出仕の任を終え、足早に我が館に戻った時。主のいない西の対を、狼駕は信じられない面持ちで確かめていた。
「……そのように、途方に暮れたお顔をなさって」 仕方なく、中央の間にある自分の部屋に出向くと、津根があきれ顔で迎えた。以前と変わらず、テキパキと着替えを整え、すっかりと板に付いた世話で労をねぎらってくれる。だが、狼駕の心は重く沈んだままであった。 「宜しいじゃございませんか。あちら様はもう晴れ着の衣装合わせなども全て終えておられます。狼駕様も早く色目だけでも合わせてくださいませんと、丈直しなども出来ませんわ。それに、今年からは御館様に代わってお客様のお出迎えもなさるとのこと。色々とご準備がございますよ」 津根に急き立てられながら、あれこれと留守の間に溜まった雑用をこなしていく。宴での客人の席順から、式次第。新年のそれは二日や三日で終わるものではなく、半月以上に渡る日程が組まれている。祝賀の席には欠かせない舞人や奏者の選出だけでも頭の痛い問題だ。 もちろん、帰館してすぐに妻の里へと文を送った。こちらがまだ戻らぬと思ってのんびりと構えているのかも知れぬと思ったからである。早馬はその日のうちに戻り文を持ってきた。艶やかな薄様紙に、今しばらく留まりたいと妻の字でしたためられている。懐かしい文字を指でなぞりながら、それでも心は満たされなかった。
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ある夜、寝の刻を過ぎてから。傍らの侍女が誰に聞かせる風でもなくそう言った。 「御館様からもお言葉がございましたでしょう。そのように西の対の奥方様ばかりに情けをかけられてはおかしなことになりますわよ。ご存じでしょう、あちらの里のお話を……」 溜息混じりに津根が話すその内容は、道中すでに供の男から聞き及んでいることであった。 妻の実家の過ぎた振る舞いはますますひどくなるばかりで、この頃では館主である父も頭の痛い問題だと側近に告げていると言う。他の侍従たちからの苦言もあり、狼駕としても避けて通れない道に進んできていた。 「ひとまず、南の対に――明の村長様のご息女様がいらしてます。近々、山向こうの里からもおひとり見えますとのこと。……ご承知下さいませ、御家の大事です。いくら正妻様を愛しく思われたとしても、たったひとりの女子では領主の館を守ることは出来ませんわ」 あのように、妻の里の親が増長するのも、全ては狼駕が招いたことだとされていた。確かにそうかも知れぬ。ひとたび妻の肌を知ってしまった狼駕には、他の女子としとねを共にしようとする欲求がどうしても起きないのである。まるで、今まで細切れになっていた心がひとつに戻り、その全てを妻に託してしまったかのように。だから……跡目にふさわしくないと言われても言い返す言葉がない。 「……狼駕様」 津根はその辺はもう長い仲であるし、わきまえているらしい。ここまで来ればあとは傍らの女子の身体に腕を回し、組み敷きことを成すのが当然という閨のうちにあって、ぼんやりと過ごしているかつての愛人を見ても、罵るどころか憐れみをも感じる言葉をかけてくる。 「お忘れになりましたか。……私の母であるあなた様の乳母は、藍の君様と娘時代から仲が良かったと聞いております。あの御方の無念を晴らされるのではございませんか?」 静かに寝着の襟元を直す侍女を、狼駕はまだぼんやりとした目で辿っていた。 藍の君、というのは狼駕の真実の母のこの館での名である。もともとは一介の侍女であったから改まった名などで呼ばれてはいなかったが、狼駕の父の元に上がる際にそれではまずいだろうと言うことになった。それで当座のものとして名付けられたのだと聞いている。 「もう……俺には、よく分からない」
ただひとり、館の跡目となる男子をこの世に送り出すために我が身を投げ出した女子。その心に何があったのだろう。亡き人をよく知る乳母は、折に触れて狼駕に言い含めていた。「あの御方のためにご立派になさいませ」……と。 だが、一体。自分を産み落としたその女子は何を望んだのだろうか。正妻である今の母への恩義であろうか。それとも自分を抱いた館主である父への思慕であろうか。それとも……否。 父は……責務のためだけに、行為に及んだのだろうか。自分はそんな風に芽生えた命であったと言うのか。 湧き出でる感情に支配されてはならぬと思いつつも、我が力ではどうにも出来ない今。いつかは妻を想うこの心にも底が見え、他の女子に情けを掛けられるだけのゆとりが戻るのだろうか……? もう、妻をひとり待つ夜を幾つも越えた。天を照らす月の位置も変わってくるほどに。この年の最後の月ももう半分を過ぎ、そろそろ妻もこちらに戻らねば様々な支度に差し支える。一体何をしているのだろう、もしや身体の不調でもあるのだろうか。
「すずの元に。あちらの里まで行ってみようと思うのだが……」 相手が馴染みの侍女であるからこそ、胸の内に隠しておいた言葉を吐き出していた。立場上、そうやすやすと妻の実家になど参ってはならぬことは承知の上である。何事にも形式があるのだ。身分の低い妻の実家では、何か所用があるときにはあちらから出向くのが筋。もしも、こちらから足を運んだりすれば、他の者が黙ってはいまい。 「何ですって……! そんな、言葉をお慎み下さいませ。ご自分が何を仰っているのかお分かりなのですか? そのように恐ろしい……誰かに聞かれでもしたら――大事ですわ」 「分かっておる、……だが」 明日は幸いにも大きな用事もない。夜明け前に館を出れば、山道を抜け、夕刻前にはあちらに辿り着くであろう。早馬が一日で戻ってくる距離なのだ。それくらいは容易い。暇なときに、ふらりと外に出るくらい大目に見て貰えるはずだ。それどころか、西の対の正妻の他にねんごろになっている女子がいると思われ、かえって好都合かも知れない。 もしもこのことが誰かに知れれば、大変なことになるとは分かっている。しかし……もう、これ以上。この館でいつ戻るか知れない妻を待つことは出来なかった。 「すずに……会いたいのだ。何故戻って来ぬのか、それを会って直接訊ねたい。父上や母上も訝しまれていらっしゃる。あまりあちらの里に鷹揚にされては、領主としての立場もなくなるというもの。一体何があったのか、確かめたいのだ」 約束したのだ、すぐに戻ってくると。それなのに、どうして。それが全く分からなかった。 「……狼駕様」 津根はこの頃、その母の狼駕の乳母によく似てきた。幼き頃、絶えず傍にいて慈しみ育ててくれた人。何かを含んだような甘い慈悲に満ちた声は知らず心を穏やかな方向へと導いてくれる。 「承知致しました。そのお話は私に全てお任せ下さいませ。――狼駕様ご本人が厩に出向けばどうしても人の目にとまりましょう。馬の手配などは弟に命じておきますわ、あなた様は夜明け前にこっそりと裏の門でお待ち頂ければ」 その言葉は、狼駕が期待していた以上のものであった。にわかには返答の言葉も浮かばず、唇が震えるだけ。優しい姉の顔になったかつての愛人は、ふっと悲しげに微笑んだ。 「今は里に下がった母も……いつも申しておりましたわ。狼駕様はいつの間にか立ち姿まで御館様に良く似ていらっしゃって。まるであのころを見ているようであると――」
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真実を知る者が少なくないとは言え、表向きは正妻の懐妊だと告げられている。もしも人目に付くようなことがあっては、他の側女たちの実家がなんと言い出すか知れない。
いつの頃からだろう。 そこにひとりの公達がこっそりと訪れるようになった。最初は館の文使いの様な仕事をしていたが、いつも足早に門前で用事を済ませて戻ってしまう。こちらは人恋しく暮らしているのだから、たまにはしばし留まって茶の相手でもしてくれればいいのに。全く礼のない人だと憎々しくさえ思っていた。 しかし。乳母はある日見てしまったのだ。自分が用足しに外に出ている間に、その男が門の内に入り、縁のところに座っているのを。その御簾の内にいるのは他の誰でもない、かの大切な御方だ。あの男が間者であるかも知れぬ。もしものことがあったら、大事である。胸の内に隠し持った懐刀を確かめ、じりじりと様子をうかがっていた。 ――あ……! 思わず大声で叫びそうになる。両手で我が口を押さえ、かろうじて留めた。全身の震えが止まらない……何故なら、乳母が垣間見たその人こそが、やがて領主となる狼駕の父であったのだから。 もちろんこのようなことが許される訳がない。藍の方は言うなれば正妻様の形代。子を産むために身体を差し出しただけの存在。こうしてめでたく懐妊を果たした今は、もはや用済みであった。あとは無事に跡目を産み落とせばお役御免である。 こちらに宿下がりをするときも、藍の方にはひとりの見送りもなかった。乳母の知る限りでは、文のひとつも届けられてはいない。そのように素っ気ない態度を示していた人が、何故。こんな山奥まで供も連れずに。 その後も、何度かそんな光景を目にした。だが、いつの時も見て見ぬ振りをするしかなかったのだ。乳母の立場ではふたりの仲を取り持つこともかなわない。それに、もしも誰かに気付かれたとしったら、あの御方は二度と訪れなくなるかも知れぬ。いくら乳母が藍の方の腹心と知っていても、全てを信じることは出来ないのだから。
暗く険しい山道を辿りながら、父は何を想っていたのだろうか。幾度となくこのような危ない真似はやめなければと思ったであろう。もしも誰かに知られてしまえば、自分の跡目としての立場も危うくなるばかりでなく、何よりも藍の方に害が及ぶに違いない。野歩きの官人の様な姿に身をやつし、人目を忍んで訪れることしか叶わない。 それでも……父と、真実の母の間には、主従の情を越えたものが確かに存在したのだと思う。 津根の口から聞いた初めての昔語りは、狼駕に新たな勇気を与えてくれた。己が深い愛情を持ってこの世に生を受けたのだと確信できれば、もう何も恐れることはない。父が母を、母が父を、それぞれに愛おしくかけがえのないものとして想っていたのであれば。 ――この胸の内にも、確かに人を愛せる情念が宿っているのだ。
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人気のない裏門まで出向くと、柱の影からいつも供をしてくれていた男が招いた。多分、顔見知りの門番を上手く言って立ち退かせているのだろう。なかなかにして周到なことだ。 津根が今日の遠出に用意してくれたのは、あまり目立たない侍従の装束である。外歩き用に丈を詰めてある袖が、朝の気にぬるりと流れた。 「どうしたのだ、お前……」 男の姿に、狼駕は目を見張った。彼もまた、旅装束に身を包んでいる。馬も二頭用意されていた。言いたいことをたくさん含んでいる様子の瞳でこちらをちらと見て、すぐに視線をそらす。怒りの色が垣間見られるそれは、素直なこの男の気質を良く表していた。 「姉から、聞きました。――何故です、私は包み隠さず申し上げたはずですよ。西の対の奥方様のご実家が今どんなご様子であるか。どうしてもいらっしゃると仰るなら……私もご一緒致します。若様の行かれるところ、どこまでも参ります。それだけの恩義を感じております故」 この男は知っている。狼駕が妻のことをどれくらい愛しく想っているかを。 それが分かるからこそ、出来ることならば、妻やその実家を貶めるような噂は主人に耳に入れたくないと願っていただろう。人の口に上がる評判など、少しの時が経てば雲行きも変わる。今は少しばかり気になる行動をしていても、のちのちには笑い話に変わることも珍しくないのだ。 妻の実家の出過ぎた行為は、すでに館に仕える者たちの間では目に見えて脅威になりつつあった。今回もこんな風に宿下がりした娘をいつまでも抱え込んで、領主の館がそれに屈しているなどとは許されるべきことではない。一部の強硬派からは妻の正妻としての立場を剥奪して、他の女子に譲るべきだとの声も上がっているのだ。 ここでもし思い留まり、妻の帰りを静かに待つことが出来るなら。それが狼駕にとって一番の良策と言えよう。あとは相手の出方を待つのみだ。いいように踊らされては身の破滅になる。 「……お前は、こちらに残らなくてはならないよ」 狼駕は長年傍に置いた供の心内の叫びを全て受け止めた上で、静かにそう告げた。サラサラと脇に垂らした髪が揺れる。背中が少し温かくなる。夜明けが辺りを染め始めていた。
思えば。 領主の跡目として生を受け、正妻である母の元、誰もが疑わない出世を遂げてきた自分ではある。だがその一方で、始終満たされない不安定な心地を抱いていたようにも思える。 そんな中で、狼駕のことを一番に考えてくれたのが、乳母とその子供たちであった。たとえば自分がどんなに窮地に立たされようとも、この者たちは最後まで見捨てたりしないだろう。もしも大事あれば盾になってでも守ってくれるはずだと信じることが出来た。 男の言葉に嘘はない。本当に最後まで供として付いてきてくれる覚悟を決めているのだろう。 「もしも、俺に何かあったら。その時はお前の妻ゆかりの村長を頼るが良い。母も津根も連れて行くのだぞ。お前たちのことはあちらによく頼んである。必ずや力となってくれよう」 静かに手綱を受け取る。ただならぬ表情の男が、食いつくように狼駕を見た。 「……狼駕様っ……!」 その声を振り切る強さで、彼は朱に空を染め始めた方向に馬を向けた。
だが、父にも。若き日に叶わなかったひとつの想いがあったのだ。跡目の決定の際に、父は迷いなく自分を推してくれたが、それは領主としての器を信じてくれたのだと信じていた。確かに箸にも棒にも掛からないような人材とは思っていなかったはず。だが、彼の心を動かしたのは狼駕の中にあるもうひとりの存在であったのではないか。 人が何をもって、最高の幸福を手に入れるのか。 金だと言う者もあるだろう、名誉だ地位だと言う者もあるだろう。だが、そのようなさらさらと高いところから低いところへ流れていくような儚いものが何になる。父が、真実の母が。叶えられなかった夢を手に入れること。それこそが自分の辿り着くべき場所だと思った。その時に、確実に父を越えることが出来る。 自分が己のひとりの責任では済まされないことを起こそうとしているのは分かっていた。この後、どんなそしりを受けるか想像も付かない。しかし、何があろうとも、妻を取り戻したかった。妻の実家は、その父親は、どんなに腹黒い者かも知れぬ。だが、妻は別だ。彼女がどんなにか無垢で、ひたすらに自分を想ってくれているか。それはもう知りすぎている。疑う余地もない。 何があろうと、このかいなに今一度あのぬくもりを抱くまでは、諦めきれなかった。
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「おお、これは遠路はるばる。ようこそお出で下さいました……!」 先だって文の使いはやってあったので、館主は庭先まで狼駕を出迎えた。領主である狼駕の父ですらここまで華美にはしないであろうと眉をひそめる程のきらびやかな衣をまとい、満面の笑みを浮かべている。だが……その内に何があるのかをはかりかねる瞳の色。薄い水色のそれは少しも温かみを感じられなかった。 「ささ、こんなところでは何です、どうぞ中へ。田舎暮らしでお恥ずかしいばかりですが……ささやかながらもてなしの一席などもうけてございますので」 妻の里であっても、この地は未だに訪れたことがなかった。一歩足を踏み込めば、あまりのまばゆさに目がくらむようだ。柱にも壁にも金箔の文様が施され、贅の限りを尽くしていると言った様子である。案内をしてくれる侍女の装束なども華やかに色めいて、暮らしぶりの豊かさがうかがえた。 しかしそれらは余り心地よいものではなく、どこを見やってもあまりの仰々しさに興ざめするばかりだ。あの慎ましやかな妻の生家がこんなところであったとは、意外に思える。
「姫は、どちらに……?」 「なかなか館に戻らないので、様子を見に来たのだ。――如何しておる?」 すぐに館の戸を全て立てさせて、その姿を探したいほどだ。この屋敷のどこかに妻がいるのなら、どうして出迎えに来ないのだ。こちらは悪天候の中、必死で馬を走らせたのに。 「おお……それはそれは。ご心配をお掛けして、誠に申し訳ございません、娘はこちらに戻りましてから、今までの疲れが出たのか少しばかり体調を崩しまして……でも、もうすっかり宜しいのですよ。明日にでも文をしたため、牛車で送るつもりでした」 ぐふぐふと腹の奥で品なく笑う。まるでこちらが軽んじられているように思えて、何とも居心地が悪かった。もしもこの者が妻の父でないのであれば、一生涯関わりたくないような人種である。 「姫には今、支度をさせてございます。準備が整い次第、御部屋へご案内致しますよ……?」 ささ、ですから、ここは一献。そんな風にとっくりを差し出してくる。 正直、酒など欲しくはなかった。今すぐにでも妻に会いたい。何と言うことだ、体調を崩しただと? そのようなこと、届けられた文にも書かれてはいなかった。あのようなか細さでひとたび熱でも出したとしたら、また大事に至ったのではなかろうか。 「このようにお忍びでいらっしゃるほどのご寵愛ぶり。儂としても、この上ない幸せです。親としてこれ以上のことはございませんなあ……」 傍らの侍女たちからは、甲高い笑い声が上がる。呑み口はそう強くない酒であるが、頭の芯の辺りがぼんやりとしてくる気がする。食事も塩辛く、あまり喉を通らない。一口含めば、その倍の酒を呑んでしまう。
半刻もそのようにじりじりと待っていただろうか。ひとりの侍女が渡りの向こうから進み出でて、館主に耳打ちする。彼はゆっくりと首を回して狼駕に告げた。 「支度が整った様子です。さあ、こちらへ……誰か御領主殿をご案内せよ」 数名の侍女が歩み出て、燭台を手に奥へといざなう。 しばらく進み行くと、辺りに漂う香の匂いにむせかえりそうになる。高貴な品である香は、庶民が扱っていいものではない。香を衣に焚きしめ、扱うことが出来るのは王族とそれに準じる御方だけ。それなのに……何と我が身を省みない不埒な振る舞いだろう。
長い渡りを過ぎると、ひときわ立派な構えの対に辿り着く。向こうが透けて見えそうな御簾の前に侍女たちが控える。この奥に妻がいることは確かだ。知らぬうちに胸の鼓動が早くなっていく。 かすかな動きが気を揺らし、御簾の間を通り抜けてこちらまで届いた。 「……狼駕様?」 耳に届いたその声に、ハッとする。さながら鈴を転がすような美しい音色が御簾の内から響いてきた。 「す……すず……!?」 もう我慢の限界だった。荒々しく御簾をまくり上げ、中へと飛び込む。 幾重にも几帳を置いたその一番奥に、妻が控えていた。ああ、何と懐かしい鶸の髪。細い指先。まばゆいばかりの燭台の光に豊かな流れが輝き、こちらへと誘う。 「ようこそお出でくださいました、涼夜は嬉しゅうございます……」 そこまで告げると、ゆっくりと面を上げる。その緩やかな動きに合わせて、髪が辺りに流れていく。喜びを頬に乗せて、色づきほころんだ表情。揺れる翠の瞳がまっすぐにこちらを見上げた。
刹那。 妻の元に向かおうとしていた狼駕の足が止まる。ぬるりと冷たい汗が衣の下を流れていった。
「――お前は……誰だ……?」 自分の発した言葉が、やがて口の中にねっとりと絡みつく。大きく目を見開いて、仰視した。だが……だが。一度心に浮かんだ疑念は二度と晴れることはなかった。 「は……?」 目の前の妻は、心底驚いた顔をして、ぼんやりと狼駕を見た。何を言われているのか、にわかには分からないと言った雰囲気だ。長いまつげの下で、ゆらゆらと瞳が動く。妻の背後の壁にはふたりの姿を写し取った影が幾重にも描かれていた。 「何を仰いますの……わたくしは涼夜ですわ。どうしましたの、狼駕様。少しばかりの間に、妻の顔をお忘れになりました……?」 驚きを隠せないのは妻だけではない。狼駕も自分自身が分からなくなっていた。 目の前にいるのはどう見ても愛しい妻なのだ。それなのに、まるで抜け殻のように思えるのはどうしてであろうか。妻の病を癒す新薬は、余計なものまで吸い取ってしまったのではなかろうか。……違う、これは妻ではない。狼駕はとっさに外に向かって叫んでいた。 「双葉は、双葉はどこにいる!? すぐにここに呼んで参れっ!」 もうひとつの真実に気付いた。そうだ、あの侍女の姿がない。あの日、妻と離れず気遣って欲しいと言い含めたはずの双葉が、ここにいないのはどういうことか。彼女なら知っているはず、どうして目の前の妻が妻でないのか。 御簾の表で侍女たちがざわめき立っている。何かとんでもない胸騒ぎを覚えて、狼駕は表に飛び出していた。
「――これは……如何致しました、婿殿。姫の寝所で騒ぎを起こすなどと……あまり誉められたことではございませんね」 御簾のすぐ傍に。いつの間に追いついたのか、館主が行く手を遮るように立ちはだかっていた。言葉は静かであるが、その表情は先ほどまでと別人のようにねっとりとした毒々しさで満ちている。蛇が獲物を捕らえるときの様な目で、じっと狼駕を見据えていた。 「双葉は……双葉はどこだ?」 狼駕は自分の手のひらにじっとりと汗が滲むのを感じつつ、それでも必死で言葉を返した。 「……はて? 双葉ですと。……知りませんなあ」 「な、何を言う。しらばっくれるな! ……姫と共に我が館に上がっていた、侍女の双葉はどこだ!」
辺りの気がねっとりと自分を取り込み始めている気がする。 この館全体が、なにやら禍々しいものに取り囲まれているようにすら思えて来た。せっかく妻に巡り会えたのに、いつの間にか魂のすり替わった別人のようになっている。何故このようなことが起こるのだ。全く信じがたい。
「ご乱心も……ほどほどになさいませ」 小太りの男とは思えぬほどの力が、いきなり狼駕の胸元を捉える。その瞬間、何かに縛り付けられたように、己の身体が動かなくなった。 「婿殿は今宵はことのほかお疲れのご様子。ここはゆっくりとお休み頂いて、お身体を癒して頂きましょう。……こちらは、我が館で代々伝わる秘薬にございます。ちょっとした疲労などたちどころに治りますよ。ささ、遠慮などいりませぬ。姫にとってもこの館にとっても大切な御方ですから……こちらも礼を尽くしますぞ」 湯気の立ち上る湯飲みが口元に運ばれる。だが、もう少しと言うところでかろうじて身体の自由が戻った。 「やめろっ……! 何をする!」 袂が大きく弧を描いて翻った。 まさかそんな風になるとは思わなかったのだろう、館主は不意を突かれてその場に尻餅をついた。それに遅れて床に落ちた器が割れて飛び散る。しかし、痛みも覚えないのだろうか。バラバラとすだれのように落ちた前髪の向こうから、地を這うような笑い声が上がった。 「困りましたなあ……酒にはたんまりと仕込んでおいたはずなのですが。ここにいる姫を我が娘と思ってくださらぬと色々と困ることになります。儂の手を焼かせる婿殿は……如何なものか。どうしてもこのままお返しすることは出来ませんね。――皆の者っ……!」 大きな物音を響かせて、辺りの戸が外れる。 そこから、狼駕よりも二回りは大きく見える男たちが数え切れぬほど飛び出してきた。掴みかかられそうになったところを、慌てて飛び退く。渡りから庭に飛び出すと、そこにも他の者がすでに潜んでいた。 「お身体に傷など付けるでないぞ! 婿殿は急な病でみまかって貰わねば体裁が悪い。まずは生け捕りにせい! 誰かある、捕まえた者には存分に褒美を出すぞ……!!」
足元がふらつく。酒を口に含んだ際に、何とも言えない微臭を感じたのであるが、まさかそれが。 勝手の分からぬ闇夜の庭、無数に伸びてくる大男たちの太い腕。それでもめくらめっぽうに逃げ回り、とうとう高い生け垣のところで行く手を失った。 「一体……どうなっているんだっ!」 心の臓が、胸を突き破って飛び出してくるほど高鳴っている。いきなりのことで、手元には男たちを蹴散らす短剣すらない。このままでは無事に逃げ延びることは不可能であろう。 こうしているうちにも、足音が大声がどんどんこちらへと向かってきている。自分がどこに立っているのかも分からぬが、追いつめられていることだけは事実だ。そして、ひとたびあの男たちに捉えられれば、もう我が命はないという。――何故? 妻に会いに来た自分がこのような仕打ちを受けるのか。 「足跡だ……! こっちに回ったぞ、この先はもう行き止まりだ!」
万事休す、そんな言葉が脳裏にきらりと光る。そして、それと同じ瞬間、脇の茂みからひらりと何かが飛び出してきた。
「何をなさってお出でですっ! ――こちらへ……!」 どこかで聞いたことのある声だと思った。だが、もう、それが誰であるのか思いを巡らすだけの心を狼駕は持ち合わせていなかった。
(2004年6月4日更新)
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