多いと思うのに、双葉は注意深くそれをこなしている。館の者たちから聞き及んで揃えたものを並べ、狼駕に訊ねることもあった。

「……どうした?」
 背中越しに名を呼ばれた気がして振り返る。

 そこには妻が恥ずかしそうに俯いて控えていた。手には自分で折ったらしい薄紙の人形がある。妻はとくに手仕事が好きなようであった。凝った造形も器用に作り出す。たった一枚の薄紙が幾重にも重なり合う花に姿を変えたりする。それを褒めると、嬉しそうに微笑んだ。

「おお、これはまた上手い具合に折れたな」

 手にとって眺めていると、傍らで視線を感じる。怪訝そうにこちらを見つめている双葉であった。

「……またで、ございますか? こちらには何も聞こえませんでしたが……?」

 こんな場面は本当に多くあった。同じくらいの距離にいても、妻の声は狼駕の耳にだけ届く。それが侍女にとっては不思議でならぬらしい。どう見てもこの女子の方が妻と共に過ごす時間が多いのだ。だが、未だに意味を持つ言葉を聞き取ったことはないという。それどころか狼駕には「との」と言う愛らしい響きに聞こえるそれが、ただのかすれた息にしか聞こえないというのだ。

「お前は、俺との話に夢中になっていたから分からなかったのであろう」

 何食わぬ顔でそう答えながらも、内心は得意になっていた。たった二文字の頼りない響きではあるが、それはその時によって様々な妻の心を乗せてくる。「嬉しい」「楽しい」「寂しい」「悲しい」――大袈裟な感情を表すことはないから、かすかな音色の違いで聞き取るしかない。でもその意が上手く汲み取れたときには本当に嬉しい。


 父のもとで、北奥の部屋にて領主としての務めをこなす日は、昼餉の間に一度部屋に戻る。それは妻の部屋で暮らすようになってからの習慣となっていた。

 屋敷の渡り続きといえ、迷路のように入り組んだ先の離れ対は遠い。何もそこまですることはないだろうと口々に言われようとも、気付けば足が向いているのだ。休憩に甘い菓子などが出ればそれを土産にする。いや、土産などはそれこそ口実で……しばし離れているだけで、もう恋しくて仕方がなくなってしまう。

 往来に掛かる時間や身支度などを考えれば、ゆっくり腰を下ろせるのは半刻にも満たぬ時であったが、狼駕にとっては何よりの安らぎであった。

 

◆◆◆


 そんな蜜月を半月ほど過ごし、朝目覚めても覚めやらぬ夢の中を過ごしている気がした。だが、領主の跡目としての狼駕はただ妻と戯れていれば良いわけではない。気付けば月が変わり、大臣家への出仕の時期が来ていた。

 いつもならば、同じような立場の仲間たちと過ごす時間は変わり映えのない生活の中でとても楽しいものであった。予定を延ばして滞在してしまうことも多い。戻りがけにどこぞの家に招かれしばらく過ごすこともあった。

「――七晩、過ごしたら戻ろう。大臣様の館はとても賑やかな場所にある、珍しいものを売る店もあまたとあるぞ。何か良い土産物を見繕ってくるからな。何がいいか、飾りの紐か髪留めか。それとも新しい道具箱がいいかな……?」

 狼駕は努めて明るくそう言い放った。自分をそんな風に奮い立たせていないと、やりきれない気分になってくる。こんなに気の進まぬ出立は今までに覚えがない。

 荷物の少ない妻であったが、ただひとつの例外はいくつかの文箱であった。しっかりとした塗の上に色とりどりの蝶や花、鳥などを描き散らしてあるそれはどれもなかなかの造りに見える。そこに色紙などを入れて、開けたり閉めたりしている。まるで子供のひとり遊びのようであった。
 その中でも特に気に入っているのが、大輪の見事な花を描いたものであった。漆黒の艶やかな塗りの上に、今にも薫ってきそうなこぼれる花弁がある。はっきり確かめたわけではないが、多分白鴎(はくおう)であろう。何度か冗談交じりに中を見せてくれと頼んだが、恥ずかしそうに首を横に振るばかり。

 中身などどうでもいい。あんな風に大切に扱って貰えるなら、自分でも上等なものを選んでやりたいと思った。いや、本当は何でもいいのだ。妻が心から喜んでくれるのなら。

 御簾の内に入らなかった二月の間にも、幾度となくかの場所への出仕はあった。だから妻も時々自分が幾日にも渡って家を空ける時期があることをとっくに知っているはずだ。妻の実家ではこんな風に定期的に大臣家に務めることもないであろうが、これだけはわきまえて貰わねばならない。そう思いつつも、離れがたく思っているのはむしろ狼駕自身の方であるかも知れないが。

 出仕の朝、身支度を整えてもう出掛けるばかりになっているというのに、なかなか腰を上げることが出来ない。先ほどから、いつも供としている下男が庭の表で待っているのだ。大臣家への出仕は馬を使わずに徒歩(かち)で行くので暇が取れる。そうであるから再三の催促をされていた。

 自分の目の前にかしこまっている妻が面を上げてこちらを見上げる。翠の瞳が柔らかく揺れ、まるで行かないでくれと言っているかのようだ。それだけでもうたまらない気分になる。

 しばし離れて暮らさねばならない。その事実に耐えきれず、昨晩は少し度を過ごしてしまった気がする。我ながら情けないことであるが、最後の方は言葉通り腰も立たぬほどの有様であった。たかなる想いを幾度ほとばしらせても、その瞬間に新たな熱が湧いてくる。

「との……、との」

 耳をくすぐる音色。狼駕にとってはそれがこの世にふたつとない甘美な響きであった。細い腕が首に絡みつき、もっともっとと告げられている気がする。嬉しくてたまらない、自らがこんなにも欲するものに同じだけの力で求められるとは。情熱を受け止めるにはあまりに儚い身体は、幾度となく朦朧とした空間を彷徨っているようであった。それでも浮き上がってきた心は、また狼駕を探し求めてくる。

 身体が溶けていく気がする。どちらかにどちらかが吸い込まれて、自分たちはいつかただひとつの塊になってしまうのではなかろうか。

 それが恐ろしい、恐ろしいがもしも真実になるならば、どんなにか素晴らしいことであろう。一刻も離れて暮らすのが忍びない。出仕など取りやめてしまおうか、そうでなければこっそり妻を同伴させてしまおうか。出来るはずのないことをあれこれ懸想してしまう。

「出来るだけ急ぎ戻ろう。俺も本当はあまり気の進まぬ出仕だ、早くすずの元に戻って参りたいぞ。あちらから文を送ろう。だから、お前も返事をおくれ。この頃では雅なやりとりも忘れていたからな、たまにはそのようなことも楽しもうではないか」

 まるで自分の心に言い聞かせるように、狼駕は妻の手を握りながらそう告げた。

 ほろりと雫がこぼれ落ちた頬に口づけ、もう一度抱きしめる。互いのぬくもりを伝え合うために、この不安が消え去るために、どんなにか長い時を過ごせばいいのだろうか。

 

◆◆◆


 その言葉通りに。狼駕は多いときは一日にいくつもの文をしたため、そのたびに妻に送った。これには文使いの元に届ける役をする下男はおろか、一緒に出仕している仲間たちまでが驚き呆れる始末。

 新しい愛人でも囲ったのかとさんざんからかわれたが、文の相手が三月ほど前に娶った正妻だと聞くと皆、言葉を失う。そんなはずはないだろう、表向きはそうであってもその実は妻に仕える侍女のひとりとでも懇(ねんご)ろになっているのではないか、とまで噂された。
 今まで浮いた話には縁のなかった男だからこそ、面白おかしく話題になるのだろう。何を言われても構うことはない。言わせるままにしておいた。

 大臣家での決まった務めこそはしっかりこなすが、空いた時間には道具屋を巡り、美しい薄紙や色とりどりの紐、妻への土産物ばかりを求めてしまう。

 妻からも狼駕のそんな想いに答えるかのように、何度も文が届けられた。庭のわずかに咲き残った花に結ばれたそれには、時々は妻の折った紙細工まで入っていた。今となっては懐かしいばかりの柔らかい文字で、会いたい会いたいと何度も繰り返して綴ってある。それを指で辿ると、さらに愛おしさが募った。

 どんなにか心細く過ごしているであろうか。早く舞い戻り、抱きしめてやりたい。自分が傍にいるから何にも憂うことなどないと安心させなくては。
 ああ、なれるものなら大空を駆る大鷲になりたい。麗しい羽で一気にふたりを隔てる距離を越え、あの西の対の庭に降り立てぬものか。そんな魔術があるなら金や宝をいくら積んでも我がものにしたい。

 

 毎夜、同じ天を眺めて涙する。こんな風に離ればなれになるのは、わずかばかりの時間でも辛い。眠れぬ夜には思いがけずに長い文をしたためてしまうこともあった。

 

◆◆◆


 指を折りながら、七つの夜をやり過ごし、八つ目の朝を迎える。

 その朝、うきうきと帰り支度をしている狼駕の元に届いたのは、待ち望んだ妻よりの文ではなかった。館の主、狼駕の父からのものである。その内容は用足しを頼むもので、同封された書状をいくつかの村の長に届けて欲しいと言うものであった。

 

「これは……一度戻って、出直してもいいのではないだろうか」

 文を一読して、狼駕は素直な感想を漏らしていた。

 どう考えても、差し迫って急を要するものには思えなかった。もう幾夜眠れぬ夜を過ごしたことであろう、それは館に残してきた妻も同様なはず。早く会いたい、届けられた幾たびもの文から想像するに特に変わったことはないと思うが、やはりこの目で無事を確かめたい。もしも急に病がひどくなったりしていないだろうか。

 だが、供の下男は狼駕の意向に従わない。一度戻ったりしたら、ぐるりと山を迂回しなければならず、大変な遠回りになるではないか。それだけではない、若様は尋常じゃない。ひとりの女子ばかりにこのように入れ込んでいたらいつか御家に亀裂が生じる。御館様であってもそのことを遠回しに諭されているのではないかなどとほざく。

 何を申すのだと怒鳴り倒してやりたかった。妻を想って何が悪い。ひとりの愛妾に入れ込む男だっていくらでもいる。遊女小屋で気に入った女子に貢ぎ身を滅ぼした話しも珍しくないだろう。それに比べ、自分が愛するのは誰もが認めた正妻である。妻を大切にして何が悪いのだ。誰に咎められることでもない、自分は少しも間違っていないのだ。

 ――しかしながら……。

 下男の言葉にも一理ある。これは領主である父の命なのである。従うのが筋というものであろう。いくら正式な跡目と決まった身であっても、家督を継ぐまでは家臣に毛が生えたような身の上だと言っても過言ではない。秋の領地巡りでも村長(むらおさ)たちには不義理をしている。やはり盛り立ててやらねば、反感を買うだろう。

「それだけではありません。小耳に挟んだことなのですが……」
 一段と声を潜めて、下男は告げる。出仕の際にあてがわれる寮の一室であった。ふたりの他に誰もいないと知りながら、用心しすぎるほどの振る舞いであった。

「西の対の正妻様のご実家では、この頃少しばかり出過ぎた振る舞いが目立っていると聞きます。敷地続きの山で収穫する薬草を煎じて作ったものを、近隣の村々に法外な値で売りつけているとか。確かな効き目があるものとは聞いていますが、庶民ではとても手が出ぬほどの言い値だと言われています」

 狼駕ひとりに落ち度があるわけではない。ただ、御領主様の跡目殿が山持ちの御家の正妻を人目も憚らず寵愛していることはすでに広く知れ渡っている。ともなれば、その実家が勢力を伸ばしていくのも良くあることだ。

 広い土地を預かるものとして、やはり領下の者たちには平等でなくてはならぬ。もちろん正妻はひとりしか置けないが、側女(そばめ)たちにも気を配り過不足があってはならない。

「お辛いのは、何も若様お一人ではございません。ここは御家のためを思って、お務めをしっかりなされてはいかがですか? そうすれば、領下の民たちも心より安堵することでしょう」

 ここまで強い物言いが出来るのは、下男とは言ってもこの者が狼駕の乳兄弟に当たるからであった。実家の格はそれほどでもないが折を見て侍従に昇格させようと思っているほどの逸材である。

 ――お辛いのは、何も若様お一人ではございません。

 さりげないいい方ではあったが、その真実の言葉は胸を突いた。実は今回の出仕に際し、この者は任を外されるのではないかとの憶測が館の中で飛び交っていたという。狼駕はそれをこの者の姉になる津根から聞いた。何でも西の対が勢力を持ったことで、館の使用人の中でも西方の者たちが目立ってきていると言うのである。

 西の対の妻と打ち解ける前までは、狼駕の一番に目を掛けている女子は津根であった。そのことは誰もが存じていたこと。だからその弟に当たる彼もそれなりの待遇を受けていた。でも時世が変われば何が起こるか知れない。自分がどんなに不安定な場所にあるのか、この男も危惧しているようであった。

 このところ務め以外の時間は全て西の対で過ごしていた狼駕には、館の中で起こるそんな不穏な空気でさえ感じ取ることが出来なくなっていた。確かに妻は愛おしむべき存在である。だがしかし。それだからと言って、他のことを全て蚊帳の外に追い出してしまうことは出来ない。狼駕はただ人とは違うのだ。

「……承知した。では良きように計らってくれ、一番先に付く村長の元に使いを……」

 父から申しつかった村々の位置を頭の中で確認する。

 まっすぐ下って領地に入ってから馬を使っても夕暮れまでにはとても回りきれる距離ではない。本来ならば一晩ずつその地に滞在してもてなしを受けるのが筋であろう。だが、そんなのんびりしたことがどうして出来る。狼駕が今すぐに戻りたいのはただひとつ、妻の元なのだから。

 

「……二晩……」

 ぼそりと口の中で呟いて、天を仰ぎ見る。秋色に染まったこの色を己が手で塗り替えることが出来ぬように、願うだけではどうにもならないことが多すぎる。それを諦めたつもりでいた、もうとっくの昔に。

 だが、心が身体が渇いていく。どうしてこんなにも求めるものを探し当ててしまったのだろうか。


(2004年5月14日更新)

 

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