触れるだけで指先がじんと痛くなるほどの熱さも、幾日か過ぎゆくほどに元通り穏やかなものに戻っていった。 帰館した翌朝は、父の元に出仕の報告に上がるだけだといくら告げても、妻は狼駕の衣を掴んだままほろほろと涙をこぼしていた。そんな痛々しい姿を見ているだけで、こちらまで胸が締め付けられる想いがする。
◆◆◆
ある夜のこと。夕餉の膳が片づいたあとのゆったりとした時間。名残の夜光虫が飛ぶ闇色の庭を眺めながら、狼駕はぽつりと呟いた。後ろの方で閨の支度を整えている双葉の手が止まる。妻もこちらに向き直った。 口にするまではぼんやりとしたものだったのが、にわかに色を放つ。自分の言葉に助けられるが如く、彼はさらに生き生きとした口調で続けた。 「そうだ、子だよ。すずがこんな風にいつも寂しく過ごしているのは、俺としても心配だ。どうすれば良いのか、ずっと考えていた。そしてようやく思い当たったのだよ。たくさん、子を産めばよいのだ。この広い対も手狭になるほど、な」 「は……あ」 「突然、何を仰いますのやら……」 妻の方と言えば、きょとんとしたまま。黙って狼駕の言葉を聞いていた。まるで今、初めて聞く話題のように。花色の口元が音もなく動き、小首をかしげる姿も愛らしい。 ようやく怯えの消え去った瞳は、深く翠の色をたたえている。ここ数日は食事もきちんと摂るようになったので、顔色も良くなった。 「突然、ということもなかろう。姫の実家の方からも、そんな話はしてこないのか? あちらとしても、一日も早く吉報を聞きたいと願っておられるであろう。俺も母上などから毎日のように探りを入れられる。どうなのか、男の俺には分からぬが、何かそれらしい兆候などはないのか……?」 子が出来るようなことはもうとっくにしているのだ。まあ、まだ先の出仕を挟んでひと月ばかりではあるが。そうはいっても、たった一夜のことですら子を成すことは出来る。そう言う話もたびたび聞くことだ。 甘い香を放つ柔肌は、触れるごとに深いものを感じさせる。ほんのひととき、身体を重ね欲望をほとばしらせれば、そこでおしまいなのだと思っていたのに。ひとたびの交渉のあとも少しも熱は冷めやらない。己の中に眠っていた未知なる感情が、夜通し暴れ続ける。求めても求めても、心が渇く。こんなことがあっていいのだろうか。 これほどに深い情愛に繋がれているのだ。そうなれば、その想いの結晶とも言われるものが妻の中に宿っても不思議はない。だが、腹違いの弟妹しかおらず、未だ子を持ったことのない狼駕にはそれを知る術もなかった。 「……お言葉ではございますが」 双葉はこちらに聞かせるように、大袈裟に溜息をついた。 このような態度ではあるが、この侍女も狼駕の帰館は心待ちにしていたらしい。日に日に気分が優れなくなる女主人を一人きりで相手して、だいぶ疲れが溜まっていたという。こちらの言葉に対する返答がすぐに戻ってくるのは、それだけ元気が出たと言うことだろう。 「ご主人様はお忘れになったのでしょうか? 姫様はただいまご病気で、とてもご懐妊に耐えられるお身体ではございませんよ。それに薬師(くすし)などに話をすれば、お身体の異常にも気付かれてしまいます。病身の娘子を無理矢理に嫁がせたと知れれば、ご実家の方にも困ったことになりますわ」 きびきびとした動きで、どんどん自分の仕事を片づけていく。この広い対をひとりで守るのは大変であろう。そうは思うが、妻が他の侍女を怖がるので仕方ない。双葉ももうすっかり忙しい生活に慣れてしまっていた。 「まあ……そうではあるが」 ここにいる妻の他にも、狼駕の正妻候補は両手に余るほどいたのだ。 そのどれもが、心映えにも家柄にも申し分がなく、その中からたったひとりを選び出すまでにはかなり話がこじれたらしい。ひとたび、正妻という座に納まれば、実家もその一族の立場も確かなものになる。それぞれに味方し口添えをする者がいて、きちんと話が決まるまではどこへ行っても落ち着かぬ日々であった。 ――もしも、妻の病のことが公になれば、どうなるであろう。 たちどころに領主の跡目の正妻としてはふさわしくないと言われてしまうかも知れない。そうなれば、代わりに我が娘をと言い出す輩が、必ず出てくるだろう。妻も困った立場に立たされるに違いない。また心を痛め思い悩む姿を見るのかと思うと、それだけは避けなければならぬと思ってしまう。
双葉の話では、こんな暮らしも今しばらくの辛抱だと言うことであった。 父親が大袈裟に自慢していた琴の腕前も、まだ披露して貰ってはいない。きちんと練習をして恥ずかしくない出来映えにならないととても聴かせられないと思っているらしい。そんなことはない、御簾の外からうかがっているだけでも何とも美しい音色だ。間近でそれを耳にすれば、どんなにか素晴らしいであろう。 輿入れからもう三月も経とうというのに、まだ広い敷地内を案内もしていない。妻の手を引き、四季折々の花が咲き乱れる美しい庭を散策したら、どんなにか楽しいだろう。小鳥のさえずりや、小川のせせらぎ、そのひとつひとつに目を輝かせる姿を早く見てみたい。 ようやくこの離れ対で、穏やかにふたりの時間を楽しめるようにはなってきた。だが、やはりまだ当たり前の暮らしからはほど遠いと言わねばならぬだろう。妻の病さえ良くなれば、今よりももっと素晴らしい日々が待っているのだ。この幸せがさらに輝きを増すなど、今の狼駕にはとても想像が付かないが。
急ぐことはないと思う。ゆっくりと育んでいけばよい。こちらの話に耳を傾け、驚いたり喜んだりしている姿を見ることが出来るのは嬉しい。少しでも力を込めれば砕け散ってしまうかと思えるか細い腕が己の背に回るとき、そんなはずはないのに包み込まれるような温かさを感じる。 閨の情熱はもちろんのことであるが、こうして何気なく過ごす時間ですら、一瞬でも無駄にしたくないほど愛おしい。 「だが、すず。やはり、子がおれば楽しいと思うぞ。女子(おなご)ならば、嫁がせるまでずっと手元に置ける。一緒に花を摘んだりひいな遊びをしたり、中の庭で鞠をついたり出来るのだぞ。華やかな衣をまとって、花見に出掛けるのも良いだろう。そのうちに、俺のことなど忘れてしまうほど夢中になるかも知れぬ。 表に出れば、やはり小さな子供の姿が目に付く。今までは小賢しいばかりで、面白くもない存在だと思っていたのに、この頃では少し変わってきている。正妻を娶り、今や誰もが領主の跡目としての狼駕に子が出来ることを望んでいた。お役目として果たすのが当然のことと思っていたが、妻への愛情が深まるにつれ、それだけでは済まされなくなってきたのだ。 ――もしも、あれが自分と妻との子であれば……。 野山を駆けめぐる小さな姿を目で追いながら、そう遠くない未来を想う。自分は良い父親になれるだろうか。妻と子を守り、家を守る、立派な男であらねばならぬ。 「……の?」 しばしの沈黙を経て、妻はほんの一瞬、辺りの気に溶けてしまうような声を上げた。こちらを見上げる瞳がキラキラと輝いている。もっと何か言いたいのにそれが出来ないもどかしさが唇を震わせていた。狼駕もそれに微笑み返す。 「おお、そうだよ。女子ならば、すずのものだ。お前の手元に置いて、仲良く過ごすが良い」 その言葉に、妻は本当に嬉しそうに頬を染めた。まるで、今初めて気付いたかのようではないか。そんなはずはないのに。夫婦(めおと)であれば、いつかは子が出来る。当たり前のことだ。輿入れの前にも早く安心させろと家の者に言われてきたであろう。病の苦しさで、今まで思い出すこともなかったのだろうか。 ああ、こんな風に。幸せを共有できる存在とはどんなにか愛おしいものか。妻が嬉しそうにしているだけで、狼駕も心が温かくなる。こうしてだんだん打ち解けてくると、少しばかり困った遊び心も飛び出してしまうのであるが……。腹の内にふいにそんな感情が湧いてきて、思わず喉の奥でくすりと笑っていた。 「すずの子だ、どんなにか愛らしい姫になるだろう、楽しみであるな。だが、そのためには……もっと励まねばならぬだろう。お前もこの頃では、なかなか良くなってきたのではないか? 前とは明らかに違ってきているようだな」 わざと大袈裟な声でそう告げると、すぐにその意を介したのだろう。妻はみるみるうちに真っ赤になり、恥ずかしそうに俯いてしまった。さらにふざけて震える肩を抱き寄せる。これにはさすがの双葉も、再び呆れた声を上げた。 「……んまあ、ご主人様!」 もうこれ以上はおつき合いできません、と言わんばかりに。双葉は辺りを片づけ、早々に立ち上がる。 「とっくにご存じのことと思いますが。……ひとたび姫様のご懐妊となられれば、しばらくはこちらにいらっしゃることも少なくなられるのでは? 無事にご誕生になるまでは、穢れがあると殿方は女子の元から遠ざけられるものですわ。 お忘れだったのではありませんか、と言いたげに、双葉はこちらをちらっと覗く。
全く、その通りであった。 正妻であれ、側女であれ。子を腹にもった女子とは疎遠になるのが常である。「穢れ」というのは迷信かも知れない。ただ、懐妊中の女子が、新たに子を身籠もることはないというのも事実だ。それならば、他の女子に胤を仕込むのが、良家の跡目としては必要なことであろう。何しろ、子は多い方が良いのだから。親族が栄えることで、御家は安泰となるのだ。 狼駕の次の代を任される者は、出来ることなら妻に産んで貰いたい。だが、領土はその者ただひとりの力では守ることが出来ないのだ。狼駕自身にも幾人もの腹違いの弟が腹心の部下として生きるためにその教育を受けている。やはりいざとなったときに頼みになるのは血の繋がり。それは、今の領主である父を見ていてもよく分かる。 正妻に子が出来ることが分かれば、安心して他の女子も孕ませることが出来る。余りにも浅ましいことではあるが、そんなことは暗黙の了解。容易く戯れるなら、遊女のような女子で構わないが、生まれた子をそれなりの地位につけるとなれば、後ろ盾のしっかりした女子が良い。もう幾人かの候補が挙がっているのだ。妻が懐妊すれば、そちらに通うようにと両親から言われるに違いない。 それこそ、後にも先にもあるのは血なまぐさい茨の道ばかりだ。領主の跡目としての地位を手に入れるために、失うものはたくさんある気がする。
「……まあ、お薬を使っているのですから、今しばらくはそのようなこともございませんでしょうけど。仲睦まじくなさるのは宜しいですが、……何事も適度になさるのが宜しいかと」 振り向いてそう告げる侍女の顔が、驚くほど大人のそれに見える。一体、これはどんな女子なのか。それが時折、分からなくなる。ここにいる妻にしてもそうだ。どこまでも儚く、愛らしくありながら、閨ではこちらを掴んで離さないほどの、熱いものが溢れ出してくる。何度も飲み込まれそうになり、そのたびに肝を冷やしていた。 ――そうかも知れぬ、女子とは恐ろしきもの。恐ろしくて……奥深いもの。それが分かっているからこそ、男たちは囚われていくのだろうか。
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引きずり込まれそうな大きなうねりからかろうじて生還して、狼駕はようやく水面に顔を出したように正気を戻していた。未だ、額の辺りがぼんやりと霞みかかっている。鈍い耳鳴りも覚えていた。じっとりと汗ばんだ身体を起こし、濡れた髪をかき上げる。すだれのように額に落ちたそれが、燭台の炎にきらめいた。 「……う……」 妻もややあって、呼吸を取り戻す。その後、しばらくは辛そうに細い息を繰り返していた。 声が出ぬと言うのは、多分喉の奥に何か障りがあるのだろう。そうなれば、普通に息をすることも難儀である。過呼吸を繰り返すような激しい行為を避けることも必要だったのかも知れない。最初の頃、侍女が頑なに妻と関係を持つことを拒んだのも、女主人を気遣う者として当然のことだったのだ。まあ、この頃ではそうすることも諦めてしまった様子であるが。 肢体をしとねの上に投げ出したあられもない姿で、未だ指の先を動かすほどの力も戻ってこないのであろうか。珠のような汗が、ひとすじの雫となり、やわらかな曲線を流れ落ちていった。男の欲望の全てを受け止めたはずの身体が、まるで天女のそれのように、神々しくさえ感じられる。 「との……?」 辛さもあるのだろう。だが、それでも妻は開いた瞼から、きらめく翠の瞳で応えた。愛し合ったばかりの肌は花色に染まり、あちらこちらに朱色の花びらをまき散らしている。激しい波間に漂いながら、狼駕が幾たびも落とした愛の軌跡であった。
初めのうちこそは辛いばかりに見えた妻も、幾たびか身体を重ねるごとに女の情念がにじみ出てくるようになった。やはり毎度のこととはいえ、衣を脱いで肌を晒すことには恥じらいの気持ちが消えないらしい。だが、それでも、狼駕の想いに応えようとする瑞々しい息づかいが肌を通して伝わってくる。 こちらが求めれば、同じだけの強い力で求められる。ふたりで同時にたかみに押し上げられるときの感動は、今までの女子との行為では感じ取ることがなかったものであった。 胸が震え、身体から熱が噴き出す。こんなにも燃え上がるのはお互いの心が強く結びついたからだと確信する。この先に突き進んでいけば、気が狂ってしまう。そう思いつつも、その間際で留まることが出来ないのだ。 そして、そのひときわ大きな波に呑まれたあとに。さらに大きな愛情が自分の中に芽生えていることを知ることになるのだ。身体を心を重ね合うごとに、儚いばかりの存在がもっともっと愛おしくなる。鶸の髪はうねる流れとなってしとねの上に輝きを放ち、その幻影で目がくらみそうだ。
「との、……との」 ほんの少しの間でも、離れているのが辛いと言いたいように、妻は震える身体を再びすり寄せてくる。そうなれば、今一度、熱い波間を泳ぎたいと欲するのが当然のこと。 だが、今宵の狼駕はそんな妻を静かに抱き寄せると、その上に衣を掛けた。 腕の中の人はそんな穏やかな行為に一瞬驚いた様子であったが、すぐに嬉しそうにしがみついてきた。細く長い指先は、その動きが背中に回っても細かく感じ取れるほどだ。鶸の髪の一房を指に絡め取り、そのやわらかく滑らかな感触を楽しみながら、狼駕は一度息を吐いた。 「すず、お前は俺の子を産まなくてはならないよ。今すぐにとは言わない、だが、すずが子を産んでくれることで、この家は栄える。――正妻に子がないのが、一番困るのだ」 ゆっくりと言い含めるが如く、ひとことひとこと区切りながら伝えていく。何を言っているのか分からないと言うように、妻がそっと顔を上げてこちらの顔をうかがった。丸く綺麗にかたち取られた瞳には、汚れひとつなく、まっすぐに何も憂うことなく育ってきた幸せな身の上が感じ取れる。 優しい輝きに勇気づけられて、狼駕は言葉にすることをためらい続けたひとことを、ようやく口にしていた。 「お前は……すでに聞いているのだろうか。俺は、母上の本当の子ではないのだ」 妻を抱く我が腕が、情けないほど震えている。表向きは禁とされた事柄とは言え、古くからこの館に仕えている者なら誰もが知っていることだ。今更寝物語にするくらい何でもないはず。だが、……こうして自らが口にすることで、揺るがない事実となる気がして恐ろしかった。 「との……?」 その事実に驚くよりも、夫の尋常ではないなりをいぶかしむように、妻はかすれる声をあげた。言葉で想いを告げることが難しい人の出来る限りの愛情を感じ取り、それでもなお、胸の震えが苦しくて仕方ない。恐ろしかった、胸を巣くうものが。だが、もうこの苦しみをひとりで抱えなくてもいいのだと思えば有り難い。こんな風に安らげるまでには、一生至らないのではないかと諦めていたのだから。 「もちろん、表向きには俺は正妻である母の実子だとされている。だからこそ、跡目を決めるときも難なくまとまったのだから。……だが」
「跡目は正妻の子でなくてはならない」――どの家でも、それは誰もが承知していること。だから、正妻を迎え半年を過ぎても子が出来ぬと知ったときに、狼駕の父やその側近たちには緊張が走った。 正妻の実家としても、これはゆゆしき問題であった。家柄は申し分なく、輿入れを取り決めるまでにも何ら差し障りがなかった。だが、ここにきてなんたることだ。 ――そして。悩んだ末に、正妻が取った道とは。自らの侍女を夫に差し出し、生まれた子を自らの子として育てるといういささか乱暴な方法であった。 白羽の矢がたったのは、あまり身分の高くない女子。もしもそれなりの実家を持つ者であれば、あとあと困ったことになると踏んだのだろう。 女は狼駕の父の元に上がり寵を受け、程なくして身籠もった。美しいばかりではなく気だての優しい穏やかな女子であったから、難しい事柄は抜きにしても深く愛されるにふさわしい存在であったのだ。もちろん、公には正妻が懐妊したと伝えられる。やがて月満ちて。狼駕は、押しも押されもせぬ領主の跡目として生を受けたのだった。
「もちろん、正妻である母は……俺のことを実の子のように可愛がってくださった。一度も、継母のような素振りを見せられたことはない。その後、俺には多くの腹違いの弟妹が出来たが、大きな問題はなかった。確かに跡目を決める際は少しばかり困ったこともあったが、何と言っても母の実家がしっかりしていたので大事には至らなかった。……俺は恵まれていたのだと思う。皆から大切にされ、守られてきた……でも」 狼駕はぎりっと唇を噛んだ。ほんの少しの間に、その表面はかさかさに乾き、歯の先の当たったその場所から血が滲んでゆく。やがて口の中に生臭い味が広がった。 どこか深いところに引きずり込まれるような恐怖がいつも傍にあり、それに必死で耐えてきた。恐れる心を表に出さぬよう、跡目としての自分をしっかりとこなすよう常に心がけてきたのだ。物わかりのいい素直な、手の掛からない子供だと言われてきた。 「俺の実の母は……産まれた我が子の将来に障りになってはならぬと、生まれた村に戻り……身体を壊して若くして亡くなったと聞いている。その後、生家も跡を取る者がなく、守る者のない墓だけが残っているのだ。 真実は知らない。赤子だった自分には記憶がないのだから。 だが、物心が付いた頃から、あんなにも慈しんでくれる母なのに、何故か遠く感じていた。事実を聞かされるずっと前から、全てを知っていたような気がする。領主となる人に愛され、子を産み……そして死んでいった女子。その激しいほどの情念の上に、自分は生きているのだ。 「死んだ母の……無念の分まで、俺は生きなくてはならない。立派な跡目とならなければ、申し訳が立たないのだ。そのために……正妻の子として、この家の跡取りとして。誰からも文句を言わせない存在とならねば……」 恐ろしくて仕方なかった。だが、そんな弱い心を出せば、すぐにつけ込まれる。自分の他にも跡目という地位を狙っている者は何人もいるのだから。決して、隙を見せてはならないのだ。甘えることなど、許されるはずもなかった。鷹揚なように構えていても、心はいつも震えていた。 「お前が……子を産まねば、そうでなければ困ったことになる。病の癒えてないお前にこんなことを言っては、本当にすまないと思うが……許せよ」 こんな胸の内を語る日が来るとは思わなかった。叶わぬ心を抱いて死んでいった人のために、心を殺しても生きて行かなくてはならないと決めていたのに。それなのに……こんなにも愛おしい者に出会ってしまうとは。
「……との……?」 妻の指が頬に触れる。瞼を閉じたまま、頬に流れる熱さを痛みとして感じていた狼駕は、ぼやけた視界の向こうに見えたものにハッとした。 「……すず?」 声を持たぬ妻が、音もなく頬を濡らしている。辛そうに息を吐くと、狼駕の首に腕を回してしがみついてきた。 「との……、とのっ……!」
それは今までに感じたことのない、ほとばしる激しさであった。振りほどけないほどの強さで、妻は狼駕に必死で何かを伝えようとしている。そんな気がした、そんな気がしてならなかった。 言葉ではない、もっと別のもの。心から直接溢れ出る、魂の叫び。
「おお……そうか、そうか……」 我が身を包むのと同じくらいの強さで、他に代えようもないほど愛おしい細い身体を抱きしめる。一瞬、心が過去に飛び、真実を垣間見た気がした。父を愛し自分を生んだ母が、一体何を想っていたのか。自分の中に流れている血潮がそれを教えてくれる。 「俺は……幸せだ。一番に愛さねばならぬ女子が、お前なのだからな。もしも、すずが側女であればこんなにも情を交わすことは叶わなかったであろう。そんな辛い想いをしなくてすんで、本当に良かった。……正妻がすずで良かった……!」 父が……母が。叶えられなかった想いを、ここに結ぼう。まだおぼつかないばかりの足取り。いつか本当に温かな幸せを手に入れて、母に感謝の心と共にこの命を返したい。それが、出来そうな気がする。今の自分ならきっと。
夢は叶う、その日を待ち望みながら。妻と過ごすささやかな幸せをこの先ずっと積み重ねていくのだと、狼駕は信じていた。
(2004年5月21日更新)
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