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…11…

 

 

 

 寝顔などと言うものを、こんな風にのんびりと眺めることがかつてあっただろうか?

 夜明けと共に何となく目覚めて、傍らのぬくもりに気付く。まだ深い眠りについている妻は、堅く瞼を閉じたまま。あどけない笑みをその口元に浮かべていた。

 

 物心が付いた頃には、もうひとりで几帳の奥に寝かされていたと思う。もちろん、すぐ表に乳母は控えていて、声を掛ければ即座に飛んできてくれた。だが、母も乳母も、添い寝をしてくれた記憶がない。

 そんな状況がごくごく当たり前であったから、別段「寂しい」とも思わなかった。だが、他の部屋にいる弟や妹たちが自分とは違う母親の腕に抱かれて眠っているのを垣間見ることがあり、その時には何とも不思議な感情を覚えた。そう、単純に不思議であったのだ。羨ましいとは思っていなかった。

 元服を済ませてからも、閨に上がってきた女子に伽の相手をさせたあとはすぐに下がらせていた。何となく隣に寝息が聞こえるのは落ち着かない。始終、傍に誰かが控え、ざわざわと騒がしい中で生活していたからだろうか。せめて休むときくらい、気楽にひとりきりの時間を楽しみたかった。静まりかえった静寂の中こそが、一番安らげる空間だと信じていたのである。

 

 それが、どうしたことだろう。今ではふっと眠りの淵から浮き上がったときに、腕の中にぬくもりがないと気付くと無意識のうちにたぐり寄せている。わざわざ瞼を開かなくても手のひらが傍らの人を捜しているのだ。

 普段の妻は、自分や双葉に対するときすら、おどおどと自信のなさそうな表情を見せる。こちらとしては、花を手折る指先も衣をたぐり寄せる仕草も可愛らしくて、ついついじっと見入ってしまうのだが、そうすると、何か手落ちがあったのだろうかと言った瞳で、きょろきょろと辺りを改めている。

「こちらにおいで」と招き寄せたときも、一瞬、確認するようにうかがってくる。そんなことするまでもないのにと、少しばかりもどかしい。

 しかし。眠っているときはさすがに無防備で、全てから解き放たれた安らぎを漂わせている。揺り起こせば、眠そうな目をこすりながらこちらを見上げてくるとは分かっているが、そうしてしまうのがもったいないほどだ。狼駕はこんな風に妻が自分だけに見せる打ち解けた姿がたまらなく嬉しかった。

 

 毎朝、毎夕。今までに見たことのなかった新しい一面を発見している気がする。朝露を置いたようにきらめく髪はやわらかな香を放ち、几帳の傍で、寝所の奥で、それぞれに異なる色を見せる。それに触れ愛でることが出来るのは、妻の身の回りの世話をするただひとりの侍女とそして自分だけだ。

「との」

 ようやく聞き取れるほどの響きでそう名を呼ばれるごとに、胸の奥が締め付けられるような懐かしく泣きたくなるような感情が溢れてくる。頼りない指先に触れるとき、我が身が息吹くのを知るのであった。

 静かな、どこまでも穏やかな時が過ぎていく。館の外では、晩秋から冬へのうつろいが鈍色に空を染め上げ、すっかり寂れた庭をカサカサと落ち葉が舞っていく。誰もが忌み嫌う、閉ざされた季節。しかし凍てつくようなその気の中にあっても、一日の勤めを終え、渡りを急ぐ狼駕の心は温かなぬくもりで満ちていた。

 

 十月の出仕から戻って、ひと月余り。そんな時を過ごしてきた。

 そうしているうちに早いもので、次の大臣家への出仕の時が近づいてくる。新年を迎える前のそれは与えられる仕事も多く、あてがわれる日数も長い。先に送られてきた書状によれば、月を挟んだ十日ほどとされていた。

 ……そうなれば。やはり気がかりなのは残していく妻のことである。近頃ではだいぶ落ち着いては来たが、また離れていればどうなるか分からない。心安らかに過ごしてくれればいいが、もしも急に病が重くなったりしたら困ったことになる。双葉だけに任せて大丈夫だろうか。あれこれ思案はしてみたが、良策は見つからなかった。

 

◆◆◆


「……宿下がりを願い出た?」

 とうとう明日は出仕という夜。寝支度を整えてくれていた双葉がさりげない口調で告げた言葉に、狼駕は驚きを隠せず聞き返していた。

「はい。せんだって姫様の御父上より文が。すでに、こちらの御館様には申し上げてお許しを頂いてございます」
 閨に入れば瞬く間に解かれる運命にある寝着の腰帯を、侍女は丁寧に結んでいく。当たり前のいつもの夜の光景に、何となく違和感を覚えていた。

「……左様か」

 文が届いていたとは知らなかった。ここ数日は出仕の準備であれこれと忙しく過ごしていた。それと加えてこちらの館での新年に向けての準備もある。この西の対に戻るのも夜半のこんな時間がやっとで、寂しく思いつつも夕餉の膳を共にとることもなくなっていた。

 そんな身の上であったから、自分の知らぬ間に話が進んでいたとしても不思議はない。それに妻の宿下がりにあっても、必要なのは館の主である狼駕の父の許可だけだ。
 おかしなものであるが、夫である狼駕の意志はこの際関係ない。館の中にいる女子の処遇は全て館主の一存で決められる。もしかしたら、何度か話を切り出そうとしたことはあったのかも知れぬが、多分こちらが忙しくしていたので、期を逃してしまったのだろう。

「しかし……年が改まるのにあれこれと準備もあろうに。あまりゆるりとしていては、戻ってからが大変なことになるぞ」

 言われてみれば、こちらに嫁いできてから半年近く。妻は一度も里に戻ってはいなかった。親が恋しいと内心は思っているのであろう。だが、宿下がりというのはまずは女子の実家が申し出て、館主がそれを許すというかたちになる。今までそう言う話はなかったので、こちらとしてはどうすることも出来なかったのだ。

「それに、新年の宴にはどうしても琴の腕前を披露しなければならないのではないか。婚儀の折りは人々が入れ替わり立ち替わり訪れていて落ち着かずに後回しになったが、今回はそうはいかぬ。年が改まるのを機に、すずもそろそろ領民の前に出て行くことを覚えなければならないだろう」

 振り返って、そう告げる。先に支度を終えた妻は肘置きに身体を預けるようにしてまどろんでいた。
 ここしばらくはまた体調が優れないように見受けられる。それが狼駕としても気がかりでならなかった。多分、自分が出仕で留守にするのを寂しく思っているに違いないと考え、出来る限り心を砕いてきたつもりではある。

 狼駕の視線を感じたのか、にわかに姿勢を正した妻は、そのまま恥ずかしそうに俯いてしまった。夫の前ですら臆して弾けないでいるものを、どうして大勢の前でやり遂げることが出来るだろう。それは妻の気質をよく知っている狼駕にも分かりすぎていることであった。だが、こればかりはそうにもいかぬ。

 輿入れが決まるまでも、婚儀の宴でも。妻の父になる人は我が娘の美しさ、素晴らしさを周囲の者たちが呆れかえるほどに吹聴していた。その席には、今度の正妻争いを敗した家の者たちも多くいたのである。そうとなっては、どうにかしてあの天狗鼻をへし折ってやろうと考えるのは当然のことであろう。
 狼駕自身も、館主である彼の父も、客人があるごとにその話題に触れられていた。もうすっかり辟易している。それでなくても西の対から姿を現さない跡目の正妻については、あれこれと噂が飛び交っていた。

 悪いのはその父であり、妻ではない。だが、親の失態ではあっても我がものとしてしっかりとしていなくては、諍いの絶えない領主の奥では過ごしていけない。頼りないばかりの妻を、狼駕としても出来る限り守っていきたいと思うが、我が身ひとつではやりきれるものではないだろう。

「そ、それは……いかようにもなりますわ。あちらで、先に習っていた名手を呼んで、もう一度おさらいしても宜しいですし。晴れ着などの手配ももう済ませてございます。こちらの皆様にはご迷惑にならないようにわたくしも取り計らいますわ」

 双葉もすぐにこちらの言いたいことに気付いたのであろう。はっきりとした口調で返答する。その響きには揺るがない意志を感じた。この女子も辛いのであろう。妻の実家とこちらの家との間に置かれて。狼駕が時折耳にする妻の実家に対する快くない噂も全て耳にしているに違いない。

「そうか……ならば良いが。宿下がりの折りには、お前が姫を気遣ってくれるのであろう? 急なことだし、こちらも出仕が重なって見送りをすることが出来ない。すまないが、よろしく頼むぞ」
 
 もう決まっていることなのだから、こちらが今更あれこれと口を出すことではないだろう。それに……今までどうしてそんな考えが浮かばなかったのか不思議なくらいである。自分の不在の折りに妻が実家に宿下がりをするのはかえって好都合かも知れない。懐かしい里に戻り、家族との再会を果たせば、ここでひとり寂しく過ごしているよりはずっといい。

「はい、承知しております」
 双葉はその勝ち気そうな眼差しでまっすぐに狼駕を見た。

 

 話をしているうちに全ての支度を済ませ、かしこまって退座を告げる。しかし、衣の裾を改めつつ立ち上がったその侍女は、一度表の部屋に視線を走らせてから、今一度こちらに向き直った。そして辺りを気にしながら狼駕の傍に進み出て、先ほどまでとは比べものにならないほど低く聞き取りにくい声で言う。

「お喜び下さいませ。姫様の病が癒える新薬なども出来上がったらしいですわ。……こちらに舞い戻る頃には全てが元通りになられるかと。新年の宴に間に合い、わたくしも大変安堵しております」

 その言葉には、狼駕も目を見開いた。そして、信じられないような面持ちで、妻をもう一度向き直る。

「言葉なども……元に戻るのか?」

 何だか実感が湧かない。最初の頃こそは、不都合に感じていた妻の言葉も、今となってはあまり気にならなくなっていた。それどころか、余計なものがないからこそ、このように親密になれたのではないかとすら思える。手探りのようにたどたどしく、音のない空間で妻と接していて知った。言葉とは感情を潤滑に伝えるばかりではない、かえって行き違いを生ずることもあるのだ。

 このままでも構わないと思い始めていた。だが、希望を告げられればまた新たな感情が湧いてくる。
 妻と当たり前に会話するのはどんなにか楽しいだろう。その心映えが全て映し出される音色で、一体どんな言葉を紡いでくれるのか。妻にあっても、今までに何度となく自分に伝えたい想いがあったであろう。どんなにかもどかしい心地でいたのだろうか。

「はい、もちろんでございます。本当に宜しゅうございました。このままでは年賀の席で、姫様がお困りになると危惧しておりましたから……」

 

 それでは、こちらも色々と準備がございますので。そう告げて、双葉は次の間へと引き上げていった。

 

◆◆◆


「良かったではないか。……これで一安心だな」

 いつものように寝所に招き入れ、狼駕が先に床よりも一段高くなっている寝台の上に腰を下ろした。その姿を確かめてから、妻は恥ずかしそうに少し離れたところに膝を付けて座る。うつむき加減になると、さらさらと髪が頬の上を流れていく。それをこそばゆそうに、細い指が後ろへとかき上げた。

 宿下がりのことまで気遣ってやれなかったのはこちらの失態である。考えてもみればすぐに分かることではないか。

 年明けの年賀の席には、もちろん妻の父親であるあの者は勇んで駆けつけるであろう。だが、新年ともなれば、それなりの構えである妻の実家にもあまたの客人が訪れるに違いない。そうなれば、女たちは家を守るために残るのが常である。妻の母君もそうするに違いない。

「か……さま」

 あの時の、かすれる声は今も耳に残っている。あれ以来、二度と聞くことのなかった響きではあるが、この妻も内心ではどんなにか母親を恋しく思っているであろうか。ふたりのやりとりが当たり前になってしまってからは、迂闊なことにすっかりと忘れていた。妻が自分を慕ってくれるのが嬉しくて、それに応えるだけで精一杯だったのだ。

 あのころの、頼りないふたりであったなら、宿下がりなどは恐ろしくて許せるものではなかった。なかなか打ち解けてくれぬ妻がひとたび実家に戻れば、もう二度とこちらに上がることはないかも知れぬ。己の知らぬ間に芽生えていた妻への想いが、いかにしても引き留めようとしただろう。

「と、の……」

 明日からのしばしの別れを思えば、心は乱れる。だが、ここは出来るだけ穏やかに過ごさなければ。自分までが不安げな様子を見せれば妻がさらに心を痛めるだろう。そう思って平静を保っていると言うのに、ようやくこちらを見上げたその翠の瞳は何とも言えない憂いをたたえていた。

「お……おお、どうしたのだ? そのように浮かぬ顔をすることもないだろう。明朝こちらを発てば、一夜ののちにはあちらに辿り着く。久しぶりにのんびりとしてくるがよい、親御にもしっかり甘えてくるのだよ」

 努めて明るく振る舞いながら、狼駕は寂しさと、だがその上を行くほどの満ち足りた想いを感じていた。
 宿下がりを許されたというのに、このように浮かぬ顔をするとは。もしや、母君などよりも自分の方を慕ってくれているという証拠ではないだろうか。そうだ、そうに違いない。妻は里に戻る喜びよりも、自分と別れる辛さに胸を痛めているのだ。

「……との」
 こちらの想いが通じたのか、妻の口の端は少しばかりほころぶ。無理に作った笑い顔が歪んで見えた。

「ほら、こちらにおいで。明日からはしばしの別れとなる。いくら里で懐かしい者たちと楽しくしていても、夫である俺のことを忘れるでないぞ。俺はお務めの間も、ずっとお前のことを案じているのだからな。出仕を終えて戻る頃には、お前もこちらに上がっているのだぞ」

 細くて、しかし柔らかい身体。最初の頃よりは肉も付いて、少しは持ち直した様子ではあるが、狼駕が今までに知っている女子のどれよりも儚げなのは変わらなかった。この世のものとは思えぬほどの豊潤な花のような香り。柔らかく艶やかに流れ落ちる髪、どこまでも透き通って、ものを映しそうにすら見える肌。

 明日からは独り寝の夜に耐えねばならぬ、そう思えば今夜はひとときも無駄にしたくはなかった。妻の全てを味わい尽くし、己の中に植え付けたい。細い顎を捉え、唇を重ねる。愛されるという意味を、妻はすでにその身体に覚えていた。一方的ではないそんなやりとりを繰り返し、さらに寝着に手を掛ける。すると、それまでは大人しく狼駕の動きに従っていた妻が少しだけあらがった。

「……すず?」

 ふいに身をよじって狼駕の腕を逃れた妻を、不思議な心地で追う。その伸ばした腕に妻の細い指がそっと触れた。

「との」

 未だに、妻に許された言葉はこのひとつだけだ。繰り返し、繰り返し、狼駕を呼ぶことしか彼女には出来ない。小さく頭を振ると、何かを含んだ瞳でじっとこちらを見る。口元がかすかに動く。……何か、何かを告げようとするように。だが、声にならない。

 やがて、彼女はとうとう観念したらしい。自分の甲斐のない行為を諦め、こちらの腕を取ったまま立ち上がる。何事かと思いながらも狼駕は手を引かれるままに従った。部屋の隅、小さな行李の所まで来ると妻はそこに座り、中を改めた。

「……の」

 かすれる声と共に差し出されたものをみて、狼駕はしばし言葉を失った。

 幅広の、腕を二度三度回るほどの長さのある紐状のもの――それは、我が身を守るために身に付けるとされている腕飾りのかたちであった。だが、それだけのことで驚くわけもない。理由は違うところにあった。

 織り込まれた銀糸と瑠璃の糸、ところどころに散らばる小さな白い珠……それには見覚えがあった。この色目は確かに、狼駕が初めて妻に贈ったあの飾り紐のそれである。だが、目の前にあるものは、ただそれをつなぎ合わせただけではなかった。どう考えても、一度全部解いて編み直さなければこのように幅広にはなるまい。見たこともないような美しい細工に目を見張った。

「との、……の」

 妻は震える唇でそう告げると、狼駕の右腕を取り、そこに先の帯を巻き付けた。そして端と端をしっかりと結ぶ。

「……すず?」

 ようやく、声が出た。ただひとこと、愛しい名を呼ぶ。すると妻は嬉しそうににっこりと微笑んだ。

「どうして……」

 

 何を考えていたのだろうか。別にこんな風に自分が与えたものを一度解くような真似などしなくても良かったのに。もしも、紐を編む材料が欲しければ、双葉にでも自分にでも申しつけてくれれば良かった。そうすれば、扱いやすいものを選んでやったのに。このようにつるつると滑る糸ではどんなにか難儀であったであろう。もしや、妻がただひとりで作り上げたものなのだろうか。

 普段から飽くることなくこしらえている紙細工などを見れば、なかなかに器用であると言うことは分かる。しかしこれはもう、職人の技ではないか。とても金持ちの姫君の手遊びではない。

 

「との、……の」
 妻は一度狼駕の腕を放すと、自らの袂をまくり上げて細い腕を晒した。

「あ……」

 狼駕はまた、言葉を失っていた。何故なら、容易く手折れそうなほど細い腕には、たった今、自分の腕に巻かれたのと同じ造りの紐があったのだから。

「……じ、」

 互いの腕をこすり合うほどに寄せ合って、妻はもう一度そう告げた。

「そ、そうだな。同じだ。俺とすずの……同じものだな」

 その言葉に応えるように、妻は嬉しそうに頷く。幼子のように穢れのない美しい瞳が、キラキラと輝いていた。とんでもない重大な任を終えたように、緊張を含んでいた頬がほころぶ。

「との」

 細い腕が狼駕の身体に巻き付いてくる。頼りない重みを胸に感じた。

「との……、との」

 衣をたぐり寄せる強さ。指の軋み。幾度となく繰り返し我が名を呼ぶ声が、次第に震えを帯びてきた。そうなるとこちらもたまらない気分になる。震える腕で愛しいぬくもりをしっかりと抱きしめ、そのやわらかな香りまでも封じ込めようとした。

「何故、泣く。……ほんの半月足らずのことではないか。里に帰って、琴の腕なども存分に磨いてくるが良い。戻ったら、まずは誰よりも先に俺に聴かせるのだよ。
 俺もあちらで、またすずに美しい衣でも見立てよう。お前はいつも慎ましやかにしているが、晴れの場ともなればそうもいかぬよ。年賀の挨拶に訪れるものが目を見張るほどの色目鮮やかなものを選ぼう。だから……早く戻ってくるのだぞ」

 そう告げる、狼駕の声も次第にかすれてきた。愛おしさは日を追うごとに深く濃くなっていく。どういうことなのだろうか、己の想いの底にいつまでも辿り着けないことに、いつしか畏れさえ抱き始めていた。

 いや、これこそが人を想う心なのかも知れぬ。良き跡目であるように自分を制するあまり、いつか奥深いところに忘れ去っていたのか。人としてのそんな当たり前の感情すらを排して生き抜こうとしていたのか。そんな虚しい過去が今では霞の向こうに見えない。

「……とのっ……!」

 我が身を流れる血潮の熱さに、気が狂いそうだ。

 荒々しく衣を剥ぐと、現れた柔肌に唇を這わせた。妻はぴくりと身体を揺らし、それから嬉しそうにすり寄ってくる。求め、求められることにお互いを探している。もう……離れることはないのだ。もしもこうして身体を重ねることが出来ない夜も、心は確かに繋がっている。とっくにひとつになってしまっている。

 妻が悲しめば、自分も悲しい。妻が喜べば、自分も嬉しい。そこにはなんのためらいも、疑心もない。妻が妻であるからこそ、愛すべき存在なのだ。

「とのっ……、との。……あ……っ!」

 自分を受け入れた妻の内壁が一度大きく収縮して、そのあとがくんと力が抜ける。すがりついていた腕がするりと外れそうになる前に、しっかりと抱き留めた。

 

「……との……」
 ぼんやりと自分を取り戻して、妻はまた狼駕に抱きついてくる。こんなにも激しく求められることは初めてだった。多分、離れることへの寂しさが妻の心を燃え上がらせているのであろう。湧き立つ汗の甘い香に心から先に誘われていく。

「おお……、そうか。もっと、欲しいか」

 色づく耳元に熱い息をかけると、恥ずかしそうに頬を染めた妻が小さく頷いた。応えて狼駕も新しい情熱をほとばしらせていく。夜の闇がやがて白々と明け行くまで、飽くこともなく互いを求め合った。

 

◆◆◆


「こちらの方が出立が早いので、残していくようになって悪いな。……道中、くれぐれも気を付けて。身体をいとえよ」

 支度を終えて振り向くと、妻はすぐ傍らにいて静かに微笑んでいた。先の出立の朝は、あのように心乱れて泣き濡れていたのだから、大きな進歩と言えよう。ふたりの間に確かな絆が生まれていることを狼駕は実感していた。

「との」

 一度、強く抱きしめ、その唇を味わう。名残惜しく腕を解くと、妻は膝の前に手をついて頭を垂れて見せた。いつも双葉がそうしているように、礼を尽くしているつもりなのだろう。その初々しい仕草が嬉しくて、目を細めた。
 そして、もう一度妻の間近まで寄ると、我が腕を差し出す。するすると、出仕用の張りのある袖をめくった。

「すずとはいつも一緒だ。どこにいても……この飾り輪が我が心をすずに届けよう」

 狼駕の言葉を静かに聞いていた妻も、やがて顔をほころばせて腕をこちらに伸ばした。

「……じ、……」

 刹那。妻の手が、狼駕の袖を掴んだ。

 ハッとして視線を向けると、自分でも驚いたようにすぐに振りほどく。指先には今付いたばかりの金粉がきらめいていた。無意識の行為だったのであろう、自分のしたことを恥じるようにはにかんだ笑みをつくる。

 出立にこれ以上の名残は必要ないだろうと、狼駕も微笑みで応えた。

「では、行って参る」

 

 庭にはこの前と同じように、供の者が控えていた。つい最近、下男だったこの者を、侍従職に格上げしてやったのだ。衣も以前よりは立派なものをまとっている。新しい役職に少し緊張した面持ちなのがまぶしいほどだ。

 角を曲がるところでもう一度振り向くと、妻はまだ縁のそばにいて、こちらを見つめていた。

 

 そして。

 微笑みを交わしたその姿こそが、西の対で狼駕が妻を見た最後であった。


(2004年5月28日更新)

 

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