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…9…

 

 

 

 もともと手綱を握らせれば、大臣家へ仕える者たちの中でも随一ではないかと噂されるほどの腕前である。

 いつも供にしている下男であったから、そのことはとっくに承知しているはず。だが、その男が音を上げてしまうほど、狼駕は馬を急き立てひた走った。途中、足場の悪い山道なども多くあったが、そんなものに気遣っている暇はない。一定時間ごとに馬を休ませる他は、休憩も取らなかった。

 

 大臣家を出たその日のうちに3つの村を回り、4つ目の村に宿を借りることになる。翌日にもまたいくつかの村を巡り行く。
 夕刻迫って最後の村に辿り着こうと言うときに、使いを済ませてそのまま帰館したいと告げると、下男はさすがに驚いた声で言った。

「ご無理をするのはやめてください。申し訳ございませんが、手前はもうへとへとです。それに……あちら様ではすでに今宵の宴の支度も整えていらっしゃるでしょう。心づくしを受けずに戻るなんて、大変失礼に当たりますよ?」

 口から出任せで告げているのではないと言うことは、彼のやつれぶりを見れば分かった。いくら山道を駆るのは馬の脚とはいえ、その上で始終揺られている者たちにも相応な体力の消耗はある。今すぐにでも休みたいというのが本音であろう。
 ここから狼駕の父の館まで戻るには、どう見積もっても二刻ではきかない。いくら夜道を走ったところで、夜半を過ぎるのは明らかだ。それに獣道が続き、闇の中では危ない場所が多すぎる。

 しかし、もう狼駕の気持ちは決まっていた。遠く距離を置いているうちはそれでも我慢が出来た。だが、もう我が館の目と鼻の先まで来ていると思えば、心ははやる。大臣家をおいとまするときに妻に送った文では、さらに数日帰館が遅れると告げていた。だから、あちらもそれを承知して待っているはずだ。だったら、ゆっくりと戻ればいいのだ。……それでも。

 心は熱くたぎっていたが、それを悟られぬよう努めて静かに切り出した。

「そう言えば……これから訪ねる村長からは内々に頼み事をされていたな。それを聞き届けてやるというのはどうであろう」

「……は?」
 下男は目をぱちくりさせて聞き返してきた。

 もちろん話の内容は承知しているはずだ。元はと言えば、この下男を間に入れて探りを入れられたことなのだから。その時は厄介ごとを引き受けるのも気が進まなかったし、何となく流してしまっていた。だが、今度は勝手が違う。さながら、長いこと考えていたことのように落ち着いた口ぶりで、狼駕は今考えたばかりの話を聞かせた。

 確か、境界線を巡る諍いで、自分たちに有利な方に口添えして欲しいとの話だった。もちろん、直接の決定を下すのは狼駕の父であるが、そこはやはりあちこちからの働きかけが大きく関わってくる。正式な跡目である狼駕がひとこと申し上げれば、多少なりとも影響が出ることは分かっていた。

 ゆったりと流れゆく水路を巡る近隣の村々の争いは、領地を守る者としては悩みの種であった。ここをどうにかしなくてはならないと、長きに渡り綿密な協議がなされてきたのである。

「境界のことは、明日の昼前には最終的な決定がなされる。今夜こちらに留まってゆっくりしていては、手遅れになってしまうであろう。もちろん、せっかく用意された宴席を無下にしてしまう手はない。だから、お前が俺の名代としてしっかりと客人としての役目を果たしておくれ」

 狼駕が順序立てて説明していくと、目の前の下男は一応は納得した。それでもまだ、何かを言いたげに口を開く。

「でも、それでは……私は若様のお供をしっかり果たすというお役目がございます。もしも、若様が今夜のうちにお戻りになると仰るのなら、私もご一緒致します」

「――いや」
 それには及ばないよ、と静かに諭す。

 もうとっくに、この男の胸の内などはお見通しである。ここまで強い態度で今夜の宿の話をするのにはそれ相応の理由があるのだ。狼駕は感情を乗せない淡々とした口調で話し続けた。

「お前のことも良きようにはからって頂けるよう、村長に良く頼んでやろうな。今夜はふたりで今後のことなど、ゆっくりと話し合うのが良かろう。……俺も無粋な真似はしたくないからな」

 いつも供として連れ歩いていたこの下男が、ある時からこの先の村長の館で仕えている侍女のひとりとねんごろになっているのは知っていた。幾度となく宿を借りているうちに、特別の感情が芽生えていたらしい。
 もちろん、下男という身分では所帯を持つことは容易には行かない。まずは館の主である狼駕の父の許しが必要となる。さらに、他の館の侍女となれば、そこの主からも許しを請わなくてはならぬのだ。その館に仕える者は、館の主に忠誠を誓わなくてはならないし、特に侍女は館主の一存でどう処されても口答えの出来る身分ではなかった。

 思いがけない申し出に、下男の顔色が変わった。

「そ……そのようなこと。本当に宜しいのですか、若様がまさか私のことをそこまでお考えになって下さっていたとは……」

 彼はもう泣き出しそうだ。大人しいたちではあるが、このことばかりは感情を隠しきれないらしい。

「もちろんだ、お前とは乳兄弟であるから、こうして世話を焼くのも当然のこと。どうかゆるりとして休んで行くが良い。父上にもよく申し上げておくから、館には新妻を伴って戻るのが良かろう。居室などの手配も済ませておくからな」

「わっ……、若様……」

 袂で目元を拭っている供を眺めながら、不思議なものだと思っていた。

 今までは自分の身の回りで色恋沙汰の話があろうと、全て他人事で片づけていた気がする。男女の仲に余計な情を持ち込むなど馬鹿馬鹿しくて仕方ないと、あきれ果てていた。

 しかし、今では。目の前で感激の心に顔を赤らめている下男の気持ちが手に取るように感じ取れる。いくら半日足らずで行き来できる距離とは言え、そう易々と会えるものでもなかったのだろう。どんなにか狂おしく、眠れぬ夜を過ごしたのであろう。

「俺のことは心配するに及ばない。少し無理をしてでも今回の境界の話がうまく運べば、それだけこちらの村長には恩を売ることが出来るからな」

 きっぱりとそう言い切ると、狼駕はまた手綱をしっかりと手に巻き付け、強く引いた。

 

◆◆◆


 辿り着いた先の村長宅では、予想通りに話はトントン拍子に進んだ。

 狼駕の父が送った書状の内容よりも、境界の話に館の主は身を乗り出していた。もうほとんど決定されたと聞いていたので、今更どうなることもないと諦めていたらしい。おいしい話を先に持ってきたために、その後の下男の嫁取りの話もあっという間に決まった。

「いやはや、元はと言えばあの女がそちらのお供の方を通じて狼駕様にこの話を通してくれたからこそ。もしも、御領主様のご意向で今回の話がうまく行かなかったとしても、関係ありません。儂からも、是非よろしく取り計らってくださるよう、御領主様にお願い申し上げてくださいませ」

 村長は上機嫌で狼駕に酌をしようとして、その手を止める。

「ああ、いけない。本日の所は誠に申し訳ございませんが、こちらのお願いのためお骨折りを頂かなければ……」

 そう言って、せめてもの罪滅ぼしとあれこれと土産物まで持たせてくれる。さらに、今宵こちらに留まる下男の代わりに、土地に明るい供の者を付けてくれた。その者のお陰で、狼駕が想像していたよりも労を煩うこともなく館に辿り着くことが出来たのであった。

 

◆◆◆


「それでは、明日。お召しがありましたら御館に出向きますので、話の成り行きをお教え下さいませ。私はこちらで休みますので」

 その者と領下の宿場で別れ、狼駕は館に戻る。門を入ってすぐの馬小屋の番の者に馬を預けると、庭づたいに急いだ。
 いくら道中を滞りなく順調にやって来たと言っても、やはり寝の刻は回ってしまっている。しんと静まりかえった館の敷地内は、どこもひっそりと静まりかえっていた。これでは父の部屋に参るのも明朝にした方が良いだろう。こちらとしてもその方が好都合である。

 ねっとりとまとわりつく夜の気が、外歩きの衣を、解けかけて乱れた髪を揺らす。低木にびっちりと吸い付いた夜露に袴の裾が濡れるのにも構わず、目指すのは横たわる渡りの先にぽつんと見える小さな灯りだ。それはまるで自分を眠らずに待っていてくれるかのような、温かな輝きであった。

 

「双葉、いるか。すぐに手桶を持って参れ」
 縁のからそう叫ぶと、驚いた足音が御簾の内から飛び出してきた。

「ま、まあっ! ……如何致しました、ご主人様。お戻りは明日か明後日と伺っておりましたが……」

 予期せぬ出来事に、侍女はすっかりと慌てた様子である。寝支度を整え、髪なども垂らしてはいるが、それでもてきぱきと辺りを整えていった。
 ぬるく温めた水桶を持ち、浸した手ぬぐいで外歩きの足を清めてくれる。その仕草を、狼駕はそわそわと落ち着かない気分で見守っていた。

 どういうことだろうか、久方ぶりに訪れるこの対の趣がとても他人行儀に思える。気のせいだとは思いたいのだが、やはり何かが違っていた。

「すずは? ……もう休んでいるのか?」

 押し黙ったまま何も語ろうとしない侍女に、思いあまって訊ねていた。悠長に足を洗っている手つきにも苛ついてしまう。

 こちらとしては、泥足のままで部屋に足を踏み入れたい位なのである。馬を走らせる道中も、愛おしい妻の顔ばかりが脳裏を過ぎり、疲れ果てて力尽きてしまいそうな己を気力だけで保たせていた。父からの言付けさえなかったら、もうとっくに帰り着いていたはずなのに。そんな口惜しい思いに後押しされて。

 しかし。予期していたであろうそんな狼駕の言葉に、侍女はふっと顔を曇らせた。

「それが……あの……」

 俯いたまま。とても言いにくそうに、口の奥で呟く。何をしているのだ。こちらとしてはもう、もどかしくて仕方ない。

「何だ、奥におるのか? だったら、どうして出迎えに来ない。今は夜でここにはお前しかいないと知っているであろう……!」

 そうなのだ。何のために道なき道を駆け抜け、舞い戻ったと思っているのか。

 幼子のように飛びついてくる愛らしい姿を待ち望んでいた。それなのに、御簾の内はことりと音も立てず、静まりかえっている。こちらは今にも身体が崩れ落ちて行きそうなほど、ぼろぼろに疲れ果てていた。労られて当然の自分が、捨て置かれるなど許せない。

 夜も更けているのだから、寝付いているのは当然だ。だが、それでも。主が戻った気配がすれば、目も覚めよう。もしも、自分の帰館を待ち望んでいてくれたのなら、木戸を叩くかすかな音にすら反応してしまってもおかしくない。この期に及んで、気付いていないなどと言うことがあるのか。

「おいっ! すず、出てきなさい。何をしている……!?」

 知らぬ間に、乱暴に侍女の手を払っていた。濡れた足跡を付けながら、御簾の内に飛び込む。そこで、彼は一度足を止めた。

「これは……、どういうことだ?」

 振り向いた自分が一体どんな形相をしていたのかは、対する侍女の目を見れば察しが付く。つき通せなかった嘘を暴かれた子供のように、双葉は青ざめた頬をひくつかせていた。

 御簾のすぐそばに、手付けずの膳がぽつりと置かれている。夕餉のものであろう、箸を手にしたあともない。この場から奥の寝所へと運ばれることすらなかったのかも知れないと勘ぐってしまう。

「また、食事をしていなかったのか。あんなにきちんと摂るように約束したのに。せっかく身体が良くなってきたというのに、どういうことだ。お前が付いていながら、何をしているっ……!?」

 出立の朝、幾度となく念を押した。

 自分が戻って来るまで、きちんと食事をしてよく眠るようにと。不在の間に体調を崩されたりしたら困る。そんな心配をしていたら、お務めにも支障が出てくるからと。その言葉に、妻は何度も何度も頷いていたではないか。

 自分が親身になって尽くし、ようやくあそこまで持ち直したのだ。それなのにどういうことだ。まさか、すっかり元のように戻ってしまったのか。

 だが、しかし。送られてくる文にはそのような素振りなどなかった。元気にしていると言っていたじゃないか。その言葉を信じていたのに。やわらかな薄紙の上、滑らかな筆遣いの仮名文字からは、遠き地で任に付く狼駕を気遣う愛情が深く感じ取れた。

 互いが互いを思いやり、深い絆で結ばれていれば、しばしの別れなど乗り越えていけると信じていたのに。何も、いきなりしっかりと気丈にしろとは言わない。ただ人としての普通の生活を健やかに送っていくことがどうして出来ない。そんな頼りないことでこれからどうするのだ。

 自分の帰館を喜んで出迎えてくれる、はにかんだ笑顔だけを望んでいたのに。

「あ、あのっ……。お食事をなさらなくなったのは昨日からのことで……それまではきちんと」
 緊張のせいか、侍女の声にはいつものような覇気がない。しかし自分が仕える女主人のために必死で取り繕っている様子だ。

「昨日?」
 狼駕は侍女の言葉の一片を捉えて、眉をぴくりと動かした。

 昨日と言えば、もともとの帰館予定の、その日ではないか。戻ると約束した日を破ったからと言って、責めているのか。どういうことか、こちらとしても必死で任をこなしてきたというのに。妻に会いたい一心で、人の何倍もの務めをこなしてきた。その労をねぎらうならともかく、何故このような態度に出る。

「されど、文は送ったであろう、姫もそれをご覧になったはず。もしも他の女子のところに寄っていたのだというのならいざ知らず、こちらは大切な務めをこなしていたのだ。ならばどうして……!」

 知らず言葉がきつくなる。ここまで辿り着くまでの妻を想っていたあの熱い気持ちが踏みにじられたような、何とも情けない気分になっていた。

「おいっ、すず! 何をしているのだ、何を……!」

 行く手を遮っていた几帳を、少しばかり脇にずらしたつもりであった。だが、勢い余った力に頑丈な造りのそれが大きな音を立てて崩れ落ちる。長くせり出した上の柱が木戸に当たり、ひときわ大きな音を上げた。

 

「……う……」

 そう広く造られてはいない奥の部屋。一番突き当たりの壁際に、うずくまっていたものがぴくりと動いた。その仕草から、こちらの存在に今気付いたばかりではないことがうかがえる。今までの狼駕の双葉とのやりとりはちゃんと耳に届いていたはず。それなのに、自分の夫が戻ってきたと知りながら、妻は出てこようとはしなかったのだ。

「どうしたのだ、すず。何をしている、そんなところで……!」

 あのいつかの若草の衣だ。それにくるまったまま震えている。流れ落ちる鶸の髪、俯いたままの横顔。どこまでも儚げなその姿は愛おしい妻のものに違いなかった。

「俺だ、お前の夫が戻ってきたのだよ? 文を見ただろう、父上に頼まれごとをして思いがけず遠回りをしてしまったが、お前に会いたい一心で舞い戻ったのではないか。何故、すぐに出迎えてくれない。何があったのだ、どうしてしまったというのだ……!?」

 こちらのひとことひとことは伝わっている。生ぬるい気の中を狼駕の声が走るたび、ぴくりぴくりと細い肩が揺れた。でも、小刻みに震えるばかりの妻はそこから動こうとはしない。それどころか、こちらの必死の働きかけに、さらに身を固くした。

 狼駕は今、目の前で起こっている情景がどうしても信じがたかった。

 幾度となく、思い描いていた。妻と再び出会うその時のことを。待ち望んで繰り返しすぎて、とうとう瞼を閉じるだけで容易に想像が出来るようになっていた。

 縁から御簾の内に飛び込めば、妻も嬉しそうに駆け寄ってくる。その瞳は潤み、堪えきれない雫が頬を伝いながらも、口元には再会を心より喜んでいる笑みが浮かんでいるのだ。

 その時を、その時だけを。支えにして、離ればなれの日々に耐えていた。

 独り寝の夜、ふと目覚めれば傍らにもうひとつのぬくもりのないことが辛くて仕方ない。いつもの仲間に遊びに誘われても、心が動かなかった。それどころか、昨夜の宿を頼んだ家で寝所に控えていた美しい娘を見ても、ただただ悲しみの心だけしか浮かんでこなかったのだ。これもひとつの務めだといくら思っても、とうとう侍る女子の腰ひもに手を掛けることが出来なかった。

 なのに……どういうことだ。妻は自分のことなど想っていてくれなかったのか。ほんの数日留守にしただけで、それまでのふたりの全ても忘れ、元の通りになってしまうとは。

「おいっ! 聞こえているのであろう、何か答えぬかっ……、何かっ!」

 乱暴な足音を立て、大股に奥へと進んでいく。哀れなくらい小さく震えている細い肩を乱暴に掴んだ。

「すず――……」

 しっかりと身体に巻き付けた若草の衣を握りしめる指が真っ白に血の気を失っている。カタカタと音を立てて震える妻は、のろのろと面を上げた。

「……あ……」

 入り込むのは灯り取りの窓からのわずかな光だけ。そんな中で涙に濡れた瞳がゆらゆらとこちらを見た。その瞬間、狼駕は何も言えなくなっていた。

 

 ――何という、ことであろう。

 

 頬を伝って、顎へ。そして、さらに衣の袖に、膝に。しっとりとこぼれ落ちる雫。はらはらと音もなく流れゆくそれが、あとからあとから留まることもなく溢れてくる。少しやつれた輪郭、櫛を入れないためか、こごった髪。かさかさに乾ききって粉を吹いた唇が、かすかに動いた。

「……と、の……?」

 それは狼駕であっても、ようやく聞き取れる程の響き。再び胸に突き刺さる痛みに、全てを悟っていた。

 理由など、何もない。ただ、会いたかったのだ。

 いくら御託を並べたところで、戻ることが出来ぬのなら、言い訳したところで何になる。そうだ、ただ、会いたかった。だから、日を過ぎたことは悲しかったのだ。自分だって同じだ。父の言いつけだとしても、恨みの念すら湧いてきた。そこにはもう、道理などなかった。

「お……おお、すず。すまなかった、怖がらせたな。すまなかった、すまなかった……会いたかったぞ」

 皮膚を通してしみ通るような声で詫びながら、細い身体を抱き寄せる。

 そう告げる狼駕の菫の瞳からも新しい雫がこぼれ落ちた。領主の跡目として、立派にお役目を果たすことは当然だと思っていた。そんな誰もが信じて疑わぬことを、自らの心にも刻み込んで。でも、それではこの想いはどうしたらいいのだ。

「と……の。との、との……っ!」

 留めようのない熱に囚われた身体は震えながら、でも何度も何度も確かめるように狼駕を呼んだ。自分を包み込む存在を記憶の底からたぐり寄せるが如く。

 その瞬間、自分の血潮がようやく再び巡り始めた心地がした。今の今まで、何をしていたのだろう。それすらも曖昧になってゆく。体内に滞っていた悲しみの感情が静かに溶け出してきた。

 

 子供じみているのは分かっている。訴えるだけ、愚かなことだ。だが、そうは思っても、留まれるものではない。もしも許されることならば、こんなしばしの別れすら味わうことのない自分になりたい。

 ――どうして、どうして巡り会ってしまったのだろうか。こんな、自分がちぎれて片方になってしまったような存在に。人を想うというのは、こんなにも苦しく辛いものなのか。

 

 何かが変わり始めている、それが恐ろしい。ただ人の感情を抱いてしまったとき、一体自分はどうなってしまうのだろうか。だが、そうだったとしても。絶えず温めていなければ儚く散ってしまうぬくもりを、守りたいと思う。

 他の何事に替えても、自分自身の命に代えても。


(2004年5月19日更新)

 

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